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ジャンヌ・ダルク （ アナトオル・フランス著，吉江孤雁訳、早稲田大学出版部，大正６） 上篇 三、 出鄕の前後 |
ジャンヌ・ダルク 上篇 三、出 鄕 の前 後 ロベール・ド・ボオドリクールは、その頃 ドオーフアン・シヤルルの爲 めにヴオクラールの町 を支配 してゐた。父 をリエボオール・ド・ボオドリクールと言 つたが、今 はもう世 になかつた。彼 の第 一の妻 は金持 ちの寡婦 であつた。それが死 んでから、千四百二十五年 に、二度目 の妻 を娶 つた。アラルド・ド・シヤンプレーと言 つて、矢張 り先妻同樣金持 ちの寡婦 であつた。その結婚祝 ひに注文 した菓子 を運 んで行 く車 を百姓共 が掠 め取 つたと云 ふやうな事 があつた。彼 は、その時分 の、その地方 の武人 たちと同 じやうな男 であつた。強慾 で、狡猾 で、敵 の中 にも多 くの友人 があれば、友人 の中 にも多 くの敵 があつた。今味方 の爲 めに戰 つてゐるかと思 ふと、何時 の間 にやら、夫 れに反抗 してゐると云 ふ風 であつたが、常 に自分自身 の利益 の爲 めに戰 つてゐるのであつた。その他 の點 では、他の連中 よりも惡 いと云 ふこともなく、大 して魯鈍 でもない人間 の一人 であつた。見 すぼらしい赤 い上衣 を着 てはゐたけれど、彼女 の心 は不可思議 な愛 で輝 いてゐた。ジヤンヌは、町 や谷 を見下 ろしてゐる丘 の上 へと登 つて行 った。門 はあけられてあつたので、彼女 は市場 へでも這入 るやうに、苦 もなく城内 へ這入 つた。そして廣間 へ通 されると、ロベールは部下 を從 へて其處 にゐた。彼女 は例 の「聲 」がかう言 ふのを聞 いた、「あれが、あの男 だ！」 すると直 ぐに、ずつと其 の前 へ進 んで行 つて、一番火急 を要 すと思 はれることから恐 れ氣 もなく言 ひ出 した。「私 は、あの方 の申 しつけで、あなたのところへ來 たのです」と、は 彼 女言 つた、「ド オー フア ンの許 へ人 をやつて、いざと云 ふ時 、間 に合 ふやうに用意 して置 くやうに、けれど敵 に挑戰 しないやうに、告 げておやりなさい。」例 の「聲 」の新 しい啓示 に勵 まされて、彼女 は平氣 でかう言 つたに相違 ない。で、此所 に注意 すべきことは、その時 より七十五年前 に、ヴオクラールから程遠 からぬシヤンパーニユの一農夫 の言 つたことを、彼女 が一語々々 繰 り返 してゐることである。この農夫 の生涯 も恰度 ジヤンヌと同じやうにして始 つたのであるが、その終 りは、もつと唐突 なものであつた。戰爭 に關 する啓示 を口 にしたのは要 するにジヤンヌが最初 ではなかつたのだ。大 なる艱難 の時代 は、一見平凡 に思 はれる人々 に靈動 を與 へる時代 である。シヤンパーニユの一農夫 が、光 りの中 から出 て來 る聲 を聞 いたのも、さうした譯 からであつた。野 に出 て働 いてゐる時 に、その聲 はかう彼 に言 つた、「行 け、そしてフランス王 ジヨンに、如何 なる敵 とも戰 はないやうに警告 しろ。」 その時 は、この忠告 は適切 なものであつた、が、千四百二十八年 五月 の、ジヤンヌの場合 には、夫 れほど適切 でもなく、殆 どその時分 の事態 には關係 のないものゝやうに思 はれた。ヴエルヌウイの災厄 （千四百二十四年八月十七日此町にて英軍に敗らる、）以來 、フランス人 は、その時分 のやうな敵 に挑戰 する氣持 はなくなつてゐた、其樣 な事 は考 へてもゐなかつた。幾 つもの町 は略取 されたり、失 はれたりしてゐたし、小爭鬪 が行 はれたり、突擊 が企 てられたりしてはゐたけれど、敵 は堂々 たる大戰 に及 ばうとしてはゐなかつた。夫 れに其頃 は、性質 も廻 り合 せも、ドーフアン・シヤルルを引込 み思案 にしてゐたから、抑制 する必要 はなかつたのである。ジヤンヌがロベールの前 で、あゝしたことを言 つてゐる頃 フランスにゐたイギリス軍 は、遠征 の準備 をしてゐたが、アンヂエルへ進軍 したものか、オルレアンにしたものか、決定 がつかなくて愚圖々々 してゐた。 ジヤンヌは、大天使 や聖者等 の示 すところに從 つて戰爭 のことや、彼等 も彼女 同樣 に知 らない國狀 のことにまで觸 れて行 つた。併 し、神 の使 ひであると自信 してゐる者 が、期待 せられてゐるやうに思 ふのは、驚 くに足 らぬことである。ところで更 らに、フランスの騎士 たちが、又 も彼等 一流 の戰爭 を始 めはしないかと云 ふジヤンヌの心配 のうちには、國民 の確乎 たる、一般的 な感情 があつた。唯 だ彼等 は、彼女 に比べては、さうした騎士 流 の戰爭 には親 しみ過 ぎるほど親 しんでゐたと云 ふ許 りである。落着 き拂 ひ、自若 として言 ひ續 けてゐた彼女 はドーフアンに關 する豫言 をした、「四旬齊 の中頃前 に上帝 は、彼 を援助 なさいます。」さう言 つて、直 ぐさま言 ひ添 へた、「併 し、實際國土 はドーフアンのものではありません。ですけれども、あの方 の御心 で、彼 は王 となり、王國 を信託 ——en command —— されるのです。そして、彼 を案内 して、塗油式 を受 けさせる者 は私 です。」 「あの方 」と云 ふのが、妙 に曖昧 に響 いたものであらう、ロべ−ルには誰 のことやら分 らなかつた、「あの方 つて、誰 のことか？」と、彼 は尋 ねた。 「天國 の王 です」と、彼女 は答 へた。彼女 は、もう一 つ他 の言葉 を使 つた。ロベールは、夫 れには氣 がつかなかつたらしいが、暗示的 な言葉 であつた。 その「command 」と云 ふ言葉 は、或 るものを信託 すると云 ふ意味 で、相續上 のことに用 ひられたのであつた。若 し、王 が「en command 」で國 を受 けるならば、それは單 に信託されたと云 ふことなのである。かやうに少女 の言葉 は國家 を支配 するものは神 である、と云 ふ最 も信心深 い人々 の意見 と一致 してゐた。自分 だけでは、さうした言葉 や考 へを思 ひつくことは到底 出來 なかつたに違 ひない。前 にも述 べたやうに、誰 れだか分 らないが、彼女 に敎 へたものがあるのは明 らかなことである。精神的 な事 柄に關 しては、彼女 は随分種々 な僧侶連 と談話 を交 へてゐたのであるが、惜 しい事 には、その人 たちが、イギリス軍 の飽 くなき慘虐 や、ブルガンデイ公の傲慢 や、ドオーフアンの不幸 やに就 て何 う思 つてゐたか、他日 ヂイーザス・クリストが萬民 の祈 を諾 いて、國土 を「en command 」で彼 に讓與 せられるやうになれば宜 いと、思 つてはゐなかつたか、何 うか、知 るよしもないのである。けれどジヤンヌが天帝政治 の思想 を得 たのは、恐 らくその中 の誰 かゝらであつたらう。彼女 がロベールにはなしてゐる間 に、ロルレーヌのさる騎士 で、ベトラン・ド・プウランヂイと云 ふ者 がやつて來 た。この人 はゴンドルクールの近 くに土地 を所有 してゐて、ヴオクラールの奉行所 に職 を奉 じてゐたのである。その頃 三十六歳 かそこいらであつたが、僧 に交 りのある人 であつた、少 なくとも敬虔 な人々 の話 し振 りを知 つてゐた。ジヤンヌを見 るのは、その時 が初 めてゞあつたらうが豫 ね豫 ね噂 は耳 にしてゐたに違 ひない。彼 は、彼女 が善良 な信心深 い娘 であることを知 ってゐた。二十年前 には、幾度 となくドムルミイへやつて行 つたもので、その邊 のことは、よく知 ってゐた。「女神 のやどり木 」のしたへ坐 つたこともあれば、ジヤツク・ダルクの家 へ行 つたことも幾度 かあつた、そして彼 を善良 な正直 な百姓 であると思 つてゐた。 ベトラン・ド・プウランヂイは、或 はジヤンヌの言 ふことや、態度 に驚 かされたかも知 れないが、夫 れよりも、成 る丈 フランスの國土 や敎會 を救 ふことが出來 るやうにする心算 で彼女 を敎 へてゐた或 る僧 を知 つてゐたと云 ふ方 が事實 らしく思 はれる。夫 は兎 に角 、ジヤンヌは將來大變賴 りになる友人 を得 た譯 なのであつた。併 し、差 し當 つては彼 は何 にもしもしなければ、一言 も口 を利 きもしなかつた。多分 ロベールがもつと親切 に耳 を傾 けるやうになるのを待 つてゐるのが最上策 だと思 つたからであらう。ロベールには、さうした事 は何 にも分 らなかつた。彼 は唯 だ、この娘 は立派 な從軍者 を作 るに違ひないとか武人 には大持 てゞあらうとか、思 つたゞけであつた。連 れて來 た男 に暇 を取 らせて、彼 は其頃 の人竝 みな忠告 を與 へた、「この娘 を父親 のとこへ連 れてつて、橫面 を張 り飛 ばしてやれ。」 ロベールはかういう云 ふ懲戒 を立派 なものだと思 つてゐたと見 え、ジヤンヌを連 れてつて、打 ち懲 らしめるやうにと幾度 もラツソア叔父 に言 つた。 一週間許 り經 つて、ジヤンヌは村 へ歸 つて來 た。ロベールの罵詈 や、守備兵 の侮辱 は何 でもなかつた、彼女 は、へこたれもしなければ、落膽 もしなかつた。それどころか、さうした事 は前以 て例 の「聲 」が言 つてゐるやうに、想像 して、夫 れを自分 の使命 が眞實 であることの證據 だと思 つてゐた。睡眠中 に歩行 する人々 のやうに、彼女 は障碍 があつても平氣 でゐる許 りか、尚更 ら頑強 になつた。家 にゐても、庭 にゐても、牧場 にゐても、例 の不思議 な微睡 を續 けながら、ドオーフアンのことや、その騎士 たちのことや、夫 れから天使 がその上 を翺翔 する戰鬪 のことなどを夢 みてゐた。彼女 は何 うしても、口 を噤 んではゐられなくなつて、有 らゆる場合 に自分 の祕密 をもらした。始終 豫言 してゐたが、信用 はされなかつた。歸宅後 一ヶ月許 りして、洗禮 のヨハネの前夜 、その時分 はまだ全 くの子供 であつたミカエル・ルプアンと云 ふビユレーの百姓 に向 ひ、如何 にも氣 取 つた風 で彼女 は、かう言 つた、「クツセーとヴオクラールとの間 に一人 の少女 がゐる、その者 は今から一年 ならずして、ドオーフアンをフランスの正當 の君主 とする。」 ドムルミイに、たつた一人 、ヂエラルダン・デビナルと云 ふドオーフアン方 でない男 がゐた。ジヤンヌの告白 によると、彼女 はその男 の伜 の叔母 に當 つてゐたけれども、この男 の頭 なら刎 ねてやり度 いと思 つてゐた。そんな男 にもジヤンヌは默 つてはゐられなかつた、「ねえ、お前 さんがブルガンデイ方 でさへなきやァ、私 話 すことがあるんだけれど。」 この善良 な男 は、それを、差 し迫 つた婚約 のことだな、「仙女 の木 」の下 で一緒 にパンを喰 べたり、「グズベリイの泉 」の水 を一緒 に飮 んだりした連中 のなかの誰 かと結婚 しようと云 ふんだな、と思 つて了 つた。氣 の毒 な！ ジヤツク・ダルクは、娘 の祕密 がそんな風 な事 であつてくれゝば宣 いと何 んなに願 つてゐたことであらう。この眞正直 な男 は非常 に嚴格 で、子供 の行爲 には、よく氣 をつけてゐた。で、ジヤンネツトの振舞 は彼 の心配 の種 であつた。もとより娘 が例 の「聲 」を聞 いてゐることは知 らなかつた。樂園 が自分 の家 の庭 へ降 りて來 り、天國 から自分 の家 へ梯子 が掛けられて、嘗 てヤコブ（舊約 聖書中のアバラハムの子孫）の梯子 を渡 つたのよりも多 くの天使 たちが、絶 へず其上 を往來 してゐたりしてゐようとは思 はれなかつたし、誰 も他 の人 には見 えないで、唯 だジヤンヌ一人 の爲 めにのみトウルやナンシイなどの町 で演 じられるのよりも幾 千倍 も立派 に美 しく、奇蹟劇 が演 じられてゐようとは思 ひもつかぬことであつた。要 するにかれには、此樣 な訝 しい希代 なことは、到底感 づきやうもなかつたのである。彼 に分 つてゐたことは、娘 が無感覺 になること、心 がふらふらしてゐること、荒々 しいことを言 ふことなどであつた。彼 は、娘 が騎馬 行列 のことや、戰鬪 のことより他何 にも考 へられないのに氣 がついた。娘 がヴオクラールで何 か突飛 なことをしたと云 ふやうなことをも幾 らか知 つてゐたに違 ひない。自分 の不幸 な子供 が何時 か、永久 に家出 をして了 ひはせぬかと甚 く心 を痛 めてゐた。この惱 しい氣苦勞 は、睡眠中 にも彼 を襲 ふのであつた。或 る夜彼 は、娘 が武人 と一緒 に逃亡 する夢 を見 たが、目 が覺 めてからもまだ憶 へてゐたほどにアリアリとしてゐた。幾日 もの間彼 は、息子 のジヤンとピエルとに繰 り返 し、繰 り返 しかう言 つた、「何時 かあの夢 の通 りになる位 ゐなら、娘 をお前 たちの手 で溺死 させる方 が宣 い、お前 たちがするのが厭 やなら私 が自分 でやる。」母 のイザベルは、娘 の目 を覺 して、眞正 な道 へ立 ち歸 らせたさに、この言葉 を幾度 も言 つて聞 かせるのであつた。敬虔 な女 のことゝて、彼女 は良人 の心配 を、自分 でも心配 してゐたのである。自分 たちの娘 が、やくざな者 にならうとしてゐると思 ふのは、善良 な夫婦 には實 に堪 へられぬことであつた。さうした、擾亂時代 には、武人 と逃走 するやうなお轉婆女 が幾 らもあつた。兵士 は各自 自分 の女 を持 つてゐた。若 い頃 の振舞 が變 つてゐる爲 めに此樣 な疑 ひを起 させるのは、聖者 には珍 しいことではない。ジヤンヌも何所 やら聖者 らしいところがあつた。彼女 は村 ぢうの評判 になつてゐた。みんな愚弄 するやうに指示 しをして、言 つた、「そら、行 ぞよ、フランスと皇室 とを元 の通 りにするちう女 が。」隣人 たちは、彼女 が變 つてゐるのは、何 か魔法 の呪文 にかゝつてゐるのだと決 めてゐた。彼女 が例 の「仙女 の木 」の下 へ行 つて、夫 れに花環 をかけてゐるのを見 た者 があつた。その傍 の泉 へと同樣 に、その木 のもとへも、せつせと通 ふと言 はれてゐた。仙女 が呪文 をかけると云 ふことも又知 れ渡 つてゐた。ジヤンヌが其所 で質 の惡 い仙女 と會 つてゐるのを見付 けたと云 ふ人々 もあつた。「ジヤンネツトは、仙女 の木 の下 で女神 と會 つとつた」と、彼 らは言 つた。この話 を信 じたのは百姓 ども許 りであつたらうか。 六月 の二十二日 に、シャンパーニユの太守 アントニイ・ド・ヴエルヂイは、ヘンリイ五世 の攝政 ベツドフオルドの公爵 から或 る辭令 を受 け取 つた。夫 れには、ヴオクラールの城地 をイギリス軍 に隷属 せしむる目的 で兵 一千の準備 をするやうにと書 いてあつた。三週間許 りすると、四人 の上級騎士 と十四人 の下級騎士 と、三百六十三人 の兵 とから成 る一隊 が、その手許 から繰 り出 された。行 く行 くアントニイ・ド・ヴエルヂイは、例 によって村々 を荒 した。又 しても災害 に脅 かされたドムルミイとグルウの人々 は、自分 たちの家畜 は奪 はれ、納屋 は燒 かれ、妻 や娘 は辱 しめられるのを見 た。その前後 既 に島 の城砦 は安全 でなかつたので、彼 らは村 を逃 れて、其所 から五哩許 りしかない、ヌフシヤトオの町 に隱家 を求 めることにした。かくて彼等 が出發 したのは七月 の中旬 であつた。自分 たちの家 や、野 を捨 て、家畜 を追 ひ立 てながら、小麥 やライ麥 の野 を過 ぎ、丘 を越 えて、町 へと行 つた。其所 で彼等 は、自分 たちに出來 るだけの假居 を定 めたのである。 ジヤツク・ダルクの家族 は、ジヤン・リルデールなる者 の妻 のラ・ルウツスに引 き取 られた。その女 は宿屋 をやつてゐたので、其家 へは兵士 や、僧 や、商人 や巡禮 などが宿 つた。その商賣柄 に就 ては惡 く言 つてゐるものもあつたが、餘 り評判 のよくない女 どもが出入 りするのは確 かなことであつた。でも彼女 は金持 ちで、時 には町内 の人々 に貸 してやつたりしてゐた。ヌフシヤトオは、ブルガンデイ方 のロルレーヌの公爵 に屬 してゐたのだが、この女 はアルマニヤツク方 に傾 いてゐると思 はれてゐた。併 し實際國家 の擾亂 に關 して何 と思 ってゐるのか、夫 れは分 らなかつた。 ドムルミイにゐた時 と同じやうに此所 でも彼女 は、父 の家畜 を追 つて行 つて、その番 をしてゐたが、ラ・ルウツスの家事 の手傳 ひをも、こまめにしてやつた。その爲 めに彼女 は醉 どれや、怪 しい女 どもの出入 りする宿屋 の下女 をしてゐると云 ふ評判 が高 くなつた、これは、もともとブルガンデイ方 のものが惡意 を以 てたてたものなのである。けれど實際 は、家畜 の番 もせず、主婦 の手傳 ひもしないでゐる時 には、彼女 は始終敎會 にゐたのであつた。町 には立派 な寺院 が二 つあつた、一 つはフランシス敎團卽 ち托鉢僧團 に屬 し、も一 つの方 は、聖 クレール兄妹 に屬 してゐた。フランシス敎團 の僧院 は、それより二百年前 ロルレーヌのマシユウ二世 によつて建立 されたもので、現在 の公爵 が更 に多 くの寄附 をした。貴婦人 や貴公子 など幾人 も、其所 に眠 つてゐた。 その昔盛 んな時分 には、その敎團 の托鉢僧 たちは、王侯 にも、市民 にも、百姓 にも歡迎 されたものであるが、今 は腐敗 して振 はなくなり、一般 の托鉢僧 と何 の變 りもないものになつてゐた。たまたま夫 れを昔 に復 さうとする者 があつても、古 い戒律 は何所 でも認 められなかつた。托鉢僧等 は、鉛製 のメタルを分 ち與 へ、呪文 になる短 い祈禱 を敎 へた、そして特 に神 に祈 つてやるなどゝ誓 つた。 ヌフシヤトオの町 で送 つた十四日 の間 にジヤンヌは、屢〻 フランシス敎團 の敎會 を訪 れた、そして、二囘 か三囘 、懺悔 もした。夫 れから彼女 は、その第 三敎團 に屬 してゐた、その加入 はヌフシヤトオ滯留 の日 から始 つてゐるなどゝ言 はれてゐるが、此憶測 は餘程 疑 はしいものである。如何 なる場合 にでも、加入 と云 ふことは甚 しく儀式張 つたものである筈はないが、夫 れにしても、其樣 に短時日 の間 に托鉢僧 たちが敎團流 の信心 を何 うして彼女 に敎 へ込 むことが出來 たか、容易 に合點 のいかぬことである。神靈 や現世 の力 に關 する宗敎上 の觀念 は深 く染 み込 んでゐるし、神祕 や啓示 に悉 く滿 たされてゐたので彼女 は、彼等 の精神 を吸収 しようもなかつた筈 である。それにフヌシヤトオに於 ける彼女 の滯在 は色々氣遣 ひな事 に煩 はされたり、時 には居 なくなることもあつたりした。此所 にゐる間 に、彼女 はトウルの宗敎裁判所 の判事 から出頭 するやうにと云 ふ命 を受 けた。ドムルミイの一靑年 が、彼女 と結婚 の約束 をしたと申 し立 てた。彼女 は夫 れを否認 したが、靑年 は飽 くまで言 ひ張 つて、宗敎裁判 に訴 へた。結婚 の取消 しとか、婚約 の履行 とか云 ふやうなことは、總 て宗敎裁判所 の取 り扱 ひ要件 であつたからである。妙 なことには、兩親 はジヤンヌに反對 して、靑年 の肩 を持 つた。要 するに、彼女 が緣談 を斷 つて、判事 の前 へ出 ると云 ふやうなことが氣 に入 らなかつたのである。後日彼女 は、この事件 では父母 に從 はなかつた、親 に服從 しなかつたのは其時 だけだと言 つた。 ヌフシヤトオからトウルまでは、徒歩 で往復 二十里 以上 の旅 であるし、沿道 は武人 どもに惱 まされ、村々 は火 と劍 で荒 されてゐた。ドムルミイの人々 はその爲 めに、つひ此頃逃 げて來 た許 りなのに、夫 れでも彼女 は、兩親 に逆 つて、旅立 つ決心 をした。恐 らく彼女 は、一度 ならず二三囘 も判事 の前 へ出 たことであらう。そして同 じ道を歩 くこと故 、その所謂 婚約者 と一緒 に夜晝旅 をするやうなこともあつたに違 ひない。例 の「聲 」は、彼女 に何物 をも恐 れるな、と命 じた。判事 の前 で彼女 は眞實 を申 し述 べる旨 を誓 つて、婚約 のやうなものは何 にもしたことはないと斷言 した。彼女 は何一 つも惡 いことはしなかつた。が、その行爲 は、非凡 で同時 に雄々 しい無邪氣 な心 から生 ずるのであるのに、何 かと惡 く許 り取 られた。ヌフシヤトオでは、この旅 で彼女 は自分 の財産 を喰 ひ盡 くして了 つたと言 はれてゐた。彼女 の財産 とは何 であるか？彼女 は何 にも持 つて行 きはしなかつた。食 を乞 うて戸毎 を廻 るやうなことになつてゐたかも知 れない。聖者 は他人 に施 しをするやうに、他人 からも施 しを受 ける、それはみんな神 の愛 の爲 めである。彼女 の婚約者 は裁判 の間 に、彼女 が怪 しい女 どもと一緒 に生活 してゐるのを知 つて、訴訟 を取 り下 げ、こんなに惡評 のある花娶 は捨 てゝ了 つた、と云 ふ話 もあつた。かうした中傷 は兎角信 じられ易 かつた。 ヌフシヤトオに十四日間 ゐて、ジヤツク・ダルクの一家 はドムルミイへ歸 つた。果樹園 、住宅 、僧院 、村 、野 ———まア何 んなに荒 れ果 てゝゐたことであらう！有 らゆるものが、掠奪 され、荒 され、燒 かれてゐた。村人 が逃 げて了 つて賠償金 を取 ることが出來 ないので武人 どもは、彼等 の動産 を破毀 して了 つたのである。嘗 ては城砦 の如 く堂々 としてゐた僧院 は、見張 り番 の塔 と共 に黑々 として見 る影 もない廢墟 となつてゐた。で、祭日 にはもう、ドムルミイの人々 はグルウの敎會 へ供養 を聞 きに行 かなくてはならなかつた。非常 に危險 な時代 で、村人 は防禦 を施 した家 や、城砦 の内 にゐるやうにと命 ぜられてゐた。兎角 するうち、イギリス軍 はオルレアンの町 を攻圍 してゐた。當時 にあつては實 にフランスの心臟 に當 る、その町 の周圍 に城砦 を設 け、大軍 を以 て取 り圍 んでゐるとのことであつた。この百合 の國 を愛 し、ドオーフアン・シャルルを愛 する聖 カトリーヌと、聖 マルガレツトとは、ジヤンヌに國家 の不幸 を語 り聞 かせて、かう言 ひ續 けてゐた。「村 を去 つて、フランスへ行 け。」 ジヤンヌは愈々 出發 しないではゐられない氣 がして來 た、彼女 は、自分 のフランス到着 の日 を口外 してゐたのであるが、其日 は切迫 しつゝあつたのである。彼女 は嘗 てヴオクラールで、ドオーフアンは、四旬齊 の中頃前 に救はれると言 つた。彼女 は、例 の「聲 」を嘘 にして了 ひ度 くなかつた。正月 の中旬 近 くに、彼女 の求めてゐたビユレーへ行 く機會 が生 じた。その頃 デユラン・ラツソアの妻 がお産 をした。さうした場合 には、親戚 の若 い女 や、友 だちなどが、産婦 や赤坊 に附 き添 つて世話 をしてやるのが、その地方 の習慣 になつてゐた。一緒 に集 つて、面白 いお喋 りが出來 るので、この習慣 は無造作 に守 られてゐた。ジヤンヌは、産婦 の附 き添 ひにやつてくれるやうに父 に賴 んで貰 ひたいとラツソアにせがんだ。ラツソアは承知 した。彼 は、ジヤンヌの賴 む事 は、何時 も二 つ返事 で承知 したが、恐 らく誰 か立派 な信心深 い人 から、さうするやうにと勵 められてゐたからであらう。つい近頃 まで、武人 と逃 げる位 ゐならムーズ河 へ投 げ込 んで了 ふ方 が宣 いと、言 つてゐた彼女 の父 が、柔弱 な親戚 の者 に護 られて町の關門 へと彼女 の行 くのを何 うして許 したものか分 らないが、彼 はそれを許 した。 デユラン・ラツソアと連 れ立 つてジヤンヌは、もう夫 れきり二度 と見 ることの出來 なかつた幼 な馴染 の家 を去 つて、荒寥 たる故鄕 の谷 を下 つた。自分 の大 の仲好 しのグルウの村 の友人 の家 の傍 を通 る時 、彼女 は、「さやうなら」と、大 きな聲 で言 つた。「私 はヴオクラールへ行 きます。」夫 れから少 し行 くと、友 だちのマンヂエツトに會 つた。「さやうなら、マンヂエツト」と、彼女 は言 つた、「何 うぞお健全 にね。」行 く行 く家 の入口 に知 り合 ひの顏 が見 える度 に、彼女 は別 れの挨拶 をした。けれど、子供 の時分 に一緒 に遊 んだり、一緒 に寢 たりした、誰 よりも愛 してゐるハウビエツトには會 ふのを避 けた。若 し、別 れを告 げようものなら、彼女 が何 んなに落膽 するかも知 れないと思 つたからである。ハウビエツトは、その後 程 なく、友 だちの去 つたのを知 つて、消 え入 る許 りに泣 いた。 二度目 にヴオクラールへ着 いた時 ジヤンヌは、ドオーフアン所屬 の町 に足 を入 れてゐる、——その時分 の言葉 で言 へば、王室 の控部屋 に這入 つてゐると想 つた。夫 れは間違 ひであつた。千四百二十八年 の八月初 め以來 ヴオクラールの長官 は、アントニイ・ド・ヴエルヂイに城砦 を讓 つてゐたのであるが、まだ引渡 しはしなかつたのであつた。夫 れは、或 る指定 の時日 が來 れば開城 すると云 ふ約束 になつてゐた。かうした事 は、當時 にあつては珍 しいことではなかつた、若 し、引渡 しの日 以前 に、その城砦 が救 はれるやうなことがあれば、約束 の効力 はなくなるのである。 ジヤンヌは九ヶ月前 にしたと同 じやうにして、ロベールのところへ行 つた。そして、かう彼 に告 げた、「神 は、再 び私 にお告 げになりました、フランスの眞 の王 でなければならず、又 眞 の王 であるドオーフアンの許 へ行 け、と幾度 もお命 じになりました、すれば、私 は彼 から武人 を讓 り受 け、オルレアンの包圍 を解 いて、彼をレームズへ案内 し、塗油式 を受 けさせるのです。」今度 は、彼女 はオルレアンを救 ふことを、その使命 にしてゐる。そして塗油式 は、先 づ最初 この事 を成就 してからのことにしてゐるのである。吾 には例 の「聲 」がその時 の必要 に應 じて、先 きに與 へた命令 を變更 してゐる、その用意 と如才 なさとを認 めざるを得 ない。ロベールのジヤンヌに對 する態度 は全 く變 つてゐた。橫面 を張 り飛 ばせとか、父親 のとこへ連 れて行 けとか云 ふやうなことは何 にも言 はなかつた。彼 は、もう彼女 を粗末 には取 り扱 はなかつた、その言葉 を信 じないにしても、少 なくとも心 よく耳 を傾 けてゐた。彼女 は、彼 と話 してゐる間 に妙 なことを言 つた、「あの方 の命令 を果 して了 ふと、私 は結婚 をして、三人 の子供 を産 みます、一番上 の子 は法王 に、次 ぎの子 は皇帝 に、そして三人目 の子 は王 にしてやります。」 ロベールは、愉快 さうに答 へた、「お前 の子供 たちが、そんな立派 な身分 の方 になるんなら、私 も一人 子供 をお前 にやり度 いものだ。それで私 も光榮 が得 られる譯 だからな。」 ジヤンヌは答 へた、「否 え、あなた、否 え、まだその時 ではありません。その時 をば聖靈 が指定 してくれるのです。」今日 まで傳 へられてゐる彼女 の僅 かな言葉 から判斷 すれば、この若 い女豫言者 は交互 に異 つた二 つのことを言 つてゐた。その言葉 は各自別 の源 から出 て來 るやうに思 はれた。一つは、無邪氣 で、あからさまで、飾氣 がなくて、簡明 で、質朴 で、自 ら策 に富 み、武侠的 で、尊 げであると等 しく、時 とすると粗野 であつたが、槪 してドオーフアンの相續 や塗油式 や、イギリス軍 を敗 る事 などに關 してゐた。これは例 の「聲 」の言葉 であり、彼女自身 の、彼女 の魂 の言葉 であつた。今一 つは、もつと拔 け目 がなく、比喩 や、言葉 の綾 の香氣 がしてゐて、何所 やら學者風 に重々 しく批評的 であつたが、敎會 に關 してゐて、夫 れとなく僧 を思 はせたり、或 る外部 の勢力 を露 したりする所 があつた。自分 の産 む子供 のことに就 てロベールに言 つた言葉 は、この第 二の種類 に屬 してゐる。それは、一個 の比喩 である。三人 の子供を産 むと云 ふことは、基督敎國 の平和 は、彼女 の仕事 から産 まれると云 ふこと、卽 ち彼女 が、その神聖 な使命 を果 した後 で、法王 と皇帝 と王 と——神 の三人 の子供 ——が一致 和合 して、喜 んでヂイーザス・クリストの支配 する國 の内 に君臨 すると云 ふことを意味 するのである。要 するに極 めて明瞭 なのであるが、それでも或 る程度 の知慧 がなくては理解 することは出來 ない。ロベールには解 らなかつた。單純 な呑氣 な男 だから、ジヤンヌの言葉 を文字 通 りに解釋 して、返辭 をしたのであつた。 ジヤンヌは、デユラン・ラツソアの友 だちの家 に宿 をとつてゐた。絲 を紡 ぐことが上手 だつたので、夫 れで暇 を潰 してゐた。持 つてゐた僅 か許 りのものは、貧 しい者 に與 へた。宿 の妻君 と一緒 に、敎區 の敎會 へ行 つた。朝 は、非常 に敬虔 な心持 ちで、町 の見晴 らされる丘 へ登 つたり、聖 マリイ・ド・ヴオクラールの禮拜堂 へ這入 つたりした。その僧會敎院 は、フイリツプ六世 の建立 したもので、ロベールの館 に接 してゐた。神々 しい石造 りの本堂 は東 に向 つて毅然 と聳 り立 ち、丘 や牧場 をば廣々 と見下 し、ジヤンヌの生 れ育 つた谷 を望 んでゐた。彼女 は、何時 も其所 で供養 を聞 いては、永 い間留 まつて祈禱 をしてゐた。禮拜堂 の下 には、地下 聖堂 があつて、其所 にはノオトルダム・ド・ラ・ヴオートと呼 ばれる、古 い、深 く崇拜 せられてゐる處女 の畫像 があつた。夫 れは奇蹟 を表 したが、特 に貧 しい、窮困 してゐる者 の爲 めに表 すのであつた。ジヤンヌは、この暗 い、寂 しい堂内 にゐるのを好 んだ。聖者 たちが、彼女 を訪 れるのに其所 を選 んだのである。或 る日 の事 、禮拜堂 に控 へてゐた、辛 と子供 でなくなつた許 り位 ゐな若 い僧 は、一人 の少女 が身動 きもせず、固 く手 を握 り合 せ、頭 を後 へ反 らし、涙 で一杯 になつた目 をあげて、天 を仰 いでゐるのを見 た。その恍惚 としてゐる姿 は、一生 の間彼 の心 に刻 みついて殘 つてゐた。彼女 は屢〻 、懺悔 をしたが、大抵 ヴオクラールの牧師 ジヤン・フウルニイエの前 でするのであつた。宿 の女主人 は、ジヤンヌの日常 が如何 にも善良 で淑 かなのに感服 してゐた。が、或 る日 、彼女 が、かう云 ふのを聞 いて甚 く驚 かされた、「一人 の婦人 によつて亡 ぼされたフランスは、ロルレーヌ・マルシエの一少女 によつて救 はるべし、つて豫言 されてるぢやありませんか？」女主人 は、ヘロデイアスほどに亂倫 なマダム・イザボオーが、マダム・カトリーヌと百合 の王國 をイギリス王 へ引渡 したことを、デユラン・ラツソアと同 じやうに知 つてゐた。で、それからと云 ふものは、だんだんジヤンヌこそは、その豫言 されたる少女 だと信 ずるやうになつた。 この信心深 い少女 は、多 くの敬虔 な人々 とも談話 をしたが、誰 に向 つても同 じ事 を言 つた、「何 うしてもドオーフアンの許 へ行 かなくてはなりません。私 の行 くのは天國 の王 の意志 なのです。私 は天國 の王 から遣 されたのです。假令 お願 ひしてゞも行 かなくちやなりません。」同 じやうなことを彼女 は、アウベルト・ド・ウウルシエにも告 げた。彼 は善良 なフランス人 で、アルマニヤツク方 の人 で、四年前 からイギリス軍及 びブルガンデイ軍 と戰 つてゐた。彼女 は、自分 は是非 ともドオーフアンの許 へ行 かなくてはならないこと、連 れて行 つて貰 ひ度 いのだと云 ふこと、無類 の利得 と名譽 とが必 ずドオーフアンのものとなると云 ふこと、などを彼 に語 つた。守備兵 の中 に二十八歳許 りになる一武人 がゐた。ジヤン・ド・ノベロンポン（又はヌウイロンポン）と云 ふのが、その名 で、一般 にはジヤン・ド・メツツと呼 ばれてゐた。階級 から言 へば、自由民 で、貴族 ではなかつたが、公領外 にあるヌウイロンゴンとホヴエクールの領地 を相續 するか、手 に入 れるかしてゐた、で、その地名 を吾 が名 としてゐるのである。以前 は他 に仕 へてゐたが、近頃 はロベールの配下 となつてゐた。彼 の平生 が何 んなであつたか、何 んな人間 であつたかは、三年前 に口汚 く人 を罵 つて、罰金刑 に處 せられたと云 ふ以外 には、一向 に分 らない。ベトラン・ド・プウランヂイと多少 親 くしてゐて、ジヤンヌのことを彼 から聞 いてゐたものと思 はれる。或 る日 、彼 は少女 に會 うて、言 つた、「ねえ、君 は此所 で何 をしてゐるのか？王 は國 から逐 ひ出 されて、吾々 はみんなイギリス人 にならなくちやならんのかね？」若 いロルレーヌ武士 の、かうした言葉 は注目 に値 するものである。トロワの條約 はフランスをイギリス國 に從屬 させるものではなく、兩者 を聯合 させたものであつた。その後 も、前 の通 り戰 ひは續 いてゐたにしても、それは單 に 兩皇帝 の間 で決 りをつけると云 ふまでの事 で、何方 が勝 つにしろ、フランスの法律 や習慣 に何 も變 りの有 らう筈 はなかつた。けれど夫 れにも拘 らず、この男 は、イギリス王 の許 にあれば、イギリス人 になるのだと想 つてゐた。これは、獨 り彼 に限 らず、國内 上下 一般 にさう信 じてゐて、イギリス化 されると云 ふことは、考 へるだけでも耐 へられなかつた。彼等 は、自分 の運命 は國家 とドオーフアン・シヤルルの運命次第 であると思 つてゐたのである。 ジヤンヌは彼 に答 へた、「私 が此所 へ來 たのは、私 をドオーフアンの許 に連 れて行 つてくれるか、誰 かに連 れて行 かせるやうにロベールに話 す爲 めになのです、けれど、あの人 は私 にも、私 の言 ふことにも注意 しないのです。」 それから、自分 の使命 は四旬齊 の中頃前 に始 められなくてはならぬ、と云 ふ例 の考 へが胸 に湧 き上 つて來 たので、「さうなんですけれども、四旬齊 の中頃前 に私 は、假令 何 んなにお願 ひしてゞも、ドオーフアンのところへ行 かなくてはなりません。」或 る風評 が、町 から町 、村 から村 へと傳 へられた。それによると、五歳 になつた許 りの國王 の子 ドオーフアン・ルウイが、スコツトランド王 の娘 の三歳 になるマダム・マーガレツトと婚約 を結 んだと云 ふことであつた。一般人民 は、如何 にも荒廢 した國 の人 らしい歡喜 を以 て、この緣談 を慶賀 した。ジヤンヌは夫 れを聞 くと、彼 に向つて言 つた、「何 うしてもドオーフアンの許 に行 かなくてはなりません、スコツトランドの王樣 だつて、公爵 だつて、お嬢 さんだつて、世界中 に誰 れ一人 フランスの國土 を元 の通 りにするものはありませんもの。」 さう言 つて彼女 は、直 ぐさま言 ひ足 した、「助 けることの出來 るのは私 きりです。自分 だけのことを言 へば、あの可愛 さうなお母 さんの傍 で絲 を紡 いでゐる方 が何 んなに增 しだか知 れません、かうした事 は私 の好 みに合 ひませんもの。でも行 かなくてはなりません、えゝ何 うしたつて行 きます、それが、あの方 の御命令 ですから。」彼女 は、自分 の思 ふ通 りを言 つた。併 し彼女 は自分自身 が解 つてゐなかつた、例 の「聲 」は自分自身 の心 の聲 であると云 ふこと、夫 れから、自分 は、絲卷竿 を捨 てゝ劍 を執 り度 いのだと云 ふことが解 つてゐなかつた。 ジヤン・ド・メツツは、ロベールが尋 ねたやうに、矢張 りかう尋 ねた、「あの方 つて誰 のことかね？」 「神樣 です」と、彼女 は答 へた。 すると卽座 に、彼女 を信 じでもしたやうに彼 は、非常 に感激 した調子 で言 つた、「宣 しい、きつと私 が連 れて行 つてやる。」彼 は、誓 ひの印號 に自分 の手 を差 し出 して、そして尋 ねた、「何時 出發 する積 りかね？」 「今 が、」と、彼女 は答 へた、「明日 よりもよく、明日 は明後日 よりも宜 いのです。」 それから二十七年後 になつて、ジヤン・メツツ自身 の口 から出 たことであるが、彼 は結局 、その婦人服 のまゝで行 く積 りか何 うか、と彼女 に尋 ねた。勿論 、色魔 の橫行 してゐる道中 を、赤 い上衣 を着 た百姓娘 を連 れて旅行 するのは一通 りや二通 りの困難 ではない、少年 の風 をさせる方 が賢 いやり方 であると思 つたのである。彼女 は直 ぐに夫 れと察 して、答 へた、「男 の風采 をして行 き度 いと思 ひます。」 さうした事 にならなかつたのには、何 の理由 もないのである。若 し然 うなつたとしたところで、彼 は服裝上 のことを夫 れとなく彼女 に敎 へたと云 ふまでのことである。後 になれば、その考 へは神 から與 へられたものだと彼女 は思 ふであらう。自分 から、と云 ふよりは寧 ろ誰 か賢 い人 の忠告 に動 かされてロベールは、ジヤンヌが惡靈 に憑 かれてゐるのではないか何 うか知 り度 いと思 つた。惡魔 と云 ふものは狡 いもので、何 うかすると如何 にも無邪氣 な樣子 をしてゐるからである。ロベールは、かうした事 には不案内 なので、牧師 に相談 することにした。 ところで、或 る日 のこと、ジヤンヌが宿 の女主人 と二人 で絲 を紡 いでゐるところへ、ロベールが牧師 のジヤン・フウルニイエを連 れてやつて來 た。彼等 は、女主人 に座 を外 してくれるやうにと言 つた、そしてジヤンヌ一人 になると、ジヤン・フウルニイエは、聖帶 を着 けてラテン語 で、こんな風 なことを言 った、「若 し汝 惡 ならば去 れ、善 ならば近 よれ。」 それは厄拂 ひの普通 の經文 であつた、もつと正確 に言 へば、呪法 であつた。ジヤン・フウルニイエの意見 によれば、聖水 を二三滴注 ぎながら、この經文 を唱 へると、若 し不幸 にして彼女 の體 の内 に惡魔 がゐるやうなら、必 ず逃 げ出 して了 ふ筈 であつた。 ジヤン・フウルニイエは、惡魔 と云 ふものは人間 の體 の内 に這入 りたがるもので、時 とすると少女 は麵麭 と一緒 に惡魔 を呑 み込 んで了 ふことがあると固 く信 じてゐた。惡魔 どもは、舌 の下 や鼻孔 の内 に住 んでゐたり、すつと喉 を通 つて行 つて胃 の内 に住 んでいたりした。そして、かう云 ふ樣々 な寓居 に居 て盛 んに活動 した。取 り憑 かれてゐると云 ふことは、その人 が體 を捩 ぢ曲 げたり、吼 へたりするので見分 けがついた。法王聖 グレゴリーは、その對話論 の内 で、惡魔 が巧 に婦人 のうちへ入 り込 むことの顯著 な例 を擧 げてゐる。一人 の尼 が園 にゐるとき、一本 の萵苣 を見 つけた、彼女 には夫 れが大變 おいしさうに思 はれた、彼女 は夫 れを拔 いて、喰 べて了 つたが、その前 に十字 を切 つて、祝福 することを忘 れてゐたので、直 ぐさま惡魔 に憑 かれて倒 れた。德 の高 い人 が、その傍 へ近 よると惡魔 は叫 び出 した、「私 です！ さうしたのは私 です！私 は萵苣 の上 に坐 つてゐたのです！ この女 がやつて來 て、私 を呑 んだのです。」 その人 が祈 ると惡魔 は逃 げて行 つた。此樣 な譯 であるから、ジヤン・フウルニイエが特 に仰々 しく用心 をしたと云 ふのではない。惡魔 は至楇?願 するやうに牧師 の方 へいざりよつたゞけであつた。彼女 は神 の御名 を聞 いて逃 げるやうなことはなかつた。ジヤン・フウルニイエは結局 、彼女 の内 には惡魔 はゐないと言 つた。宿 の女主人 と二人 きりになると、今 はその意味 の解 つた彼女 は、ジヤン・フウルニイエを怨 みに思 つた。自分 を疑 つたことに就 て彼 を非難 した。「いけないことだわ」と、彼女 は女主人 に向 つて言 つた、「だつて、あの人 は私 の懺悔 を聽 いてゐるんだから、私 を知 つてる筈 ですもの。」 だが、この試驗 が自分 の使命 を成就 する上 の大變 な助 けになつたと云 ふことを知 つたら、彼女 は牧師 に感謝 したことであらう。惡魔 に憑 かれてゐるのでないのが分 つたので、ロベールは、少女 には神 が乘 り移 つてゐるのだと思 はざるを得 なくなつた。で、彼女 の事 をドオーフアン・シヤルルに報告 した。勿論 その無邪氣 なことや善良 なことは保證 してゐたけれど、彼 は、ドオーフアン・シヤルルのことは餘 り氣 にかけてはゐなかつたから、この若 い女豫言者 を推擧 することに何 れほど力 を入 れてゐたか怪 しいものである。兎 に角報告 したのは、ジヤンヌに厚意 を持 つてゐた人 たち——ベトラン・ド・プウランヂイや、ジヤン・ド・メツツなどが傍 にゐて、勸 めたからであると見 て差 し支 へない。 この二人 は、彼女 を連 れて行 く手筈 や、その旅費 のことまで心配 して、ドオーフアンの返事 を待 つてゐた。が、その間 もジヤンヌはぢつとしてはゐられなかつた。ヴオクラールとピユレーの間 を行 つたり來 たりして、出發 の時 を一日千秋 の思 ひで待 つてゐた。正月 の末 になると、彼女 はもう此上待 つてゐられないやうな氣 がして來 たので、自分 だけで出發 しようと決心 した。デユラン・ラツソアの着物 を着 て、この親切 な從兄 と共 に首途 についた。ジヤツク・アランと云 ふヴオクラール人 も一緒 に行 つた。けれど連 れの二人 は、こんな旅 の出來 るものでないことが彼女 にも今 に分 る、そんなに遠 くまでは行 くまい、と思 つてゐた。果 して其通 りであつた。ヴオクラールから辛 と一里 許 り行 つて、セトフオンの谷 の、大森林 の眞中 に立 つてゐる聖 ニ??ることに何 れほど力 を入 れてゐたか怪 しいものである。兎 に角報告 したのは、ジヤンヌに厚意 を持 つてゐた人 たち——ベトラン・ド・プウランヂイや、ジヤン・ド・メツツなどが傍 にゐて、勸 めたからであると見 て差 し支 へない。 この二人 は、彼女 を連 れて行 く手筈 や、その旅費 のことまで心配 して、ドオーフアンの返事 を待 つてゐた。が、その間 もジヤンヌはぢつとしてはゐられなかつた。ヴオクラールとピユレーの間 を行 つたり來 たりして、出發 の時 を一日千秋 の思 ひで待 つてゐた。正月 の末 になると、彼女 はもう此上待 つてゐられないやうな氣 がして來 たので、自分 だけで出發 しようと決心 した。デユラン・ラツソアの着物 を着 て、この親切 な從兄 と共 に首途 についた。ジヤツク・アランと云 ふヴオクラール人 も一緒 に行 つた。けれど連 れの二人 は、こんな旅 の出來 るものでないことが彼女 にも今 に分 る、そんなに遠 くまでは行 くまい、と思 つてゐた。果 して其通 りであつた。ヴオクラールから辛 と一里 許 り行 つて、セトフオンの谷 の、大森林 の眞中 に立 つてゐる聖 ニコラスの禮拜堂 に近 づいた頃 、ジヤンヌは氣 を變 へた、そして、連 れに向 つて、此樣 にして旅立 つのは宜 くないと言 つた。で、彼等 は町 へと引返 した。 さるほどにコレー・ド・ヴイエンヌなるものが、シヤルル王 の返事 を齎 した。その少女 をシイノンへ送 るやうにとの事 であつた。これでジヤンヌの望 み通 り、豫定 の期日内 に王 の許 へと行 かれることになつたのであつたが、待 ちこがれてゐた出發 は意外 な出來事 の爲 めに延 ばされて了 つた。このことは、彼女 の名聲 がロルレーヌぢうに知 れ渡 つてゐたこと、領主 どもが、まさかのときには聖者 を賴 りにしてゐたことを證 するものである。 ジヤンヌは、ロルレーヌ公 によつてナンシイに召 されたのであつた。彼女 は公 から遣 はされた一人 の警護兵 を從 へ、田舎 臭 い短上衣 に長靴下 を着 け、デユラン・ラツソアとジヤツク・アランが與 へた子馬 に乘 つてゐた。ヴオクラールからナンシイまでは二十四里 の道程 であつた。ジヤン・ド・メツツはトウルまで連 れ立 つて行 き、デユラン・ラツソアはお終 ひまでついて行 つた。 ロルレーヌ公 の宮殿 へ行 く前 にジヤンヌは、ムルトの谷 を登 り、大聖 ニコラスの廟 を訪 うて禮拜 した。聖 ニコラスは、旅人 の守本尊 であつた。＜出鄕 の前後 了＞ ［（四）へ続く] 底本： ジャンヌ・ダルク 1917年 早稻田大學出版部 譯者： 吉江 孤雁 （喬松 ）(1880.09.05 - 1940.03.26) 原著：Vie de Jeanne d'Arc 1908 著者：Anatole France (1844.04.16 - 1924.10.12) （※）電子テキスト化に当たり、出来るかぎり、底本に従って、 旧漢字表記を再現するよう努めた。 by cygnus_odile ※ 祈祷→ 底本では 祈禱 （示＋壽） ※ 踠（もが）く ： 原著では[※ 手へん＋ウ冠＋夕＋匕] ※ 底本の活字では、示すへんは「ネ」ではなく、「示」。 ※ 免・色・負 の上部は ク ではなく 刀 が使われている。 ※ 既：原著では、［白＋匕（へん）＋牙（つくり）］ ※ 樫 → 底本では［※ 木へん＋解］ ※ 僧 → 底本では［※ にんべん＋會］ ※ 清 → 底本では［※ サンズイ＋靑］ ※ 煠卵 ： ゆで卵 ※ 即 ：※［＃「皀＋卩」、第3水準1-14-81］ ※ 概は ：旧字体が用いられている。 ※ 晴は ：旧字体「晴」（日へん＋靑） ※ 褐 ：［示すへん ＋ 竭のつくり］
| 二、 ジヤンヌの聲《こゑ》 < < | ［ 目次 ］ | > > 四、ジヤンヌの首途《かどで》 |
ジャンヌ・ダルク 上篇 三、 出鄕の前後 底本：国立国会図書館 近代デジタルライブラリー 所収 ／ ジャンヌ・ダルク （ アナトオル・フランス著，吉江孤雁訳、早稲田大学出版部，大正６）
履歴：
2012-03-13 : html タグ打ちミス修正 2012-03-07 : 漢字を底本に従い旧字体へ『難』⇒『難』（難）（（ufa68 / 難） 2012-03-07 : 漢字のミスタイプ修正『伝ふ』⇒『云ふ』 2012-02-28 : 漢字を底本に従い旧字体へ『飲』⇒『飮』（飮）（（u784f / 飮） 2012-02-23 : 漢字を旧字体へ『晴』⇒『晴』（晴）（（ufa12 / 晴） 2012-02-22 : 上篇、三章 漢字を旧字体に変更、『麺麭』《ぱん》⇒『麵麭』 （rev. 1.01） 2012-02-11 : 上篇、三章 縦書き組版エンジン：涅槃２（Nehan2）を利用して縦書き化、公開（rev. 1.00） |