ジャンヌ・ダルク （ アナトオル・フランス著，吉江孤雁訳、早稲田大学出版部，大正６）
上篇 二、 ジヤンヌの聲《こゑ》
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ジャンヌ・ダルク
上篇
二、 ジ ヤ ン ヌ の 聲
十三歳ぐらゐな時分、父の庭のうちで彼女は、ふと或る聲を聞いた。その聲は彼女に非常な恐怖を覺えさせた。それが右手の方から、敎會の方から、してきたかと思ふと、同時に、同じ方向に光りが現はれた。
「私は、お前が善良な、聖い生涯を送るのを助ける爲めに神より來れるものである。善良なれ、ジヤンネツトよ、さらば神はお前を助けるであらう。」さう、その聲は言つた。
斷食が幻影を見る助けになるのは、知れ切つたことである。ジヤンヌは斷食を爲慣れてゐた。その朝彼女は食事をしなかつたのであらうか、若し、さうとすれば、何時食べたなりであらうか。それは分らない。
後日またも、その聲は語つた、そして、かう繰り返した。「ジヤンネツトよ、善良なれ。」
少女は、その聲が何所からくるのか分らなかつた。が、三度目に夫れを聞いた時、天使の聲であることを知つた。そして、その天使が聖ミカエルであることさへも認めた。
彼をば能く知つてゐたので、間違へる筈はなかつたのである。夫れは、バアルの公領の守本尊となつてゐる天使であつた。兜の上に冠を頂き、鎖子鎧を着け、楯を携へ、美しい騎士の風采をして槍で惡魔を刺し貫いてゐる、その姿を彼女は折々、敎會や禮拜堂の柱の上に見た。時とすると彼は靈魂をはかる秤を手にして現はれてゐることもあつた、夫れは天の奉行、樂園の門衞であつたからであるが、同時に又彼は天使軍の指揮官でもあり、審判を司る天使でもあつた。彼は山地を愛したと云ふのは、ロルレーヌの、彼に捧げた禮拜堂が、トウルの町の北にあたるソンバアル山上にあつたからである。ずつと大昔のこと、彼はアヴランシエの僧正のもとへ姿を現はして、トンブ山の、賊に隱された牝牛が見付けられるやうな場所へ、敎會を建てるやうにと命じた。で、その建物の位置は、牝牛の踏む地域がすつかり見渡されるやうにしなくてはならなかつた。モン・サン・ミシエル・オウ・ヘリル・ド・ラ・メイの僧院は、この命に從つて建立されたのである。
恰度少女が、かうした幻影を見てゐた頃、モン・サン・ミシエルを防禦してゐた人々は、海陸から攻め寄せてゐたイギリス軍を打ち敗つた。みんな夫は大天使卽ちミカエルの有力な執成しによるのであると思つた。特に熱誠を捧げて崇拜する人々を、何うして彼が愛護しないと云ふことがあらう。聖ドニイが、自分の僧院をイギリス軍に奪はれるに委せてからと云ふもの、念入りに自分の僧院を護つた聖ミカエルが、此の國の守本尊の天使となるのは確かなことであつた。千四百十九年にドオーフアン・シャルルは、自分の紋を描かせた、それは武裝した聖ミカエルが拔身を手にして、蛇を切らんとしてゐるところであつた。けれど、ドムルミイの少女は、聖ミカエルによつて行はれた奇蹟に就ては殆んど知らなかつた。彼女は、その武器や、慇懃なことや、その唇から落ちる尊い言葉などで、夫れを知つたのである。
或る日彼は、かう彼女に言つた。「聖カトリーヌと聖マルガレツトとがお前のところへやつてくる。その忠告に從つて行ふが宣い、お前を指導し、お前の爲すべきことは何によらず助言するやうにと、神が二聖女を指定されたのである。で、お前はその言葉を信ずるが宣い。」 それ等のことは、その通りに實現された。ジヤンヌは、二聖女を愛してゐたので、この言葉は深く彼女を喜ばせた。聖マルガレツトに對する國内の尊敬は大したものであつた。彼女はフランスにとつては一大恩人であつたのである。彼女は婦人の勞働を助け、野に働いてゐる百姓を保護した。彼女は、亞麻を紡ぐもの、乳母を周旋するもの、皮紙を調製するもの、羊毛を晒すもの、などの守本尊であつた。遺物箱にをさめた、その遺物を騾馬に乘せて、坊さんたちは、町々村々を見せて歩いた。遺物に觸らせてもらつたお禮の、夥しい施物は雨のやうに彼等の上に降つた。ジヤンヌは、實物大に描かれた聖マルガレツトを幾度となく、敎會で見た。手には聖水の撒布器を持ち、足は龍の頭の上にあつた。彼女はまた、マルガレツトの歷史にも親しんでゐた、それは其頃、大體次ぎのように物語られてゐたのである。
尊きマルガレツトは、アントアクの生れで、父は牧師であつたが、里子にやられて、密かに洗禮を受けた。十五歳の頃里親の家畜の見張りをしてゐる所を、太守のオリブリヤスが見かけて、その美しさに驚かされた、そして深い思ひをよせた。それで、彼は自分の家來に言つた、「行つて、あの娘を連れて來い、若し自由民ならば、俺れは彼女と結婚する。でなくて、奴隷ならば、俺れの召し使ひにする。」
彼女が連れて來られると太守は、國や名前や、宗敎などを訊ねた。自分はマルガレツトと云つて、基督敎徒であると彼女は答へた。
すると、オリブリヤスは言つた、「お前のやうな立派な美しい娘が、何うしてヂイーサスを崇拜するやうになつたのか？」
ヂイーサス・クリストは永遠に生きてゐる、と答へたので、太守は怒って、彼女を獄舎に投じた。
次ぎの日、太守は彼女を自分の前へ呼び出して、言つた、
「不仕合せな娘よ、自分の美しさに憐みをかけてやるが宣い。そしてお前自身の爲めに吾が神々を崇めるが宣い。飽くまでも、その無分別を通ほさうとするならば、私はお前を八つ裂きにするぞよ。」
と、マルガレツトは答へた、「ヂイーサスは私の爲めにお仕置になられました、 ですから私は、彼の爲めに喜んで死にます。」
それではと言ふので、太守は彼女を木馬に吊り下げて、鞭で打たせ、金熊手でその肉を掻き破らせた。血潮は淸らかな泉の水のやうに、處女の體からながれた。
傍にゐた人々は、みんな泣いた。太守は、血潮を見ないやうに、上衣で面を掩ふた。それから彼は彼女を解いて獄舎へ連れ歸へるやうにと命じた。
其所で、彼女は聖靈によつて試みられた。彼女は、自らの戰はねばならぬ敵を示顯させ給へ、と主に祈つた。すると忽ち、巨大な龍がその前に現はれ、一呑みにせんばかりの勢ひで彼女の方へ突進した。が、彼女が十字を切ると、その姿は消えた。次ぎには、彼女を誘惑する爲めに惡魔は男の姿をして現はれた。彼は優しげに、彼女の傍へ近づき、其手をとつて言つた。「マルガレツト、もう澤山ですよ。」 彼女は、髮を掴んで彼を大地へ投げつけ、右の足でその頭を壓へて、叫んだ、「慄くが宣い、高慢な惡魔、其方は一婦人の足下にあるのぢや。」
その翌日、群集の面前に於て、彼女は審判官の前へ引き出され、偶像の犠牲となるやうにと命ぜられた。それを拒絶すると審判官は彼女を燃えたつてゐる松の薪の中へ投じた。彼女は少しも苦痛を感じるやうな樣子はなかつた。この奇蹟に驚いて民衆が改宗するやうなことがあるかも知れないと思つたのでオリブリヤスは、その頭を刎ねるやうにと命じた。彼女は、死刑執行人に向つて言つた、「兄弟よ、お前の斧をとつて、私を打て。」 彼女の魂は一羽の鳩となつて、天に飛び去つた。
この物語は、種々な歌の中や、奇蹟劇の中で語られてゐた。笑ひ草や、嘲罵の種となつた太守の名前は、廣く知れ渡つてゐて、一般に駄法螺を吹く人間や、空威張りをする連中の綽名にされたほどであつた。邪惡な人間の眞似をする道化役者も、オリブリヤスと呼ばれてゐた。
聖カトリーヌは、若い娘たちの、別けても下女や、絲を紡ぐ女たちの保護者であつた。辨士や哲學者等もまた、五十人の博士を驚かし、東方の聖人に打ち勝つた彼女を、自分たちの守本尊とした。
ムーズ川添ひの谷合ひでは、詩の形にした次ぎのやうな祈禱が捧げられてゐた。
あはれ、いとも尊きカトリーヌ、
淸く、氣高き處女なる少女よ。
この氣高き女は、ジヤンヌには初めての人ではなかつた。その敎會は、河向うのマクセーにあるし、自分の姉は同じ名のカトリーヌであつた。
ジヤンヌは、著名な僧侶たちに知られてゐたやうな風に聖カトリーヌのことを知つてゐるのではなかつた。たとへば、當時ブルガンデイ公の祕書官ジヤン・ミエーロによつて、その傳記が書かれたものであるが、彼女には何の交渉もなかつた。ジヤン・ミエーロの言ふ所によると、このアレキサンドリアの處女は、ホーマアの精妙な論證や、アリストートルの三段論法や、著名な醫者エスカラピアス及びガーレンの頗ぶる博學な推論などを駁擊し、七つの高等學藝を修め、辨證法の法則に從つて論をやつたと云ふことである。ジヤツク・ダルクの娘は、之れ等のことをば一向に知らなかつた。彼女が聖カトリーヌのことを知つたのは、その頃一般に行はれてゐた鄙俗な言葉で書いた物語によつてゞある。
コスタス王とサビネラ王妃との仲に生れたカトリーヌは長ずるに連れて種々な藝術に熟達し、絹物の刺繍をするのが巧妙であつた。肉體は美しさに輝いてゐたけれど、魂は偶像崇拜の闇黑をもつて曇らされてゐた。國内の貴族連は頻りに結婚を申し込んだ。彼女は夫れ等を嘲つて、かう言つてゐた、「私に、賢い、美しい高貴な良人を探して下さい。」 ところが、或る時睡眠中に一つの幻影を見た。まだ子供のヂイーサスを抱きながら、處女マリヤが彼女のところへ現はれて、そして言つた、「カトリーヌよ、お前、この子を良人にしてくれるの？ それから、お前、私の可愛い赤ちやん、お前はこの娘を花娶さんにしてくれるの？。」
子供のヂイーサスは答へた、「母ちやん、僕は厭やです、彼方へ行くやうに言つてやつて頂戴、あの女は偶像の崇拜者ですもの。でも、洗禮を受けりや、婚姻の指輪をはめてやります。」
天國の王と結婚したさにカトリーヌは、アルメニアのネグラ山上に住んでゐる隱者アナニアの許へ行つて、洗禮を受けた。それから數日たつて、自分の部屋で祈禱をしてゐる時彼女は、大勢の天使や聖徒たちに取り圍まれてゐるヂイーサス・クリストを見た。クリストは彼女の傍へ近づいて、その指に自分の指輪を置いた。そこで初めて彼女は自分の婚禮は、精神的の婚禮であることを知つた。
その頃ローマの皇帝は、マクセンシアスであつた。彼はアレキサンドリアの人民に命じて偶像に多くの犠牲を捧げさせた。カトリーヌは、禮拜堂で祈禱をしてゐたが、僧の唄ふ聲と、犠牲の吼える聲とを聞いたので、直ぐさま廣場へ出て行つた。そして寺の門のところで、マクセンシアスを見ると、彼に向つて言つた。「何うして此樣な馬鹿なことをなさるんです、人民どもに命じて偶像に香をあげさせるなんて？ あなたは、自分の職工の手で建てられた此の寺を崇拜しておいでになさる。あなたは、こんな裝飾を崇拜しておいでなさる、みんな風が吹けば飛んで了ふ塵埃みたいなものぢやありませんか、夫れよりも、空や、海や、夫れからその中にあるものを崇拜なさる方が幾ら增しだか知れません。天の裝飾——太陽や、月や、星や、この世の初めから西に沈み、東にかへつて倦むことのない、あれ等の遊星を崇拜なさる方が幾ら增しだか知れません。總て之れ等のものを御覽になつたらば、その創造者は誰れであるか、問ひ質してお知りなさるが宣い。それは、私たちの神、萬軍の主に在す上帝です、有らゆる神の神です。」
「女よ、」と、皇帝は答へた、「犠牲をあげて了ふまで邪魔をするな、返辭は後程してやるぞ。」
で、彼はカトリーヌを宮中に引き立てさせ、嚴重な見張りを置いた。それと云ふのも、彼女の大なる慧智と、不思議な美しさとに驚嘆したからである。彼は埃及人と高等の學術に通曉せる五十人の博士を召し出した。そして、みんな集まつたところで、彼等に向つて言つた、「明敏な心智をもつてゐる一人の少女がゐて、吾が神は惡魔に過ぎないと言ひ張つてゐる。予は、その女を強つても犠牲にするか、でなければ、違背の罪を負わせたらばと思つた、が、それよりも、おん身等の推理の力によつて、窮地に陷らすが宜からうと分別した。若し、おん身等がその女に打ち勝つならば、負ひきれぬほどの榮譽を與へるぞ。」
賢者たちは答へた、「その女をお召し下さるやうに。己が無謀を敎えてやりませう、慧智ある人に初めて會つたと自白させてやりませう。」
賢者たちと議論をさせられると云ふことを知ると、カトリーヌは ヂイーサス・クリストの敎説を辨明しきれないやうなことがありはしないかと心配した。が、一人の天使が現はれて、彼女に言つた、「私は大天使ミカエルである、此の爭ひにはきつとお前に勝ちを得させ、その爲めに努力する者の希望であり、又王冠であるところのヂイーサス・クリストに恥ぢざる者としてやる、この事を告げる爲めに、私は神から遣はされたのである。」
處女は、博士たちと論を鬪はした。神が人間になつたり、悲哀を知つたりすると云ふやうなことは有り得べからざることである、と彼等は主張した。カトリーヌは、クリストの出生や、その熱情に就て異邦人（猶太人からみて）自らが告げてゐること、夫れからプラトーや神巫が豫言してゐること、などを明示した。
博士たちは、かくまでに明確な議論に對しては、何う反駁しようもなかつた。で、その中の主立つたものが、皇帝に向つて言つた、「御存知の通り、今日迄我々と論爭して、卽座に閉口しない者は一人もありませんでした。ところが、此の少女は、——神靈が乘り移つてゐるのでせう——實に驚嘆するに耐へるものであります。我々は、クリストに對して無智も同然、何を言ふ勇氣もありません。で、憚りなく申しあげますが、若し、あなたに、之れまで我々の崇拜して居りました神の爲めに發表すべき之れ以上有力な議論がおありでないならば、我々一同基督敎を奉ずるより他致し方はありません。」
これを聞くと暴君は、狂氣の如く腹を立てゝ、五十人の博士を町の眞中で燒いて了つた。けれど、彼らが眞理を認めた表號として、火はその着物き ものにも、髮にも觸れなかつた。
後になつて、マクセンシアスは、カトリーヌに言つた、「おゝ、高貴の生れであり、紫衣たるに相應しき處女よ、お前は若いのぢや、吾が神の犠牲になるが宣い。お前が承知すれば、皇后に次ぐ位を與へるぞ、そして、町の眞中に置かれたお前の畫像は、女神の畫像のやうに、萬民に崇拜されるであらう。」
併し、カトリーヌは答へた、「其樣なことは言はないで下さい。其樣なことは思ふだけでも罪惡です。ヂイーサス・クリストは、私をご自分の花娶にお選み下さいました。彼は私の戀人です。私の榮譽です、私の有らゆる歡喜です。」
甘い言葉で圓めるのが駄目だと分ると暴君は、怖がらせて歸順させようと思つた。で、殺すぞと脅した。
カトリーヌの勇氣は小搖ぎもしなかつた。「ヂイーサス・クリストは、」と、彼女は言つた、「私の爲めにその父に御自身を捧げられました、心よく犠牲となつて、彼の榮光に身を捧げるのは、私の大きな喜びです。」
卽座にマクセンシアスは、彼女を鞭打たせて、暗い地下牢へ投じた、そして食物を與へずに其儘にして置いた。所で、マクセンシアスは火急な用事が出來て、遠い國へと出發した。
皇后は言ふまでもなく異敎徒であつたが、或る幻影を見た。聖カトリーヌが不思議な光りに包まれて現はれた。幾人もの白衣の天使が彼女と一緒にゐたが、その顏は、輝きが發してゐるので、見ることができなかつた。カトリーヌは皇后を傍へ近寄せ、一人の天使の手から冠を取つて、かう言ひながら夫れを彼女の頭にのせた、「これこそは、吾が神、吾が主、ヂイーサス・クリストの御名に於て、天から其方に賜る冠である。」
皇后は、この夢に惱まされた。で、まだ宵のうちに軍の總司令官をやつてゐた、騎士のポリフイリアスを連れて、カトリーヌの閉ぢ込められてゐた牢獄へと赴いた。その小房の内へは一羽の鳩が食物を運び、天使たちが彼女の傷の繃帶をしてゐた。皇后とポルフイリアスとは、地下牢が輝かしい光りに浸つてゐるのを見て、非常な恐怖に襲はれた。二人は地上に平伏した。すると立ちどころに地下牢は不思議な甘い香氣に滿たされた。二人は、それに救はれて、人心地がついた。
「お立ちなさい、」と、カトリーヌは言つた、「御心配なさいますな、ヂイーサス・クリストが、あなた方をお召しです。」
二人は立ちあがつた。カトリーヌは多くの天使に圍まれて、其處にあつた。彼女は、その中の一人の手から、非常に美しい、黄金のやうに輝いてゐる冠を取つて、夫れを皇后の頭にのせた。この冠は殉敎の印號であつた。蓋し、皇后と騎士との名前は、既に永久應報の帳面に書き込まれてゐたのである。
旅から歸ってくると直ぐにマクセンシアスは、カトリーヌを自分の前へ引き出させて、言つた、「二つのうちを選べ、吾が神に身を獻じて生きるか、乃至は、苦しみ死に死ぬるか。」
カトリーヌは答へた、「ヂイーサス・クリストに肉も血も捧げるのが私の願ひです。彼は私の戀人です、私の牧羊者です、私の良人です。」
マクセンシアスは、鋭い大釘をつけた四つの車輪を作らせ、それで以て彼女を嬲り殺しにしようとした。が、車輪は粉々となつて飛び、却て多くの異敎徒を殺害した。之れ等の有樣を、塔の上から眺めてゐた皇后は、下りてきて皇帝の慘虐を責めた。怒り狂うた皇帝は、彼女に犠牲になれ、と言つた。皇后が夫れを拒絶すると、その胸を裂き、頭を刎ねるやうにと命じた。彼女が怖しい刑手のところへ引き立てられてゆくのを見て、カトリーヌは、かう言つて、彼女を勵ました、「お出でなさい、お喜びなさい、神の愛する皇后よ、今日こそ、あなたは儚なき王國を、永遠の帝國と交換なさるのです、不常の良人を、不滅の戀人と交換なさるのです。」
で、皇后は城壁の外へ連れて行かれて其所で殺された。ポルフイリアスは、その亡骸を持ち去つて、ヂイーサス・クリストの僕のそれの如くに 忝しく葬つた。その爲めに、マクセンシアスは彼をも殺して、亡骸は犬に喰はせた。それから、カトリーヌを自分の前へ召し出して、言つた。「お前は魔術で以て皇后を殺したからには、悔い改めさへすれば、宮中第一の者になれるのだ。さあ、今日こそは、吾が神に身を獻ずるが宣い、否と言はゞ頭を刎ねられるのぢや。」
彼女は答へた、「思いのまゝにして下さい、したら私はクリストの周圍にゐる少女たちの群のうちへ這入れるのですから。」
皇帝は斬首の刑に處すべき宣告を彼女に與へた。かくて、アレキサンドリアの市外なる刑場へと引き立てられて行く時に、彼女は天を仰いで、言つた。「汝を信ずる者の希望であり、救ひであるヂイーサスよ、處女の榮光であり、美であるヂイーサスよ。私の殉敎を思ひ出して、死に於てゞであれ、或は危難に於てゞであれ、何であれ、私を念ずる者があつたならば、その祈りに耳を傾けて、答へさせ給へ。」
すると、一つの聲が天國から答へた、「來れ、吾が最愛の花娶よ、天國の門はお前の爲めに開かれてゐる。お前の執成しを經て吾れを念ずる者をば、必らず天上より助けるであらう。」 眞二つに斬られた處女の首からは血が出ないで乳が流れた。
かうして聖カトリーヌは、此の世から幸福なる天國へと這入つて行つたのである。夫れは十一月の二十五日、金曜日であつた。
大天使、聖ミカエルは、その約束を忘れなかつた。聖カトリーヌと、聖マルガレツトとは、彼の言つた通りやつて來た。初めて彼女等が來た時、若い百姓 娘 ——ジヤンヌ——は、神のお氣に召す限り何時までゞも、淸浄無垢でゐると誓つた。このやうな約束に何等かの意味があつたとすれば、彼女は其の時幾歳であつたにしろ、全くの子供ではなかつたのだ。恐らく、天使と二人の聖女とは、彼女が一人前の女にならうとする間際に、卽ち「女」になつて了ふか何うか、と云ふ所へやつて來たものと思はれる。
二人の聖女は、直きに彼女と親しい關係を結んだ。毎日村を訪れたが、一日のうちに三四囘來ることもあつた。二人が、女王のやうな風采をして、頭には冠を頂き、寶玉を身につけて、神々しく天國から下りてくるのが、光りの中に見えるとジヤンヌは、十字を切つて、身を低く屈めた。二人は挨拶を返へした。が、その仕方は夫れ夫れ異つてゐた、眩しく輝いてゐて、その顏を見ることは出來ないので、夫れによつてジヤンヌは、二人を區別した。二人は、この俗界の友だちのすることを愛想よく許した。で、ジヤンヌは、二人の足に手を觸れたり、その着物の緣に接吻したり、二人から發散してゐる甘い香氣を夢中になつて吸つたりした。二人は、懇ろに話しかけた。（さう彼女には思はれたのである。）二人は、この卑しい少女をば、神の娘と呼んだ。善い生活をするやうに、敎會へ行くやうにと彼女に敎えた。何にも特に新しいことを始終言つたと云ふ譯けではないが、二人が絶えずやつて來ては言つてくれる事は、ジヤンヌに非常な喜びを與へた。二人が去ると彼女は、その唇を熱心に、二人の踏んでゐた地上へ押しつけた。
彼女は、天上の婦人をば、敎會の境内の傍の、自分の小さな庭で迎へることも度々あつた。泉の近くでも、ちよいちよい會つた。二人は、天上の友だちを連れてやつて來る事さへ珍らしくなかつた。「多分、」と、イザベルの娘——ジヤンヌ——は
言つた、「天使は始終信徒のところへやつて來るんだけれど、みんなには見えないんだわ、でも、私には見えるの。」
彼女が甘い言葉を極くはつきりと聞いたのは、森の中の、木の葉の輕い戰ぎに取り卷かれながら別けても朝の禮拜か、晚の祈禱の鐘の鳴つてゐる時であつた。それ故に彼女は鐘の音が好きであつた、その中には例の聲が混つてゐたのである。夕べの九時に寺男が晚の祈禱の鐘を鳴らすのを忘れた時、彼女は、その怠慢を咎め、仕事を疎かにしたことを叱つた。そして、これから若し鐘を鳴らすのを忘れなかつたら、お菓子をやると約束した。
二人の聖女が訪ねて來るやうになつてからは、聖ミカエルは餘り來なくなつた、が、彼女を見捨てはしなかつた。フランスの王國に對する愛に就いて、彼女がその胸に抱いてゐた、その愛に就いて、彼女に語る時が來たのであつた。
尊き訪問者たち——その聲は、彼女がより聖く、より雄々しくなるに連れて、だんだん強く、だんだん熱烈になつた——は、彼女に、その使命を告げた、「神の娘よ、」と、彼等は言つた、「お前は、自分の村を去つて、フランスへ 行かなくてはなら
ぬ。」
例の「聲」の仲立によつて、ジヤンヌが抱いた、此貴き軍事上の使命に就ての考へは、何等外部の意志の干渉なしに、自發的にその心に生じたものであるか、或は、誰か彼女を動かしてゐた者に暗示されたものであるか、吾々を指導すべき些少の手掛りもない以上、夫れは到底解決することの出來ない問題である。が、ドムルミイに於けるジヤンヌは、「フランスは一人の婦人によつて亡び一人の少女によつて救はるべし、」と云ふ豫言を知つてゐた。それは非常に深く印象してゐた、で、後になつて彼女の語る態度を見ると、彼女は、それを信じてゐる許りでなく、その豫言によつて指定された少女は、自分であると思ひ込んでゐたことが分る。この豫言を敎えたものは誰れであるか？ 誰れか百姓か？ 百姓は夫れを知らなかつたと云ふこと、及び僧侶の中には夫れが流布してゐたと云ふことは、信ずべき理由がある。更らにジヤンヌが、この豫言の特殊な形を知つてゐたと云ふことに注目するのは大切なことである。夫れに、救世の處女がロルレーヌの國境より來るべし、と明記してある所を見れば、豫言は、彼女に聞かせる爲めに、明らかに改訂されたものであるらしい。この局部的な附加へは、牧牛者の仕事ではない、寧ろ、人々を指導し、行爲を鼓舞する傾向のある人の仕事であることを思はせるものである。從つて、夫れが或る僧侶の業であることは最早や疑ふ餘地はない。何う云ふ心算で、さうしたのであるかも容易に憶斷せられるのである。されば、この若い幻影を見る人を動かし、捕へた考へは、 自 らにして識られる。
ムーズ河畔の、貧しい人々の間に、國民の運命に就いて憂慮してゐる或る僧侶があつて、その人が、ジヤンヌの幻影をば、國家の安寧と、平和の落着の方へ導いたのであつた。彼は熱誠の餘り、國家の救濟に關する豫言を訂正し、自分の計畫を完成したさに、夫れに附加へをしたのである。思ふに此樣な人は、國難の爲めに慘めにくるしんでゐたロルレーヌか、シヤンパーニユあたりの僧侶の中にゐたに違ちがひない。商人や職工は、重い租税や軍資金に壓し潰され、貨幣の變改の爲めに破滅した。百姓は、住宅も納屋も、水車小屋も壞されて了ひ、野は荒されて、最早信心ごとの爲めに出資する力はなかつた。僧會員や僧侶たちは、お上の手當もなくなるし、信徒の寄附もなくなつたので食を乞うて戸毎を廻り歩いた。で、僧院には、二三の老僧と二三の子供とが殘つてゐる許りであつた。防備を施した修道院は、敵味方の首領や兵卒どもの目を惹きつけた。彼等は城壁内を襲うて、掠奪したり、火を放つたりした。たまたま夫れ等の聖屋の一つが無事に立つてゐると、宿なしの村人たちは、夫れを自分の隱家にして了つた、そこで婦人たちは、遮二無二食堂や寢室などに侵入した。ジヤンヌの豫言者、指導者は恐らく、災害や、敎會の醜聞に惱まされてゐた、この名もない人々の群れの中にあつたものであらう。
併し、その人が、ドムルミイの牧師ギヨーム・フロンテエーだなどゝは思はれない。ジヤン・ミネエの後繼者であるこの人は、その傳へられてゐる會話から判斷して差し支へないとすれば、自分の信徒に負けず劣らずの單純な男であつた。ジヤンヌは多くの牧師や僧侶を知つていゐた。常々セルメーズの牧師である自分の叔父を訪ねたり、シユミノンの修道院にゐる若僧の從兄弟を訪ねたりした。その異常な信心や、大槪の信徒に見えないものを見る能力などを忽ち認めた多くの牧師にも接觸してゐた。彼等は彼女と會話を交へたに違ひないが、夫れが傳へられてゐたらば、確に、彼女の驚嘆すべき事業を鼓舞した源の一つは、發見されるに相違ない。名前の分りやうはないが、彼等の中の或る一人が國王と國家の爲めに天使のやうな救濟者を振ひ立たせたのである。
兎に角、ジヤンヌは幻影を見て暮らしてゐた。自分を動してゐる力のことなど何にも知りもしなければ、例の「聲」の中に、人間の聲の反響も、自分の心の示すところをも認めることは出來ないで、フランスへ乘り込めと云ふ聖者たちの言葉に、おづおづかう答へてゐた、「私は哀れな少女です、馬の乘り方も知らなければ、戰爭の仕方も知らないんですもの。」
かうした啓示があるやうになると直ぐに、彼女は遊戯をしたり、遠足をしたりすることを止した。それからと云ふものは、滅多に「仙女の木」の周圍で踊るやうなことはなくなつて、唯子供たちと遊ぶだけであつた。野に出て働くことも好まなくなつたが、殊に家畜の番をするのを嫌やがるやうになつたやうである。ほんの子供の時分から信心深いところは見えてゐたが、今は一身をあげて、極端な信心に走つてゐた。屢〻懺悔をし、熱病にでもかゝつたやうに恍惚としてゐた。一日もかゝさず自分の敎區の敎會で、供養を聞いてゐた。その姿は何時も敎會に見られた、地上に平伏してゐることもあれば、手を打ち鳴らしてゐることもあつたが、顏は上帝か、聖母の像の方へ向いてゐた。彼女は何時も、ベルモンの禮拜堂へ行くのに、土曜日などを待つてはゐなかつた。何うかすると、兩親の方では、家畜の世話をしてゐるのだと思つてゐる時、彼女は、奇蹟を表す處女の足もとに 跪いてゐた。村の牧師のギヨーム・フロンテエーは、自分の信徒の無邪氣なのを褒めるより他に何うする力もなかつた。或る日彼は嘆息して、偶とかう言つた、「ジヤンネツトに金があつたら、供養をする爲めに俺れに呉れるだらうがなア。」
善人のジヤツク・ダルクの方では、此の邊りの普通一般の生活とは調子の合はないジヤンヌの樣子を見て、ちよいちよい愚痴をこぼしたに違ひない。誰れでも、妙ちきりんな變物だと思つてゐた。友人連は、餘り信心が過ぎると言ひ、自分たちと一緒に踊らないのを咎めてゐた。他の人の中にも露骨に其事を責めるものもあつた。村の若者どもは、彼女の信心深いのを嘲弄した。要するに彼女の宗敎的な恍惚の發作は物笑ひになつて居り、彼女は狂人だと思はれてゐたのである。かうして煩く揶揄はれるのには困らされたが、でも、彼女は、自分の目で天國に住んでゐる人たちを見てゐたのだ。で、その人たちが、自分のところを去ると、泣いて一緒に連れて行つて呉れるやうにと願つた。
「神の娘よ、お前は村を去つて、フランスへ行かなくてはならぬ。」
聖カトリーヌと聖マルガレツトとはまた彼女に言つた、「天帝から送られた旗をとれ、大膽に夫れをとれ、さらば神はお前を助けるであらう。」美しい冠を頂いた二人の、かうした言葉を聞いてゐると、ジヤンヌは、馬上の長い遠征と、戰士の頭の上を天使の翺翔する戰鬪とに對する慾念に身を燒き盡された。けれどフランスへ行くのには何うしたら宜いか？ 武人の仲間に入るのには、何うしたら宜いか？ 無智で、如何にも生一本であるし、例の「聲」は唯だ自分自身の心にだけ啓示されたのをきいたのであるから、彼女の心は悲しく動搖する許りであつた。「私は馬に乘ることも、戰をすることも知らない、哀れな少女なのです。」
ジヤンヌの生れた村ドムレミイは、かのゴール人の使徒聖ルミイの名をとつて付けたもので、その敎會も、この名を負うてゐたが、彼はトロイ王ブリアムの子孫であると言はれてゐた。その傳説は、敎會の人々の語るところに從つて、一般に次ぎのやうな風に知られてゐた。
その昔、ラオンの田舎に住んでゐた隱者モンターンが一群の天使と、聖徒の集りとを見た。と、力のある軟かな聲で、かう言つてゐるのが聞えた。「上帝は地上を見下ろされてゐる、桎梏にかゝつてゐる者たちの呻きが聞かれるやうに。斬殺されんとする子供等を解き放つことが出來るやうに。人々が、シオンに於ける主の御名と、エルサレムに於けるその讃美とを公言するやうに。何時かは民等も集り、王等も集うて主に仕へるであらう。そして、シリニアは、民等を救わんが爲めに、一人の男の子を産むであらう。」
シリニアは、もう年をとつてゐて、良人は盲目であつた。けれど彼女は懐胎して一人の男兒をまうけた。そして、その子を育てゝゐた乳で良人の目を拭くと、その目が開いた。
天使たちによつて、その出生を豫言されてゐた、この子はルミイと呼ばれた。橈と云ふ意味なのである。蓋し、その敎へによつて、刻みのいゝ橈を以てするやうに、信徒を、別けてもレームズの信徒を、人生の荒浪を切つて導き、その德と、祈禱とによつて、永遠に救はれたる天國へ連れて行くと云ふことであつた。
人に知られず、尊き基督敎徒の戒律を修めてシリニアの息子は、その敬虔な少年時代をラオンで過ごした。二十二歳になるかならぬ頃、レームズの僧正が死んで、その席があいた。人々はみんな、家畜の群れの牧人であるルミイを推薦したが、自分のやうな若輩は、到底その任に耐へないからと云つて、彼は夫れを斷つた。所が、俄にその額には天光が落ち、髮の上をば聖水が流れて、不思議な香氣を放つた。其爲めに、今は猶豫なくレームズの地方の僧正たちは、一致して、彼を自分たちの僧正と仰いだ。その席に就てからの彼は、惜しげもなく施捨をし、深く身を謹み、熱誠を捧げて祈り、驚嘆すべき敎えを示し、言ふことは、悉く尊かつた。彼は總ての人々から崇拜された。
その當時、フランス王クロヴイスは、その部下と共に異敎徒であつたが、クリストの御名を念じてドイツに打ち勝つことが出來た。其爲めに、王妃クロチイルドの切なる願に從つて、尊きレームズの僧正の手で洗禮を受ける事に決めた。この敬虔な願ひを告げられると聖ルミイは、惡魔とその華奢と、その所業とを捨てゝ、神と、その子なるヂイーサス・クリストとを信じなくてはならぬ、と王及びその部下に敎えた。そして、嚴かな復活祭の日が近づいてゐたので、信徒の習慣に從つて斷食をするやうにと命じた。クリスト受難の日——その晚にクロヴイスは洗禮を受けることになつてゐた——朝早くに僧正は、王と王妃とのところへ行き、二人を使徒の王なるペテロに捧げた禮拜堂へ連れて行つた。忽ち堂内は、日光も暗くなる許りの輝かしい光りに滿たされた、そして、その光りの中から、かう云ふ聲がして來た、「安らかなれ、私であるぞ、恐れることなく、吾が愛に生きるが宣い。」 かうした言葉が終ると、光りは薄れて行つたが、堂内には、何とも言ひやうのない、甘い香氣が殘つてゐた。その時顏を、モウゼの顏のやうに輝かし、心は神々しい光りに照らされながら、尊い僧正は豫言して、言つた、「クロヴイスとクロチイルドよ、あなた方の子孫等は國境を昔に盛り返すでせう。彼等は、ヂイーザス・クリストの敎會を起し、外敵に打ち勝つでありませう、破滅に導く罪深き道に踏み入ることもなく、國を傾け、主權を失ふ怖るべき惡德の係蹄にかゝることもなく、德を失はず、救濟の道より外れさへしないならば。」
兎角するうち、宮殿から洗禮所に到る間の路の準備は出來た。幕や高價な掛布などが掛け列ねられ、町の兩側の家々は、掛幕を以て掩はれた。敎會は飾り立てられ、洗禮所には、鳳仙花や、香氣の好い有らゆる種類の薬草が撒き散らされた。上帝の愛に浸つた人々は、早や樂園の歡喜を味ふ心地がした。行列は宮殿を出た。僧が、幾つもの十字架や旗と共に、讃美歌や雅歌を唄ひながら、先導した。その後から僧正は王の手をとつて進み、最後に王妃が、人民と共に續いた。途々王は、彼方には、言はれた通り、天國があるか何うか、と僧正に尋ねた。「否え、」と、ルミイは答へた、「ありません、ですが、天國に到る道の第一歩があります。」 洗禮所に到着した時、聖油を持つてゐた僧は群集に妨げられて、洗禮盤のところへ行くことが出來なかつた。それ故に洗禮盤には、神の定めた、祝福の爲めの聖油がなかつたのである。すると主僧は、目を天にあげて、涙ながらに黙禱した。忽ち、雪のやうに白い一羽の鳩が、嘴に聖油を入れた罎を啣へて天から下りてきた。尊き油は美妙な香氣を放つた、人々は、夫れまで覺えたことのない歡喜に醉うた。僧正が罎をとつて、聖油と共に洗禮の水を振りかけると、立ちどころに鳩の姿は消えた。
この靈德鮮かな奇蹟を目のあたり見て王は、吾れを忘れて打ち喜び、惡魔とその華奢と、その所業とを捨てた。彼は、直ぐさま洗禮をしてくれと言て、生の泉の上に身をかゞめた。
それ以來、代々のフランス國王は、鳩が天から持つて來た聖油を頭に注がれた。尊き罎はレームズのサント・ルミイの敎會に保存されてある。そして、王の洗禮を受ける日には、神の恵みによつて、その罎は何時も油に滿されるのである。
以上のやうなのが、僧侶たちのする物語であつた。疑ひもなくドムルミイの百姓たちは、謙遜な調子で、同樣な、若しくは之れ以上の物語をしてゐたことであらう。彼等は、常々聖ルミイの祈願を唄つてゐたものと信じて差し支へない。年々、十月の一日になると、守本尊の聖者の祭禮が廻つて來た、牧師は何時も、その頌辭を述べるのであつた。
この頃、レームズでは奇蹟劇が演じられたが、夫れには、ゴール人の使徒の奇蹟が殘りなく活寫された。
その奇蹟の中には、素朴な田舎人の心に強く響くものがあつた。まだ此の世にある時、聖ルミイは惡魔に捕へられた盲人を癒した。自分の魂の救濟の爲めに、財産をレームズの牧師會へ寄贈して死んだ男があつた。その死後十年たつてから、聖ルミイはこの男を復活させて、自分の贈物を明言させた。飮み物の何もない人たちに饗應されると彼は、その人たちの樽に靈妙な酒を滿した。王から水車場の贈物を受けたが、その主が、讓り渡すことを拒むと、ルミイは神の力によつて、夫れを覆へし、地球の中心へ投げ入れた。或る夜、みんな寢靜まつてから彼が唯一人禮拜堂にゐると、榮光赫耀たる使徒ペテロ及びパウロが樂園から降りて來て、彼と一緒に朝の祈禱を唄つた。
クロヴイス王の洗禮のこと、「主よ來れ、」の歌と共に、そ
の嘴に尊き聖油の罎を啣へて聖靈の降臨したこと、などをドムルミイの人々よりも能く知つてゐるものはあるまい。聖ルミイが、王に言つた言葉を彼等よりよく了解するものはあるまい。それは、疑ひもなくラテン語でゞはなく、その立派な國語で、大體次ぎのやうに言はれたのである。「さて、陛下よ、神を認めて、忠實に仕へられ、審判を正しくなさるやうに、さらば、あなたの國は榮えるでありませう。萬一正義公道を失ふならば、その時こそ國家は破滅の憂ひがありませう。」
彼女を指導してゐた僧から話されたものか、或は村人から聞いたものか、兎に角ジヤンヌは、聖ルミイのこうした物語を知つてゐた。
天使は、彼女に姿を見せて、言つた、「神の娘よ、ドオーフアンを案内してレームズへ行け、其處で彼が塗油式を受けられるやうに。」
少女には、その意味が分つた。彼女の目は覺めた、輝かしい光りが、ゆたゆたとその心の中を流れた。神が彼女を選んだのは、その力で、ドオーフアン・シヤルルにレームズで塗油式を受けさせる爲めなのである。昔、ルミイに送られた白鳩は、この處女の聲に應じて降つて來るのである。この國を愛し給ふ神は、その王に王たるの印號をつけられるのだ、夫れがなくては王の權力はなくなる。唯だ聖油を注ぐことのみが、その人を王にするのである。父は王冠を頂き、笏を手にして聖ドニイの墓の中に橫たはつてゐるのに、その子は、唯だ一個のドオーフアンに過ぎない。尊い油の、その額に注がれるまでは、父の跡を襲うことは出來ないのである。で、神は彼を案内して幾多の敵のなかをレームズへ行くやうにと、彼女を、裏若い、無智な百姓の娘を、選ばれたのだ。神の御心こそは實に測り難きものである！ 馬の乘り方も知らず、戰ひの術も心得ない、卑しい少女をば選んで、神は、この國に於ける、この世の自分の代理者を自分のところへ連れて來させようとなさるのである。
それからのジヤンヌは、自分の任務の重い事を知つてゐた。けれどまだ、夫れを成就すべき方法を辨へなかつた。
「お前はフランスへ乘り込まなくてはならぬ」と、聖カトリーヌと聖マルガレツトとは彼女に言つた。「神の娘よ、ドオーフアンを案内してレームズへ行け、其所で彼が塗油式を受けられるやうに」と、大天使ミカエルは言つた。
彼女は彼等の言ふ通りにしなくてはならぬ——が、何うして爲たらば宣いであらう？ 若し、その時手近に熱誠な助言者がなかつたら、父の家に偶然生じた全く私の、さして重要でない事件は唯だ彼女にその道を敎へるに留つたであらう。事件と云ふのはかうである。
ジヤンヌの父ジヤツク・ダルクは、ドムルミイでは名望家の一人で、村人から深く尊敬され、何かむづかしい事と云へば、直に持ち込まれるのであつた。千四百二十七年の三月末頃、村人がロベール・ド・ボオドリクールの前へ持ち出した訴訟に、代理人として出頭させられることになつた。夫れは、領主とドムルミイ及びグルウ兩村の人々がギイヨウ・ポアニヤンなる者に支拂ふべき賠償金事件なのである。この事件は、自ら今より四年前に歸らねばならぬ。その頃、ロベール・ド・サルブルツクが、保護の報酬として二百二十クラウンの金額を、グルウ及びドムルミイに強請したことがあつた。ギイヨウ・ポアニヤンは、その保證人ほしようにんになつてゐたが、金は期日が來ても支拂はれなかつた。で、ロベール・ド・サルブルツクは、百二十クラウンに値するポアニヤンの森や、乾草や、馬を押へて了つた。そこでポアニヤンは、それだけの金をグルウやドムルミイの人々に要求したのである。この爭ひの結果が何うなつたかは分らないが、唯だジヤンヌの父がロベール・ド・ボオドリクールに會ひ、彼と言葉を交したと云ふことを書き留めさへすれば、夫れで十分である。
家へ歸つて來ると彼は、一度ならず度々この會見のことを語り、貴人の起居振舞、物の言ひ振りなどに就て話したに違ひない。そしてジヤンヌは勿論、それ等のことを澤山に聞いたであらう。確にボオドリクールの名前に耳を竦だてゝゐたことゝ思はれる。その時又も、大天使がやつて來て、彼女の内に微睡してゐる朦朧とした、その考への目を覺した。「神の娘よ」と、彼は言つた、「ヴオクラールなるロベールの許へ行け、彼は
お前をドオーフアンのところへ連れて行く人々を與へるであらう。」
自分の希望にすつかり一致してゐる、大天使の、この命令に彼女は、忠實に從はうと決心した、が信心深いけれど母は味方になつてくれないことや、父が手強く反對するのは分り切つてゐた。で、彼女は兩親に打ち明けるのを控へてゐた。
デユラン・ラツソアは、自分を援助してくれるであらう、と彼女は思つた。彼は、彼女の從兄であつたけれども、年齢が十六歳も上であつたので、彼女は叔父さんと彼を呼んでゐた。
彼れは、妻や養母や、養父と一緒にビユレー・アン・ヴオールに住んでゐた、其所はムーズ河の左岸の、綠の谷の中にある、家數の三四軒しかない小さな村落で、ドムルミイからは五哩、ヴオクラールからは二哩半ない位ゐであつた。
ジヤンヌは彼を訪ねて、自分の計畫を語り、何うでもロベールに面會する必要があると云ふことを説明した。自分の言ふことが信じ易くなるやうに、夫れまで經驗した不思議な豫言を繰り返して彼に言つた。
「昔から知れてることぢやないの」と、彼女は言つた、「フランスは一婦人によつて滅亡し、一婦人によつて再興さるべし、つて云ふのは。」
この豫言は、デユラン・ラツソアに思案をさせたらしい。その點に就て豫言されてゐた二つの事實があつた、第一の惡い方は、トロワの町に起つたので、マダム・イザボオが百合の王國（フランス）と、マダム・カトリーヌとを英國王に與へたことである。第二の、善い方は、矢張り出來するに違ひないと、唯だ期待されてゐる許りなのである。若しデユラン・ラツソアの胸の内に幾かでもドオーフアンを愛する念があつたとすれば、此樣な希望を持つていたに相違ないのであるが、この點に關しては、歷史は何事をも語つてゐない。
この訪問の間に彼女は他の人たちにも會つた。彼女は若い貴族のヂヨフロイ・ド・フウグを訪ねた。この人はマクセー・シユウル・ヴエーズ（ビユレーの村はその一部分である）の敎區内に住んでゐた。彼女は自分の希望を打ち明けた。ヂヨフロイは、ジヤンヌの兩親の名前さへ知らない位ゐであつたが、大變無邪氣で、純で、信心深い娘のやうに思はれたので、その不思議な計畫に就て彼女を勵した。一週間許りして、彼女の目的は達せられた。デユラン・ラツソアは、彼女を連れてヴオクラールへ行くことを承諾した。
出發する前に彼女は、自分の願ひを聽いてくれるやうに、姙娠してゐた叔母に向つて、かう言つた、「若し、生れた子供が娘だつたら、私の死んだ姉さんの記念の爲めに、カトリーヌと云ふ名にして下さい。」
既に結婚してゐた彼女の姉のカトリーヌは、その頃死んだ許りであつた。
＜ジヤンヌの聲 了＞
［（三）へ続く]
底本： ジャンヌ・ダルク 1917年 早稻田大學出版部
譯者： 吉江 孤雁 （喬松）(1880.09.05 - 1940.03.26)
原著： Vie de Jeanne d'Arc 1908
著者： Anatole France (1844.04.16 - 1924.10.12)
（ 要 は原著の字体では、［ 襾かんむり＋女 ］）
（※）電子テキスト化に当たり、出来るかぎり、底本に従って、
旧漢字表記を再現するよう努めた。 by cygnus_odile
【 代替え文字 】
祈祷→ 底本では 祈禱 （示＋壽）
底本の活字では、示すへんは「ネ」ではなく、「示」。
僧 → 底本では［※ にんべん＋會］
清 → 底本では［※ サンズイ＋靑］
即 → ※［＃「皀＋卩」、第3水準1-14-81］
褐 → ※［示へん ＋ 竭のつくり］