坂本龍馬像 平成19年3月27日

坂本龍馬 さかもと・りょうま

天保6年11月15日(?)(1836年1月3日)〜慶応3年11月15日(1867年12月10日)

長崎県長崎市・風頭山でお会いしました。


土佐国高知藩の郷士。
嘉永6年(1853)から江戸の千葉道場で剣道を修める。
文久元年(1861)、武市瑞山ずいざんの土佐勤王党に参加したが、翌年脱藩。
江戸に出て、幕臣で蘭学者の勝海舟の門に入り、強い思想的影響を受けました。
のちに勝海舟が主宰する神戸海軍操練所の設立に参画。
西郷隆盛木戸孝允たかよし横井小楠らと親交を結び、慶応2年(1866)1月、薩長連合の盟約を成立させ、幕府の長州再征を失敗させました。
この間、鹿児島藩の援助を得て長崎に亀山社中を作って海運業を起しました。
慶応3年(1867)藩公認で海援隊(元・亀山社中)を指揮し、高知藩主・山内豊信とよしげを動かして大政奉還を実現しました。
同時に「船中八策」を構想し、新政実現に努力中、11月15日、京都の近江屋で暗殺されました。


坂本龍馬像



坂本龍馬像
(長崎市・風頭山)





(平成19年3月27日)

碑文
此の銅像は龍馬の銅像建つうで会の呼び掛けに賛同した長崎を始めとする全国の有志から寄せられた資金により建立されたものであり、未来を担う青少年達へのメッセージである

制作者 山崎和國
題字   宮地佐一郎
建立日 1989年5月21日

「竜馬がゆく」文学碑



司馬遼太郎「竜馬がゆく」の文学碑

(長崎市・風頭山)





(平成19年3月27日)
文学碑・碑文



司馬遼太郎「竜馬がゆく」の文学碑・碑文

(長崎市・風頭山)





(平成19年3月27日)

司馬遼太郎「竜馬がゆく」文学碑

司馬遼太郎氏は、戦後日本を代表する国民的作家である。
その優れた作品は、数限りない人々に夢と勇気を与えてきた。
そして、これからもそうあり続けることであろう。
われわれは、司馬遼太郎氏の長崎における足跡を確かめ、その業績を顕彰するとともに、長崎の街の振興に資することを目的として、代表作「竜馬がゆく」から一文を選び、ここに文学碑を建立するものである。

平成10年2月1日
亀山社中ば活かす会


亀山社中の跡碑



「亀山社中跡」の碑

(長崎市・風頭山公園の下)





(平成19年3月27日)
亀山社中跡



亀山社中跡
(長崎県長崎市伊良林2−7−24)





(平成19年3月27日)

龍馬のぶーつ像



龍馬のぶーつ像
(長崎市・亀山社中の斜向かい)





(平成19年3月27日)
龍馬のぶーつ像



龍馬のぶーつ像
(長崎県長崎市伊良林)





(平成19年3月27日)

龍馬のぶーつ像

日本で最初にぶーつをはいたといわれる男、坂本龍馬。
当時土佐では身分制度がきびしく下級武士である郷士の家に生まれた龍馬はぞうりしかはけなかった。
自由の地長崎に来て龍馬はぶーつをはいて大いに張り切ったという。
亀山社中創設130年記念事業に、龍馬のぶーつを大きな形としてあらわした事を喜び、多くの御奉志を頂いた方々に厚く御礼申し上げます。
諸兄妹も龍馬にあやかりぶーつをはいて舵をにぎり往時をしのぶようお試しください。

平成7年10月吉日
亀山社中ば活かす会

(案内板より)

坂本竜馬先生像 平成19年9月2日

京都市伏見区・寺田屋でお会いしました。

坂本竜馬先生像



坂本竜馬先生像
(京都市伏見区・寺田屋)





(平成19年9月2日)
寺田屋



寺田屋
(京都市伏見区南浜町)





(平成19年9月2日)

寺田屋騒動址

文久2年(1862)4月、尊皇攘夷派の先鋒であった薩摩藩士9名が殺傷されるという明治維新史上有名な寺田屋騒動が起こった所である。
当時、薩摩藩には藩主の父、島津久光を中心とする公武合体を奉ずる温和派と、勤王倒幕を主張する急進派との二派があったが、久光は急進派の動きを押えようとして、兵千余名を率い京都へ入洛せんとした。
これを知った有馬新七ら30余名の急進派同志は、文久2年(1862)4月23日、関白九条尚忠なおただ、所司代酒井忠義を殺害すべく、薩摩藩の船宿であった寺田屋伊助方に集まった。
これを知った久光は藩士奈良原ら8名を派遣し、新七らの計画を断念さすべく説得に努めたが失敗、遂に乱闘となり新七ら7名が斬られ、2人は重傷を負い、翌日切腹した。
後ろの広場にある殉難碑は明治27年(1894)の建立で、有栖川宮熾仁親王の筆になる篆額てんがくを掲げる。

京都市

(説明板より)

寺田屋騒動記念碑



寺田屋騒動記念碑
(京都市伏見区・寺田屋)





(平成19年9月2日)

碑文

大丈夫擧事不必身収其功使後人継起以成吾志則■元断■亦■所憾
焉何哉志在天下國家非為一身謀故也往時幕府失政内訌外侮衆心乖
離識者皆知起師問罪以復 主権之為急務然告之士大夫則日時機来
至告之■伯則日時機未至及告之公卿■紳亦日時機来至嗚呼坐待時
機■復一日執能挺身發難於是薩藩九烈士糾合同志奮欲擧兵有司諭
止不聴格闘■命于伏見逆旅寺田屋世■惜其徒■無功殊不知一■以
鼓動海内士気是其素志他日于五條于生野于天王山豪傑■起百折不
撓薩長諸藩亦出師勤 王成中興大業来不違其所豫期■者而有知應
■笑地下也九烈士者為誰曰有馬新七曰田中謙助曰橋口傳蔵曰柴山
愛次郎曰弟子丸龍助曰橋口壮介曰西田直五郎曰森山新五左衛門曰
山本四郎其■實文久■戌四月廿三日■■甲牛三十三回忌辰伏見人
追慕修祭建銅表于寺田屋遺址請文于余■■過宇治平等院弔源三位
故跡所謂扇芝者低徊不能■壽永中平氏■専横頼朝義仲等擧兵討伐
以■之然非三位首倡發難安能得遽奏偉勲此地距宇治咫尺而九烈士
事又相類焉故余揮筆大書表其功烈興扇芝竝傳美千載後人過此亦必
有低回不能去者矣
明治廿七年五月 正四位勲四等文学博士川田剛撰
            従五位長■書
参謀総長兼神宮祭主陸軍大将大勲位熾仁親王篆額

坂本竜馬先生の部屋



坂本龍馬先生の部屋
(寺田屋・梅ノ間)





(平成19年9月2日)

坂本龍馬先生は薩摩藩の紹介で寺田屋を京の宿として利用されました。
この梅ノ間はその当時、龍馬先生が愛用された部屋で、慶応2年(1866)1月23日幕吏の襲撃を受けた時もこの部屋に泊まっておられました。
この時は負傷しながらも脱出に成功し薩摩藩に保護されたと伝えられています。
また、梅ノ間に掛る龍馬先生の掛軸は、幕末の風雲急を告げ薩長連合に東奔西走する龍馬の身に忍びよる殺気を感じた女将お登勢が嫌がる龍馬先生に奨めて街の画家に描かせた龍馬先生遭難直前の生彩えきえきたる絵像です。
計らずもこれが絶後のものとなり京都円山公園の銅像のモデルとなりました。

(リーフレットより)

風呂 女主人・お登勢の部屋
寺田屋見学の案内
営業時間 午前10:00〜午後3:55(受付は午後3:30で終了)
料金 一般:400円
定休日 1/1〜1/3、また月曜日は不定休

坂本龍馬像 平成19年3月30日

鹿児島県鹿児島市・太陽橋の近くでお会いしました。

坂本竜馬新婚の旅・碑



『坂本竜馬新婚の旅』の碑
(鹿児島県鹿児島市天保山町・太陽橋そば)





(平成19年3月29日)

碑文

坂本竜馬は妻、おりょうと二人で 海路鹿児島を訪れ 霧島に遊び 小松帯刀屋敷に滞在した
慶応2年(1866)春のことである
日本人の新婚旅行という風俗のはしりといわれる

坂本竜馬と妻おりょう



坂本竜馬と妻おりょう
(説明板より)





(平成19年3月29日)

坂本龍馬新婚の旅碑
日本で最初の新婚旅行

〜龍馬33年の生涯で最も平和な3ヶ月〜

「王政復古の暁あかつきには、汽船を一隻造しつらへて日本の沿岸を廻ってみようか?」と龍馬はお龍りょうの肩に手を置いて言いました。
鹿児島に向かう薩摩藩船三邦みくに丸の1シーンです。
1866年(慶応2)1月21日、苦心の末薩長同盟を成立させた坂本龍馬は、宿舎の寺田屋で幕吏ばくりの襲撃をうけて負傷、西郷隆盛の勧めに応じて薩摩への湯治とうじ旅行となったのです。
西郷隆盛、小松帯刀たてわき、吉井友実ともざね桂久武かつらひさたけ、それに龍馬の妻お龍も乗船して大阪を出帆しゅっぱん
3月10日鹿児島に入港しました。
仲睦むつまじい龍馬夫婦は、日当山から塩浸しおひたし、栄之尾えのおと温泉を巡り、谷川で釣りをしたり、ピストルで鳥を撃ったり、ミヤマキリシマが一面に咲く高千穂に登り、天あまの逆鉾さかほこをひきぬいたり、まさしくハネムーン気分を満喫しました。
土佐の海援隊を作り、薩長を結びつけた明治維新最大の功労者の一人坂本龍馬は、この平和な薩摩下りからわずか1年半後、京都近江屋おうみやで暗殺され、王政回復の暁を見ることなく33歳の生涯を閉じたのです。

(説明板より)






明治天皇西国行幸(西郷隆盛供奉)
行在所手洗鉢

(山口県下関市・「本陣 伊藤邸跡」)




(平成23年9月15日)





本陣 伊藤邸跡
(山口県下関市阿弥陀寺町5)




(平成23年9月15日)

本陣 伊藤邸跡

伊藤家は鎌倉時代から続く下関屈指の名家。
室町・江戸時代には港町下関の指導者的な地位にあり、この地に広大な邸宅を構えていた。
室町時代は、下関の交通・流通などを掌握して朝鮮交易なども行い、江戸時代には大年寄りとして町政を司る。
また、本陣を兼帯して九州諸大名の参勤時の休泊所となり、各藩の用達も行った。
特に対馬宗氏つしまそうしとは前代から親密な関係にあった。
伊藤家はオランダ宿として名高い。
江戸に参府するオランダ商館長は、伊藤家と佐甲家の二つの本陣を下関の定宿とした。
歴代当主は進取の気性に富み、開明的であったが、なかでも文化・文政期の当主杢之允盛永もくのじょうもりながは、熱烈なオランダ趣味の人で、ヘンドリック・ファン・デン・ベルグというオランダ名を名乗り、ヅーフ、ブロンホフなどの商館長と親しく交際した。
佐甲家に宿泊した商館医のシーボルトも杢之允から歓待されている。
また、幕末の当主杢之助もくのすけ(静斎せいさい)は吉田松陰と交際し、助太夫すけだゆう(九三きゅうぞう)は真木菊四郎や坂本龍馬を支援した。
とりわけ、慶応2・3年頃の龍馬は伊藤家を活動の拠点としていた。
近代初頭の明治5年6月、伊藤家は明治天皇の西国巡幸時の行在所となり、本陣としての最後の役割を終えた。

下関市

(説明板より)

お龍
天保12年(1841)〜明治39年(1906)
左:伊藤家使用人
中:坂本龍馬
右:伊藤助太夫

龍馬とお龍が生活した本陣伊藤邸跡

幕末の当主助太夫すけだゆう(九三きゅうぞう)は、龍馬の活動を物心両面から支えた人物です。
龍馬と助太夫(九三)との関係は、龍馬が薩長同盟実現に向けて下関を訪ねた慶応元年(1865年)に始まりました。
以来、龍馬は下関を訪ねる度に伊藤家を寄宿先とし、慶応3年2月10日からは、同邸の一室「自然堂」を借り受け、愛妻お龍とともに暮らし始めます。
伊藤家では、龍馬の朝帰りにお龍が激怒することもありましたが、夫婦で歌会に参加するなど、仲睦まじい日々を送りました。

(説明板より)

 説明板より

(本陣 伊藤邸間取り図)


坂本龍馬像 平成16年4月2日

京都府京都市東山区・円山公園でお会いしました。

坂本龍馬と中岡慎太郎の銅像

坂本龍馬と中岡慎太郎の銅像
(京都市・円山公園)

この日は桜が満開。
大勢の人が花見に来ていました。



(平成16年4月2日)

贈正四位坂本龍馬先生 贈正四位中岡慎太郎先生 銅像銘 

土佐藩士坂本龍馬先生 中岡慎太郎先生は維新回天の偉業達成の為に最も重要な業績を遺しながら、惜しくも大政奉還の後僅かに■句■■た慶応3年11月15日、旧幕士の為に京都に斃れた
坂本先生は、特に海外の情勢に鑑みて海軍操練所の設立につくし、自ら海援隊長となり、更に西郷、木戸の間を斡旋して薩長両藩を連合させ、藩主山内容堂を動かして慶応3年10月14日大政奉還の建白を実現せしめた
先生がかつて長崎に於いて後藤象二郎に示した八策が、明治天皇によって宣布せられた五ケ条の御誓文の基底をなしたことは、即ち先生の卓抜した経国の理念を知るに足るものである
中岡先生もまた陸援隊長となり坂本先生と薩長土同盟の達成を見るに至らしめた
両先生は単なる軍国主義者ではなく、始めてわが国議会政治の確立を唱え、外交の重要性を力説して、海運貿易の発達に伴う内外経済の■■と文明開化を熱望し、以て国勢の興隆に率先■■■た大先覚者であった
殊に■■先■ その■■愛■した「天我■ニ自由ヲ与ヘヨ 然ラズンバ死ヲ授ケヨ」との自作の詩の一■にある如く、わが国に於ける自由主義の先■をなし、その影響が、最も強く板垣退助に及んでいることは顕著な事実である
しかるに、両先生の建■の趣意は昭和軍閥■■がめられ、銅像も戦時中に撤去の厄に遭った
坂本先生は三十二才、中岡先生は二十九才■も■■■害されたが、その不朽の■業と高■なる識見とは永く■人の■範と仰ぐべきところであることを確信して■、ここに銅像を再建し顕彰の実を挙げんとするものである

昭和37年5月3日
撰文 京都高知県人会長 川■■■

※■は判読不明だった文字です。
(碑文は非常に読みづらい状態でした。なんとかならんものだろうか?)

円山公園のしだれ桜



しだれ桜
(京都市・円山公園)




(平成16年4月2日)

円山まるやま公園の由来

平安の昔、今の円山公園一帯は一面真葛まくずや薄すすきなどが生い茂り真葛ケ原まくずがはらと呼ばれていました。
鎌倉時代、慈円僧正じえんそうじょうが『わが恋は松を時雨しぐれの染めかねて 真葛ケ原に風さわぐなり』(新古今集)と詠んでから一躍和歌の名所となり、以来多くの歌にうたわれました。
江戸時代に入ると安養寺塔頭あんようじとうとうの六阿弥ろくあみ(左阿弥さあみ、也阿弥やあみなどいずれも何阿弥なにあみと称した六坊ろくぼう)が席貸を始め、次第ににぎやかさを増して来ました。
この頃から『慈円山安養寺じえんざんあんようじ』の『円山まるやま』がこのあたりの呼名よびなとなったと伝えられています。
明治19年10月、京都府は円山一帯を公園地に指定し、同22年12月市制が施行されると同時に京都府から京都市の管理に移されました。
その後何度か拡張工事を行い、大正2年、平安神宮神苑しんえんをはじめ無鄰菴むりんあん、碧雲荘へきうんそうなどの名園を創り出した造園家、小川治兵衛おがわ・じへい氏の手により中央に池を配した回遊式日本庭園に造り変えられたのが現在の円山公園の姿です。

京都市

(説明板より)


法性寺



法性寺
(大阪市中央区中寺1−1−32)





(平成20年6月16日)

法性寺は慶長3年(1598)豊臣秀吉没年に創建されました。
幕末から明治に掛けて坂本竜馬が身を隠したり、オランダの医師ボードウィンが逗留して隆盛を極めていましたが、昭和20年の空襲で焼失し、復興を重ね今日に到ります。

(説明板より)


 平成23年2月7日

熊本県熊本市・高橋公園でお会いしました。





横井小楠と維新群像
(熊本県熊本市・熊本城前・高橋公園)

左端が坂本龍馬像



(平成23年2月7日)

横井小楠をめぐる維新群像

横井小楠 諱いみなは時存ときあり 通称平四郎、幕末維新期の大思想家。
横井家は細川藩士家禄150石の家で、小楠は文化6年(1809)熊本城下の内坪井で生れた。
藩校時習館に学び居寮長に推されて数年、江戸遊学を命ぜられて天下の俊秀と交わり活眼を開く。
帰国後実学を主唱し、中級武士と惣庄屋層の支持を得る。
越前侯松平春嶽しゅんがくに聘せられて福井藩にその経綸を実現し、後春嶽の幕府総裁職就任に当ってはその顧問として幕政改革に貢献、その間に勝海舟と相識り、坂本龍馬にも影響を与えた。
文久3年帰国を命ぜられ士席を除かれて隠栖すること5年、明治元年経世の才を買われて新政府の参与に出仕、抱負の実現を図ったが、翌2年正月京の町で志半ばで凶刃に倒れた。
明治3年熊本藩は実学派の改革を実現し、藩知事細川護久もりひさ 大参事同護美もりよしの下に、藩士山田・嘉悦・内藤等及び惣庄屋層の徳富、竹崎・長野等による肥後の維新の到来を見た。

この群像は横井小楠の生誕190年、没後130年(1999年)を記念して翌2000年3月建立された

(碑文より)


坂本龍馬・中岡慎太郎像 平成19年3月17日

京都市・京都霊山護国神社でお会いしました。

坂本龍馬・中岡慎太郎の墓



坂本龍馬の墓(左)
中岡慎太郎の墓(右)

(京都市・京都霊山護国神社)




(平成19年3月17日)

坂本龍馬・中岡慎太郎の最期

徳川慶喜大政奉還劇の大作者である坂本龍馬は、洛中においては河原町三条下る材木商酢屋嘉兵衛方に寓居していたが、遭難10日前に醤油商近江屋新助方に転居した。
坂本龍馬は、当時、最も幕府側から狙われていた志士で、新撰組・見廻組らの追及が急となり、藩邸の堀内慶助らの気遣いから近江屋を選んだのが仇となった。
慶応3年(1867年)11月15日、午後6時ごろ中岡慎太郎が訪問。
この2、3時間後、会談中の彼らは刺客の襲撃に遭い、坂本龍馬は額を横に切られ、二の太刀は右の肩から左背骨にかけ、三の太刀で更に前額部を裂かれて悲痛なる一言を残して倒れた。
盟友・中岡慎太郎も前身に刀傷を負い、2日後の17日の夕方に息を引き取った。
18日、近江屋において葬儀が行われ、ここ霊山に埋葬された。
坂本龍馬にまつわる逸話として、37年後の日露戦争の最中、昭憲皇太后の夢枕にひとりの侍の影が立ち現れて「微臣坂本にございます。このたびの海戦、皇国の大勝利に間違いありませぬ。不肖坂本、皇国海軍を守護しておりますゆえご安心願いあげます」と言い残すと消えたという。
坂本龍馬。
志士中の一級志士と云っても過言ではない。

墓所
右   中岡慎太郎
左   坂本龍馬
左奥  下僕 藤吉

京都霊山護国神社

(説明板より)

忠魂碑



贈正四位坂本龍馬君忠魂碑
(京都市・京都霊山護国神社)





(平成19年3月17日)

碑文

皇后大夫従二位勲一等子爵香川敬三題額
明治三十七年二月六日我邦ノ露國ト交際を絶ツヤ皇后陛下時ニ葉山ノ御用邸ニ在ラセラレテ不思議ニモ御夢ニ白衣ニシテ袴ヲ穿チタル三十七八歳ノ男子恭シク御前遥ニ跪キ微臣ハ坂本龍馬ニ候ガ今回露國ト戰端ヲ開カセ給フトモ決シテ御心ヲ煩ハサセ給フコト勿レ微臣モ及バズナガラ我海軍ヲ護リ給ヘバ我邦ノ勝利ヲ得ルコト疑フベクモ候ハズ■クバ御心安ク思召シ給ヘト言上スト見給フヤ其姿失セタリシカバ陛下ニハ深ク龍馬ノ忠魂ヲ嘉ミシ給ヒタリトゾ其後兼武公事ヲ以テ關西地方ニ赴キ五月六日山城國伏見町ノ大黒寺ニ■リ文久二年四月寺田屋騒動ノ難ニ殉セシ薩藩ノ士有馬新七以下九烈士ノ墳墓ヲ展シ又寺田屋ノ遺跡ヲモ■弔セシテ六月ニ至リ寺田屋ノ親戚荒木英一其義兄寺田伊助ノ保存セル坂本氏ガ王事ニ奔走中伊助ノ母寺田屋とせニ與ヘタル數通ノ書翰ヲ携ヘ■武ヲ東京ノ官舎ニ訪ヘリ兼武一見■■
皇后陛下ノ御夢ヲ思ヒ合セ■事ノ不思議ナルニ感ジタルママ陛下ニ拝謁シテ右ノ次第ヲ上聞シ其書翰ヲ御覧ニ供シ奉リタリシニ八月二十五日ニ至リ皇后宮大夫子爵香川敬三氏ヨリ陛下ニハ御覧■ノ上深ク御満足ニ思召サレ殊ニ龍馬ガ國事ニ盡力シ遂ニ不慮ノ難ニ遭ヒタルヲ御哀悼アラセラレ亡霊弔慰ノ為金若干ヲ下賜セラルトノ御内旨ヲ兼武ニ傳ヘラレタリ是ニ於テ伊助英一感戴拜喜遂ニ相謀リテ一碑ヲ京都霊山ニ在ル坂本氏ノ墓側ニ建テムトシ兼武ニ文ヲ乞ヘリ嗚呼
皇后陛下ガ常ニ國事ニ御心ヲ煩ハサセ給フコトノ深キト王事ニ殉セシモノヲ御追悼アラセラルノ初ナルトハ今更申スモ畏シ坂本氏ガ没後殆ド四十年ヲ■ルモ其英魂ハ今猶國家ヲ守護シ御夢ニマデ現ハレ以テ陛下ノ御心ヲ安ンジ奉ラムトスルニ至リテハ何ゾ其レ誠意ナルヤ惟フニ開戰以来我陸海軍ノ連戰連捷スル■以テハ一ニ大元帥閣下ノ御稜威ト将士ノ忠勇トニ由ルト雖■安ゾ坂本氏ノ如キ誠忠ノ士常ニ我邦ヲ冥護スルニアラザルヲ知ラムヤ感激ノ餘其顛末ヲ録シ永ク坂本氏ノ忠魂ヲ表ス

明治三十七年十二月
逓信大臣従三位勲一等大浦兼武撰
従七位近藤富壽書

※ ■は判読不明文字


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坂本龍馬



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