(別称:清須城)
西春日井郡清洲町大字朝日字城屋敷1−1(清洲文化広場)
「清洲城」のパンフレットより
室町時代の初め、尾張の守護職であった斯波義重は、清洲に守護所下津城(現稲沢市)の別郭として清洲城を築き、織田敏定を守護代としてその勢力保持をはかったといわれています。
文明8年(1476)守護所下津城が戦乱により焼かれ、清洲に守護所が移って尾張の中心地となり繁栄の時代を迎えます。
斯波氏は当時、室町幕府を支える三管領(斯波、細川、畠山)の家柄で、将軍家に次ぐ有力な守護大名でした。
この後、弘治元年(1555)には織田信長公が那古野城から入城、桶狭間で今川勢と戦ったとき、この清洲城から出陣をし大勝しています。
本能寺の変のあと清洲城主は次男の信雄となり、天正14年(1586)大改築され、内・中・外の三重の堀を構えた大城郭に生まれ変わります。
このときの城下の範囲は東西1.6km、南北2.8kmに及んだと伝えられています。
その後、慶長15年(1610)徳川家康は清洲廃都、名古屋遷都を指令し、慶長18年尾張の都「名古屋」がほぼ完成しました。
信長公の偉業を継ぐ2人の天下人豊臣・徳川のお膝下にあって「東海の巨鎮」、「天下の名城」などと賞賛を博した清洲城は、6万都市とともにその姿を消しました。
これを「清洲越し」といいます。
当時の臼引歌は、そのありさまを「思いがけない名古屋ができて、花の清洲は野となろう」と唄っていますが、まさにその通りでした。
織田信長・信忠・信雄の親子三代後の清洲城は、豊臣秀次(関白)・福島正則(秀吉腹心の大名)・松平忠吉(家康の四男)・徳川義直(家康の九男)の四代です。
当時、時の為政者が天下を統一、掌握するに当たって、清洲をいかに重要視していたかがうかがえます。
なお、名古屋城築城に際し、清洲城も築城の材料として積極的に利用され、特に名古屋城御深井丸[おふけまる]の西櫓は、清洲城天主の古材でつくられました。
この西櫓は「清洲櫓」とも呼びばれ、今も堀に美しい姿を写しております。
平成14年10月27日
三重四階の模擬天守は郷土資料館になっています。 |
(平成14年現在)
清洲古城跡 清洲城の対岸にあります。 「右大臣織田信長公古城跡」の石碑が建っています。 (平成14年10月27日) |
清洲城沿革
尾張守護所は文明10年(1478)ごろ、下津城(稲沢市下津町・文明8年11月焼失)から清洲城へ移る。
当時守護斯波義廉しば・よしかどは争乱をさけ越前に逃れ不在、将軍足利義政は織田敏定としさだに尾張争乱の鎮定を命じ、敏定を守護代に登用し、清州城主とした。
それ以後、慶長14年(1609)徳川家康の指令により名古屋へ遷府されるまで約130年間清州は尾張の国都として繁栄した。
弘治元年(1555)那古野城主(名古屋市那古野神社附近)織田信長は伯父守山城主織田信光と共に、守護斯波義統殺害の仇を報いて、清州城主護代織田信友を清州城に討ち、清州に入城した。
ここに尾張の守護制は全く崩壊し、以後織田信長が同族を統一して尾張の国持大名として生長した。
織田信長以降の清州城主の系譜は以下のとおりである。
織田信長 弘治元年より天正2年まで 20年間
織田信忠 (信長嫡子) 天正2年より天正10年まで 9年間
織田信雄 (信長二男) 天正10年より天正18年まで 9年間
羽柴秀次 (豊臣秀吉養嫡子) 天承18年より文禄4年まで 6年間
福島正則 (秀吉重臣) 文禄4年より慶長5年まで 5年間
松平忠吉 (徳川家康 子) 慶長5年より慶長12年まで 8年間
徳川義直 (徳川家康 子) 慶長12年より慶長18年まで 7年間
慶長14年(1609)徳川家康は清州から名古屋へ遷府を指令し、同15年名古屋城の基礎工事と城下町の市街区画をほぼ完了し、同年より清州城下町の武家・町家・寺社の移転を始め、慶長18年には新しい名古屋の城と町ができた。
徳川義直は名古屋城主になり、清州城は廃城になった。
清州城の遺構
天守台 当掲示板が立つ小丘地
本丸跡 清州公園
小天守 現名古屋城御深井丸おふけまる西北櫓(清州櫓)
書院 名古屋城黒木書院(戦災焼失)室内障壁画現存
城門 名古屋市高岳院黒門(戦災焼失)
五條橋 名古屋市円頓寺堀川に移設、慶長7年銘擬宝珠は名古屋城内に保存
清州町教育委員会
(説明板より)
「清洲公園」に建つ織田信長公銅像 26歳、桶狭間出陣の雄姿を模した像です。 (平成14年10月27日) |