Re:底の抜けたバケツ

In Reply to: 底の抜けたバケツ
投稿者:来生自然
投稿日時:2001年11月14日 08時08分05秒

> >わたしは、このような実験系をいくら突き詰めていっても、おっし
> ゃられるような問題は、決して解決できないだろうと思っています。
>
> 諸科学が実行される土地に流れている<時間>が、「今・今・
> 今・」の連鎖としての時間であるので、哲学が担っているような
> 「問い」に、諸科学が哲学にとって代わる(代理)仕方で答えよ
> うとするとき、底の抜けたバケツで水を汲むような行為となる気
> がします。・・・この「時間」の正体は、未だ、十分に把握でき
> ていませんが。

「底の抜けたバケツ」ね〜〜。^^;
哲学の側からはそのように見えますか(笑)

「科学的問い」に答えようとすると「底のあるバケツ」なのに、
「哲学的問い」に答えようとしたとたん「底の抜けたバケツ」に変
わる。ということですね?

このバケツを「科学的バケツ」とすると、「哲学的バケツ」では、

「哲学的問い」に答えようとすると「底のあるバケツ」なのに、
「科学的問い」に答えようとしたとたん「底の抜けたバケツ」に変
わる。
ということは、ありうるのでしょうか?

すなわち、汲み出そうとしている対象物は同じところからきている
のでしょうか?
それとも、別のところからきているのでしょうか?

それとも、「哲学」の土地には「バケツ」というもの自身が、もと
もと存在しないのでしょうか?


> ところで、哲学が担っている「問い」とその「応答」の土地を流
> れる<時間>が「反復される時」である場合。

<時間>の概念が異なっているのかもしれないですね。

「諸科学」の土地では、<時間>は、「ものごとの移り変わり」に
て定義されます。

人間同士の間では、たまたま「<光>を共通の刺激として認識でき
る」ため、<共通の時間>を<光>でもって定義しているだけです。

「反復される時」とは、
「科学的」<時間>では、「流れ続ける時」の中で「底の抜けたバ
ケツ」でもって、くり返し汲み上げようとするために、「哲学的」
<時間>で見ると、「反復される時」に映る。
と、考えてよろしいでしょうか?

> 諸科学が哲学を代理しようと企てるとき、常に自身を更新しなが
> ら作動する自分自身の<時間>系列を、更新ではなく反復される
> 永遠の「問い」と「応答」を前にして発動してしまうという越権
> 行為的結果となります。
> そこに在る「問い」と「応答」を前にして、諸科学の言葉は、無
> 限に食い違い続ける・・・。何が起きるか? それが、本来、
> 「リアクション」であり、「金太郎飴」だと考えます。

哲学の問題に対する、哲学的な「問い」と、科学的な「問い」との
違いはあるのでしょうか?
「問い」そのものは同じだと思いますが、「発生する土地が違う」
ので、「同じ言葉」でも「違う言葉」になるのでしょうか?
それとも、「応答」が異なるのでしょうか?

ジョーカーさんが書いておられる「諸科学の言葉」の<言葉>には、
日常的に使用している「言葉」のみではなく、「思考方法」を含ん
でいるように感じられます。

私の感じでは、ジョーカーさんが問題にされておられるのは、「問
い」や「応答」ではなく、「問い」にたいする「応答」を考える
「主体」の差(土地の差?)なのではないでしょうか?

以下の文からそのように感じました。

> ただ、諸科学を否定することが目的ではないのです。科学的実践
> と哲学的実践の在り様の<差異>、このふたつのものの「カスト
> ール」と「ポリュデウケース」という<差異>が押さえられて置
> く必要がある、って感じです・・・
>

両者の「差異」を超える、(広義の)「哲学」が存在する土地では、
本来的な「問い」に対する「答え」が得られる可能性があると思わ
れますが、いかがでしょうか?

http://www.geocities.co.jp/Technopolis-Mars/4597/

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