文政13年8月4日(1830年9月20日)〜安政6年10月27日(1859年11月21日)
山口県萩市の吉田松陰誕生地でお会いしました。
長門国萩藩士杉百合之助の次男。
山鹿流兵学師範だった叔父の死後、吉田家を相続して兵学師範となりました。
九州・江戸に遊学。
嘉永4年(1851年)藩の許可なく東北行を敢行して御家人召放となりました。
安政元年(1854年)ペリーが和親条約締結のため再航した時、密航を企て失敗して入獄。
1年後、叔父玉木文之進の松下村塾の主宰者となり、高杉晋作、久坂玄瑞、入江杉蔵、野村和作、前原一誠、伊藤博文など、幕末から明治期に活躍した人材を教育しました。
日米修好通商条約の調印を批判し、藩に老中要撃の計画を提起したりしたため再入獄。
翌年、幕府から藩に松陰東送の命が下り江戸に送られ、訊問に際しペリー来航以来の幕府の一連の政策を批判して処刑されました。
吉田松陰(左)と金子重輔(右)の像 (山口県萩市) 思ったより高い位置にある大きな銅像でした。 写真だと小さく見えますけどね・・・・ (平成15年7月26日) |
吉田松陰先生銅像
この銅像は、明治維新100周年を記念して1968(昭和43年)に建立されたものである。
松陰先生が弟子の金子重輔を従え、下田沖のぺりー艦隊を見つめている姿を彫刻したもので、高さは約8mある。
題字は当時の佐藤栄作首相が書き、銅像は萩出身の日展審査員長嶺武四郎が製作している。
(説明板より)
吉田松陰誕生地
ここ樹々亭山屋敷跡は吉田松陰の誕生の地であります。
この地松本椎原台団子岩にあった茶亭山荘(所有者 江向八谷やたがい藤兵衛)を実父杉百合之助の妻滝子の父村田右中が文政8年(1925)手にいれ百合之助に贈られたものであります。
よって松陰は天保元年8月4日士禄26石杉家第5代の二男としてここに生まれました。
そののち父百合之助が盗賊改方頭役についたため嘉永6年(1853)現在の松陰神社境内の杉家旧宅に引き越しました。
西向平屋建の樹々亭は玄関三畳(先生兄妹勉強間)、表座敷六畳、隠居部屋三畳、居間六畳と台所、物置、納屋、厩舎からなっております。
(説明板より)
吉田松陰
明治維新の先覚者吉田松陰は天保元年(1830)、萩松本村の藩士、杉百合之助(26石)の次男として生まれ、幼くして山鹿流兵学師範の家柄である吉田家(57石6斗)を継いだ。
19歳の春、独立の師範となって藩校明倫館に多くの生徒を教えたが、21歳の秋から、学問研究のために肥前平戸に遊学して以後の数年は、江戸、水戸、東北地方、再び江戸、長崎、江戸と旅行を続け、沿道各地も視察し、また多くの学者や志士をたずねて、学事を問いまた時事を論じた。
嘉永6年(1853)6月、アメリカ軍艦が浦賀に来航するにおよんで、松陰は海外の事情を視察、研究する必要を感じ、翌年3月、下田からアメリカの軍艦に便乗しようとしたが失敗に終わった。
その年10月萩に送られ野山獄に入れられた。
獄にあること1年余り、ついで実家杉家に謹慎を命ぜられた。
松陰はこの入獄および謹慎中を勉学の好機として驚くほど多くの本を読み、自らも原稿を書き、さらに松下村塾を継承して多くの青少年を教えた。
この期間は松陰の生涯の中で最も平和な時期であり、また最も輝かしい業績をのこしたときである。
松陰の人たる所以ゆえんを学ぶ子弟同行の情念は多くの門人たちに強い感銘を与えた。
高杉晋作をはじめ久坂玄瑞、入江九一、吉田稔磨、前原一誠、品川弥二郎、野村靖、山田顕義、伊藤博文、山県有朋(以上松下村塾)木戸孝允(明倫館)など、各々よくその特徴を発揮して、明治維新の大業を翼成したことは周知のとおりである。
ところが、安政5年(1858)、幕府が勅許を得ず外国との通商条約に調印してから、松陰の時局に関する言動はとくにはげしくなり、幕府は塁を藩主におよぶことをおそれて、再び野山獄に投じた。
ついで幕命によって江戸に送られ、世に言う安政の大獄の難にあい、安政6年(1859)、10月27日「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留とどめ置おかまし大和魂」の辞世をのこして江戸伝馬町の獄で処刑された。
松陰の生涯は、わずか29年余りであったが、当時のわが国の複雑な内外事情を十分見きわめながら、常に自己を見失うことなく、至誠を貫き通した生きざまは、今日においても新鮮な魅力をたたえ、人の心をゆさぶり引きつけてやまない。
(松陰遺墨展示館パンフレットより)
年表
文政11年 | 1828年 | シーボルト事件 | |||
天保元年 | 1830年 | 1歳 | 8月4日 | 杉百合之助次男として生まれる 幼名:虎之助 |
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天保5年 | 1834年 | 5歳 | 叔父の吉田大助の養子となる | ||
天保6年 | 1835年 | 6歳 | 大次郎と名を改める | ||
天保7年 | 1836年 | 7歳 | 天保の大飢饉 | ||
天保8年 | 1837年 | 8歳 | 大塩平八郎の乱 | ||
天保10年 | 1839年 | 10歳 | 11月 | 明倫館で兵学講義 | 蛮社の獄 (渡辺崋山・高野長英投獄) |
天保11年 | 1840年 | 11歳 | 藩主の前で講義 | ||
弘化元年 | 1844年 | 15歳 | 藩主の前で講義・賞を受ける | ||
弘化2年 | 1845年 | 16歳 | 山田亦介につき長沼流兵学を学ぶ 玉木文之進の松下村塾に入って学ぶ |
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弘化3年 | 1846年 | 17歳 | 林真人に学ぶ | 海防の勅諭幕府に下る | |
嘉永元年 | 1848年 | 19歳 | 佐久間象山大砲を鋳造 | ||
嘉永2年 | 1849年 | 20歳 | 6月 | 藩命により北浦地方の海岸を巡視 (須佐・大津・豊浦・赤間ヶ関等) |
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10月 | 門人たちと羽賀台にて実戦演習 | ||||
嘉永3年 | 1850年 | 21歳 | 8月〜12月 | 筑紫の旅に出発 (小倉・佐賀・平戸・長崎・熊本等) 葉山佐内・山鹿万介について学ぶ 生涯の学友・宮部鼎蔵と知り合う |
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嘉永4年 | 1851年 | 22歳 | 3月 | 藩主に従い江戸に上がる 安積艮斎・佐久間象山について学ぶ |
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12月〜 | 藩に無断で東北地方の旅に出る 宮部鼎蔵と同行 会沢恒蔵・豊田彦次郎を訪れる 水戸の学問について研究 |
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嘉永5年 | 1852年 | 23歳 | 〜4月 | (水戸・会津・新潟・弘前・仙台等) 4月に江戸に帰る |
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5月 | 命により萩に帰り杉家に謹慎 この頃から松陰と号した |
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嘉永6年 | 1853年 | 24歳 | 正月〜 | 藩の許しを得て諸国遊歴 | |
〜5月 | 伊勢神宮参拝し江戸に戻る | ||||
6月 | 米艦浦賀来航の報を聞き現地へ行く 佐久間象山について洋式砲術を研究 |
ペリー浦賀に来航 | |||
9月 | 長崎に行きロシア船での密航を計画 ロシア船出発後のため計画失敗 |
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12月 | 京都に入り、梅田雲浜等と交際 伊勢・尾張の名士を訪問 |
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安政元年 | 1854年 | 25歳 | 3月 | 金子重輔と下田で密航を計画 乗船を拒否され失敗 自首し、江戸の獄に入る |
ペリー下田に来航 |
9月〜10月 | 萩に護送され、野山獄に入る | ||||
安政2年 | 1855年 | 26歳 | 1月 | 金子重輔、獄中で病死 | |
4月 | 野山獄囚人のため孟子の講義を開始 | ||||
10月 | 藤田東湖大地震で圧死 | ||||
12月 | 野山獄を出て杉家に幽囚される | ||||
安政3年 | 1856年 | 27歳 | 8月22日 | 杉家で兵学の講義を始める 松下村塾の始まり |
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安政5年 | 1858年 | 29歳 | 11月 | 老中・間部詮勝要撃を計画 | |
12月 | 再び野山獄に入る | 安政の大獄 | |||
安政6年 | 1859年 | 30歳 | 5月〜6月 | 江戸に送られる | |
7月 | 幕府の取調を受ける | ||||
9月 | 梅田雲浜獄死 | ||||
10月7日 | 橋本佐内等処刑 | ||||
10月27日 | 江戸伝馬町獄にて刑死 | ||||
万延元年 | 1860年 | 桜田門外の変 (井伊直弼殺害) |
松下村塾 (山口県萩市・松陰神社境内) 意外と小さな建物でした。 これには驚き。 (平成15年7月26日) |
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松下村塾 国指定文化財(史跡) 指定年月日:大正11年10月12日 所有者:宗教法人 松陰神社 所在地:萩市大字椿東字新道 |
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松下村塾の内部 |
松下村塾しょうかそんじゅく
松下村塾は吉田松陰が実家の小屋を改修し教室としたものである。
名称の由来ははじめ松陰の叔父玉木文之進がここからほど遠くない自宅に塾を開いて名付けたもので、ついで伯父久保五郎左衛門(松陰の養母の義兄)の久保塾がその名を継ぎ、さらに安政4年(1857)11月数え年28歳の松陰が主宰することになった。
安政5年3月塾生たちが松陰とともに壁を塗り、釘打ちしてここにある十畳半一室を増築した。
現在梯子段は取りはずしてあるが中二階になっている。
増築後松陰はほとんど塾で起居し、何人かの塾生と同居し、食事だけを共にしたものも多い。
松陰が藩から家学教育の許可を得て名実ともに村塾の主宰者となるのは安政5年7月であるが、同年11月松陰は再び幽囚され続いて再入獄となった。
松下村塾は松陰の野山獄出獄から再入獄まで約3年間のうち最後の1年間、門弟に接して指導激励した場所である。
実家の幽囚室で教えた1年半を通算しても2年半に過ぎない。
この短い期間に久坂玄瑞、高杉晋作の二英才をはじめ、吉田稔磨、入江九一、寺島忠三郎、伊藤博文、山県有朋、前原一誠、山田顕義、品川弥二郎、野村靖などが学んでいる。
後年こららの門弟たちは安政大獄で刑死した師の志を継いで尊攘討幕運動に挺身することになるが、その原動力が養われたのはこの粗末な建物である。
ちなみに、写真の木戸孝允は塾生ではなく、松陰が藩校明倫館の兵学師範であったときの門下生である。
(説明板より)
松下村塾 (平成15年7月26日) |
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松下村塾の講義室 |
講義室
この八畳の部屋は松下村塾の建物としては最初からのものである。
正面の床の間は後に付け足された。
この塾は自由な私学であって授業日数とか修業年限の規定もなく、80人前後と推定される塾生の半数は士分であるが、半ばは藩校明倫館に入学資格のない足軽、中間、陪臣、町人、僧侶など低い身分の子弟である。
就学期間は1年前後が多く、一日に来て学ぶものは多くて30名、普通10名内外であったようである。
時事を論ずるときには討論の形をとる一斉授業ではあったが、教科書も一様ではなく門人一人一人に応じて適切に選ばれ、松陰は塾生の机の間に割込んで懇切に教えた。
進度を考える必要ないから、講義の途中十分に各自の意見を述べさせるなど個人指導が多かった。
しかし、教育は決まった教室だけで行われるものではない。
ここを拠点として門人と共に塾舎増築し、増築後は同居、同食し、あるいは今も納屋に残る米搗こめつき台に上り書物を読みながら米をついたように、あらゆる機会を捉えて師と門人、門人同志の人間的接触を図りながら教育効果を挙げた。
しかも書物だけでは伝わらない松陰の熱気あふれる現代感覚があって、学問を単なる知識として学んだのではなく、すべてわが身に引きつけて読むことを学び、主体的に考えることの喜びを呼び覚ましたのである。
こうして革新的で強固な同志的結合である若き松下村塾グループが形成された。
(説明板より)
国指定史跡
吉田松陰幽囚の旧宅
所在地 萩市大字椿東字新道
指定年月日 大正11年10月12日
この建物は吉田松陰の父杉百合之助の旧宅ではあるが、始め家禄49石余の親族瀬能家から借りたものでかなり広い。
松陰は伊豆下田港で海外渡航に失敗して江戸の獄につながれ、ついで萩の野山獄に移されたが、安政2年(1855)許されて実家にお預けとなり三畳半一室に幽囚されることになった。
ここで父兄や近親が松陰の講義を聞き、やがて入門者が増えて私塾の形態ができるようになった。
この講義は安政4年松下村塾に移るまで1年半ばかり続けられた。
松陰は安政5年、老中間部詮勝まなべあきかつの要撃を企てたために、野山獄に再入獄前の約1月間再びここに幽囚される身となった。
萩市教育委員会
(説明板より)
松陰神社由緒
明治23年8月松下村塾出身者其他故旧の人々の協力により松下村塾改修のさい、実家杉家の私祠として村塾の西側に土蔵造りの小祠を建て神霊を鎮祀し併せて遺著遺品を収めたのがはじめである。
後明治40年9月15日門人伊藤博文・仝野村靖の名をもって公に神社創建を出願仝年10月4日県社(旧社格)として認可を得成ったものである。
(説明板より抜粋)
松陰先生歌碑 (山口県萩市・松陰神社) 親思う 心にまさる親こころ 今日の音づれ 何ときくらん 寅次郎 |
尊皇の大義を唱え、国事に奔走した吉田松陰の言動が幕府を刺激し、いわゆる安政の大獄により、江戸伝馬町の牢に捕らえられた。
この歌は、処刑を覚悟した松陰が安政6年(1859)10月20日に、郷里の両親に送った手紙の中にある別れの歌である。
享年29歳。
松陰の両親を心配する気持ちが込められている。
付記
碑文は松陰の真筆を拡大したもので、寅次郎は松陰の通称である。
萩市教育委員会
(説明板より)
「薩長土連合密議之處」の碑 (山口県萩市・松陰神社) 薩州 田上藤七 長州 久坂玄瑞 土州 坂本龍馬 文久2年1月 |
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「明治維新胎動之地」の碑 (山口県萩市・松陰神社) 内閣総理大臣 佐藤栄作書 |
吉田松陰と松陰神社
発行:松陰神社
維新の先達 吉田松陰
著者:田中俊資 発行者:松陰神社維持会
昭和42年発行・平成11年11版 定価800円
市指定文化財(史跡)
玉木文之進たまきぶんのしん旧宅
指定年月日 昭和39年3月28日
所有者 萩市
所在地 萩市大字椿東
玉木文之進(1810〜76)は、吉田松陰の叔父にあたり、杉家から出て玉木家(大組おおぐみ40石)を継いだ。
生まれつき学識に優れ、松陰の教育にも大きな影響を与えたほか、付近の児童を集めて教授し松下村塾と名付けた。
この塾の名称は後に久保五郎左衛門がが継ぎ、安政2年(1855)には松陰が継承して、名を天下にあげるに至ったことから、この旧宅は松下村塾発祥の地といえる。
建物は木造茅葺かやぶき平屋建てで8畳の座敷のほか4畳の畳部屋・3畳半の玄関・4畳半の板間と土間の台所があり、別に湯殿・便所がある。
(説明板より)
岩倉獄跡
正保2年(1645)9月17日夜、藩士岩倉孫兵衛(大組・禄高200石)は酒に酔って道一つ隔てた西隣の藩士野山六右衛門(大組・禄高200石)の家に切り込み、家族を殺傷した。
この事件のため岩倉は死刑となり、両家とも取りつぶされ、屋敷は藩の獄となった。
野山獄は上牢かみろうとして士分の者を収容し、岩倉獄は下牢しもろうとして庶民を収容した。
なお、現在の指定地は獄の一部分である。
幕末、吉田松陰は海外渡航に失敗したのち野山獄に、その従者金子重之助かねこしげのすけ(重輔)は岩倉獄に投ぜられた。
(説明板より)
市指定文化財(史跡)
吉田松陰の墓ならびに墓所
指定年月日 昭和47年2月9日
所有者 杉丙三
所在地 萩市大字椿東
吉田松陰の墓は表に「松陰二十一回猛士墓」、裏に「姓吉田氏称寅次郎 安政六年己未十月二十七日 於江戸歿 享年三十歳」と刻まれている。
百ヶ日忌きに遺髪を埋めて建てたものである。
墓前には門人の佐世(前原)一誠・久坂誠(玄瑞)・品川日孜(弥次郎)・伊藤和卿(博文)・高杉春風(晋作)など17名が寄進して、その名を刻んだ水溜め・花立・燈籠が供えてある。
また、この墓所には松陰の他に、その一族とゆかりの深い人々の墓も立ち並んでいる。
萩市教育委員会
(説明板より)
吉田松陰・高杉晋作の墓所入口 |
平成15年7月25日
山口県萩市郊外萩往還公園(道の駅)でお会いしました。
萩往還公園に建つ銅像 (山口県萩市) 右:久坂玄瑞 中:吉田松陰 左:高杉晋作 (平成15年7月25日) |
吉田松陰
天保元年(1830)〜安政6年(1859)
江戸時代の終り頃、萩の松下村塾で幕末の志士や明治維新に活躍する多くの人材を育てました。
萩藩士の二男として、萩の松本村に生まれ、幼くして吉田家の養子となり、山鹿流兵学師範の職を継ぎました。
また松陰は生涯にわたって日本中を旅しています。
世界に眼を向けた松陰はアメリカ軍艦で海外渡航しようと計画しましたが失敗しました。
その後、安政の大獄によって処刑されました。
(説明板より)
松陰記念館 (山口県萩市・萩往還公園内) 入場料:無料 (平成15年7月25日) |
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記念館の中に展示されている松下村塾のジオラマ 講義風景がロウ人形で再現されています |
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若干の資料(複製)の展示がされています。 |
尊王攘夷 |
吉田松陰のスローガンである「尊王攘夷」は、世上思われているところの「日本は神の国であり、日本にはどんな夷狄いてきも入れてはいけない」とは意味が全く異なる。
それは、松陰の次の言葉が象徴している。
「始めに勤皇ありて攘夷にあらず。攘夷なるがゆえに勤皇たらざるべからず」
すなわち、あくまで攘夷(日本の独立主権の擁護)を行なうための勤皇(尊王)なのであり、最初に尊王という絶対的立場があるのではない。攘夷、今の言葉でいうならば国防対策、安全保障のための「戦略」としての尊王である、ということなのである。
「西洋の脅威」に対抗するためには、今のような幕藩体制(封建割拠)の枠組みを超えて日本人の力を結集する必要がある。それを天皇への忠義の名のもとに行なうのが、この国の選択であるべきだと、松陰は考えた。
こうした「戦略としての尊王攘夷論」を掲げる松陰が、単純な「皇国史観」の持ち主や、天皇崇拝それ自体が目的の論者ではなかったことは明白である。
(参考:『歴史街道 2008年7月号』)
(平成23年10月21日追記)
九州遊学 嘉永3年(1850年)8/25〜12/29 |
日付 | 宿泊地 | 備考 |
8/25 | 四郎ヶ原 | 早朝、家を出て長崎へ向う |
9/6 | 長崎 | 砲術家・高島秋帆の塾を訪ねる |
9/9 | 長崎 | 唐人館(新町)、出島を見学 |
9/11 | 永昌 | オランダ船を見学 |
9/14 | 平戸 | 平戸着、儒学者・葉山佐内を連日訪ねる |
9/18 | 平戸 | 山鹿万介の穂徳堂に入門 |
11/15 | 長崎 | 長崎湾内の番所や各所の石火矢台を検分 |
12/11 | 熊本 | 内坪井町の宮部鼎蔵を訪ね、意気投合 |
12/21 | 佐賀 | 佐賀藩校教授・武富文之介らと会う |
12/29 | 萩 | 萩に戻る |
江戸遊学の旅 嘉永4年(1851年)3/5〜4/9 |
日付 | 宿泊地 | 備考 |
3/5 | 山口 | 早朝、実家を発ち、萩往還を往く |
3/10 | 海田 | 宮島へ渡り毛利・陶水軍激戦の跡を見る |
3/13 | 矢掛 | 福山城を見学 |
3/18 | 西宮 | 舞子ヶ浜で建設中の砲台を見る |
3/20 | 伏見 | 天王寺などの地形を見ながら淀川を渡る |
3/27 | 岡崎 | 桶狭間古戦場跡を歩く |
4/4 | 吉原 | 薩陀峠を越え、富士川を舟行 |
4/9 | 江戸 | 桜田藩邸に入る この後、佐久間象山と出会う |
房相沿岸の踏査 嘉永4年(1851年)6/13〜6/22 |
日付 | 宿泊地 | 備考 |
6/13 | 鎌倉 | 早朝、桜田藩邸を発ち、外神田で宮部鼎蔵と合流 |
6/14 | 田戸 | 砲術家・喜多武平を訪ねて議論を交わす |
6/15 | 宝田 | 猿島、旗山、十石、三軒家の台場を検分 |
6/16 | 三崎 | 大浦、剣崎、安房崎の台場を検分 |
6/19 | 館山 | 館山湾に沿う道を歩き、洲ノ崎台場を検分 |
6/21 | 神奈川 | 田戸の喜多武平を再訪問 |
6/22 | 江戸 | 早朝、神奈川を発ち、午後、桜田藩邸に帰る |
(参考:『歴史街道 2011年10月号』)
(平成25年10月1日 追記)
東北遊歴 嘉永4年(1851年)12/14〜嘉永5年(1852年)4/5 |
日付 | 宿泊地 | 備考 |
12/14 | 本郷村 | 午前10時、桜田藩邸を脱する 所用の為の外出を装い脱藩 |
12/15 | 水海道 | 小金原の幕府練兵場を見る |
12/18 | 笠間 | 笠間藩校時習館を訪問 兵学者・手塚多助より水戸藩の情報を聞く |
12/19 | 水戸城下 | 水戸着 水戸藩士・永井政助(藤田小四郎の弟子)を訪問するが不在 |
12/21 | 水戸城下 | 水戸学の大家・会沢正志斎を自宅に訪ねる(以後頻繁に訪問) |
12/24 | 水戸城下 | 同行を約束していた宮部鼎蔵、江幡五郎と合流 |
1/4 | 古奈地村 | 海岸踏査のため水戸を発つ |
1/8 | 松岸 | 銚子港の景況を見る |
1/12 | 水戸城下 | 水戸藩彰考館総裁・豊田天功を訪ね、その議論に感銘を受ける |
1/13 | 水戸城下 | 長沼流兵学者・桑原幾太郎に会う |
1/23 | 上田 | 台場を見た後、大津浜を経て移動 |
1/27 | 白河 | 仇を求めて南部へ旅立つ江幡五郎と送別の宴を開く |
1/30 | 若松 | 会津着 会津藩士・井深茂松らと会い、会津藩の服制を聞く |
2/2 | 若松 | 会津藩校日新館教授・高津兵蔵を訪ねる |
2/3 | 若松 | 軍事奉行・広川勝助を訪ね、兵制や軍事教練を聞く |
2/11 | 新潟 | 勤王医・中川立庵を訪ね、仙台藩士・氏家晋と会う |
閏2/1 | 相川 | 春日岬の砲台を見る |
閏2/11 | 新潟 | 日野三九郎を訪ねる |
閏2/13 | 新潟 | 氏家、中川らと漢方医・後藤宗謙を訪問 |
閏2/15 | 久保田 | 商人・敦賀屋新六らに軍備や財政事情を聞く |
3/1 | 弘前 | 弘前藩士・伊東広之進を訪ねる 藩校稽古館や津軽半島の軍備を聞く |
3/2 | 藤崎 | 伊東や荒谷貞次郎を訪ね、夕方城下を発つ |
3/6 | 青森 | 平館の台場を見た後、船で青森港に着く |
3/7 | 野辺地 | 青森港を見た後、野辺地へ移動 |
3/8 | 五戸 | 郷士・藤田武吉を訪ねる |
3/11 | 石町 | 盛岡城下に入り、鍵屋・村井京助を訪ねる |
3/15 | 登米 | 一関藩士・佐世岱太郎と会う |
3/16 | 石巻 | 北上川を舟行、石巻港を見る |
3/19 | 国分町 | 仙台藩校養賢堂を訪ねる |
3/21 | 中田 | 桑原隆朝、入江長之進ら仙台藩士と会う 午後に城下を発つ |
3/22 | 白石 | 刈田宮を過ぎたあたりで江幡五郎と再会 翌々日に別れる |
3/26 | 荒町 | 米沢藩士・高橋玄益から藩の職制などを聞く |
3/28 | 七日町 | 会津城下に入り、会津藩士・井深茂松らを再訪問 |
4/3 | 足利 | 足利学校を見学 文庫の厖大な蔵書量に驚く |
4/5 | 江戸 | 江戸着 この後に脱藩の罪で帰藩 |
(参考:『歴史街道 2011年10月号』)
(平成25年10月1日 追記)
『殉国 吉田松陰先生遊歴之地』碑 (福島県いわき市植田町・後宿公園) (平成20年4月26日) |
碑文
吉田松陰先生著、東北遊日記抄
嘉永 壬子 五年正月廿三日、翳、出野口家、 云々 、越勿來故關在山上、而今道則山下海濱也、過關田荒蜂大島、渡鮫川、宿上田、行程四里、至平潟、常陸盡焉、水戸領則止于大津、大津以東、小國封地参錯、平潟為棚倉侯松平周防守所領、關田、上田、為平侯安藤長門守所領、、荒蜂、為泉侯本多越中守所領、是日、彌八任口唱曰
君不見叱咤生風楚項王 一曲悲歌涙数數行 又不見一劍驅敵旭将軍
帳中之涙落粉々 英雄元是多情緒 不似凡士輕留去 風雨宿蕭々日将夕
來宿勿来關下驛 與君分手無多日 休言英雄有泣癖、
余乃歩其韻云、
吾無骨相似侯王 且向蝦夷為啓行 吾無斧鉞統六軍 且向世議破粉々
丈夫功名固多緒 須卜西就與東去 與君追随幾晨夕 踏盡山亭又水驛
報國策定泣何妨 遠遊豈為雲煙癖、夜雨、
皇紀二千六百二年舊正月廿三日建之
縣社松蔭神社社司陸軍大佐
正五位勲四等校五級舊萩藩士
市川一郎 敬書
後宿公園 (福島県いわき市植田町本町1−12) (平成20年4月26日) |
吉田松陰来遊の地 (青森県弘前市・養生幼稚園) (平成21年11月2日) |
吉田松陰来遊の地(松陰室) (青森県弘前市・養生幼稚園) 松陰室の見学には予約が必要です。 見学料 100円 (平成21年11月2日) |
弘前市指定史跡
吉田松陰来遊の地 附松陰室
昭和53年2月1日指定
嘉永5年(1852)3月1日、幕末の動乱の中で近代日本の夜明けを模索した歴史的背景のもとで、若き情熱の志士吉田松陰が東北遊歴中に宮部鼎蔵とともに、勤王と海防の志をもった津軽藩士伊東広之進(号は梅軒)の居宅、すなわちこの地を訪れ、国事及び津軽藩の軍事、教育について論じた記念すべき地である。
松陰の訪れた一室は「松陰室」として大切に保存され、明治以降弘前市の青少年教育に大きな役割を果たした場であるが、建造物としても宝暦6年(1756)「御家中屋舗建家図」に見られる近代武家住居の貴重な遺構である。
管理者 財団法人 養生会
弘前市教育委員会
(説明板より)
学校法人 養生学園 養生幼稚園 (青森県弘前市元長町19) (平成21年11月2日) |
保存樹木
樹種 アイグロマツ
指定 第1号
指定年月日 平成3年2月19日
所有者 財団法人 養生会
説明
ここは、津軽藩憂国の志士伊東梅軒(広之進)の屋敷跡にあたり、樹幹は堂々として樹形極めて優れている。
嘉永5年(1852年)吉田松陰が当所を訪れ、梅軒と会見したとされ、中に松陰室も存在する。
推定樹齢250年。
弘前市
(説明板より)
諸国遊歴 嘉永6年(1853年)1/26〜5/24 |
日付 | 宿泊地 | 備考 |
1/26 | 三田尻 | 清水口の家を発ち、三田尻へ向う |
2/11 | 常安橋下 | 荻野流砲術家・坂本鉉之助や儒学者・後藤松陰を訪ねる |
2/13 | 五條 | 儒学者・森田節斎を訪ねる |
2/23 | 岸和田 | 岸和田藩校教授・相馬九方を訪ねる |
3/18 | 富田林 | 岸和田藩士・増田秀斎、小林新介を訪ねる |
3/30 | 大坂 | 坂本鉉之助、後藤松陰を再訪問 |
4/6 | 五條 | 2週間ほど森田節斎塾に通う |
4/21 | 田井庄 | 儒学者・谷三山の弟子・森哲之助を訪ねる |
5/2 | 八木 | 谷三山を訪ねる |
5/7 | 竪町 | 津藩校有造館参謀・川村尚迪を訪ねる |
5/9 | 津 | 国学者・足代弘訓らと会う |
5/13 | 見石 | 中山道に入る 大垣で山鹿流兵学者・山本某を訪ねる |
5/14 | 太田 | 尾張藩士・福寄又兵衛と会う |
5/24 | 江戸 | 練兵館、桜田藩邸を経て蒼龍軒塾に入る |
(参考:『歴史街道 2011年10月号』)
(平成25年10月2日 追記)
『松陰吉田先生留跡碑』 (神奈川県鎌倉市・瑞泉寺) 住職をつとめていた伯父の竹院和尚に会いに来たという。 (平成18年9月24日) |
瑞泉寺 (神奈川県鎌倉市二階堂710) 境内は国指定史跡、庭園は国指定名勝です。 昭和46年11月8日 文部省指定 (平成18年9月24日) |
瑞泉寺
山号は錦屏山、開山は夢窓国師、中興開基は足利基氏です。
開山夢窓国師の座像は重要文化財です。
主庭は開山の造園といわれ、関東に残る鎌倉期の代表的襌の名園といわれています。
(説明板より)
【鎌倉・瑞泉寺を訪問】
1851年(嘉永4年)12月14日の松陰の出奔事件に対する藩の処置は、「御家人召し放し」、つまり免職のうえ謹慎ということになりました。
藩主・毛利公は松陰の父・杉百合之助に対し、松陰の10年間諸国遊学願いを出すように内示があり、1853年(嘉永6年)正月、松陰は再起を期して第2回の江戸遊学の旅に出ました。
大坂、和泉、伊勢など沿道の学者十数名を訪ね、5月24日に江戸に入り、諸国の青年志士がよく集まっていた安房あわ(今の千葉県)出身の学者、鳥山新三郎の家に落ち着きました。
翌25日には松陰の母の兄である鎌倉の瑞泉寺の竹院ちくいん和尚を訪ね、母からことづかってきた黍きびの粉の土産を渡しました。
この黍の粉は半年かかってはるばる萩から鎌倉まで松陰が持ち込んだわけで、和尚は心からありがたく思ったのでしょう、「山海数千里の所拝味はいみも勿体もったいなし」と喜んで、失意の松陰を励ましてくれました。
(参考:岩崎文吉 著 『人はなぜ勉強するのか〜千秋の人 吉田松陰』 平成21年12月第6刷 財団法人モラロジー研究所発行)
(平成26年10月10日 追記)
十思公園 (東京都中央区日本橋)) 吉田松陰終焉の地(伝馬町牢屋敷跡)です。 (平成17年11月13日) |
吉田松陰先生終焉之地
吉田松陰先生は天保元年(西暦1830年)8月4日長州萩の東郊松本村で杉家の二男として生まれた。
幼い頃に吉田家をついだ。
成人しての名を寅次郎という。
吉田家は代々山鹿流兵学師範の家であったので、早くから山鹿流兵学その他の学問を修め、その道を究めて、子弟の教育につとめた偉人である。
安政元年3月師の佐久間象山のすすめで海外渡航を計画し、下田から米艦に便乗しようとして失敗、下田の獄につながれたが伝馬町獄送りとなって途中、高輪泉岳寺の前で詠んだのが有名な次の歌である。
「かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂」
同年9月まで約6ヶ月間伝馬町獄に留置されていたが、国元萩に謹慎の身となって帰って後の松下村塾での教育が最も偉大な事業であろう。
薫陶を受けた中から有爵者6名、贈位者17名、有位者14名等多くの著名な士が出て中でも伊藤博文、山県有朋、木戸孝允等は、明治維新の大業に勲功のあった人物である。
わが国歴史の上での三大変革といえば大化の改新、鎌倉幕府の創立、明治維新の三であるが、その明治維新にこれら松下村塾生の働きが大きな力となったことを深く考えたいのである。
後松陰は安政の大獄に連座して再び伝馬町獄に入牢となった。
安政6年7月9日江戸の長州藩邸から始めて評定所に召出されたが、その時「まち得たる時は今とて武蔵野よいさましくも鳴くくつわ虫かな」と決心を歌にのべている。
しかし幕府の役人を動かすことが出来ず、その後の3回の取調べで死刑を覚悟した10月22日に、父、叔父、兄へ宛て永訣の書を送っているがその中にあるのが「親思ふ心にまさる親ごころけふのおとづれ何と聞くらん」の一首である。
また処刑の時の近づいたのを知って10月25日より26日の黄昏までかかって書き上げたのが留魂録でその冒頭に「身はたとひ武さしの野辺に朽ちぬともとどめ置かまし大和魂」 十月念五日 二十一回猛士 と記してある。
松陰はこれを同囚で八丈島に遠島になった沼崎吉五郎に託したが20年後当時神奈川県令で塾生であった野村靖に手渡したものが現在残っている留魂録である。
それによって当時の法廷の模様、尋問應答の次第、獄中の志士の消息等がわかり、自己の心境と塾生の行くべき道を示したもので崇高な松陰魂の指南書ともいえるものである。
安政6年10月27日は処刑の日であった。
揚屋を出る松陰は次の詩を高らかに朗吟して同囚の士に訣れを告げたのである。
「今吾れ国の為に死す 死して君親に背かず 悠々たり天地の事 鑑照明神に在り」
次いで刑場では「身はたとひ」の歌を朗誦して従容として刑についた。
行年30歳
明治22年2月11日正四位を贈位され昭和14年6月十思小学校々庭に留魂碑が建設された。
傳馬町牢屋敷跡
所在地 中央区日本橋小伝馬町1の5先
所有者 東京都(中央區)
地積 13.45坪(22尺四方)
右を東京都史蹟に指定する。
昭和29年11月3日 東京都教育委員會
伝馬町牢は慶長年間、常盤橋際から移って明治8年市ヶ谷囚獄が出来るまで約270年間存続し、この間に全国から江戸伝馬町獄送りとして入牢した者は数十万人を数えたといわれる。
現在の大安楽寺、身延別院、村雲別院、十思小学校、十思公園を含む一帯の地が伝馬町牢屋敷跡である。
当時は敷地総面積2618坪、四囲に土手を築いて土塀を廻し南西部に表門、北東部に不浄門があった。
牢舎は揚座敷、揚屋、大牢、百姓牢、女牢の別があって、揚座敷は旗本の士、揚屋は士分僧侶、大牢は平民、百姓牢は百姓、女牢は婦人のみであった。
今大安楽寺の境内の当時の死刑場といわれる所に地蔵尊があって、山岡鉄舟筆の鋳物額に「為囚死群霊離苦脱」と記されてある。
牢屋敷の役柄は牢頭に大番衆石出帯刀、御■場死刑場役は有名な山田浅右エ門、それに同心78名、獄丁46名、外に南北両町奉行から与力1人月番で牢屋敷廻り吟味に当たったという。
伝馬町獄として未曾有の大混乱を呈した安政5年9月から同6年12月までの1年3ヶ月の期間が即ち安政の大獄で吉田松陰、橋本佐内、頼三樹三郎等50余人を獄に下し、そのほとんどを刑殺した。
その後もここで尊い血を流したものは前者と合わせて96士に及ぶという。
これ等愛国不盡忠の士が石町の鐘の音を聞くにつけ「わが最期の時の知らせである」と幾度となく覚悟した事であろう。
昭和29年11月
江戸史跡保存協賛會
平成2年3月公園整備に伴い由来板を作り直しここに設置するものである。
中央区土木部公園緑地課
(説明板より)
※ ■はパソコン上で表示不可能な文字です。
「松陰先生終焉之地」の碑 (十思公園内) (平成17年11月13日) |
伝馬町牢屋敷跡 (十思公園) (平成17年11月13日) |
都旧跡 伝馬町牢屋敷跡
所在 中央区日本橋小伝馬町1丁目5番地先
指定 昭和29年11月3日
江戸の牢屋敷は慶長年間(1596〜1615)常盤橋外からこの小伝馬町に移転した。
代々大番衆の石戸帯刀が牢屋敷預りに任命されており、管理していた。
そして、明治8年(1875)5月廃止されるまで存続していたものである。
「御府内備考」の記録によれば、その規模の広大であったことがわかる。
すなわち、面積は2,618坪(8639.4平方メートル)あり、さらに、これの敷地の四方を堀でめぐらしていた。
南西部に表門があった。
獄舎は、揚座敷、揚屋、大牢および女牢部屋に分かれ、明暦3年(1657)の収容囚人は130人であり、安政大獄(1859)には吉田松陰ら90余名が収容されたこともある。
昭和44年10月1日 建設
東京都教育委員会
(説明板より)
平成20年7月4日
東京都世田谷区・松陰神社でお会いしました。
松陰先生像 (東京都世田谷区若林4−35−1・松陰神社) (平成20年7月4日) |
松下村塾(複製) (東京都世田谷区若林4−35−1・松陰神社) (平成20年7月4日) |
松下村塾
松陰先生の教育道場であった松下村塾は、叔父の玉木文之進たまきぶんのしんが天保13年(1842)寺子屋を開いて、松下村塾の看板をかけたのが村塾の名の起こりです。
塾長は玉木氏が公務多忙の間、久保五郎左衛門が安政4年(1857)まで引き継ぎました。
その後、松陰先生が再び投獄されるまで引き継ぎ、さらに玉木氏、兄の杉梅太郎らによって明治25年頃まで続きました。
松陰先生は嘉永5年(1852)23歳の時は半年ほど、安政2年(1855)26歳の冬出獄(米艦に乗船を企てて投獄されていた)してから安政4年(1857)11月迄、杉家(松陰の実家)で子弟を教育していました。
この月の5日にはじめて八畳一間の塾舎じゅくしゃが完成することとなり、松陰先生はこの時から塾に起居し塾生に対し子弟同行の実際教育を指導しました。
塾生が増加して手狭てぜまになったので安政5年(1858)3月、十畳半の増築がおこなわれました。
松陰先生が名実共に公に認められたのは、安政5年7月20日、先生29歳の時、藩主より家学かがく(山鹿やまが流兵学)教授を許可され、これから同年12月安政の大獄に連座し投獄されるまでの5ヶ月の間のことでありました。
実際に先生が塾生に教育を施した年月は安政3年8月の頃より安政5年末に投獄されるまでの、通算2年半程ほどであったようです。
松下村塾で薫陶くんとうをうけた塾生はおよそ90名前後といわれており、久坂玄瑞、高杉晋作、木戸孝允、山縣有朋、品川弥二郎、伊藤博文など明治維新を通し、近代日本の原動力となった多くの逸材いつざいを輩出はいしゅつさせたことは特に有名です。
本神社にある松下村塾しょうかそんじゅくは山口県萩の松陰神社境内に保存されている松下村塾を模もしたものです。
(説明板より)
中央:吉田寅次郎藤原矩方 墓 (東京都世田谷区・松陰神社・吉田先生墓所) 向かって右:小林民部少輔 墓 向かって左:来原良蔵多々良盛功 墓 (平成20年7月4日) |
吉田寅次郎藤原矩方 墓 天保元年(1830)〜安政6年(1859)
長州藩士、号は松陰。
年少より大義を唱え、松下村塾を主宰、明治維新の原動力となる有為の青年を多数輩出した。
安政の大獄により刑死。
小塚原回向院より改葬。
享年30歳
小林民部少輔 墓 文化5年(1808)〜安政6年(1859)
諱は良典(よしすけ)。
民部権大輔。
鷹司家々士。
尊王攘夷の志深く、安政の大獄に連座して獄死。
小塚原回向院より改葬。
享年52歳。
来原良蔵多々良盛功 墓 文政12年(1829)〜文久2年(1862)
長州藩士。
尊王攘夷を唱え横浜の外人襲撃を謀ったが、藩世子に過激を戒められ切腹。
芝青松寺より改葬。
享年34歳。
(説明板より)
吉田先生墓所 (東京都世田谷区若林4−35−1・松陰神社) (平成20年7月4日) |
吉田先生他烈士墓所
文久3年(1863)正月。
高杉晋作、伊藤博文、山尾庸三やまおようぞう、白井小助しらいこすけ、赤根武人あかねたけひと等は、松陰先生の亡骸なきがらを千住小塚原回向院せんじゅこづかっぱらえこういんよりこの世田谷若林せたがやわかばやし大夫山だいぶやまの楓かえでの木の下に改葬し、先生の御霊の安住の所とした。
同時に小林民部こばやしみんぶ、頼三樹三郎らいみきさぶろうも同じく回向院えこういんより改葬。
その数日後、来原良蔵くるはらりょうぞうの墓を芝青松寺しばせいしょうじから改葬。
同年11月、福原乙之進ふくはらおとのしんを埋葬した。
禁門の変後の、長州征伐の際に幕府によって墓は破壊されたが、木戸孝允等の手により明治元年(1868)に松陰先生以下の墓を修復し、更に綿貫治良助わたぬきじろすけを埋葬、中谷正亮なかたにしょうすけを芝清岸院しばせいがんいんより改葬、長州藩邸没収事件関係者の慰霊碑(井上新一郎建立)を建てた。
その後、墓所修復の挙を聞いた徳川氏から先生墓所前の石燈籠いしどうろうと墓域ぼいき内の水盤すいばんが、謝罪の意を込め寄進された。
明治8年、来原良蔵妻和田春子を埋葬。
明治37年、桂太郎が長州藩第4大隊招魂しょうこん碑を建立。
明治42年、遺言により野村靖のむらやすしを埋葬。
明治44年、野村靖夫人野村花子を埋葬。
昭和33年松陰先生100年祭にあたり松陰先生墓域の柵を修復した。
(説明板より)
松陰神社 (東京都世田谷区若林4−35−1) (平成20年7月4日) |
松陰神社 (東京都世田谷区若林4−35−1) (平成20年7月4日) |
松陰神社
ご祭神 吉田寅次郎藤原矩方命よしだとらじろうふじわらののりかたのみこと(吉田松陰 先生)
松陰先生は、幕末の思想家、教育者で私塾松下村塾を主宰しゅさいし、明治維新を成し遂げた多くの若者を教育しました。
しかし、安政の大獄に連座し江戸の伝馬町の獄中にて30歳の若さで刑死されました。
その4年後の文久3年(1863)に、松陰先生の門下生であった高杉晋作、伊藤博文等によって、当時長州毛利藩藩主毛利大膳大夫もうりだいぜんだゆうの所領で大夫山だいぶやまと呼ばれていたこの地に改葬されました。
明治15年(1882)11月松陰先生門下の人々が相談し、墓畔ぼはんに社やしろを築いて先生の御霊みたまを祀り神社が創建されました。
(説明板より)
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