島津久光像 平成19年3月30日

島津久光 しまず・ひさみつ

文化14年10月24日(1817年12月2日)〜明治20年(1887年)12月6日

鹿児島県鹿児島市・探勝園でお会いしました。


父は島津斉興。島津斉彬は異母兄。
安政5年(1858年)兄斉彬の遺命で久光の子・忠義が相続したが、のち、久光は国父として藩政の実権を掌握。
大久保利通を信任し、藩内の動揺を収めた。
斉彬の遺志を継いで、公武合体周旋のため文久2年(1862年)率兵して入京し、寺田屋騒動では藩内過激派を弾圧。
勅使大原重徳しげとみを擁して出府し、幕政改革を実行させた。
帰途、生麦事件が発生し、薩英戦争を引き起こした。
文久3年(1863年)8月18日の政変後は京都で国事周旋に尽力するが、徳川慶喜と意見が合わず帰国、後事を西郷隆盛に託した。
明治4年(1871年)の廃藩置県を不本意として鹿児島に留まる。
明治7年(1874年)左大臣。
明治9年(1876年)帰国・引退し、西南戦争では中立を守った。


島津久光公の像



従一位島津久光公之像
(鹿児島市・照国神社脇の探勝園)

大正6年竣工
作者 朝倉文夫


(平成19年3月30日)

探勝園

この探勝園は昭和23年12月28日島津忠重氏が市に寄付されたもので、その面積は7,742平方メートル
園内には大正6年に建てられた島津久光、忠義の銅像をはじめ探勝園記その他の碑があります。

(碑文より)

探勝園内の碑類
鹿児島県原爆犠牲者慰霊祈念碑



鹿児島県原爆犠牲者慰霊平和祈念碑
(鹿児島市・探勝園)





(平成19年3月30日)

碑文

1945(昭和20)年8月6日広島に、9日には長崎に原子爆弾が投下され、二つの都市は一瞬のうちに壊滅しました。
熱線や放射能などで死亡した人は年末までに21万人を超えました。
唯一の被爆国である日本の国民は、あの恐ろしい戦争を再び起こさないよう、また残虐極まりない核兵器の廃絶を叫び続けてきました。
しかし、いまだに実現されていません。
あの時から53年経った今も鹿児島県内の1700余名の被爆者は、原爆後遺症と闘いながら懸命な運動を続けています。
ここに原爆犠牲者のご冥福を心から祈り、核兵器廃絶と世界の恒久平和を願って、平和都市宣言のまち・鹿児島市の絶大なご厚意により、この地にこの碑を建てました。
建立にご援助いただいた国・県・市ご当局をはじめ、建立募金にご協力の皆様に深く感謝申し上げます。

1998(平成10)年10月30日
鹿児島県原爆被爆者福祉協議会

太平洋戦争戦士の墓

太平洋戦争戦士の墓
(鹿児島市・探勝園)

戦士 この下に 眠る

昭和27年4月建之
鹿児島県知事 重成 格


(平成19年3月30日)
太平洋戦争戦士の墓



太平洋戦争戦士の墓

(鹿児島市・探勝園)





(平成19年3月30日)

この墓には今次太平洋戦争において、戦没された本県出身の軍人軍属で身元のわからない御遺骨が納めてあります。
皆様殉国の御英霊に心から敬仰の誠を捧げましょう。

鹿児島県

(説明板より)

第二次世界大戦敵味方戦亡者慰霊碑


第二次世界大戦敵味方戦亡者慰霊碑

(鹿児島市・探勝園)

昭和28年12月25日建設
鹿児島市長 勝目 清



(平成19年3月30日)

第二次世界大戦では 世界中で二千数百万人の生命が失われたようであります
その霊を慰めると共に再びかゝる惨事が起こらないようにと思ってこの碑を建てました
旧薩摩藩主島津義弘は 朝鮮での戦争で亡くなった敵味方の人々のため 慶長4年 高野山に供養碑を造りました
これは日本における赤十字精神の立派な見本として世界各國に有名であります
此処に造った碑は前記の供養碑と同じ形同じ大きさであります

昭和28年12月25日
鹿児島市長 勝目 清

(副碑・碑文より)


四賢侯

島津久光(薩摩藩国父)・松平春嶽しゅんがく(前越前藩主)・山内容堂ようどう(前土佐藩主)・伊達宗城(前宇和島藩主)

(参考:『歴史街道 2008年9月号』)

(平成20年8月25日記)


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