名古屋城 なごやじょう

愛知県名古屋市中区本丸1−1


名古屋城の生いたち(パンフレットより)

名古屋城は、関ヶ原の合戦後江戸幕府を開いた徳川家康が、慶長14年(1609)江戸幕府の東海道の要所として、また、大坂(現大阪)方への備えとして、清須(現清洲町)から名古屋へ遷府を決定し、加藤清正・福島正則・前田利光等北国・西国の諸大名20名に普請(土木工事)を命じ、天守閣や諸櫓の作事(建築工事)は、慶長17年(1612)にほぼ完成した代表的な平城です。
その後、明治維新をむかえるまで名古屋城は、徳川御三家の筆頭尾張家の居城として栄えました。
第二次世界大戦中の昭和20年(1945)5月、名古屋空襲の際、大・小天守閣、本丸御殿はじめ建物のほとんどを焼失しましたが、幸いにも焼失をまぬがれた三つの櫓(西北・西南・東南)、三つの門(表二之門、旧二之丸東二之門、二之丸大手二之門)と本丸御殿障壁画の大部分は、重要文化財として現在に伝えられています。


名古屋城天守閣 平成15年11月28日

名古屋城の概要(説明板より)

名古屋城は、関ヶ原の合戦後江戸幕府を開いた徳川家康が、慶長14年(1609)江戸幕府の東海道の要所として、また大坂(現大阪)方への備えとして清須(現清洲町)から名古屋へ城を移すことを決意し、翌15年(1610)に着工、17年(1612)に完成させた代表的な平城です。

普請(土木工事)を命じられたのは加藤清正、福島正則、前田利光など北国・西国の大名20名、城内の石垣には各大名や家臣たちがそれぞれの運んだ石に刻んだ目印(刻紋)が多数残っています。
その後、名古屋城は明治維新を迎えるまで、徳川御三家の筆頭尾張家の居城として栄えました。

明治にはいり陸軍省の所管となり、名古屋鎮台司令部や兵舎がおかれましたが、明治26年(1893)に宮内省に移管され「名古屋離宮」となりました。
昭和5年(1930)12月、離宮が廃止、名古屋市に下賜され、翌年2月から一般公開が始まりました。

昭和20年(1945)5月の空襲で大小天守閣と本丸御殿などが焼失しましたが、焼失を免れた3つの隅櫓と3つの門、御殿障壁画1,047面が国の重要文化財に指定されています。
昭和34年(1959)に大小天守閣と正門は、ほぼ昔どおりの外観で再建されました。


本丸御殿跡と天守閣



本丸御殿跡と天守閣

手前の石の並んでいるところが御殿跡です。




(平成15年11月28日)

本丸御殿復元予想図 本丸御殿復元予想図(説明板より)

名古屋城と本丸御殿の歴史

名古屋城は、江戸城や二条城などに次いで徳川家康が造った最後の大城郭であり、江戸幕府の城郭様式が最終的に定められた名古屋城の歴史的意義は極めて大きいものです。
特に本丸御殿は、玄関、表書院、対面所などが連続した武家屋敷の典型であり、建築や絵画、工芸史において最も豪壮華麗と言われる安土桃山から江戸初期に造られた近世城郭御殿の最高傑作でした。

名古屋城の築城は慶長15年(1610)に始まり、同17年(1612)には天守閣や諸櫓が完成しました。
続いて本丸御殿は同20年(1615)に完成しました。
当初、本丸御殿は尾張藩主義直の居館とともに藩の政庁として使われましたが、その後、将軍が上洛する際の宿館となり、寛永11年(1634)には最も豪華な上洛殿が増築され、3代将軍家光が宿泊しました。

明治維新の後、名古屋城には名古屋鎮台が置かれ陸軍省の管理となり、明治26年(1893)には、本丸や西の丸などが宮内省に移管され名古屋離宮となりました。
昭和5年(1930)名古屋市へ下賜の後は、天守閣や本丸御殿は国宝として保存されてきましたが、昭和20年(1945)5月に戦災で焼失してしまいました。

天守閣は昭和34年(1959)に外観復元されましたが、本丸御殿は礎石のみを残して今日に至っています。

(説明板より)


西北隅櫓




西北隅櫓





(平成15年11月28日)

西北隅櫓すみやぐら(重要文化財)

別名を戌亥いぬい隅櫓とも清須きよす櫓ともいう。
屋根三層、内部三階で、最上層は入母屋いりもや造り本瓦葺で、清須城の古材を多く用いて建てられた。
一階の外壁の西面・北面に出張った落狭間おとしざま(石落し)を設け、屋根を千鳥破風ちどりはふにし偽装している。
現存する他の隅櫓と違って、内側の東面・南面にも千鳥破風を設け荘重で安定感がある。

(立て札の説明文より)

この立て札の下に1枚の紙が張られていました。

※ご観覧のお客様へ

名古屋城西北隅櫓については、各種古文書や研究書で、清須城の小天守閣あるいは櫓を
移築したものであるとか清須城の古材が使われていたのではないかとの記述がされていま
すが、本市が昭和37年から昭和39年に行った解体修理では、他の建物の古材が多く用い
られていることは確認されましたが、清須城のものが使われているという確証は得られてお
りません。

名古屋城管理事務所

西南隅櫓




西南隅櫓





(平成19年4月2日)

西南隅櫓(重要文化財)

古くは未申ひつじさる櫓ともいわれ、屋根二層、内部三階の櫓である。
外部に面した西・南両面には軍事用の「落狭間おとしはざま」(石落とし)を張り出して屋根は千鳥破風ちどりはふにし偽装している。
この櫓は濃尾大地震で石垣と共に崩壊したが、大正12年(1923)宮内省によって修理復旧され、鬼瓦などに菊花紋が見られる。

(説明板より)


二之丸大手二之門




二之丸大手二之門






(平成20年4月16日)

二之丸大手二之門

この門は二之丸西にある枡形の外門となるもので、内門である大手一之門(現存せず)と共に古くは西鉄門といわれ、二之丸正門を形成していた。
俗に枡形御門ともいい、一間一戸、屋根切妻造本瓦葺で、高麗門の形式をとる。
なお、二之丸東側には東鉄門と称されていた二之丸東二之門があったが、現在は本丸東二之門跡に移築されている。
共に国の重要文化財に指定されている。

名古屋市教育委員会

(説明板より)


名古屋城の金の鯱しゃちほこ

名古屋城の金鯱きんしゃちは、将来、財政に困った時のことを考えて、徳川家康が溺愛した九男の義直よしなおのために天守閣に揚げさせたものと言われている。

鯱は雄雌一対で、天守の北の雄は八尺五寸(約2.58メートル)、南の雌は八尺三寸(約2.51メートル)。
うろこは雄が194枚、雌は236枚。

享保11年(1726)、6代藩主・継友つぐともの時に、修理と称して地上に降ろした。
これは江戸の大火で尾張藩邸が類焼し、その再建の為に多大な費用がかかったため、この金鯱の金を使用して、鯱の金の品位を落とすためであった。
この方法は、その後、文政10年(1827)、弘化3年(1846)にも行なわれている。

明治4年(1871)、名古屋城の取り壊しが決まり、金鯱が地上に降ろされたが、監視に当っていた陸軍の番兵が3枚の鱗を盗み処刑される。
その後、ドイツ公使の呼びかけがきっかけとなり、名古屋城保存の声が地元からも巻き起こり名古屋城は取り壊しを免れ、明治12年に金鯱は天守閣に揚げられた。

昭和12年(1937)には、金鯱強盗が現れ、雄の194枚の金の鱗のうち58枚がペンチで切り取られ盗まれている。
その後、昭和20年(1945)5月14日、米軍機の爆撃により天守や本丸御殿が焼失。
金鯱は溶けてしまい、僅かに回収された金で、2個の茶釜と名古屋市旗の竿先の飾り玉が作られた。

昭和34年(1959)、名古屋城が再建され、金鯱も再建。
鱗は18金で出来ており、雄の鱗は112枚、雌の鱗は126枚。

(「歴史街道 2005年9月号」より)

(平成17年11月7日追記)


 (関連商品のご紹介)

名古屋城 金鯱 名古屋 



 トップページに戻る   お城のページに戻る