ジャンヌ・ダルク

　　　上篇

　　七、　ポワテイエに於おける少女せうぢよ（上）


　この十四年來ねんらい、ポワテイエの町まちは、フランスの、その地方ちはうの首都しゆとになってゐた。ドオーフアン・シヤルルは、議會ぎくわいを其所そ　こへ移うつした。と云いふよりは寧むしろパリイの議會ぎくわいから脱走だつそうした小數せうすうの議員ぎゐんが其所そ　こへ集あつまつたと云いふのが適當てきたうかも知しれない。部屋へ　やと云いへば、たつた二間ふたましかなかつた。何なにか審判さばきをするやうな事ことがありさへしたら、素敵す　てきな名裁判めいさいばんが行おこなはれたでもあらうが、生憎誰あひにくたれも訴うつたへて出でる者ものがなかつた——みんな途中と　ちうで掠奪りやくだつや追剥おひはぎに遭あふのも怖こはかつたし、それに國内こくないが亂みだれてゐて、爭あらそひ事ごとの型かたなどをつけるのには、裁判さいばんは殆ほとんど關かゝはる所ところがなかつた。議員ぎ　ゐんどもは、大抵たいていパリイの近所きんじよに領地りやうちを有もつてゐたが、衣食いしよくにかまけてゐて、其樣そ　んな事ことどころではなかつたのである。彼等かれらは滅多めつたに給料きふれうは貰もらへず、勿論賞與もちろんしやうよとか、臨時手當りんじ　てあてとか云いふやうなものはまるで與あたへられなかつた。堂々だうだうたる檢事長けんじ　ちやうなどの夫人ふ　じんや子供こ　どもが、みすぼらしい服裝な　りをして、素足す　あしで歩あるいてゐる始末し　まつであつた。博士はかせや學者がくしやも大學だいがくがないので、その豐富ほうふな學識がくしきや才能さいのうの用もちひどころがなく、從したがつて収入しうにふを得うる道みちに窮きうし果はてゝゐた。ポワテイエの町まちは、シヤルル王わうの國土こくどでは第だい一番ばんの都會とくわいとなり、議會ぎくわいは置おかれたが、大學だいがくはなかつた。夫それは恰度ちやうど、生うまれは良いいけれど片目かためないと云いふ女をんなのやうなものであつた、何故なぜと云いふに、大學だいがくと議會ぎくわいとは、大都會だいとくわいの兩眼りやうがんなのだから。　こんな具合ぐ　あひで彼等かれらは、ひたすら國家こくかの恢復くわいふくされることを熱望ねつばうしながら、寒さむさに慄ふるへ、貧ひんに瘦やせて、呻吟しんぎんしてゐた。例たとへば荒廢くわうはいせるイスラエルの民たみの如ごとく、神かみが彼等かれらの嘆願たんぐわんに耳みゝを傾かたむけて、かう言いつてくれる日ひを戀こひ焦こがれてゐたのである、「夕ゆふべには肉にくを喰くらひ、晨あしたにはパンに飽あくべし。」（出埃及記しゆつえぢぷとき）
　ジヤンヌの吟味ぎんみをするのに選えらばれた博士はかせや僧侶そうりよは、大方おほかたかうした人々ひとびとの仲間なかまであつた。ポワティエの僧正そうじやう、神學しんがくの博士はかせジヤン・ロンバール、神學得業士しんがくとくげふしギヨーム・ル・メール、國王附こくわうづきの懺悔ざんげ聽聞僧ちやうもんそうヂエラル・マシエ、神學敎授しんがくけうじゆジヤン・エロオール、有名いうめいな法律はふりつの博士はかせジヤン・マソン、聖せいドニイの僧そうピエル・ド・ヴエルサイユ、王わうの顧問官こもんかん數名すうめい、その他た八名めいが夫それである。
　一人ひとりの田舎娘ゐなかむすめの吟味ぎんみをするのに、かう大勢おほぜいの學者がくしやがゴテゴテと集あつまつた。ところで、我々われわれはかう云いふことを記憶きおくしなくてはならない。當時たうじにあつては、煩瑣はんさな頑固ぐわんこな神學しんがくが有あらゆる人間にんげんの知識ちしきを支配しはいしてゐて、何どうでもその審判しんぱんに服從ふくじうさせられてゐたのである。それ故ゆゑ、無智む　ちな小娘こむすめが神かみや聖者せいじやや聖母せいぼなどを見みたと云いふことになると、奇蹟きせきを行おこなひ續つゞけ、殉敎者じゆんけうしやの如ごとく死しんで、天てんの祝福しゆくふくを受うけるか、飽あくまで異端いたんとして、宗敎しうけう監獄かんごくに囚とらはれ、魔女まぢよとして燒やかれるか、何方どちらかであつた。そして、審問者しんもんしやたちは、惡魔あくまは女をんなに乘のり移うつり易やすいもの、と思おもひ込こんで了しまつてゐるので、不幸ふかうにもかうした娘むすめたちは、神聖しんせいな香かをりの裡うちで死しぬよりも、焚やかれる方はうが多おほいやうであつた。けれど、ジヤンヌの場合ばあひは、全まつたく例外れいぐわいであつた。彼女かのぢよは信仰上しんかうじやうのことで疑うたがはれる恐おそれはなかつた。彼女かのぢよの前まへでは、著名な學者がくしやたちも、その神學しんがくの爪つめを引込ひきこめてゐた。彼等かれらはみんな僧職そうしよくにある人ひとであつたが、併しかし、アルマニヤツク方がたであり、大抵たいていは事務家じ　む　かで、外交家ぐわいかうかで、ドオーフアンの古ふるい顧問官こ　もんくわんであつた。元もとより僧侶そうりよとしては或ある一定ていの敎義けうぎと道德だうとくとを持もち、信仰上しんかうじやうの事ことの審判さばきをするのには、或ある法典はふてんを持もつてゐた。けれど、今いまは異端病いたんびやうを治ちするのが目的もくてきでなく、イギリス軍ぐんを驅逐くちくするのが問題もんだいであつた。ジヤンヌは、アレエンソンの公爵こうしやくやオルレアン公こうの庶子しよしの愛顧あいこを受うけてゐたし、オルレアンの人々ひとびとは、自分たちの救助きうじよを彼女かのぢよに期待き　たいしてゐた。彼女かのぢよはまた王わうをレームズへ連つれ行ゆくことを約束やくそくしたがたまたま國中こくちうで一番ばん賢かしこい、一番ばん有力いうりよくな大法官だいはふくわん、ルニヨール・ド・シヤルトルが、レームズの伯爵はくしやくでもあり、大僧正だいそうじやうでもあつた。この事ことが非常ひじやうに重おもきをなした。
　神聖しんせいにして分離ぶんりすべからざる敎會けうくわいのうちには、神かみはドオーフアンの味方み　かたをしてゐられると言いつてゐるポワテイエの學者がくしやたちがあり、一方ぱうでは又また、パリイ大學だいがくの學者がくしやたちは、神かみはブルガンデイとイギリスの味方み　かたをしてゐられると言いつてゐた。神かみの使つかひは、天使てんしでなくてはならぬと云いふことはなかつた。時ときには人間にんげんを使つかはれることもあれば、またエリヤ（新約全書に出るヘブリユーの豫言者よげん　しや）に食物しよくもつを與あたへた大鴉おほがらすのやうに、人間でない場合ば　あひもあつた。そして女をんなが戰爭せんさうに出でると云いふことは、カミイラ（往昔わうせきのシイシアの剛勇なる女族アマゾンの女）や、ペンテシリア（アマゾンの女王）などに關くわんする書物しよもつに書かいてあることゝ一致ちしてゐるし、夫それから、ドボーラや、ヤエルや、神かみの命めいによつてイスラエルの救助きうじよの爲ために起たつたベチユリアのヨデイスなどの女丈夫ぢよぢやうふに就ついて聖書せいしょに言いつてあることゝも一致ちしてゐた。夫それにはかう書かいてある、「強大きやうだいなる者ものは、若わかき男子をのこによりては倒たふされざりき、テイタンの子こも彼かれを打うたず、巨大きよだいなる者等ものらも彼かれを覆くつがへす能あたはざりき、されどメラリーの娘むすめヨデイスは、その顏かほの美うつくしさを以もつて彼かれを弱よわめたり。」
　ジヤンヌは、ジヤン・ラバトオーの住すんでゐる宿屋やどやへ連つれて行ゆかれた、其所そ　こは町まちの中心ちうしんにある法廷はふていから餘あまり遠とほくはなかつた。ジヤン・ラバトオーは、俗人ぞくじんの檢事長けんじ　ちやうであつた。刑事問題けいじ　もんだいは、總すべて彼かれの係かゝりであり、民事問題みんじ　もんだいは、宗門しうもんの檢事長けんじ　ちやうジヤン・ジユーヴネルの係かゝりであつた。等ひとしく國王こくわうの代理者だいり　しやで、夫それ夫ぞれその役目やくめに於おいては王わうを代表だいへうしてゐるのであつた。夫それからの収入しうにふは誠まことに微々びゞたるもので、ラバトオーは年ねんに四百リイブル（一リイブルは凡そ十八錢餘）貰もらふだけであるた。けれど別べつに賄賂わいろを取とると云いふ噂うはさもなかつた。若もし、その他たにオルレアン公こうの顧問官こもんくわんをしてゐたのなら、其所そ　こからも多少た　せうの収入しうにふはあつたらうが、多おほの議會ぎくわいの役人やくにんどもと同樣どうやうに彼かれも、この當時たうじは非常ひじやうに貧乏びんばふをしてゐた。もともと、ポワテイエの人ひとではないから、この町まちには自分じぶんの家いへと云いふものはなく、宿住やどずまひをしてゐたのである。宿やどはロジエ（薔薇ば　らの木き）と云いふ名なの一家かが經營けいえいしてゐたので、オテル・ド・ラ・ローズ（薔薇屋ば　ら　やホテル）と呼よばれてゐた。それは大おほきな家いへで、大切たいせつな證人しようにんなどは、みんな此家こ　ゝで歡待くわんたいされた。ジヤンヌの吟味ぎんみは議會ぎくわいとは何等なんらの關係くわんけいもなかつた。けれど矢張や　はり其家そ　こへ連つれ込こまれたのであつた。ラバトオーの妻君さいくんは、有あらゆる法律家はふりつかの妻君さいくんと似にたり寄よつたりな評判ひやうばんの善いい婦人ふじんであつた。
　宿やどにゐる間あひだは、ジヤンヌは毎日食事まいにちしよくじの後あとで、永ながいこと跪ひざまづいてゐるのであつた。夜よるは祈いのりをする爲ために寢床ね　どこを出でて、宿やどの禮拜室らいはいしつの内うちで長時間ちやうじかんを過すごした。學者がくしやたちが、彼女かのぢよの吟味をするのは、この家いへでゞあつた。彼等かれらがやつて來きたと云いふことを聞きくと、彼女かのぢよは、烈はげしい憂慮いうりよに捕とらへられた。聖せいカトリーヌは拔ぬけ目めなく、彼女かのぢよに元氣げんきをつけた。彼女かのぢよも矢張や　はり學者がくしやたちと議論ぎ　ろんをして、彼等かれらの膽きもを冷ひやしたことがあつた。眞實しんじつ、夫それ等らの學者がくしやたちは、異敎徒い　けうとではあつたが、各種かくしゆの學問がくもんに通曉つうげうしてゐる、聰明そうめいな人々ひとびとであつた。カトリーヌの傳記でんきには、かう書かいてある、——皇帝　くわうていは、エヂプトの學問がくもんや高等かうとう藝術げいじゆつに通つうじてゐる五十人にんの博士はかせを召め
し出だした。彼女かのぢよは、賢者けんじやたちと論爭ろんさうしなくてはならぬと云いふことを聞きいた時ときには、主しゆの福音ふくいんを汚けがすやうなことがありはしないかと心配しんぱいした。が、一人ひとりの天使てんしが現あらはれて、言いつた、「私は　わたくし大天使だいてんしミカエルである。お前まへは、此論爭このろんさうに勝かつて、主しゆキリストに相應ふさはしきものとなる、私は　わたくし此事このことを告つげに來きたのである。」で、彼女　かのぢよは博士はかせたちと論爭ろんさうした。
　眞摯まじめな博士はかせや、學者がくしやや、ポワテイエの議會ぎくわいの主おもなる僧侶そうりよたちは、二三人にんづゝ一緒しよになつてラバトオーの住居すまひへやつて來きた、そして一人ひとりづゝ代かはる代がはるジヤンヌを審問しんもんした。一番ばん最初さいしよやつて來きたのはジヤン・ロンバール、ギヨーム・ル・メール、ギヨーム・エーメリイ、ピエル・チユルリユール、ジヤツク・ムルドン等らであつた。ジヤン・ロンバールは尋たづねた、「何なんの爲ためにお前まへは來きたのか？　お前まへを來くるやうにしたものは何なにか、夫それを王樣わうさまは知しりたがつて居をられる。」
　ジヤンヌの答こたへは、之これ等らの僧そうたちの心こゝろを甚いたく動うごかした、「家畜か　ちくの番ばんをしてゐます時ときに、一ひとつの『聲こゑ』が私に　わたくし現あらはれました。その『聲こゑ』はかう言いひました。『神かみはフランスの國民こくみんを非常ひじやうに憐　あはれんで居をられる。ジヤンヌよ、お前まへフランスへ行ゆけ、』つて。それを聞きくと私は　わたくし泣なき出だしました。それから『聲こゑ』は私に　わたくし言いひました、『ヴオクラールへ行ゆけ。そこには一人ひとりの首領しゆりやうがゐる、その人ひとがお前まへを安全あんぜんにフランスへ、王わうの許もとへ連つれてつてくれるだらう。恐おそれるな。』　私は　わたくし命めいじられた通とほりにしました、そして、
何なんの故障こしやうもなく王わうの許もとへ參まゐつたのです。」
　夫それからギヨーム・エーメリイが口くちを出だした。「お前まへの言いふところによると、その『聲こゑ』は神樣かみさまがフランス國民こくみんを救すくつて下くださると言いつたんだね、だが、神樣かみさまが救すくつて下くださるのなら、武人ぶ　じんは御入用ご　にふようではあるまい。」
「神樣かみさまに代かはつて、」と、ジヤンヌは答こたへた、「武人ぶ　じんたちは戰たゝかふのです、すれば、神樣かみさまは勝利しようりを與あたへて下くださいます。」
　ギヨームは夫それで滿足まんぞくしたと言いつた。
　三月ぐわつの二十二日にち、ピエル・ド・ヴエルサイユとジヤン・エロオールとが連つれ立だつてやつて來きた。扈從こ　じうのゴベル・テイボオールも一緒しよに來きたが、ジヤンヌは既すでにシイノンで知しり合あひになつてゐた。
　まだ年としの若わかい、至極單純しごくたんじゆんな信しんじ易やすい男をとこであつた。彼等かれらがジヤンヌの部屋へやに這入は　ひると、彼女かのぢよは友ともだちらしく親したしげに彼かれの肩かたを叩たゝいて言いつた、「私、　わたくしあなた見みたいな人ひとが澤山たくさんあつたならば、と思おもひますよ。」
　武人ぶ　じんと一緒しよにゐると彼女かのぢよは、樂々らくらくとした氣持き　もちになつた。けれど學者がくしやには耐こたへられなかつた、彼等かれらと議論ぎ　ろんするのは、實じつに苦痛く　つうであつた。之これ等らの神學者しんがくしやたちは、彼女かのぢよに非常ひじやうな尊敬そんけいを示しめしてはゐたけれども、その果はてしのない質問しつもんが彼女かのぢよを退屈たいくつさせた。ゆつたりと重々おもおもしくしてゐる容子ようすを見みると彼女かのぢよは腹はらが立たつた。彼等かれらが證據しようこなどを見みたがつてゐて、卒直そつちよくに自分じぶんを信しんじてくれないのが彼女かのぢよには恨うらめしかつた。聖せいミカエルも、聖せいカトリーヌも、聖せいマルガレツトも吟味ぎんみの間あひだには姿すがたを見みせないのだから、證據しようこを示しめしようもなかつた。獨ひとりきりでゐる時ときや、禮拜室らいはいしつの中うちや、寂さびしい野のなどでは、天てんのお客樣きやくさまたちが彼女かのぢよの周圍しうゐに群むらがつた。けれど學者がくしやたちが來くると、ヤコブの梯子はしごは直すぐに引ひき上あげられた。それに僧侶そうりよたちは神學者しんがくしやであり、彼女かのぢよは聖者せいじやであつた。地上敎會ちじやうけうくわいの頭かしらたちと、　天上敎會てんじやうけうくわいと直接ちよくせつに交通かうつうしてゐる敬虔けいけんな婦人ふじんたちとの間あひだの關係くわんけいは、常つねに緊張きんちやうしたものである。彼女かのぢよは、自分じぶんに夥おびただしく授さづけられる啓示けいじが、審判官しんぱんくわんたちに疑惑ぎわくや不信ふしんやを抱いだかせたと云いふことを知しつた。彼女かのぢよは、例れいの「聲こゑ」の祕密ひみつを餘あまり彼等かれら
に打うち明あけようとはしなかつた。そして、彼等かれらがゐない時ときには、自分じぶんはあの坊ばうさんたちに話はなしたよりも、もっと澤山知たくさんしつてゐて、話はなすことも出來で　きる、と彼女かのぢよの「美うつくしい公爵こうしやく」アレエンソンに對むかつて言いつた。彼等かれらの前まへでは彼女かのぢよは煩わづらはしくてならなかつた。彼等かれらは、彼女かのぢよの返答へんたふがハツキリ分わからないので苛々いらいらとしてゐる樣子やうすであつた。時ときとすると質問しつもんされてゐる最中さいちうに彼女かのぢよは、自分じぶんの腰掛こしかけの端はしの方はうへ行いつて、顏かほを顰しかめてゐた。
「我々われわれは國王こくわうの命めいで來くるのだよ。」と、ピエル・ヴエルサイユは言いつた。
　彼女かのぢよは如何い　かにも不機嫌ふ　き　げんに答こたへた、「また私を　わたくし審問しんもんに來こられたのだと云いふことは、よく承知しようちしてゐます。誰たれの命めいで被居いらつしやるのか、そんな事ことは知しりません。」でも「何なんの爲ために來きたのか？」と云いふ問とひに對たいしては、彼女かのぢよは熱心ねつしんに返答へんたふをした、「天帝てんていの命めいで來きたのです、オルレアンの包圍かこみを解とき、そして王樣わうさまをレームズへお連つれして、卽位式そくゐ　しきを擧あげたり、塗油式と　いうしきをうけたりおさせ申まをす爲ために。ジヤン・エロオールさま、あなたはインキと紙かみをお持もちですか？、私の　わたくし言いふことをお書かきなさい。」　かう言いつて、彼女かのぢよは、イギリスの首領しゆりやうどもに對たいする短みじかい檄文げきぶんを口授く　じゆした。「汝等なんじら、サツフオ、クラスダス、及およびラ・ポールよ、私は　わたくし神かみに代かはつて、イギリスへ歸かへることを、汝等なんじらに要求えうきうする。」
　ジヤン・エロオールも、多おほくの僧侶そうりよのやうに、ジヤンヌの方はうへ傾かたむいてゐた。のみならず、自分じぶんだけの考かんがへもあつた。彼かれは、ガスクと云いふ綽名あだなのあるアヴイニヨンのマリーが國王こくわうに對たいして、眞しんの重大ぢうだいな豫言よげんをしたことを憶おもひ出だした。ところで、そのガスクは、國土こくどが多おほくの悲かなしみに會あふべきことを王わうに告つげたのであつたが、彼女かのぢよは空中くうちうに武器ぶ　きを見みた。その幻像まぼろしに就ついての話はなしは、かう言いふ言葉ことばで終をはつてゐた、「あれ等らの武器ぶ　きを自分じ　ぶんがとらなくちやならんのだと思おもつて、怖こはがつてゐると、一ひとつの聲こゑがかう言いつて 私 わたくしを慰なぐさめてくれました、『お前まへがとるのぢやない、後のちに出でる一少女せうぢよがとるのだ、その少女せうぢよは、あの武器ぶ　きを以もつてフランスの國土こくどを救すくふだらう。』」
　ジヤン・エロオールは、この不思議ふ　し　ぎな啓示けいじのことを思おもひ廻めぐらして、アヴイニヨンの言いつた少女せうぢよは卽すなはちジヤンヌであると信しんじるようになつた。
　ヂエラル・マシエは、一少女出せうぢよいで、フランス王わうを救すくふべし、と書かいてあるのを見みた。彼かれは、其事そのことをゴベル・テイボオールに話はなした。テイボオールは、夫それをまた色々いろいろな人ひとに語かたつた。ヂエラル・マシエは國王附こくわうつきの懺悔ざんげ聽聞僧ちやうもんそうであるが、大學だいがくの副總長ふくそうちやうだつたこともある神學しんがくの大家たいかで、敎會けうくわいの光ひかりの一ひとつと看做み　なされてゐた。この人ひとが、さうした豫言よげん——少女せうぢよの爲ために燒やき直なほしたを——信しんじるようになつたので、有あらゆる學者がくしやたちの疑惑ぎわくは一掃さうされて了しまつた。
　少女せうぢよは、例れいの「聲こゑ」たち——自分じぶんの相談會さうだんくわいと呼よんでゐる——や、その聖者たち——敎會けうくわいにある彫刻てうこくや繪像ゑすがたに似にていると思おもつてゐる——のことを訊たづねられた。學者がくしやたちは、彼女かのぢよが婦人ふ　じんの着物き　ものを捨すて髮かみを小姓風こしやうふうに丸まるく刈かつてゐるのには反對はんたいした。それには、かう云いふことが書かかれてある、「女をんなは男をとこの衣ころもを纏まとふべからず、また男をとこは女をんなの衣裳きものを着きるべからず、凡すべて斯かくするものは汝なんぢの神かみエホバこれを憎にくみたまふなり。（神命記しんめいき）」　ヴアレエン帝時代ていじ　だいに催もよほされたガングルの會議くわいぎでは、男をとこの着物き　ものを着きて髮かみを短みじかくしてゐる婦人ふ　じんを罪つみにした。多おほくの聖者せいじやめいた女をんなたちは、男裝だんさうをして、自分じ　ぶんの性せいを隱かくしてゐた。コンピエーニユの近ちかくのサン・ジヤン・デ・ボワには聖せいユフロシーヌの遺物ゐ　ぶつが殘のこつてゐるが、彼女かのぢよは三十年間　ねんかん男をとこの服裝な　りをして、テオドシヤスの僧院そうゐんにゐた。こんな理由わ　けやら、先例せんれいやらあるので、學者がくしやたちは、かう理窟り　くつをつけた、「ジヤンヌが男裝だんさうをしてゐるのは、他人た　にんの貞節ていせつを侮辱ぶじよくする爲ためではなく、自己じ　こを保持ほ　ぢする爲ためである以上いじやう、我々われわれは、善良ぜんりやうな意向い　かうを以もつてなされた行爲かうゐを惡意あくいに解かいすることはしまい。
動機どうきが純良　じゆんりやうであると分わかつてゐる行爲かうゐを非難ひ　なんするのは差さし控ひかへよう。」
　審問者しんもんしやの中うちの或ある者ものは、シヤルルのことを王わうと呼よばないで、ドオーフアン（皇太子）と呼よぶのは何故なにゆゑであるか、とジヤンヌに尋たづねた。千四百二十二年ねん十月ぐわつ三十日にち以來い　らい、シヤルルは當然たうぜん
「王わう」の稱號しようがうを以もつて呼よばるべきであつた。その日ひ卽すなはち先王死せんわうしし
て九日か目めに彼かれは、ムアン・シユール・イエヴルで喪服も　ふくを脱ぬいで、紫衣し　いを着つけたのであつた。國旗こくきは高たかく揭かゝげられ、「陛下へいか萬歳ばんざい！」が叫さけばれた。
　彼女かのぢよは答こたへた、「レームズで塗油式と　いうしきを受うけて、王冠わうくわんをつけられるまでは、私は　わたくしはあの方かたを王わうとは呼よびません。其所そ　こへ私が　わたくしお連つれする積つもりなのです。」
　塗油式と　いうしきのすまないうちは、彼女かのぢよは王わうを王わうと認みとめることが出來で　きなかつたのである。聖せいルミイの話はなしを聞きく度たびに彼女かのぢよは、塗油式と　いうしきの際さいに生しやうじた奇蹟き　せきのことを聞きかされてゐた。この答こたへは、質問者しつもんしやを滿足まんぞくさせた、王わうがレームズで塗油式と　いうしきを受うけると云いふことは、現世げんせいの爲ためにも、又來世またらいせいの爲ためにも重要じうえうであつたから。それにルニヨール・ド・シヤルトルも深ふかく夫それを望のぞんでゐたに相違さうゐない。
　僧侶そうりよどもに言いひ返かへされると、ジヤンヌは、敎會けうくわいの敎義けうぎに反對はんたいした。夫それは彼女かのぢよの心こゝろの靈感れいかんによつてゞある。「神かみの書物しよもつの中うちには、あなた方がたの書物しよもつの中うちにあるよりも澤山たくさんのことがあります。」
　これは隨分大膽ずゐぶんだいたんな、手酷て　ひどい返答へんたふであつた。若もし神學者しんがくしやたちが、差さして彼女かのぢよに心こゝろを傾かたむけてゐなかつたならば、誠まことに危險き　けんなことであつたに違ちがひない。敎會けうくわいの權威けんゐを冒瀆ぼうとくするものと取とられたかも知しれないのである。幸さいはひにも彼等かれらは、みんなオルレアン家け及およびドオーフアンの忠實ちうじつな僕しもべであつた。彼等かれらの法衣はふいは破やぶれ、食料室　しよくれうしつは空むなしくなつてゐた。で、偏ひとへに神かみを賴たよつてゐたので、少女せうぢよを排斥はいせきすることは、聖靈せいれいを排斥はいせきすることになりはしないかと恐おそれた。のみならず、少女せうぢよの言葉に何等なんらの惡意あくいもなく、無垢む　くであり、純眞じゆんしんであることは事々ことごとに證明しようめいせられてゐた。彼等かれらが、大膽だいたんな少女せうぢよの返答へんたふに驚おどろかされもしなかつたのは、此故このゆゑに他ほかならない。
　セーギアンと云いふ者ものが、代かはつて少女せうぢよに質問しつもんした。この男をとこは、リムウサンの生うまれで、如何いかにも氣懶け　だるい、ロルレーヌやシヤンパーニユの人ひとたちに解わからないやうな物ものの言いひ方かたをした。想おもふに、ロワール川がはや、セーヌ川がはや、ムーズ川邊がはほとりの人々ひとびとの目めには幾いくらか可笑を　かしく見みえる、あの鈍にぶい、のろのろした風ふうは此人このひとにもあつたらう。「何どんな言葉ことばでお前まへの『聲こゑ』は話はなすのか？」と尋たづねられると、　ジヤンヌは、「あなた方がたのよりも宜よい言葉ことばで。」 と答こたへた。
　聖者せいじやと雖いへども怒いかることはある。セーギアンが、夫それを知しらないでゐたのなら、この日ひ夫それを知しつたのだ。彼かれの聞きき度たいのは、聖せいカトリーヌや、聖せいマルガレツトがフランス語ごで話はなしをするか何どうかと云いふことであつたのだが、ジヤンヌには、さうした疑うたがひが氣きに入いらなかつたのである。でも、セーギアンは自分じ　ぶんの質問しつもんを續つゞけた、「お前まへは神かみを信しんずるか？」
「えゝ信しんじますとも、あなたよりも餘計よ　けいにね。」と、ジヤンヌは答こたへた。
　彼女かのぢよは、自分じ　ぶんを遣つかはした神かみを自分じ　ぶんが信しんずるか何どうかなどゝ問とはれるのが腹立はらだゝしかつた。彼女かのぢよの答こたへは、好意かういを以もつて見みれば、その熱烈ねつれつな信仰しんかうを證しようするものであると言いへる。セーギアンは、さう解釋かいしやくしたであらうか？　彼かれの同時代どうじだいの人々ひとびとは、彼かれのことを多少た　せう苛酷か　こくな質たちの男をとこであると云いつてゐるが、夫それどころか、氣前き　まへの宜よい、好人物かうじんぶつであつたと信しんずべき理由り　いうがある。
「だがね、結局けつきよく、」と、彼かれは言いつた、「神かみが遣つかはされた者ものなら、夫それだけの標號しるしがなくちやならない筈はずだと思おもふがね。唯たゞお前まへの言葉ことばを聞きいたゞけで兵士へいしを與あたへるやうに國王こくわうに申まをし上あげる譯わけにはいかないよ。」
「まア、」と、彼女かのぢよは答こたへた、「私わたしがポワテイエへ來きたのは、標號しるしを見みせる爲ためではありませんよ。そんな事ことを言いはないで、オルレアンへ連つれてつて下ください、何なんの爲ために神かみが私わたしをお遣つかはしになつたか、標號しるしは其所そ　こへ行ゆけばお目めにかけます。兵士へいしを與あたへるやうにして下ください、幾人いくたりだつてかまひませんから。すれば私わたしはオルレアンへまゐります。」
　それから彼女かのぢよは、何時いつも言いつてゐた事ことを繰くり返かへした。「イギリス人じんどもは一人ひとり殘のこらず追拂おつぱらつて、打うち敗やぶつて見みせます。天帝てんていに代かはつて降服かうふくするやうに勸すゝめた後のちで、オルレアンの包圍はうゐを解とき、市民しみんを敵てきの中なかから救すくひ出だしてやります。ドオーフアンにはレームズで塗油式と　いうしきを受うけさせ、パリイの町まちは再　ふたゝび王わうのものとし、オルレアンの公爵こうしやくをばイギリスから歸かへらせます。」
　セーギアン同樣博士どうやうはかせや學者がくしやたちは、永ながいことジヤンヌに、その使命し　めいの標號しるしを見みせよと迫せまつた。若もし神かみがフランス國民こくみんを救すくふ爲ために彼女かのぢよを選えらばれたのならば、例たとへばギデイオンの場合ば　あひに於おけるが如ごとく、何等なんらかの選擇せんたくの標號しるしを與あたへられたに相違さうゐない、と彼かれは考かんがへてゐたのである。イスラエルが漂泊人種へうはくじんしゆに壓服あつぷくされて、神かみに選えらばれたる民等たみらが山中さんちうの洞窟ほらあなに隱かくれた時とき、天使てんしが樫かしの木きの下もとで、ギデイオンに現あらはれて、而そして言いつた。「大丈夫私だいぢやうぶわたしはお前まへと共ともにゐて、あの漂泊人種へうはくじんしゆどもを、一人ひとりの人間にんげんを打うち倒たふすやうに打うち倒たふさせてやるぞよ。」夫それに對たいしてギデイオンは、夫それならば、夫それだけの標號しるしを見みせて下くださいと言いつて、兒山羊こ　や　ぎと、麵麭ぱ　んの煉粉ねりことを用意よういした。肉にくは籠かごに煉粉ねりこは鉢はちに入いれて、樫かしの木の下もとへと持もつて行いつた。すると天使てんしは、彼かれに對むかつて言いつた、肉にくと煉粉ねりことをこの岩いはの上うへに置おけ。」彼かれは言いはれる儘まゝにした。神かみの使つかひ の杖つゑの端さきが夫それ等らのものゝ上うへに觸ふれると、忽たちまち岩いはは火ひを吹ふいた。そして肉にくと麵麭ぱ　んとを燒やいた。ギデイオンは喜よろこび勇いさんで三百の兵へいを從したがへて進軍しんぐんし、漂泊人種へうはくじんしゆを平たひらげた。この例れいが學者がくしやたちの頭あたまの内うちにあつたのである。
　でも少女せうぢよに取とつては、勝利しようりの標號しるしは勝利しようりそのものであつた。彼女かのぢよは、絶たえずかう言いつてゐた、「私わたしのお目めにかける標號しるしは、救すくはれたオルレアンの市民しみんと、解とかれた包圍はうゐとです。」　かうして多おほくの學者がくしやたちは一少女せうぢよの爲ために壓服あつぷくさせられて了しまつた。
　併しかし、唯ただ一ひとつかう云いふ事ことだけは、能よく取とり調しらべる必要ひつえうがあつた。彼女かのぢよ自身が言いふ通とほり、果はたして彼女かのぢよは處女ヴアヂンであるか何どうか。まつたく少女せうぢよなのか、それとも少年せうねんではないか。久ひさしからざる以前い　ぜんのこと一道心だうしんがあつた。その人ひとは騎士き　しと云いふものは何どうかすると熊くまや、幽靈いうれいに變かはつて、一夜やに百里りも旅たびをする、かと思おもふと忽たちまち牝豚めぶたや藁わらになつて了しまふ、と信しんじてゐた。だから、さうした事ことを調しらべるのには、夫それ夫ぞれ適當てきたうな方法はうはふが採とられたのであつた。

　　　　　　　　＜ポワテイエに於おける少女せうぢよ（上）　了＞

　　　　　　　　　　［（八）へ続く]

底本：　ジャンヌ・ダルク　1917年　早稻田大學出版部
譯者：　吉江 孤雁 （喬松たかまつ）(1880.09.05 - 1940.03.26)

原著：　Vie de Jeanne d'Arc　　ジャンヌ・ダルク　の　生涯　1908
著者：　Anatole France　アナトール・フランス (1844.04.16 - 1924.10.12)


※　一一九頁本文六行め　
　　　「殆ほとんと」とあるは誤植と考え訂正 ⇒ 「殆ほとんど」

＜入力者注＞
三月二十二日のピエル・ヴェルサイユとの問答において、ジャンヌの返答に
「誰たれの命めいで被居いらつしやるのか、そんな事ことは知しりません。」
と、あるが、英語版を見ると、
"I don't know A from B." 
「私はイロハの区別もつかぬ（愚か者です）。」となっている。

＜入力者注その２＞
「汝等なんじら、サツフオ、クラスダス、及びラ・ポールよ、私は　わたくし神かみに代かはつて、イギリスへ歸かへることを、汝等なんじらに要求えうきうする。」
とある、ジヤンヌの勧告文の宛名は、サフォーク伯ウィリアム・ドゥ・ラ・ポール、ウィリアム・グラスデール、そしてジョン・ドゥ・ラ・ポール（サフォーク伯の弟）だと思われる。
ただし、原注では、ジョン・ラポールはオルレアン攻囲に携わった三人衆ではないので、ジャンヌか（裁判の）証言者の記憶違いではないか、（裁判記録に掲載されている有名な、三月二十二日付けの）「イギリス人への手紙」には、後者二人の名は見えない。と記されている。なお、その「イギリス人への手紙」は上篇十一章に掲載されている。

＜入力者注その３＞
　吉江孤雁訳　の末尾近くでは、

『かうして多おほくの學者がくしやたちは一少女せうぢよの爲ために壓服あつぷくさせられて了しまつた。』

と、あっさりした記載になっているが、英語版を参照すると、該当部分の記載は、以下の通り。
『そのような（彼女）のこだわり（固執する主張）は尋問者らの大部分に感銘を与えた。彼らはそれを、躓つまずきとなる石というよりは、むしろ熱意の実例及び啓発に支配されていることの現れと解釈することに決定した。彼女は彼等に御おしるしを約束したので、彼らにとって、全く謙虚になって神にそれ（御おしるし）を送って頂くようお願いし、そして、希望のようなものに満たされて、国王や全ての人と一緒になって、イスラエルを救い出した神に向って勝利の旗を授け給えと祈るだけの値打はあった。かくてセーギアン（スガン）師や、人間の知恵の教えによって導かれ、信じる前にまず御おしるしを要望していた人たちの議論は圧倒されてしまった。
　六週間続いた審問の後、博士たちは彼ら自身が十分納得（満足）したことを宣言した。』
　なお、レジーヌ・ペルヌー女史の「ジャンヌ・ダルクの実像」によれば、ポワティエでの審問は三週間続いたとある。