お見苦しいことですが・・ただ今、工事中です。m(__)m

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40) ヤマギシズム学園の拷問?                 at 2000 07/07 10:40 編集

> でだ、「ヤマギシ学園は、苛酷な労働を強いる。拷問が行われてるとこ、で、問題になってる」
> と、聞いたんだけど、真相はどうなのかな? 拷問ってのが、全くなかったわけじゃないのかな?
> 何か知らないかい?

ただ大笑い・・から、苦笑・・だな。
ヤマギシズム学園は、繰り返すけれど親と子で創ってゆく学園です。
親達がどんな環境が子供達に必要か、と考えてその養育環境を如何にして用意してゆくか、創ってゆくかで皆とともに考え、教育と養育の主体たらんとして努力しあいます。
子は、学習の主体に集中できるように大人たちが環境だけを用意して、作ってゆきます。
マスコミ等の批判に晒されたのは、親の願いと子の思いが一致しない親子関係にあった子が、用意されてある環境にやらされ感しか感じられないのに、学園に居続け為の弊害を突かれたものだと考えます。

親自身にも学園イコール○で、学園から出ることは×、つまり落ちこぼれ的な意識を「所有」していたことから、子供達に余計なプレッシャーを与え、中には傷ついた子も居たのだと思われます。
元々の親子関係が、夫婦関係がどうであったのかが必然的に問われるところかもしれません。

学園は、あくまでも「自発的自由意志」を育て、異年齢の子供たちの中での切磋琢磨の中で、豊かな社会性を培いあうのが養育方針としてあります。
それは、学園と言う組織が最初にあって、この理念に賛同するかどうか・・と言うことではなく、親達の養育方針に添って建てられたものです。

ヤマギシズム学園の設立は、子供達の要望によって突き動かされた親達の献身的努力によって、建学されたのです。
その、初心に関係なくただ入れさせられた、としか感じられない子供達は皆と共に創る暮らしと言うのに耐えられない日々になっていったと推察できます。
元々学園に入学するには、本人の面接が重要な要素としてあり、やる気が無いと感じられた子は入ることが出来なかったはずなのです。

多分、親の願いに負けて自分を曲げて入学したのでしょうね。
入ってみたら、「共に」が出来ない、やれない自分だったことに気がついて、何とかここからでて、好きなことをやりたい。
でも、親は首を振ってくれない。 きっと、その子達にとっては拷問に思えたことでしょう。

すべて、親子の愛情基盤の如何が問われることだったと思われます。
やれない子、創造性が伸びやかに発揮できない子、仲良しを拒否する子等々地域にもいくらでも居ます。                  結局、自分の子育てが自分で為すことが出来ない親が、学園に依存していた、という面があったことも否定できないこととして、浮き彫りになったかなと私個人は考えられました。
親の問題だけではなく、皆と一緒に暮らしを創るということに、向かない子も中には居たと思われます。
学園は、矯正機関でもなく、所謂そういった 施設でもありません。

やりたい子だけが入って、創ってゆけばよいのです。

今、ヤマギシズム学園はヘンな言い方ですが、子供達のやりたい放題です。
髪を染めようが、マニキュアをしようが、化粧をしようが、規制は何にもありません。
勿論、以前からそういう規制・規律・規則なるものはひとつも無かったことなのですが・・・。

用意されてあることが、子供達にはやらされている、となったり、禁止されていると受け取られていることに、親達・大人達が、どうなんだろうかと考えなおしました。
子供達に育てたい、自立・自律って・・なんだろう等々・・・。

現在でも、本人に成長したいといったやる気の無い子は勿論入学できないし、しても途中でやれないと感じた子は直ぐに退学します。 親達も我が子に対して、無理押しは絶対にしないで、そう言う子を受け容れられる地域環境を創って、何時でも迎えられる 環境づくりを以前よりも積極的に、取り組むようになってきています。
それで、一旦地域に戻った子がしばらく地域で暮らしたあと、自分を見直すのでしょう。再度学園に入学しなおす子が沢山でるようになりました。 すべてが、子供本位です。

子が、こんな風に成長したい・・と言って来たら、私達親は何処までも、何処であろうと応援することでしょう。

農ある環境を如何に活かして自分達の成長のし合いに繋げてゆくか、農はやらずに学業だけで思いっきりやれる環境を享受するか、野球で育つを徹底してやりたいとするか等々、彼らには24時間が成長のための学びの場と環境が用意されて 在ります。

やるかやらないかは、本人の「自発的自由意志」次第です。 それが、ヤマギシズム学園の建学の精神であり、現実の姿です。

近くの実顕地に行って、実際に観てこられたらどうですか? 観てないから、マスコミに惑わされるのです。                  いきなり行っても迷惑でしょうが、教育の学習をしているなら是非、観させてもらうと良いと想います。
ガラス張りですから、遠慮は要らないですよ。

 

39) ヤマギシズム学園の親・取材を受けて

at 2000 06/06 11:41 編集

M新聞社  週刊誌「S」編集部                                          記者 T.O 様  

記者0さんの手紙に書かれたことはごもっともであり、そのまま私どもも最重要課題として常日頃から気を置いているところであります。                                       

仰る様に、どんなに親子が親密であろうとも子は親に対して、或いは大人達に対して本当のことを曝け出すことはまれではないかと感じています。                        

何処まで子供の真意を親自身がつかんでいるかは、残念ながら不確定なものといわざるを得ないのが実情でしょう。このことは、ヤマギシズム学園の親子に限ったことではありません。
つかもうとどれだけ子供に対して、親達が「聴こう」「観よう」としているかにかかってくるのは、総ての親子の問題です。

如何にして親子の愛情基盤を深め、強力にして行くか、その為のみに子供達にとっての本当に求められる地域環境と学園を、親達が集まって創り合っているといっても過言ではないのです。
親子だけではなく、親同士も決め付けや、先入観・常識観念にとらわれて我が子や周囲が観とおせなくならないように、互いに観合ってそれぞれの、「その子」にとってを皆で真剣に考えられ、観られるような環境や関係をつくって、やっていこうとしてきています。
あくまでも独善に陥らない様に、これ以外には無いのだと決めつけた観方からの考察・言動になら無いようにと日々実践しています。

子供にも私達親にも気持ちの揺れはあり、迷いも、甘さもあります。  親も子もそんな人間の様々な葛藤を曝け出せる場づくりと、育ち合える環境を創って行きたいと努力しています。
親の願いが、過大な圧力・威圧となって子供に懸かっているのであるならば、子供の心のとらわれを先ず、解放してやることが必須の問題となりましょう。

何故嫌なのか、何故やりたくないのか、何がしたいのか等々、「聴いて」行くことから始まると想い、体感もしているところです。     「聴ける」親、或いは社会人(社会の親)になりあっているのかどうかは、親の生き方を、規範となるべき大人達の姿勢なりを、子供たちにもたらす意味では重要な要素のひとつだとも考え、どこの地域社会にも共通の子育て基盤だと考えられます。

いろんな理屈や、どんなに立派な教育理念を述べようとも子供は親のしたようにしか育ちません。
または、その地域社会の有り様の中でしか育ちません。
そして、その時代の社会環境によって染脳されて行くのです。  そういう子が親になって、また自分たちの子を生み出して行きます。 押し付けたりはしなくとも、親の生きる姿勢は自然と子供に良くも悪くも影響を与えずにはおかないことでしょう。

目的も無く、或いは見出せないまま、何をしていったら良いのか分からない自律と自立の出来ない子供達を社会に送り出すわけにはいきません。
無理に聞き出すとか脅して諭すとか制裁や罰を与えて、調教するような人間養成は私達の最も忌み嫌うところであり、今の私達の養育理念・方針・計画と実践の対極でもあります。

しかし、何といっても子育ての究極は「夫婦愛」「夫婦仲」に始まり、それに尽きるものとも考えられます。  理屈は要らないのです。
家庭の平安と親の生きる姿勢が明確であるかどうかが、出発点ではないでしょうか。  そして、親が生きがいをもって生きているかどうか、夫婦が生き甲斐を「共に」しているかどうかは、子育てに非常に大きな要素ともなり、役割となるはずです。
記者Oさんの文章に刺激されて、想いつくままですが書かせていただきました。
お時間があれば、感想・ご意見・ご指摘等いただければ幸甚です。              

                                          平成11年4月27日                                                                     ヤマギシズム学園・親の会   島 村 安 弘  

PS: 地域では、この度の地方選挙で私が推薦文を書かせていただき、支援している市議の再選のために、地域の人達と手作り選挙に取り組み、超多忙でした。
選挙カーも作らず、ひたすら徒歩遊説に廻りました。 土曜日の暴風雨の中を手を凍らせ、口も悴み、脚もしびれてグショ濡れになりながら、地域住民の皆と一緒に「新しい街づくり」に向けて一致協力して創りました市民運動の会です。

総力結集の心は実り、前回の25名定員中22位初当選だったものが、今回は2%程投票率が下がったにもかかわらず、36%の得票を上積みして13位で当選しました。
私達の地域社会づくりも本年で12目に入ります。 遅々とではありますが、着々と進めて「共に」やっていく仲間も増え、活性化に向かっています。

我が子に限らずですが、例え我が娘が何時地域に戻ってきても良いように、受け入れられる環境を創り、溶け込める場としての地域社会は用意しておきたいです。

 

38) 自然は、怖いぞ・・

at 2000 05/26 09:35 編集        

我が家のある駅に降り立ったら、何か様子が変だった・・・。

立ち木のある辺りに足元が木の葉で埋まるくらいに一面の落ち葉なのだった。
???? 少しゆくと・・人家の軒下に残雪のような白い山が所々にある。

傍にによって手にとって見ると・・・ナント! 親指大の氷だった。
ひょうが降ったらしい。なんとも、凄まじい光景だった。 道という道は、まだ若い木の葉で埋まり、踏んで歩くのが痛々しいほどだった。

家に帰ると、またひとしきり大騒ぎ! お昼頃、一点俄かに掻き曇り、あっという間にひょうの嵐だったそうな。
大きいものはみかん大もあったとかで、うちの団地も一軒残らずどこかの窓ガラスをやられたらしい。
ひどいところは、北側に面したすべての大きな窓ガラス全部がやられたうちもあり、車などガラスは何ともないけれど、ボディがボコボコになったのがあったらしい。

うちとこも、トイレの窓ガラスが一枚やられてたよ。
翌朝、中くらいの?楠木・ケヤキはもとより、何十本とあるイチョウが、マルボウズ!!
昨日まで青々として、瑞々しし香りを発していた木々が・・・まるで、真冬の枯れ木のようになっていた。

なんとも、痛々しく、すさまじいありようだ。
夕べは気が付かなかったが、家々のガレージの屋根に貼ってあったアクリル板、波板の全てが破壊され尽くしていて、ボロボロ!
マシンガンに連射でもされたかのようだった。

スイカ畑は全滅だろうな。梨もダメだろうナァ・・・。
そういう時の、農家の生活保障って・・・あるのかなぁ・・。

 

37) 「癌を明るく生きる」からの、お知らせ

at 2000 05/15 17:55 編集

「癌を明るく生きる」の伊藤勇さんのページを大幅更新! 〜♪  

ぞくぞく寄せられているHPを見ての感想文のページを増やし、管理人の柳川千恵子さんのあいさつのページもつくられました。

また、リンク集のページも新たに作成。 ごらんください(^o^)丿

TOP  http://www.asahi-net.or.jp/~is9c-yngw/index.html

リンク  http://www.asahi-net.or.jp/~is9c-yngw/rink.htm

36) 「癌を明るく生きる」

at 2000 04/14 09:36 編集

末期癌を宣告されて、自分の会社もたたみ、既に戒名まで用意して尚且つ、「癌を明るく生きる」と言って、全国を講演や座談会にと飛び回っている「伊藤勇」さんが、とうとう自分のHPを開設しました。

何ものにも拘らず、執らわれず、縛られない生き方。 病身と病気の区別をする取り組みとは? 信じられないほどの健全さは、一体何処から来るのだろうか。

必見!当家の「和と輪」のページからリンクを貼ってあるよ。 みんな、覗いて見てね。

 

35) ヤマギシの村・参観

at 2000 03/21 10:48 編集

以下は、あるMLに発信されていた某お母さんからのメールを、ご当人達の了解を得て転載させてもらいました。

<ヒゲオヤジ> −−転載−−

ヤマギシズム学園高等部を途中で退学して今、自分の足で立とうとしている娘が勉強をしたいと言い出して、大検を受験することになりました。 そのためにその予備校に通い始めました。 その予備校では沙織はヤマギシでの生活、学園で味わった事などつたないながらも伝えたくて話をしていたようです。 そして、大好きな担任の先生(26歳の独身の女性、とっても美人で・・・まあいっぱい素敵な人です。)が村参観に行くことになりました。 なんと、その話を聞いていた友達のTちゃんも急に「行きたい」となり私と4人で春日山探検隊ができあがったわけです。 参観後、娘が送った先生へのメールを紹介します。

来てくれた事がとても嬉しかった!!

うち、ヤマギシの事よく色々な人に話すやろ?!
うちがヤマギシの村・学園で学んだ事、感じた事ほんと良かったなと思ってる!!!
だから、私が去年何処で何をやって来たかっていうのは、話したくなる。

Yちゃんとかは、言いたく無いみたいだけどね! 人になにを言われようとそんなの何も気にならない

だからと言って、うちがどうがんばって話しても、うちの伝えたい事ってなかなか伝わらないんだよね!!

それは、それで良いと思ってるんだ!!

だけどね、ヤマギシの事知らずにマスコミの言ってる事がヤマギシだと思われてるのが、凄い悔しいねん!!

だから、うちは、色々な人にヤマギシの村を自分の目で見て自分なりに感じて欲しかってん!!
だから、とにかく今回先生やTちゃんが、村に来て、自分なりに村を味わってくれて本当に嬉しかった!!!

『本当に村に来て良かった!!』って言ってくれたやんかーその言葉がとても嬉しい!!
何かI先生には、凄く見てもらいたいっていうのがあったな!!                       

先生見てて、色々な事感じてくれそうやったから、、、、。

うちも、今回行って、つくずく「ヤマギシってなんだろう?何か凄い なー」って感じがした!                           

帰って来て、自分が優しい気持ちになっててん。何でやろうな−?!

先生はどうやった?

 

 

 

34) ある教師へのお願い

at 2000 02/29 23:08 編集

>>とにかく子供達には、「いつでも、何処でも、誰とでも」思いっきりやれる場を用意してやって欲
>>しいし、云々・・。
> それはお気持ちはわかりますが、規律のない自由はありません。特に学校という多種多様な
>こどもた ちの集団ではある程度のしばりがないとけがや事故のもとになってしまいます。

好き勝手に、自分本位に、気ままに等々を育てようと呼びかけているのではないのです。
「規律」があるから、してはいけないのだと教えることでもないと考えます。
「自由」というのは、自分自身の中に執らわれのない状態、先入観・既成観念のない自分の有り様を言うのじゃないでしょうか。

規律に縛られたり、執らわれたり、拘ったりしていたら開放された人にはなり得ません。
たとえばですが、人を殺すのは規律があるから殺してはいけないのではないと想うのです。
それをするのはどうなのかと考えられる自律性とでも言うのでしょうか、そういう人間としての最低限の、大切な社会性を培うのが、学校も含めた大人たちの地域社会が担う、重要な役割としてあるようにも想います。

子供達に育てたいのは「自発的自由意志」であり、それらに基づく創造性と豊かな社会性と言えるのではないでしょうか。
それが、教育の目標でもある「自立・自律」につながるのだと考えます。
悪遊びをして、階段から突き落とそうとしたりするようなことでもあれば、厳しく「叱る」ことは当然で、必須なことです。
でも、叱るのは規律があるからではないのです。
脅かすのでも、怒るのでもありません。

突き落とそうとした当人だけではなく、突き落とされそうになった子も含めて、周りの子供達全員に、
「大人(社会の親)の真剣さ」を伝えることのみに全エネルギーを集中させて「叱る」ことが求められると考えるのです。
つまり「叱る」とは、「真剣さ」の伝達と言っても良いことだと認識しています。

子供達には、自分のしたら良いことが自然に身につくような自ら「学ぶ」「育ち合う」真の生きる力をつけていって欲しいです。
「何でも、思いっきり」やれる環境を創ってゆくのは学校だけのことではなく、地域社会の使命でもあります。
豊かな社会性とは、大人たちにそういう素地がなければ勿論、子供たちにも伝わり様がないのも確かです。    

規律は、規律として、あるいは規則だからと言って縛るのではなく「それはしない」こととして、自発的に子供達の中に群れ育ちの中で、自然に入ることが肝要だと想います。
それは、学校だけの問題ではなく、各家庭で子供の中に日常生活を通して、如何に親が入っているかや、親子の愛情基盤等にも大いに関係してくることでもあるように想います。
 

子供達の成長と共に、そのお手伝いを大人たちは観守ることをさせてもらいながら、必要な環境づくりをして、親同士も育ちあうことも飯を食うことと同じように重大なことのように考えます。 

貴女も、おっしゃっていますが、どうか、子供達の創造性を駆り立て、伸ばし、「やる気」を引き出し、学ぼうとする意欲と、楽しさを思いっきり味あわせて育んでやって欲しいと、切望します。

決して、規則や規律を盾にして子供達を縛ったり、観念に染めないでください。

 

 

33) 教育は技術か?

at 2000 02/29 23:05 編集

> 自分が書いたものに返事をいただけるのは、自分を振り返ることができてうれしいです。
>
それが苦言でもです。

ありがとう。  私のほうも、貴方にぶつけたわけではなく、質問者の方にとって必要なのは技術以前のところではないのかなと皆の中に提示したつもりだったのです。

親がハッキリしていなければ、子は行き場に迷います。  教師も同様ではないのかな、と考えます。 つまり、大人たちはすべて社会の親としての自覚が必要・・・というと、少し飛躍しすぎでしょうか。 迷うな、ということではなく「迷わない親達」になりあいたいですね。

「生きる力」って何だ。「ゆとり」って?                                                          自分自身にそういう規範となるものや、自然に備わった日常の姿勢がなかったら、子供達にも同僚にも、親社会の間にも、互いにもたらしうる育ちあいの場になりにくいと想うのです。                                                  そういう意味では、自分の弱さも欠点もさらけ出して皆に観てもらうという素直な姿勢は、本当に大事にしたいです。

質問者の方が求めるのは、解答でしょうか。

私たちが、その方にとって本当に考えられるような契機となる意見は、正解を伝えることなのでしょうか・・・。                一時的に誰かの意見でその人が何かを発見したような気がして、自由になったような、開放されたように感じたとしても、今度はそれを本人は自分の中でマニアル化して、あるいは教義のようにしてしまい、そのマニアルに自分がとらわれ、縛られ、不自由になってゆくことだって、ままあることです。

本当に、その人にとって必要なことはなんなのか・・ということは、子供達の養育の根源にも関わる重要な問題のように考えます。   「この子にとって、本当はどうなのか」「その子にとっては・・・」と観る、聴ける自分を用意して、大人たちも観合い、聴き合いながら成長してゆける場を創ってゆけたら良いですね。

勿論、このMLも含めた話をさせてもらっています。  

なんだか、取り止めがなかったかも知れませんね。

技術論・方法論に走っているように感じましたので、あえて発信させてもらったものです。

 

32) 我が子が荒れている

at 2000 02/24 17:18 編集

>中学生の息子がどうやら学校であれているみたいです。
>原因は多分勉強がわからなくておもしろくないのと、家庭での人間関係がうまくいってないことだと思います。

勉強は関係ないものと感じました。
教育・子育ての最大目標は、その子の自立(自律)性の養成にあると私は考えています。
自立(自律)には自発的自由意志の養育と健全な社会性の培いが密接不離であると想われます。
そのことを踏まえた上ですが、一つには子ども達の社会性を培う子ども社会がないのではないかという点、更には受け皿となる地域社会がない、あるいは地域社会の発展に親が全く無関心。
いわゆる、親(親達)の後姿がない。  

次に、現代の社会現象ともなっている、家族の各々が家庭の中でそれぞれが、ホテル住まいや下宿生活をし合っていて、人間としての触れ合いをする機会が乏しい。

> 勉強がわからなくて、なおかつ人間関係もうまくいかなくなってきたら本人にとって、学校って魅力 >のない場所になってしまいます
> 息子にとっても親が教師であることがきっと重荷になっているに違いありません。
> 学校以外のことで何か楽しみを作ってやらねばならないことと、とにかく遅れている勉強を何とか >少しはわからせてやりたいと願っているところです。

その、目の前の子供が一番望んでいることは何なのでしょうか。
親でしょうか、家庭でしょうか、友達でしょうか、学校でしょうか、勉学でしょうか。
親子で子どもが、父母のことをどう想っているか、息子に対して親はどう育って欲しいと願っているかとか、真剣に親子の向き合いをしたことがあるでしょうか。
良い親(良い人)になってはいなかったでしょうか。  

方法をいくら考えても何も解消しないと想うのです。
私の経験からでしか話すことは出来ませんが、「教師」という職業や、世間体などにとらわれていたりしてはいないでしょうか。

子を想う一人の親として、全身でぶつかり真剣に子供と向き合う必要があると、心底考えます。

> 誰だって良い成績をとって親にほめてもらいたいはずですよね。
> 子供と心の距離をあけないように親子共に何とかこの状態を乗り越えていきたいと思っています。
>はっきり言って落ち込んでいます。力づけて下さい。

子供は今、そんなことを微塵も想ってはいないのではないかな。
親を親と想っていない、大人を大人と想っていない状態にあるのかどうかはわかりませんが、適期を外さず心底から腹を割って話し合うことが必要であり、子供が本当に求めているのはその辺りの、親子の愛情基盤ではないかと勝手に思い込んでいます。
大人と子供は人間としては平等であっても対等ではあり得ません。
大人として、親としての姿勢がハッキリしていないと子供は迷うだけです。 

教師という思い入れを外し、物分りの良い分かったような虚勢を張らず、ありのままの自分を子供にさらして、その子の唯一の親として、又社会の親として命がけの向き合いを提案します。

甘ったれた親をやっていては時間の無駄です。  親でしか出来ない事をやるだけのことです。
場合によっては、職を捨てても良い覚悟がなければ真剣さは伝わらないと感じます。

子育てとは、親の命も掛けると言うことと同義です。                                                  といっても、悲壮な覚悟をして取り組むことではなく、真剣に、そして愉しくという取り組みが必要だと思います。

どれだけ自分が素になれて、「聴く」ことが出来て、事実のみを素直に「観る」ことができるかにもかかってくることだとも感じます。

箸にも棒にもかからない「オトナ子供」に育てて社会に送り出すことは出来ない、というのは私の考え方です。

敬愛される親になり合うことが必要ですね。         

人を変えようと想っても消耗するだけです。
目差される社会人に自分が変わって行くことでしか道は開けないのではないかと考えます。

理想論と一蹴される人もいるでしょうが、本当に子供が大事だったら自分を放すことぐらい造作もない実践だと想います。 

落ち着いたら、育ち合える親達の場を皆で、創ったら如何でしょうか。

 

31) 教師への不満?

at 2000 02/22 15:11 編集

> おっしゃっている趣旨はわかります。しかし、地域社会の創り方まで考えるゆとりはありません。

 そうですか。夫々の地域性もありますから、何とも言えないところですね。
でも、子供達の豊かな社会性は、地域社会によって培われるものだと考えたら、地域社会の建設は子育ての重要な一環であり、使命だと私は考えています。  地域社会は現代から将来への社会発展の重要な核だと考えます。
子供達に何を継いで行ってほしいのか、将来何処に住もうともそこで積極的に地域社会の建設が出来る人に育ってほしい、その後姿を更に自分の子にも伝えていって欲しい。
これは、私の地域での私の考え方であり、日常の実践姿勢です。
一緒に健全な地域社会を創るには、ということを含めて学校の先生、他の親達とも良く話をしたものです。  
今は、子供達も卒業しましたので地元の学校と関わることはなくなりました。  
でも、自治会・町内会活動も子供達のことを抜きにした活動はあり得ないし、そんな「共に」の人達の集まりから市会議員も皆で送り出して、文教委員長として活動してもらってもいます。

自分の生き方を人に強要するつもりはありませんが、自分が目指される大人の一人として在ったら良いな、とは密かに想っています。 理想でしょうが、「お父さん・お母さんのような生き方をして行きたい」と想ってもらえるような、先輩としての人生観を持って努力し、互いに成長し合いたいと望んでいます。

>うちの子供は先生の言うことは絶対であり、親の言うことよりも先生の言うことを信じます。
>親の言うことよりも先生の言うことが正しいと思っています。  

どうしてそんなことになるのでしょうか。  
誰某の言うことだから正しくて、誰だから間違っている等の決め付けがもし大人の人の誰かからあって、それに左右されているようだったら、もっと自由に自分の価値観を創造できるような環境を用意してあげることが必要ではないでしょうか。  
もっとも、大人に対する信頼という点で、子供達にとっては本心を明かせる大人が一人でもいる、ということであるならば非常に重要なことですから、これも何とも言えないことかもしれません。

>理想としてはすばらしいと思います。
>決して私は否定しません。

私にとって理想とは、絵に描いたモチではありません。
生き方とその実践姿勢を述べさせていただいたものです。
日々の取り組み、そのものといったらよいでしょうか。

>教師を指導することも含めて、みんなで話をしなければいけないのでしょうね。  

そうですね、私の姿勢で言えば指導ではなく、「共に」育つという実践を何処までも貫いてやっていこうとしますね。  
我が街での体験上ですが、親達の育ち合いの場がなく、核家族の促進や隔家庭を自ら創ってきた結果、地域社会が崩壊し、しいては学級崩壊にも繋がっていきました。  
我が体験では、最初の一人から全てがはじまりました。決して平坦ではありませんでしたが、親自身が自らの社会性に想いを深め、「共に」という気持ちにさえなれれば、多くの分野で心一つになって行けます。  
何事によらず、という訳にはいきませんが地域社会づくりの一歩に確実になって行きます。  
家庭と地域社会と学校が健全に機能し合ってこそ、子供達に求められる育ち合いの環境となると考えますが、如何でしょうか。 

>>誰某の言うことだから正しくて、誰だから間違っている等の決め付けが、もし大人の人の誰かからあって、それ
>>に左右されているようだったら、もっと自由に自分の価値観を創造できるような環境を用意してあげることが必
>>要ではないでしょうか。
>そのとおりです。もっと年齢が増せば、自分で判断する力がついてくるでしょうが、小学3年生にそこまで求める
>のは無理でしょう。
>環境を用意するとかしないとかの問題ではないと思います。
>小学新入時の際にたいていの親は子供に対し、「ちゃんと先生の言うことを守りなさいよ」と言って送り出してい
>るのではないのでしょうか。  

そうですね私の場合は、「言うとおりにしなさい」という言い含めではなく、「言うことを聴く」ということについてを話したと想います。  
子供達に育って欲しいのは、自発性と自由意志・健全な自我の発達と創造性ですから、その観点から「この子(その子)にとってどうか」だけを外さずに考え、一人一人を観て、皆にとってのより良い道をと、皆で考えてやっていましたですね。  
子供にも、他の人にも求めることではなく、先ず自分がそうなるように、というのが私のテーマかな。   
言葉にすれば一行ですが、百万言を費やしても語り尽くせないほどの紆余曲折があったのも事実です。  
先ず、自分が「聴ける」人になっているか、なり合おうとしているかは大前提でしたけどね・・・これに気づくのにも相当の時間を要しました。(^_^;)  

いまだに、気がついたら人を押さえ込もうとしていたり、決め付け、思い込みに左右されたりしている私です。  
子供の話も良く「聴ける」親になりたいと想いました。  
あらゆる話を聴いて、楽しく聴けて、それはどうか・・・という話しでも一呼吸おいて、それは間違いだと決め付けたりはせず、親としての考え、観じ方などその子の年代相応の表現で噛み砕いて話し、その他いろんな観方や考え方があることを「雑談で」話したりしました。変だと想ったことは先生などにも訊いたりして「聴き直し」をしたりすることもありましたね。  
親のほうもだんだん年をとって、考え方や観方が固着し勝ちになったりしますが、親同士の育ち合いの場を創って行くことで、固定観念や老化の防止等を計っています。  

いつも自分のことばかりですね。   いいかげんにしたほうがよさそうです。  
でも、やっぱり何事も楽しくやって生きて行きたいですね。  
言いたい事は、結局この言葉だけのような気がします。

 

30) 「叱る」「躾」「体罰」

at 2000 02/17 16:08 編集

子どもに対する「叱り方」が話題になることが良くあります。                         
同時に「躾」「体罰」と言うようなことも絡めて、しばしばアチコチのML上でも登場しています。
妻や、他の家庭を観ると良くわかるのですが、自分でも気がつくと、怒鳴ったり、脅したりしていることが良くありますね。
でも、どうでしょうか。 結局怒る原因は、自分自身で作っていることが殆どだと私は想うのです。
自分にとって都合の良いようにならないから、自分の思い通りにならないから、怒りたくなるのですね。

子供に限らず、怒るときは大抵そうなのではないですか? 人にもよるかもしれませんが、怒るということは相手に対して自分が優越している、という一種の思い込みや、見下し、蔑み、或いは傲慢さから発するものだと想うのです。

親として自身を振り返ってみまするに、子供に対しては、威圧と威厳を混同してしまっていることが良くあったと反省するばかりです。
「叱る」というのは、ひとつの「躾」と言う風に捉えるならば、その真剣さを伝えることが最も重要なところだと考えます。 例えば、子供が階段の上から友達を突き飛ばしたりしたときのような、人の命に関わるようなときは、親としてばかりではなく、大人達は社会人として、その子供だけではなく、周りにいる子供、突き飛ばされた当の子供にも、その真剣さを心底、「伝え」なければならないと考えます。 

対して「体罰」は「制裁」です。 罰や裁きを受けるからやってはいけないのではなく、あるいは見つからないようにしようという、別の意味の生きる力を育てることは、私達の本意ではないと思うものです。 体罰や制裁・暴力や虐待で育つものは何も無いと確信できるように想います。           
先ず、自分が子どもの言っていること、言わんとしていることを「聴いて」いるだろうか、その子の事実を「そのまま」観ようとしているだろうか、を考えてみたらどうでしようか。

子供に限らず私は、「聴く」ということからすべてが初まると考えますが、自身が「聴ける」人になっているのかどうかは、重要な社会人としての要素であり、なり合おうとしているかはもっと大事な成長のための同義と言えましょう。 子供達には親の日常の暮らし、普段からの生きる姿勢が確実に、そのまま写されます。 素直な気持ちで、ありのままを観、そして聴くということができれば、考えることは今、目の前のこの子にとってどうするのが最善なのか、と言うことが冷静に観ることが出来ると思うのです。

大人を大人と思わない子供がいくらでもいる昨今、親としてのなりあい、成長のし合いは最も重要な子育ての条件だと考えます。
親達の育ちあいの場を皆で創って行くことが今求められている、最重要課題といっても良いのではないでしょうか。
その地域社会づくりの姿勢、そのものが現代の、親の後姿ではないでしょうか。

 

29) 携帯電話で、人が死ぬ! at 2000 02/14 17:59 編集

最近、恐ろしい話を聞きました。                                         
皆さんは、既にご存知なのかもしれませんが、あの携帯電話です。                    
今や、小学生も持っていて同じ屋根の下でケイタイで親を呼んだり、用件をメールしたりしていると言う話が、ちらほらと聞こえるようになりましたね。  

それはそれとして別の大きな問題があるのですが、今回の話は携帯電話で人が死ぬかもしれない可能性が確実にあるのだと言うことでした。
以前から、病院内では医療機器に対する悪影響があるからとして話題にはなっていましたが、私自身が身近なこととして感じてはいなかったことを今回はじめて知らされました。              
どういうことかというと、携帯電話のスイッチを入れて電車の中、混雑している人ごみの中、集会場等々にいて着信したり、使用したりすると隣や前後に、もし、ペースメーカーを入れている人がいたら、いきなり失神したり、そのまま意識不明になったり、場合によってはショック死してしまうことがあるそうなのです。                                                    難聴の人が耳に埋め込んでいる補聴器?なんかも、その電極に携帯電話の電磁波が作用して、破壊されることもあるそうです。
そのときのショックで、難聴が完全に聞こえなくなることだってありそうです。  

電車の中では、「携帯電話の使用は、遠慮してください」あるいは「デッキに出て使用してください」などとアナウンスしていますが、決して「やめましょう」あるいは、「電源を切ってください」「禁止します」等の言葉は聞いたことがありません。
強制力はないのかもしれないけれど、命に関わる大事なことに対しての認識が私も含めて、大方の人達にないのではなかろうかと思えるのです。                                
せめて「これこれこういうことがあるので・・・・」と言うようなアナウンスくらい必要なのではないでしょうか。  

歩いているとき、突然となりの人が自分の携帯電話の着信で卒倒してしまうなんて、考えてもいないことでした。正直、ショックです。

新幹線にしても、車内での通話は常識人風に避けている人も多いけれども、電源を切っている人は少ないのではないかと思えます。
中には、バイブレーションに切り替えている人もいるようですが、「電源」が入っていることが問題なんて、ほとんどの人は知らないと思うのです。                                  
それとも、おめでたいのは私だけなのかな?  

私は、出張や車で遠出の仕事や用事でもない限り、面倒なせいもあって携帯電話を携帯しない習慣がありますが、ますますケイタイ嫌いが正当化されたようで声が大きくなりそうです。           

「携帯電話なんて、イラナイ!」  

便利なときも、ソリャありますけどね。(雪道にはまって、JAFに連絡できたときは本当に助かりました、と最後は歯切れが悪い・・・) うちのカミさんからは「パソコンなんて、イラナイ!」と言う声が聞こえてきそうです。           
でも、あのケイタイの電磁波・・・若者は一日に何時間くらい、耳に押し当てているのでしょうか・・・。

これも、聞いた話でぞっとする話ですが・・・ 「脳が、茹だってしまうと思ったことはありませんか?」  

 

28) 私のネットへのかかわり方

at 2000 02/14 17:57 編集

私は誰とも論争に至るような議論はしたいと想っていません。  

議論のための論争をしてみても無意味です。
相手を論破と称して言い負かしたとしても何が生まれるでしょうか・・・と言うことです。  

テーマをML上に提示して、それに対して皆がどう感じ、想い、考えるのかといったことを出し合い「本当は、どうなのか・・・」と、どこまでも決め付けをしないで一緒に考えてゆく、それで実際にやってみてまた話し合う。
そんな繰り返しの中にこそ互いの成長や、地域社会づくりのプロセスとなり、「共育」環境となるのではないかと想っています。

ただ、自分の思いの丈を吐き出すだけでいいという方も、勿論いらっしゃると想いますが、どうせなら有機的に成長しあいたいと私は考えています。
一緒にやってゆきましょうと言うのは、そういう意味で言っています。

俺は絶対正しい!この意見は間違っている。これは×でこれは〇、といったような自分の固定観念、常識観念に照らして全てを「裁き」、振り分けたり、決め付けたりしないで、その自分の様々な取り付いている色眼鏡をも取り外し、「本当はどうか」と見直したり、考え直せる自分を養いあって行く必要があると想うのです。

ですので、ネット上に出した意見は自分がだしたものではあるけれど、単なる叩き台であり、ひとつの素材です。
自分の意見だという「思い」をひっつけているから(囲い、抱え込み、所有するから)、反論や反目になってしまうのだと考えますし、相手を言い負かして組み敷くためだけの言い合いになってしまうと考えますが、如何でしょうか。

「こんな考えは、どうでしょうか?」という気持ちから発言をしたらどうでしょう  か。

言葉が充分でなく、正確に伝わったかどうかは分かりませんが、そんな姿勢での話し合いや、互いの研鑽の観合いをしたいと考えます。
必要以上に相手の内側に入ってゆくことは、危険でもあり客観的な核心が見えなくなる要因となりかねません。

必要なのは、率直な感想と意見の出し合いと、それらに対する次へのステップに向かおうという考え方・提示でしょう。
出した相手に向かって、対立意見をぶつけるのではないのです。

自分の意見は紐や鎖を繋がずに、みんなの中に、ただ見本として置くだけでよいのだと考えます。

 

 

27) 自由人とは・・・。

at 2000 02/14 17:55 編集

人間は何にとらわれるのか・・・なんて考えると難しくなってくるけれど、何てことないんだとある日、フッと気付くときがあるんだよね。
自分の「思い」に執らわれ、その「ねばならぬ」に縛られ、振り回されていることに。

で、気付いたときや新たな発見をしたりしたときに、自分がすっかり自由になったような気がして、「何だ、こんなことだったのか」と感じたりして、とても解放される気分になったりするな。
でも、今度はそういう自分を維持したいために、自分で自分をマニアル化していって、新たな執らわれに落ち込んだり、そのマニアルに自分自身を縛ることになったりすることにもなりやすいんだよね。

これ、全部自分のことなんだ。(~_~;) 
真の自由人になるって、至難の業じゃないのかな。
でも、そうなりたいね。じゃないと愉しくなれないものね。
愉しい気分は瞬間的にも味わえるけれど、常に愉しい自分とは?って考えると真の自由人になることが、イコール「幸せ」と言えないかな。 どうでしょうか。

 

26) ある娘への手紙

at 2000 02/14 17:55 編集

ヒゲオヤジだ。 レスありがとう。

私の考えですが、高校をやめるとかということは、そんなに大した問題ではありません。        
その人が、本当になりたい人を目指していて、その道に今の環境が合わないのであれば、どんな選択も出来るのが10代の特権でしょう。

ただし、それは真の社会人としての成長を本当に目指しているならばの前提が必須ですけれどね。 歌手になるのも反対する理由はないでしょう。 ただ、歌手になって何をしたいのかが大事なことだと想うのです。
何を訴えたくて、何を観てもらいたくて、何を表現したくてというようなことが、心の底から湧いてくるものとしてあって、それを歌に託して、歌を通じて顕してゆくために、方法のひとつとして歌手になるのだ、ということではないのかな? 自分の内なるものに、創造的衝動といってもいいと想うけれど、それらが何もなくて、ただ歌手になりたいというのは、歌手という創造者を馬鹿にしています。
単なる憧れや、自己顕示欲、アイドル志向だけでは必ず失敗します。

むしろ、それが目的だというのであれば、それを充足させてくれるところへ行けばいいだけですから、簡単ですね。 受け入れてくれるかだけの問題かもしれませんし、それこそユメ破れ・・・ということにもなりかねませんけれどね。
ユメにあこがれていても、達成したら、あるいは挫折したら、残るものは多分、何もないんじゃないか、それが一番心配なところです。

「生きる力」の何たるかを育んでいなかったり、「共に」の豊かな社会性の培いが欠如していたら、他を触発する何ものも生み出すことは出来ないのではないだろうか。
本当に表現者としての目的があったら、ユメは破れるものではなくて、向かうべき創造への大道であると考えます。
どんな歌を唄ってゆきたいのか、せめてそれが見つかるまでの間での人間形成が大事な基盤になるのではないかな?
その基盤があったら、何をしても、たとえ歌手を断念するようなことになっても、自分を失うことはないと想うよ。

自分の目的のためには、今したら良いこととは・・本当はなんなのだろうか。 考えて、踏み出すのはそこのところのことではないのかな。
私のところの下の娘も、歌手になるのだそうです。
それで、高校に行かずに自ら「ヤマギシズム学園」を選択して通信制の学校での教育も受けていますが、勉強するのが目的でも何でもありません。
すべてが、24時間が、みんなの成長の場として用意されているところで、自分達の研鑽をしあっているのです。

何をやっていくにしても、土台造り、土壌づくりから始まるのだと、確信できるんじゃないのかな。
そこでの器を自分が越えたら、いつやめて、どこに移ろうと親はどこまででも応援します。
どうですか?

 

 

25) 今、中退を考える姫に

at 2000 02/14 17:54 編集

ヒゲオヤジだ。

先日の書き込みのときは、日記を読まなかったし直前の人の書き込みも読まなかったから、全然気がつかなかったよ。
「姫の夢って何?」
夢というのは、掴めないからユメなんじゃないの? もし、理想を描いてそれを実現しようとするならば、それを私は夢とは言わないな。

目標・目的のためにどうするのが一番良いのかは、友達もそうだけれど特に親とはとことん話し合い、少しでも理解してもらうことが必要だね。

だって、姫の成長を願って養育環境を用意してきたのは、ほかならぬ親だもの。
「高校をやめよう」と考える姫は、親自身がそういう風にしたから、そのとおりに育った結果だよ。  姫のことが理解できないということであれば、親自身が自分を振り返る必要があるのだけれど、説得しようとしたら理解は得られないと思いますし、不必要です。
どれだけ「今の私を観てくれ」といえるかだね。

どれだけ姫自身の自発的な自由意志と、創造性が培われたかの今の姿を観せればよいだけではないのかな。
親の立場としては、自分のやってきたことに紆余曲折はあったとしても、こんな風に育って欲しかったのだという見本に、姫自身がなれば良いのだし、その現段階での成長のプロセスが顕せれば、親は今までの養育を考え直すか、新たに気持ちを切り替えるか、観守る立場になれるかであり、どこまで我が子を受けられるかのことだと考えます。

腹の底から話し合い、自我のためだけではなく、豊かな社会性を自らが養い、皆と共に創ってゆく姿勢を確立していって欲しいと考えます。

そして、最後に決めるのは自分自身です。
本当に、「巣立つのか・巣断つのか」職業などは20歳までに道筋として決めればよいことでしょうが、「どんな人になりたいのか」そのために、今何をしたら良いのか、先をあせらずじっくりと多角的に考えたらよいと想うぞ。

 

24)子ども自身が有する「育つ力」

To [email protected] at 2000 01/20 09:53 編集

ヒゲオヤジだ。 早速のレス、ありがとう。

>「環境」と言う前に、私が目にする子供達は電車の中でゴミは散らかし放題、空き缶は道路に平気で捨てる。などなど・・・全く躾けができていません。

私の言う環境とは、そういう社会環境も含めてのことでしたので、とても嬉しいです。
まだ上の娘が小学生の頃、子ども会でどこかへ遊びに行くときの電車の中で、中学一年生の男の子や、小6の子達3人グループがポップコーンやクッキーなどを食べ始め、こぼしたり、空いた袋が下に落ちても拾わなかったりしていたものですから、「ちゃんと拾って綺麗にしなさい」と伝えました。
ところが、一番上の子は無視しています。 他の二人は気にはしているのですが、中1の子に遠慮して聞こえないような振りをしていました。

私は立ち上がって彼らの前に立ち「片付けなさい!」と周りにもハッキリ聞こえるようにたしなめました。 慌てた彼らは、「お前がやったんだろう」等といってまだ、人のせいにしていました。
そこで「皆で散らかしたものは、皆でやったら良いだけだろう?そうでないとしても、友達だったら気がついたものがやったら良いことをするのが上級生じゃないのか?」と諭したことがあります。
しぶしぶ彼らは片付けましたが、彼らの中には親もその場にいた子もいたのです。
どんな思いでいたのか分かりませんが、後日こういったことをテーマにして、子ども会や自治会で話し合いました。

誰かを批判したり、責めるというのではなく、地域社会の健全さ、みんなの下での子育て、地域がつくる養育環境等々をです。
しぶしぶと言うことは、子供達の中に「やらされた」という認識しか残っていないことになります。
公共の中で、私はまさに「やらせた」だけに過ぎません。
やらされ感のない子育て、各家庭でのテーマにもなりました。

エピソードは限りなくあるオヤジで、煙たがられたりしますが、少なくとも我が町内の子でタバコやビールの野放し状態はなくなりました。
基本は、親の躾ということもありましょうが、やはり大人達の普段からの生活姿勢や、他に求めない生き方などに深く関わってくるように想います。
子供達の社会性は、豊かな地域社会が創りあわれる態勢が整えられていてこそ培われるのではないでしょうか

>やはり、マナーを守るということは、人間社会の中のルールを守るという大事な基本です。

これはマナーなんだからとか、守らなければいけないのだ、という既成観念の押し付けにならずに、子ども達自身が元々有している、育つ力を伸ばしてやれるような、観守れる大人に、社会の親になりあいたいですね。

 

23) 今、親達のやって行くこと(過去のメール対話から)

at 2000 02/14 17:52 編集

子供達にとっての育ちを考えたとき、私達大人に出来ることは、仰る通り養育環境を如何に用意してあげられるかに尽きると想います。

現代の世情・体制に従順なロボットに、あるいはうまく渡り歩けるような人間に育てるのが真の養育・教育ではないと私は考えます。
子供達に育って欲しいのは、ヒトとして人と共に、自然と共に調和しながら創造的人生を、社会を創ってゆける「生きる力」であると想っています。

「今、子供達は本当に思いっきり遊んで、腹いっぱい何でも食べて、熟睡をしているでしょうか」 正常健康に子供達を育てようと想ったら、どんな環境が求められるでしょうか。
ゲームボーイやファミコンに依らない子供達の育ち合いを少しでも考えられるのならば、彼らのために今自分が何をしたら良いのか、私だったらそこを考えます。

人間は独りでは生きてゆけないと言うことばには理を認識しますが、相手(ヒトに限らず)があるから自分が在るのだという視点から観れば、先ず自分の子供だけを見るのではなく、周りの子供達を観て、どうあったらよいかを独りではなく、皆と共に考え、実践する方向を探るべきだと考えます。
必然として地域社会づくりが密接にして不離のかかわりとなって生じてきます。

親というのは社会の規範となる存在であるから親なのであって、自分の子供だけの付属品は単なる書類上の保護者です。 親同士の有機的な人間味あふれる社会がなければ、当然子供達の健全な社会も生まれようがありません。

核家族化の促進で、今や家庭の中でそれぞれがホテル住まい、下宿生活をしているというような事を言われています。 子供の要求に応じて部屋に鍵まで付けてやっている親が、現実に私の周りには何人か居ます。
アメリカのマサチュセッツ工科大の日本人教師の話では、自宅での親子・夫婦の会話がひとつ屋根の下でメールで行われていると嘆いていました。
日本の家族間でも、部屋に閉じこもってケイタイ電会話?だか通告だかが既に始まっていると聞きます。

「子供達は、社会の子」であるならば、親は社会の親でもあるわけです。
何のために生きていて、どんな姿勢を持って何に対して、どんな取り組みをしているのかを子供に観せられる大人達の社会、それこそが親の後姿と言えないでしょうか。
たとえ将来、親元から離れてどこに暮らそうとも、正常健康な社会づくりの出来る大人に育てるのは親達の使命です。

箸にも棒にも掛からないような「大人子ども」を社会に送り出しては迷惑になるだけです。 (生きる力の薄弱な子どもを、青年を切り捨てるという話ではありません。それらはまた、別の重要なテーマとして存在します)

幼稚園も学校も各々の家庭、そして地域社会と 一体となってつくりあってゆくことで、初めて健康正常に機能し合えるものと確信します。
現状を否定しても、嘆いていても何も変わりはしません。
又、他の誰のせいでも、幼稚園、学校のせいでもないはずです。

お父さん達のやることはいくらでもあります。 「共にやる人」をまず求め、働きかけて欲しいと想わずにはいられません。  

−−略−− 私も教育の専門家ではなく、一介のサラリーマンです。 それぞれの周りで地域社会づくり、一緒にやってゆきましょう。

先ず自分から、我が家庭から・・・でしょうか。

 

 

22) 「イジメ」についての対話から

at 2000 02/14 17:51 編集

>他のお母さんたちは、自分の子さえ良ければ安心、という姿勢が見え見えでした。
>とても無力感を感じ、これでは何も変わらないと思いました。
>このままでは、娘の心は日ごとにボロボロになってゆきます。

私の娘も小学校の頃、イジメの対象にされたことがあります。
女の子同士だったので、貴女のところとは大分違うと思いますが、経験をお話することで何かのキッカケにでもなればと想い、記述してみます。

いじめられても仲良しの友達が居さえすれば、まったく違ってくるようで、いろんなことの拠りどころにもなり、支えにもなるのは大人も一緒ですね。
そんな仲良しが、他のクラスであっても孤立感に押しつぶされないで居られるようです。
でも、問題はそんな依存や突き離しの方法論ではなく、子供社会の現象が全て親社会の反映にある、というところにありました。
それを感じた私達がまずしたことは、クラスの中でイジメとはどういうことか等について考える時間を持ってもらうことを、担任の先生に提案しました。

先生は、深刻な普遍的問題として受けてくれ、教室で最初は各班ごとに話し合い、それから全体でグループごとの意見発表、聞いてみての話し合いと進んでいったと言うことでした。            でも、一日では終わらず、そのことを家にもって帰って、お父さん、お母さんと話して感想や意見を聞いて、それを又持ち寄り、自分はどう感じたか、どう想ったか、どうしてゆきたいかと話し合いました。 そこで出て来た問題や疑問は徹底してとまでは行かないけれど、かなり子供達の中で深まり、親達も無縁ではいられなくなって、連絡網を通じての意見の交流が少しずつですが、行なわれるキッカケとなったのです。

それでもやはり上辺だけで、本音の部分はなかなかでてきにくいのも確かでした。
そこで、お父さんの出番が求められました。
お父さん同士が知り合いであれば苦労も半減されますが、ほとんどのお父さん同士は初対面です。 馴染みのないお父さん達にも呼びかけて、飲み会から親睦を計っていこうと言うことで、あるお父さんが企画しました。 お母さん達にも食事会を兼ねてと言う誘いは別に抵抗はないだろうということで、声掛けをしあいました。                                              何回も繰り返して開催し、呼びかけつづけた結果、子供達も一緒に最低3家族から多いときには10家族以上も集まり、大人だけで20数名の大親睦会になったこともあります。

そこで自然に出てくるのは、いろんな地域活動への参加の話です。
趣味と実益を求めてテニスクラブも出来、ゴルフ同好会も生まれたり、お母さん達のサークルも出来ました。
気の置けない仲良し達の間では、夫婦の問題、子供の問題、仕事上の悩みに至るまで話し合うようになってゆきました。そして、地域社会への取り組みへと向き合ってゆくのは当然の成り行きです。 時には学校の先生、教頭なども誘います。
招待ではなく、あくまでも一緒に創ってゆく仲間としてです。

一部の人達だけの「派閥」的な観方をされないように、その都度クラスの全員の親に呼びかけ、お知らせを回すのは大前提ですね。
学校と自治会との関わりも密接になってゆきました。
お互いに遠慮気兼ねのない、地域社会づくりの仲間としての共通意識も少しずつ浸透してゆきますが、最初はやはり皆の意見は様々で、テンデンバラバラといった風でまとめることなど出来はしません。
でも、初めはそれでいいのだと想います。 住民の皆が考えていること、普段想っていることを出し合うことを何回でもやることで、それじゃあどうしたら…と言うことになって行くのは繰り返しの中で、だんだん観えてきます。
顔もよく知らないお隣さんと話すことで、新たな展開が生まれたりもします。
あせって無理にまとめようとしたり、多数決などをとって決めようとしたり、説得しようとしたりすることは逆効果です。

とことん出し合い、話し合うという姿勢に皆がたつことが基盤になり、お互いの意見の違いを知り、理解しあうと言うことが大切な一歩でした。
それには、第一に皆の集まりが愉しいものであって、少しでも実りを感じさせるものであることは必須であり、それは誰かが先導するのではなく、皆で一緒にそういう集まりにするのだと言う取り組みが、あってこそのことだと想われます。
最初はバラバラであった人達の険しい顔つきが、次第に柔和になって、他の人の意見を良く聞いた上での意見、感想に変わってゆきました。
自然に皆が一致した方向で考え、基本的理念とでも言うべきことが確定してゆくのが面白く、妙味のあるところです。

何よりもそうした親達の姿を、別室にはいても子供達はしっかりと観ている、と言うのか敏感に感じ取ります。 そんな親達の関わりが子供社会に即、反映されてゆくのです。
今までとはチョット違う子供社会が創られ、創りあわれてゆきます 。
自然と親同士も子供達と共に育ちあって行く事となります。 まさに「共育」です。
育てたいのは「生きる力」と「学ぶ力」そして「創造性」。それらが私達のテーマとなりました。
但し、ここでいう「生きる力」「学ぶ力」等は、文部省の言うそれらとはまったく違うものと言ってもよいのではないでしょうか。
文部省の言う「個性の尊重」「能力と適性」の陰に隠れた比較と競争の選別社会がウムであろう、孤立と差別社会を生きる力ではなく、まったく異なる創造的な個性の育成と同時に「共に」の中で培われる豊かな社会性と創造力、自然との調和の中でのヒトとしての生きる力を養おう、と言うものでした。

問題があると思える子供も、皆の子として観ることで、やれることが見えてくるはずです。 無力感に襲われることもあるでしょう。
そんな時、つい他の人のせいにしてしまいがちですが、自分は正しいのだと言う考えや、決めつけがもしあったら、現実を見失うこともありそうです。
常に前を観て、何が出来るのか、今、何が本当に必要とされているのかは外してはならない大切なポイントのような気がします。

他の人を変えようと想っても無駄な消耗に終わるだけです。 「まずは、自分から」と言うのは、どうでしょうか?

その場にいない者が実情も知らず、好き勝手なことを言っていますが解決の道は、どこまでいっても小手先の方法ではなく、「共に」のなかでしか無いのだと想い、長口舌となりました。

一緒に、創ってゆきましょう。

 

21) 親と子の関わり

at 2000 02/14 17:50 編集

私は、子育てという観点から考えたとき、教条やマニアル等々の決まりごとというのは、ないと考えています。

今、目の前にいる一人ひとりの、この子にとってどうなのかだけを観てゆくことが何時の時代でも、どこの世界でも変わらぬ、最大のポイントなのではないでしょうか。
その過程、その結果においても正誤・善悪という鋳型の基準・尺度はないものと言い切れると想います。

自分達が子供達にどんな風に育って欲しいのかと、どれだけ真剣に考え、願っているか、そこが親としてハッキリとさえしていれば規範となる親、目差される大人としての姿勢に、自然となり合ってゆける筈です。
親が考える子供に対しての観点(観念)と、例えば同じ一つのものを観て、聴いていながらも、子供達の受け取り方は全く異なるようです。(人は10人10色と言われますが、1人10色とも100色とも言う人もいますから、当然と言えば当然ですね) 良く、子供たちの目線に立ってという言葉を聞きますが、上からばかり見ていたのでは見えないものがあるということは、確かにありますね。
でも、子供と大人では同じものを観ていても、決して同じではないようなのです。

大人の思惑で子供達の感性や、様々な可能性を一蹴したり、閉じ込めてしまったり、潰してしまってはならないのは勿論です。 そのこととは別に、大人と子供は人間として平等であっても社会的に対等ではない、という側面があると私は想っていて、特に親はそのことを忘れた養育をしがちであることに気を置く必要があると考えています。                                     以上を踏まえてのことですが、 親、大人達は、子供達に豊かな想像性を育み、自発的な自由意志と更にどこまでも広く、深い社会性を培いあわせてあげたいと考えます。
その為の養育環境を用意するのは、親のみならず大人としての使命です。
そう考えたとき、大切なのは先ず「夫婦の仲良し」からだと想うのです。
妻として我が夫をどう観ているかは、何も話さなくとも子供たちには敏感に伝わります。 どこの家庭でもそうですが、母親の観方を通した父親像が子供達には意識するしないに関わらず、生活の中でごく自然に刷り込まれてゆきます。

この事は、子供達の成長にとってかなり重要な影響力となって寄与するものと想われます。
夫婦の子育ての考え方が一致していれば(細部は別として、大元のところで)、もうそれだけで家庭での養育基盤は充分だと考えます。
親子の愛情基盤が確立さえしていれば、親子共々たとえ何が起ころうとも、何を話したとしても、根底が揺らいだりすることは先ずないのではないでしょうか。
友達みたいな親子の是非・正誤・善悪等々ではなく、そのかかわりの根本に敬愛する親という存在が、きちんと入っているかどうかが一番重要なところかと考えます。
一般的に母子カプセルとか、親離れ、子離れを云々されるのはこのあたりに問題があるようにも想われるのです。

親の生き方の何を伝え、継いで行って貰いたいのか、それをしっかりと押さえたいです。
「ネバならない」に執らわれることなく、どこまでも皆で愉しく「共に」創りあって、成長し合ってゆくことから自然に出来上がってゆく悠久で不変の環境を用意してゆきたいです。(親の後姿ともいえましょうか、または健全な地域社会とも例えられましょうか)
一緒に悩み、共に考え、互いに影響しあって成長の糧にもなりあえるような親子関係が創りあえたら、素晴らしいですね。

方法や、手段に執らわれず、根源のところでの話し合いに深まってゆくかかわりが創り合えたら、それこそ本懐というものではないでしょうか。

結言  いけないということは、何ひとつとして無く、正解も無い。  あるのは「共に創る」ということのみ。

如何でしょうか。

 

20) 「今」に生きる・年頭にあたって・・・

at 2000 02/14 17:49 編集

歴史的か運命的か分かりませんが、2000年です。

新しい時代の幕開けの響きを感じ、軽い興奮を覚えます。
しかし、相変わらず様々な問題が山積し、重石となって日常生活にのしかかっていることも感じます。

特に子供達には、「生きる力」と「個性を尊重する教育」という文部省の方針が打ち出され、「能力と適性」の陰に潜んでいる比較と競争、選別社会への絞込みがいよいよ危惧されます。

孤立化に向かいう逆行が予想される状況は深刻であり、楽観はできません。
健全な地域社会の建設が、子供達の養育環境の整備が、私達の地域でも日ごとに強く渇望されています。

親たちは手を固く結び合って、ますます真剣に育ちあうことを考え、実践してゆくことを求められていると感じます。

何かしなければ・・・、このままでは・・・、と感じているひとも沢山います。
自分に一体何ができるのだろうかと、ひとりで悶々としている人もけっして少なくありません。

新世紀への架橋の今、世代交代がもう間近に迫っています。

今を生きるには、今しかないのです。
他の誰でもなく、自分を活かすのも活かされるのも、常に「今」なのではないでしょうか。

一人ひとりが創造者であり、主体者であることを、しっかりと認識して、育ちあってゆきたいです。

               幸福会ヤマギシ会「けんさん」紙         200年 1月号より  

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