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40) ヤマギシズム学園の拷問? at 2000 07/07 10:40 編集 |
> でだ、「ヤマギシ学園は、苛酷な労働を強いる。拷問が行われてるとこ、で、問題になってる」 > と、聞いたんだけど、真相はどうなのかな? 拷問ってのが、全くなかったわけじゃないのかな? > 何か知らないかい?
ただ大笑い・・から、苦笑・・だな。 親自身にも学園イコール○で、学園から出ることは×、つまり落ちこぼれ的な意識を「所有」していたことから、子供達に余計なプレッシャーを与え、中には傷ついた子も居たのだと思われます。 学園は、あくまでも「自発的自由意志」を育て、異年齢の子供たちの中での切磋琢磨の中で、豊かな社会性を培いあうのが養育方針としてあります。 ヤマギシズム学園の設立は、子供達の要望によって突き動かされた親達の献身的努力によって、建学されたのです。 すべて、親子の愛情基盤の如何が問われることだったと思われます。 やりたい子だけが入って、創ってゆけばよいのです。 今、ヤマギシズム学園はヘンな言い方ですが、子供達のやりたい放題です。 用意されてあることが、子供達にはやらされている、となったり、禁止されていると受け取られていることに、親達・大人達が、どうなんだろうかと考えなおしました。 現在でも、本人に成長したいといったやる気の無い子は勿論入学できないし、しても途中でやれないと感じた子は直ぐに退学します。
親達も我が子に対して、無理押しは絶対にしないで、そう言う子を受け容れられる地域環境を創って、何時でも迎えられる 環境づくりを以前よりも積極的に、取り組むようになってきています。 子が、こんな風に成長したい・・と言って来たら、私達親は何処までも、何処であろうと応援することでしょう。 農ある環境を如何に活かして自分達の成長のし合いに繋げてゆくか、農はやらずに学業だけで思いっきりやれる環境を享受するか、野球で育つを徹底してやりたいとするか等々、彼らには24時間が成長のための学びの場と環境が用意されて 在ります。 やるかやらないかは、本人の「自発的自由意志」次第です。 それが、ヤマギシズム学園の建学の精神であり、現実の姿です。 近くの実顕地に行って、実際に観てこられたらどうですか? 観てないから、マスコミに惑わされるのです。
いきなり行っても迷惑でしょうが、教育の学習をしているなら是非、観させてもらうと良いと想います。 |
39) ヤマギシズム学園の親・取材を受けて |
at 2000 06/06 11:41 編集 |
M新聞社 週刊誌「S」編集部 記者 T.O 様 記者0さんの手紙に書かれたことはごもっともであり、そのまま私どもも最重要課題として常日頃から気を置いているところであります。 仰る様に、どんなに親子が親密であろうとも子は親に対して、或いは大人達に対して本当のことを曝け出すことはまれではないかと感じています。 何処まで子供の真意を親自身がつかんでいるかは、残念ながら不確定なものといわざるを得ないのが実情でしょう。このことは、ヤマギシズム学園の親子に限ったことではありません。 如何にして親子の愛情基盤を深め、強力にして行くか、その為のみに子供達にとっての本当に求められる地域環境と学園を、親達が集まって創り合っているといっても過言ではないのです。 子供にも私達親にも気持ちの揺れはあり、迷いも、甘さもあります。 親も子もそんな人間の様々な葛藤を曝け出せる場づくりと、育ち合える環境を創って行きたいと努力しています。 何故嫌なのか、何故やりたくないのか、何がしたいのか等々、「聴いて」行くことから始まると想い、体感もしているところです。 「聴ける」親、或いは社会人(社会の親)になりあっているのかどうかは、親の生き方を、規範となるべき大人達の姿勢なりを、子供たちにもたらす意味では重要な要素のひとつだとも考え、どこの地域社会にも共通の子育て基盤だと考えられます。 いろんな理屈や、どんなに立派な教育理念を述べようとも子供は親のしたようにしか育ちません。 目的も無く、或いは見出せないまま、何をしていったら良いのか分からない自律と自立の出来ない子供達を社会に送り出すわけにはいきません。 しかし、何といっても子育ての究極は「夫婦愛」「夫婦仲」に始まり、それに尽きるものとも考えられます。 理屈は要らないのです。 平成11年4月27日 ヤマギシズム学園・親の会 島 村 安 弘 PS: 地域では、この度の地方選挙で私が推薦文を書かせていただき、支援している市議の再選のために、地域の人達と手作り選挙に取り組み、超多忙でした。 総力結集の心は実り、前回の25名定員中22位初当選だったものが、今回は2%程投票率が下がったにもかかわらず、36%の得票を上積みして13位で当選しました。 我が子に限らずですが、例え我が娘が何時地域に戻ってきても良いように、受け入れられる環境を創り、溶け込める場としての地域社会は用意しておきたいです。 |
38) 自然は、怖いぞ・・ |
at 2000 05/26 09:35 編集 |
我が家のある駅に降り立ったら、何か様子が変だった・・・。 立ち木のある辺りに足元が木の葉で埋まるくらいに一面の落ち葉なのだった。 傍にによって手にとって見ると・・・ナント! 親指大の氷だった。 家に帰ると、またひとしきり大騒ぎ! お昼頃、一点俄かに掻き曇り、あっという間にひょうの嵐だったそうな。 うちとこも、トイレの窓ガラスが一枚やられてたよ。 なんとも、痛々しく、すさまじいありようだ。 スイカ畑は全滅だろうな。梨もダメだろうナァ・・・。 |
37) 「癌を明るく生きる」からの、お知らせ |
at 2000 05/15 17:55 編集 |
「癌を明るく生きる」の伊藤勇さんのページを大幅更新! 〜♪ぞくぞく寄せられているHPを見ての感想文のページを増やし、管理人の柳川千恵子さんのあいさつのページもつくられました。また、リンク集のページも新たに作成。 ごらんください(^o^)丿TOP http://www.asahi-net.or.jp/~is9c-yngw/index.htmlリンク http://www.asahi-net.or.jp/~is9c-yngw/rink.htm |
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36) 「癌を明るく生きる」 |
at 2000 04/14 09:36 編集 |
末期癌を宣告されて、自分の会社もたたみ、既に戒名まで用意して尚且つ、「癌を明るく生きる」と言って、全国を講演や座談会にと飛び回っている「伊藤勇」さんが、とうとう自分のHPを開設しました。何ものにも拘らず、執らわれず、縛られない生き方。 病身と病気の区別をする取り組みとは? 信じられないほどの健全さは、一体何処から来るのだろうか。必見!当家の「和と輪」のページからリンクを貼ってあるよ。 みんな、覗いて見てね。 |
35) ヤマギシの村・参観 |
at 2000 03/21 10:48 編集 |
以下は、あるMLに発信されていた某お母さんからのメールを、ご当人達の了解を得て転載させてもらいました。 <ヒゲオヤジ> −−転載−− ヤマギシズム学園高等部を途中で退学して今、自分の足で立とうとしている娘が勉強をしたいと言い出して、大検を受験することになりました。 そのためにその予備校に通い始めました。 その予備校では沙織はヤマギシでの生活、学園で味わった事などつたないながらも伝えたくて話をしていたようです。 そして、大好きな担任の先生(26歳の独身の女性、とっても美人で・・・まあいっぱい素敵な人です。)が村参観に行くことになりました。 なんと、その話を聞いていた友達のTちゃんも急に「行きたい」となり私と4人で春日山探検隊ができあがったわけです。 参観後、娘が送った先生へのメールを紹介します。 来てくれた事がとても嬉しかった!! うち、ヤマギシの事よく色々な人に話すやろ?! Yちゃんとかは、言いたく無いみたいだけどね! 人になにを言われようとそんなの何も気にならない だからと言って、うちがどうがんばって話しても、うちの伝えたい事ってなかなか伝わらないんだよね!! それは、それで良いと思ってるんだ!! だけどね、ヤマギシの事知らずにマスコミの言ってる事がヤマギシだと思われてるのが、凄い悔しいねん!! だから、うちは、色々な人にヤマギシの村を自分の目で見て自分なりに感じて欲しかってん!! 『本当に村に来て良かった!!』って言ってくれたやんかーその言葉がとても嬉しい!! 先生見てて、色々な事感じてくれそうやったから、、、、。 うちも、今回行って、つくずく「ヤマギシってなんだろう?何か凄い なー」って感じがした! 帰って来て、自分が優しい気持ちになっててん。何でやろうな−?! 先生はどうやった?
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34) ある教師へのお願い |
at 2000 02/29 23:08 編集 |
>>とにかく子供達には、「いつでも、何処でも、誰とでも」思いっきりやれる場を用意してやって欲 好き勝手に、自分本位に、気ままに等々を育てようと呼びかけているのではないのです。 規律に縛られたり、執らわれたり、拘ったりしていたら開放された人にはなり得ません。 子供達に育てたいのは「自発的自由意志」であり、それらに基づく創造性と豊かな社会性と言えるのではないでしょうか。 突き落とそうとした当人だけではなく、突き落とされそうになった子も含めて、周りの子供達全員に、 子供達には、自分のしたら良いことが自然に身につくような自ら「学ぶ」「育ち合う」真の生きる力をつけていって欲しいです。 規律は、規律として、あるいは規則だからと言って縛るのではなく「それはしない」こととして、自発的に子供達の中に群れ育ちの中で、自然に入ることが肝要だと想います。 子供達の成長と共に、そのお手伝いを大人たちは観守ることをさせてもらいながら、必要な環境づくりをして、親同士も育ちあうことも飯を食うことと同じように重大なことのように考えます。 貴女も、おっしゃっていますが、どうか、子供達の創造性を駆り立て、伸ばし、「やる気」を引き出し、学ぼうとする意欲と、楽しさを思いっきり味あわせて育んでやって欲しいと、切望します。 決して、規則や規律を盾にして子供達を縛ったり、観念に染めないでください。
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33) 教育は技術か? |
at 2000 02/29 23:05 編集 |
> 自分が書いたものに返事をいただけるのは、自分を振り返ることができてうれしいです。 ありがとう。 私のほうも、貴方にぶつけたわけではなく、質問者の方にとって必要なのは技術以前のところではないのかなと皆の中に提示したつもりだったのです。 親がハッキリしていなければ、子は行き場に迷います。 教師も同様ではないのかな、と考えます。 つまり、大人たちはすべて社会の親としての自覚が必要・・・というと、少し飛躍しすぎでしょうか。 迷うな、ということではなく「迷わない親達」になりあいたいですね。 「生きる力」って何だ。「ゆとり」って? 自分自身にそういう規範となるものや、自然に備わった日常の姿勢がなかったら、子供達にも同僚にも、親社会の間にも、互いにもたらしうる育ちあいの場になりにくいと想うのです。 そういう意味では、自分の弱さも欠点もさらけ出して皆に観てもらうという素直な姿勢は、本当に大事にしたいです。 質問者の方が求めるのは、解答でしょうか。 私たちが、その方にとって本当に考えられるような契機となる意見は、正解を伝えることなのでしょうか・・・。 一時的に誰かの意見でその人が何かを発見したような気がして、自由になったような、開放されたように感じたとしても、今度はそれを本人は自分の中でマニアル化して、あるいは教義のようにしてしまい、そのマニアルに自分がとらわれ、縛られ、不自由になってゆくことだって、ままあることです。 本当に、その人にとって必要なことはなんなのか・・ということは、子供達の養育の根源にも関わる重要な問題のように考えます。 「この子にとって、本当はどうなのか」「その子にとっては・・・」と観る、聴ける自分を用意して、大人たちも観合い、聴き合いながら成長してゆける場を創ってゆけたら良いですね。 勿論、このMLも含めた話をさせてもらっています。 なんだか、取り止めがなかったかも知れませんね。 技術論・方法論に走っているように感じましたので、あえて発信させてもらったものです。 |
32) 我が子が荒れている |
at 2000 02/24 17:18 編集 |
>中学生の息子がどうやら学校であれているみたいです。 >原因は多分勉強がわからなくておもしろくないのと、家庭での人間関係がうまくいってないことだと思います。 勉強は関係ないものと感じました。 次に、現代の社会現象ともなっている、家族の各々が家庭の中でそれぞれが、ホテル住まいや下宿生活をし合っていて、人間としての触れ合いをする機会が乏しい。 > 勉強がわからなくて、なおかつ人間関係もうまくいかなくなってきたら本人にとって、学校って魅力 >のない場所になってしまいます その、目の前の子供が一番望んでいることは何なのでしょうか。 方法をいくら考えても何も解消しないと想うのです。 子を想う一人の親として、全身でぶつかり真剣に子供と向き合う必要があると、心底考えます。 > 誰だって良い成績をとって親にほめてもらいたいはずですよね。 子供は今、そんなことを微塵も想ってはいないのではないかな。 教師という思い入れを外し、物分りの良い分かったような虚勢を張らず、ありのままの自分を子供にさらして、その子の唯一の親として、又社会の親として命がけの向き合いを提案します。 甘ったれた親をやっていては時間の無駄です。 親でしか出来ない事をやるだけのことです。 子育てとは、親の命も掛けると言うことと同義です。
といっても、悲壮な覚悟をして取り組むことではなく、真剣に、そして愉しくという取り組みが必要だと思います。 どれだけ自分が素になれて、「聴く」ことが出来て、事実のみを素直に「観る」ことができるかにもかかってくることだとも感じます。 箸にも棒にもかからない「オトナ子供」に育てて社会に送り出すことは出来ない、というのは私の考え方です。 敬愛される親になり合うことが必要ですね。 人を変えようと想っても消耗するだけです。 理想論と一蹴される人もいるでしょうが、本当に子供が大事だったら自分を放すことぐらい造作もない実践だと想います。 落ち着いたら、育ち合える親達の場を皆で、創ったら如何でしょうか。 |
31) 教師への不満? |
at 2000 02/22 15:11 編集 |
> おっしゃっている趣旨はわかります。しかし、地域社会の創り方まで考えるゆとりはありません。 そうですか。夫々の地域性もありますから、何とも言えないところですね。 自分の生き方を人に強要するつもりはありませんが、自分が目指される大人の一人として在ったら良いな、とは密かに想っています。 理想でしょうが、「お父さん・お母さんのような生き方をして行きたい」と想ってもらえるような、先輩としての人生観を持って努力し、互いに成長し合いたいと望んでいます。 >うちの子供は先生の言うことは絶対であり、親の言うことよりも先生の言うことを信じます。 どうしてそんなことになるのでしょうか。 >理想としてはすばらしいと思います。 私にとって理想とは、絵に描いたモチではありません。 >教師を指導することも含めて、みんなで話をしなければいけないのでしょうね。 そうですね、私の姿勢で言えば指導ではなく、「共に」育つという実践を何処までも貫いてやっていこうとしますね。
>>誰某の言うことだから正しくて、誰だから間違っている等の決め付けが、もし大人の人の誰かからあって、それ そうですね私の場合は、「言うとおりにしなさい」という言い含めではなく、「言うことを聴く」ということについてを話したと想います。
いまだに、気がついたら人を押さえ込もうとしていたり、決め付け、思い込みに左右されたりしている私です。 いつも自分のことばかりですね。 いいかげんにしたほうがよさそうです。 |
30) 「叱る」「躾」「体罰」 |
at 2000 02/17 16:08 編集 |
子どもに対する「叱り方」が話題になることが良くあります。 子供に限らず、怒るときは大抵そうなのではないですか? 人にもよるかもしれませんが、怒るということは相手に対して自分が優越している、という一種の思い込みや、見下し、蔑み、或いは傲慢さから発するものだと想うのです。 親として自身を振り返ってみまするに、子供に対しては、威圧と威厳を混同してしまっていることが良くあったと反省するばかりです。 対して「体罰」は「制裁」です。 罰や裁きを受けるからやってはいけないのではなく、あるいは見つからないようにしようという、別の意味の生きる力を育てることは、私達の本意ではないと思うものです。
体罰や制裁・暴力や虐待で育つものは何も無いと確信できるように想います。 子供に限らず私は、「聴く」ということからすべてが初まると考えますが、自身が「聴ける」人になっているのかどうかは、重要な社会人としての要素であり、なり合おうとしているかはもっと大事な成長のための同義と言えましょう。 子供達には親の日常の暮らし、普段からの生きる姿勢が確実に、そのまま写されます。 素直な気持ちで、ありのままを観、そして聴くということができれば、考えることは今、目の前のこの子にとってどうするのが最善なのか、と言うことが冷静に観ることが出来ると思うのです。 大人を大人と思わない子供がいくらでもいる昨今、親としてのなりあい、成長のし合いは最も重要な子育ての条件だと考えます。
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29) 携帯電話で、人が死ぬ! | at 2000 02/14 17:59 編集 |
最近、恐ろしい話を聞きました。 それはそれとして別の大きな問題があるのですが、今回の話は携帯電話で人が死ぬかもしれない可能性が確実にあるのだと言うことでした。 電車の中では、「携帯電話の使用は、遠慮してください」あるいは「デッキに出て使用してください」などとアナウンスしていますが、決して「やめましょう」あるいは、「電源を切ってください」「禁止します」等の言葉は聞いたことがありません。 歩いているとき、突然となりの人が自分の携帯電話の着信で卒倒してしまうなんて、考えてもいないことでした。正直、ショックです。 新幹線にしても、車内での通話は常識人風に避けている人も多いけれども、電源を切っている人は少ないのではないかと思えます。 私は、出張や車で遠出の仕事や用事でもない限り、面倒なせいもあって携帯電話を携帯しない習慣がありますが、ますますケイタイ嫌いが正当化されたようで声が大きくなりそうです。 「携帯電話なんて、イラナイ!」 便利なときも、ソリャありますけどね。(雪道にはまって、JAFに連絡できたときは本当に助かりました、と最後は歯切れが悪い・・・)
うちのカミさんからは「パソコンなんて、イラナイ!」と言う声が聞こえてきそうです。 これも、聞いた話でぞっとする話ですが・・・ 「脳が、茹だってしまうと思ったことはありませんか?」 |
28) 私のネットへのかかわり方 |
at 2000 02/14 17:57 編集 |
私は誰とも論争に至るような議論はしたいと想っていません。 議論のための論争をしてみても無意味です。 テーマをML上に提示して、それに対して皆がどう感じ、想い、考えるのかといったことを出し合い「本当は、どうなのか・・・」と、どこまでも決め付けをしないで一緒に考えてゆく、それで実際にやってみてまた話し合う。 ただ、自分の思いの丈を吐き出すだけでいいという方も、勿論いらっしゃると想いますが、どうせなら有機的に成長しあいたいと私は考えています。 俺は絶対正しい!この意見は間違っている。これは×でこれは〇、といったような自分の固定観念、常識観念に照らして全てを「裁き」、振り分けたり、決め付けたりしないで、その自分の様々な取り付いている色眼鏡をも取り外し、「本当はどうか」と見直したり、考え直せる自分を養いあって行く必要があると想うのです。 ですので、ネット上に出した意見は自分がだしたものではあるけれど、単なる叩き台であり、ひとつの素材です。 「こんな考えは、どうでしょうか?」という気持ちから発言をしたらどうでしょう か。 言葉が充分でなく、正確に伝わったかどうかは分かりませんが、そんな姿勢での話し合いや、互いの研鑽の観合いをしたいと考えます。 必要なのは、率直な感想と意見の出し合いと、それらに対する次へのステップに向かおうという考え方・提示でしょう。 自分の意見は紐や鎖を繋がずに、みんなの中に、ただ見本として置くだけでよいのだと考えます。
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27) 自由人とは・・・。 |
at 2000 02/14 17:55 編集 |
人間は何にとらわれるのか・・・なんて考えると難しくなってくるけれど、何てことないんだとある日、フッと気付くときがあるんだよね。 で、気付いたときや新たな発見をしたりしたときに、自分がすっかり自由になったような気がして、「何だ、こんなことだったのか」と感じたりして、とても解放される気分になったりするな。 これ、全部自分のことなんだ。(~_~;) |
26) ある娘への手紙 |
at 2000 02/14 17:55 編集 |
ヒゲオヤジだ。 レスありがとう。 私の考えですが、高校をやめるとかということは、そんなに大した問題ではありません。 ただし、それは真の社会人としての成長を本当に目指しているならばの前提が必須ですけれどね。 歌手になるのも反対する理由はないでしょう。
ただ、歌手になって何をしたいのかが大事なことだと想うのです。 むしろ、それが目的だというのであれば、それを充足させてくれるところへ行けばいいだけですから、簡単ですね。
受け入れてくれるかだけの問題かもしれませんし、それこそユメ破れ・・・ということにもなりかねませんけれどね。 「生きる力」の何たるかを育んでいなかったり、「共に」の豊かな社会性の培いが欠如していたら、他を触発する何ものも生み出すことは出来ないのではないだろうか。 自分の目的のためには、今したら良いこととは・・本当はなんなのだろうか。 考えて、踏み出すのはそこのところのことではないのかな。 何をやっていくにしても、土台造り、土壌づくりから始まるのだと、確信できるんじゃないのかな。
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25) 今、中退を考える姫に |
at 2000 02/14 17:54 編集 |
ヒゲオヤジだ。 先日の書き込みのときは、日記を読まなかったし直前の人の書き込みも読まなかったから、全然気がつかなかったよ。 目標・目的のためにどうするのが一番良いのかは、友達もそうだけれど特に親とはとことん話し合い、少しでも理解してもらうことが必要だね。 だって、姫の成長を願って養育環境を用意してきたのは、ほかならぬ親だもの。 どれだけ姫自身の自発的な自由意志と、創造性が培われたかの今の姿を観せればよいだけではないのかな。 腹の底から話し合い、自我のためだけではなく、豊かな社会性を自らが養い、皆と共に創ってゆく姿勢を確立していって欲しいと考えます。 そして、最後に決めるのは自分自身です。 |
24)子ども自身が有する「育つ力」 |
To [email protected] at 2000 01/20 09:53 編集 |
ヒゲオヤジだ。 早速のレス、ありがとう。 >「環境」と言う前に、私が目にする子供達は電車の中でゴミは散らかし放題、空き缶は道路に平気で捨てる。などなど・・・全く躾けができていません。 私の言う環境とは、そういう社会環境も含めてのことでしたので、とても嬉しいです。 私は立ち上がって彼らの前に立ち「片付けなさい!」と周りにもハッキリ聞こえるようにたしなめました。 慌てた彼らは、「お前がやったんだろう」等といってまだ、人のせいにしていました。 誰かを批判したり、責めるというのではなく、地域社会の健全さ、みんなの下での子育て、地域がつくる養育環境等々をです。 エピソードは限りなくあるオヤジで、煙たがられたりしますが、少なくとも我が町内の子でタバコやビールの野放し状態はなくなりました。 >やはり、マナーを守るということは、人間社会の中のルールを守るという大事な基本です。 これはマナーなんだからとか、守らなければいけないのだ、という既成観念の押し付けにならずに、子ども達自身が元々有している、育つ力を伸ばしてやれるような、観守れる大人に、社会の親になりあいたいですね。 |
23) 今、親達のやって行くこと(過去のメール対話から) |
at 2000 02/14 17:52 編集 |
子供達にとっての育ちを考えたとき、私達大人に出来ることは、仰る通り養育環境を如何に用意してあげられるかに尽きると想います。 現代の世情・体制に従順なロボットに、あるいはうまく渡り歩けるような人間に育てるのが真の養育・教育ではないと私は考えます。 「今、子供達は本当に思いっきり遊んで、腹いっぱい何でも食べて、熟睡をしているでしょうか」 正常健康に子供達を育てようと想ったら、どんな環境が求められるでしょうか。 人間は独りでは生きてゆけないと言うことばには理を認識しますが、相手(ヒトに限らず)があるから自分が在るのだという視点から観れば、先ず自分の子供だけを見るのではなく、周りの子供達を観て、どうあったらよいかを独りではなく、皆と共に考え、実践する方向を探るべきだと考えます。 親というのは社会の規範となる存在であるから親なのであって、自分の子供だけの付属品は単なる書類上の保護者です。 親同士の有機的な人間味あふれる社会がなければ、当然子供達の健全な社会も生まれようがありません。 核家族化の促進で、今や家庭の中でそれぞれがホテル住まい、下宿生活をしているというような事を言われています。
子供の要求に応じて部屋に鍵まで付けてやっている親が、現実に私の周りには何人か居ます。 「子供達は、社会の子」であるならば、親は社会の親でもあるわけです。 箸にも棒にも掛からないような「大人子ども」を社会に送り出しては迷惑になるだけです。 (生きる力の薄弱な子どもを、青年を切り捨てるという話ではありません。それらはまた、別の重要なテーマとして存在します) 幼稚園も学校も各々の家庭、そして地域社会と 一体となってつくりあってゆくことで、初めて健康正常に機能し合えるものと確信します。 お父さん達のやることはいくらでもあります。 「共にやる人」をまず求め、働きかけて欲しいと想わずにはいられません。 −−略−− 私も教育の専門家ではなく、一介のサラリーマンです。 それぞれの周りで地域社会づくり、一緒にやってゆきましょう。 先ず自分から、我が家庭から・・・でしょうか。
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22) 「イジメ」についての対話から |
at 2000 02/14 17:51 編集 |
>他のお母さんたちは、自分の子さえ良ければ安心、という姿勢が見え見えでした。 私の娘も小学校の頃、イジメの対象にされたことがあります。 いじめられても仲良しの友達が居さえすれば、まったく違ってくるようで、いろんなことの拠りどころにもなり、支えにもなるのは大人も一緒ですね。 先生は、深刻な普遍的問題として受けてくれ、教室で最初は各班ごとに話し合い、それから全体でグループごとの意見発表、聞いてみての話し合いと進んでいったと言うことでした。 でも、一日では終わらず、そのことを家にもって帰って、お父さん、お母さんと話して感想や意見を聞いて、それを又持ち寄り、自分はどう感じたか、どう想ったか、どうしてゆきたいかと話し合いました。 そこで出て来た問題や疑問は徹底してとまでは行かないけれど、かなり子供達の中で深まり、親達も無縁ではいられなくなって、連絡網を通じての意見の交流が少しずつですが、行なわれるキッカケとなったのです。 それでもやはり上辺だけで、本音の部分はなかなかでてきにくいのも確かでした。 そこで自然に出てくるのは、いろんな地域活動への参加の話です。 一部の人達だけの「派閥」的な観方をされないように、その都度クラスの全員の親に呼びかけ、お知らせを回すのは大前提ですね。 とことん出し合い、話し合うという姿勢に皆がたつことが基盤になり、お互いの意見の違いを知り、理解しあうと言うことが大切な一歩でした。 何よりもそうした親達の姿を、別室にはいても子供達はしっかりと観ている、と言うのか敏感に感じ取ります。 そんな親達の関わりが子供社会に即、反映されてゆくのです。 問題があると思える子供も、皆の子として観ることで、やれることが見えてくるはずです。 無力感に襲われることもあるでしょう。 他の人を変えようと想っても無駄な消耗に終わるだけです。 「まずは、自分から」と言うのは、どうでしょうか? その場にいない者が実情も知らず、好き勝手なことを言っていますが解決の道は、どこまでいっても小手先の方法ではなく、「共に」のなかでしか無いのだと想い、長口舌となりました。 一緒に、創ってゆきましょう。
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21) 親と子の関わり |
at 2000 02/14 17:50 編集 |
私は、子育てという観点から考えたとき、教条やマニアル等々の決まりごとというのは、ないと考えています。 今、目の前にいる一人ひとりの、この子にとってどうなのかだけを観てゆくことが何時の時代でも、どこの世界でも変わらぬ、最大のポイントなのではないでしょうか。 自分達が子供達にどんな風に育って欲しいのかと、どれだけ真剣に考え、願っているか、そこが親としてハッキリとさえしていれば規範となる親、目差される大人としての姿勢に、自然となり合ってゆける筈です。 大人の思惑で子供達の感性や、様々な可能性を一蹴したり、閉じ込めてしまったり、潰してしまってはならないのは勿論です。
そのこととは別に、大人と子供は人間として平等であっても社会的に対等ではない、という側面があると私は想っていて、特に親はそのことを忘れた養育をしがちであることに気を置く必要があると考えています。
以上を踏まえてのことですが、 親、大人達は、子供達に豊かな想像性を育み、自発的な自由意志と更にどこまでも広く、深い社会性を培いあわせてあげたいと考えます。 この事は、子供達の成長にとってかなり重要な影響力となって寄与するものと想われます。 親の生き方の何を伝え、継いで行って貰いたいのか、それをしっかりと押さえたいです。 方法や、手段に執らわれず、根源のところでの話し合いに深まってゆくかかわりが創り合えたら、それこそ本懐というものではないでしょうか。 結言 いけないということは、何ひとつとして無く、正解も無い。 あるのは「共に創る」ということのみ。 如何でしょうか。 |
20) 「今」に生きる・年頭にあたって・・・ |
at 2000 02/14 17:49 編集 |
歴史的か運命的か分かりませんが、2000年です。 新しい時代の幕開けの響きを感じ、軽い興奮を覚えます。 特に子供達には、「生きる力」と「個性を尊重する教育」という文部省の方針が打ち出され、「能力と適性」の陰に潜んでいる比較と競争、選別社会への絞込みがいよいよ危惧されます。 孤立化に向かいう逆行が予想される状況は深刻であり、楽観はできません。 親たちは手を固く結び合って、ますます真剣に育ちあうことを考え、実践してゆくことを求められていると感じます。 何かしなければ・・・、このままでは・・・、と感じているひとも沢山います。 新世紀への架橋の今、世代交代がもう間近に迫っています。 今を生きるには、今しかないのです。 一人ひとりが創造者であり、主体者であることを、しっかりと認識して、育ちあってゆきたいです。 幸福会ヤマギシ会「けんさん」紙 200年 1月号より |