19) ある親御さんとの交信より。(過去ログ) |
at 2000 02/14 17:48 編集 |
受験と進路の話が出ているので、二年程前のメール上の会話から抜き出して見ました。 >中2の息子も来年受験ですが、高校に対してなんの目的も持っていないんです。 親は何故、子供を高校に行かせたいのでしょうか? 目的がないということですが、親としては今までどういう後姿を見せてきたのでしょうか。
親は、そのうたい文句が大変に気に入ったのでしたが、後になってそれは、親がただ強引に押し付けただけと気が付きました。 と言っても、別に失敗したと言うわけでは勿論ありません。 さて、親と子が進路について話すとき、どんな話になるのでしょうか。 私達の場合、どうしても最初の子は実験台的なところがありました。 多分、その都度ごとに通常の暮らしの中では得られない、親と娘の一生分もの話をしていたのではないでしょうか。
テーマはその都度違いますが、進路では「どういう人になりたいのか」です。 何時間の沈黙があっても、考えられる限りは待ちます。考えられなければ、一休みして、雑談からまたはじまるのです。続けられなければ、次の機会に延期します。 何よりも大事なことは、話し合った結果を皆が一緒に実践して行くことにあります。 独りでは何事も進みません。
いくら一生懸命にやってみても、「頑張り」にしか過ぎず、独り善がりに充足するのがオチです。 そして、大事なのは親社会づくりでしょうか。 親達の健全な社会がなければ、正常な子供達の社会が生まれよう筈がないからです。 |
18) 「ガンを明るく生きる」その2 |
at 2000 02/14 17:47 編集 |
「ガンを明るく生きる」の講演会・座談会の窓口をしていられる68歳にもなろうかというお婆ちゃん(失礼)からの座談会感想文です。 ご本人の好意を賜り、ここに転載させていただきました。 伊藤 勇さん 69才 名古屋 在住 元 婦人服縫製会社社長として40年間やって来られましたが、3年前に 前立せん癌の告知を受け、その後、愛知がん患者の会
(いずみの会)に入会、昨年 名古屋でヤマギシの会員さんが 4人で 始めた、心の健康を考える会(サ−クル みどりの会)の発行した チラシをみてヤマギシを知り、間もなく昨年5月のゴ−ルデン特講を受けました。 12月8日・9日は、大阪のNさんご夫妻が、伊藤さんを 呼んで呉れました。ちょうど 私も 8日だけ空いていたので、付いて行きました。 お昼、鍋を 囲んで 雑談をしながら、美味しく、楽しく始まりました。 同席のNさんのご主人は、胃がんの他に 肝炎を患い、今は更に淋巴腫という病いを抱えていらっしゃいますが、とても 穏やかで、大根や、水菜など、菜園で 出来た野菜を 目を細めて嬉しそうに 鍋に 入れてお世話して下さいました。 とても柔らかで、美味しく、甘みもあって、みんなニコニコ、身も心も 満腹!! 奈良からは、40代の子宮がんの人が加わりました。 「沢山の人のお陰で私はここまで生きてきました。 その日が来るまで、皆さんが 呼んで呉れれば 何処へでも行きますよ」と、にこにこされていました。 以上。 |
17) 子供たちの孤立を促進する教育改革 |
at 2000 02/14 17:43 編集 |
文部省は塾等の補助教育機関を学校教育の一部として認定しましたね。 教育の自由化と称してますます公教育が民間に依存され、教育の商品化が顕著となり、比較と競争の差別・選別社会へとまい進し、親達は自分達の財力に合わせた選択をするだけの消費族に貶められてゆきます。 従来、教育の平等という基本法の名の元に画一的人間養成を図ってきた教育方針が、昨今の中教審の答申を反映して「生きる力」「個性を尊重した教育」と打ち出され始めましたが、ますます比較と競争を煽り、子供たちの孤立化を促進することになりはしないだろうか。 社会倫理に欠けた私達大人が今、親となり子育てをしている訳ですが、どんなにうちだけは・・と頑張ってみようとも、地域社会の崩壊は健全なものの創造には結びつくことがありません。 企業中心社会を必死になって創ってきたつけが、現代の子供たちに、親達に回ってきているとも考えられます。 財界に牛耳られ、主導されている教育から私達は、本来の子供の養育について心底見詰めなおす必要がありそうです。 本年新春に私大生を集めた講演で、ある大銀行の頭取は、「君達は、幹部の有能な手足となるべき士官を目指しなさい。
なれないのならば、ロボットになればよいのだ」と公言しています。 養育・教育の主体は親です。 そして、子供たちの成長は地域社会の熟成如何に左右されると言っても過言ではない筈です。 教育や養育の目標は、子供たちの自立・自律の健全な育成にあると言えます。 家庭は美味しいものが思いっきり食べられて、熟睡ができるゆとりと安心のおける愛情環境があれば充分で、子供たちの豊かな社会性は地域社会が培うと言うのが正常な姿だと考えます。 子供たちを地域に放ち、土に帰したいです。 思いっきり安心して遊べる地域環境を大人達は、取り戻すことを含めて自らの手で創り合い、そのことで成長し合い、社会発展の重要な拠点である地域社会を熟成させてゆきたいです。 如何でしょうか。 |
16) 「癌を明るく生きる」座談会より |
at 1999 12/09 17:42 編集 |
★TACHIKOさんからのメッセージ★ TACHIKOさんから「癌を明るく生きる」の伊藤勇さんの懇談会に行った感想を頂きました。 昨日、大阪市東住吉区駒川商店街の近所、Nさん宅で、伊藤勇さん発見。 伊藤さんは、ゆっくりと答えてくれました。 ひとはひとりでは生きられないのだから。 いまを生きるんだよ。 伊藤さんは、「からだは衰えていくけれど、こころは成長していくんだよ。」 とも言っていた。 ひとりでは生きられない。わたしは、まだ素直にうんとは言えない。 わたしも、成長過程なんだなあ。 |
15) 生きる力と、個性重視教育 |
To hikaru at 1999 12/06 14:33 編集 返信 |
ヒゲオヤジです。 >ただ、今僕が、少し怖いと感じているのは、家庭も社会もとっちもが、子どもを育てる役割を放棄使用としているような気がするのです。 そうでしょうか?具体的にはどういうことを仰っているのかが、ちょっと捉えにくいのです。 >地域社旗と家庭がどちらも子どもを育てていく責任があるとの認識が必要なのかもしれないと思います。 そして、教師も査定という比較と競争により、選別される時代に突入してゆくがごとく見えます。 |
14) RE:生きるって |
To hikaru at 1999 12/03 14:23 編集 返信 |
hikaruさん、有意義な感想をありがとう。 >少し、話が飛躍しますが、いくらおかあさんって読んでもらいたくても、子を育てていなければ呼んでくれません。
親としてや教師と呼ばれる資格は、子供がいるということでは不十分かと考えます。 >決して、このページをあらしに来たのではありませんのでお許しを イエイエ、とんでもない! 結果的に同じことを考えていて、成長したいということと受け止めています |
13) 死ぬまで生きよう! |
at 2000 02/14 17:38 編集 |
このところ、「生きる」がテーマになっていろんな考えが送られています。 From にゃんこ( HP ) To [email protected] at 1999 11/26 23:16 編集 返信 こんばんは〜。 今思えば原因は「人を羨む心」にもろぶつかって。ですかね。 奇しくもマスターヒゲオヤジの言われる「自分の中の自己最高」をめざせ。と。 他人との比較優位でなく、自分の中のドゥマイベスト。
ああ、もう、でもダメ! このまま寝床に直行です。 |
12) ヤマギシズム社会 |
at 2000 12/01 17:37 編集 |
RE:はじめまして〜 どもども!元駄無です。 はい、かなり通ってました(笑)小学校3年生から中学校3年生まで北は北海道、西はどこだろー、北条、那須、豊里、主なところは転々と。キャンプがてらに行ってましたよ。高校生のときは行ってなかったけど、大学入学時に特講を受けました。 >「囲った中」と思い込まれているのですね。 学園から外に出て実社会(?…いわゆる一般社会)で働く人は少ないのでは?学園というより実顕地という言葉を使うほうが良かったみたい。 「囲まれる」=「ヤマギシに根を(所属を)置く」という意味で使いました。閉鎖の意味ではありません。 >自発的自由意志を育み、豊かな社会性を培う環境の元に自分達のやりたいことで育つ、と言うので皆と「共に」愉しく暮らしを創っています。
”べき”や”ねば”というのはいわゆる固定観念だからそのようなもの持ってたら、なんちゃってヤマギシイズムになっちゃう(笑)のはわかりますよ。 これまでは、価値観の束縛(べき、ねば、常識、道徳など)があり、それらから如何に自由であるか(零位に立てるか、執着しないか)が強く影響してきたと思います。 幸福とか豊かさって常に不幸と貧乏を内包している(相対二元の観念…善悪損得正誤など)。片方だけ見ていると本当の零位に立ってみているとは言えないのではないだろうか?心が分裂した状態では本当に望む社会や現実を表すのは不可能だと思う。 ヤマギシに関してどうも引っかかるところがあったから、僕はそのまま残りませんでした。
To 元駄無 at 1999 12/02 10:34 編集 返信 元駄無さん、ありがとう。 >学園から外に出て実社会(?…いわゆる一般社会)で働く人は少ないのでは?学園というより実顕地という言葉を使うほうが良かったみたい。 学園を出発してどうするかは、人それぞれですね。 第一期からの高等部生達に子供が出来、地域から幼年部に入れている人も出始めました。そんな日数が経過しているのですね。 >抜けようする人の多くが、入る前に抱いたヤマギシの理想像と実際のヤマギシでの営みにギャップを感じた人が多いと思います。
誤解を受けそうなので念のため補足しますが、無所有になれないから村を出る、という人ばかりではないと思います。
>一般社会とヤマギシ社会に軋轢は未だ存在すると思う。その壁を如何にクリアするかが、大きな課題のようですがね。 「軋轢」はないでしょう。 >個々の自立を促す土壌を養う(子供の教育など)には良い環境だと思います、楽園村は。なんせ、学校は制限とか強制だらけ。それに比べ、楽園村の楽しいこと(笑)。活き活きして帰ってきますからね、お家のほうに。 愉しい思い出のようで、良かったですね。親から無理やり行かされて、地獄村の思い出しかない子供もいるようですよ。 >「囲まれる」=「ヤマギシに根を(所属を)置く」という意味で使いました。閉鎖の意味ではありません。 真の仲良しを確立するのも地域では至難の業ですね。 形を求めたり、整えようとしても、形としてあるものは、必ずいつかは壊れます。 無固定前進もヤマギシズムですが、普遍ですね。 >自由意思を重んじているようで、最終的には「みんなと一緒にやろうよ」とたとえ本人がしたくなくてもさせるように仕向けていた、そう感じました。「心の和」「心の幸福」を求めるのなら、形は一致(みんな一緒)でなくてもいいのですよ、そう思いません? 理念という大きな太い幹に成長すれば、枝葉は様々でしょう。方針や計画・実践はその時代・周りの状況に合わせて変わるものと考えます。 >これまでは、価値観の束縛(べき、ねば、常識、道徳など)があり、それらから如何に自由であるか(零位に立てるか、執着しないか)が強く影響してきたと思います。これからは自立(自由意志に基づく、自己管理、自己責任、自分で考え自分で行動する)が重要になると思います。 現代社会の私達みんなの課題ですね。 >ヤマギシの観念にふれ、ヤマギシ社会を目にし感じたことに、「個々のエゴ(自我)はそのままなのか?」と言うこと。 我に執らわれていると、他の人の話を聴くことが出来ないし、本当に客観的な視点に立つ、ということも出来ないのではないでしょうか。 学び、問うて行き、練習を繰り返すしかないですね。 >逆に本当に零位にたって相手を見ている方もいましたけどね。 そうですか、私はそう言える確信がありません。 成る程。そのとうりですね。 >エコロジーもへたをすると「エゴロジー」になっちゃう。 上手いですね。 >山岸さんか気付かれた理念でこれまでやってきた幸福会ヤマギシ会。デメリットとメリットを如何に大人達が統合していくかで、本当に山岸さんが目指していたものが出来ると思う。がんばって欲しいと思います。 頑張らないで、皆さんとも一緒に愉しく「共に」やってゆきたいと考えます。 >ヤマギシに関してどうも引っかかるところがあったから、僕はそのまま残りませんでした。 いろんな人がいて、いろんな考えや感性が備わっています。鋳型にはめることなど出来ないし、正解という考え方もないのだと想います。
>幸福とは青い鳥のようなものではないでしょうか? 今まで述べてきたことも全て含めてですが、私個人の考えとしては皆と共に、創り上げてゆくものだと考えています。
何れそのことが、良くも悪くも伝播し、繋がってきます。
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11) 生きるって・・何? |
at 1999 12/01 09:29 編集 |
ヒゲオヤジです。 生きるって 何だろう 幸せって 何だろう 生き甲斐って 何だろう 今 私は 生きている ” その日 ”が 来るまで 明るく 楽しく 思いっきり 生きます。 __________________________________ |
10) オトナの定義って、ナニ? |
at 2000 02/14 17:36 編集 |
ヒゲオヤジです。 以下、各名詞の定義は抜きにして、勝手に私も考えてみました。 巣立ち・巣断ち、などと例えられることもありますが、意味深いですね。 自分のことだけ考えていては、未熟から脱却することも出来ないのではないのかな。 つまり、大人になると言うことに終わりはなく、何のために生きているのかとか、どういう生き方をしてゆきたいのかといったようなことと不可分なことのように考えますが、如何でしょうか。 私などは一生、未成熟人の単なる外形上の小人に対する大人で終わるかもしれないと想うと・・・もう、手遅れ気味か。(・・;) |
9) 「ヤマギシズム特別講習研鑽会」 |
at 2000 02/14 17:33 編集 |
自ら比較と競争の社会を作り上げ、育てられてきたた現代人たちはストレスと言う得体の知れない刺激にさらされ、日々真綿で首を絞められるがごとくの生活を強いられている。 どうしてこんな社会になってしまったのか、このままでいいのだろうかとは、誰しもが一度は考えている事だと思う。
発散が悪いと言うことではなく、むしろ必要なことではあるが溜まったものを吐き出だけでは一時的なスッキリ感は得られても、またすぐ蓄積するのはあたりまえである。
もし、腹を抱えて笑い転げるような、或いは感涙に噎ぶ映画、演劇でありながらも観客は精神の浄化だけでなく、何か社会に目覚めるようなことを感じ取れたら、又は自らの生き方に照らして考えたくなるような刺激を受けたとしたら、少なからず自分自身を振り返る契機にはなるだろう。
映画、演劇に代表される舞台芸術の限界は、どうしても一方的に観せる側と観せられる側とに別れてしまう宿命にある。
笑い転げることもある。慟哭することもあろう。思わずもらい泣きすることもある。 しかしもう、精神の浄化や排泄だけでは終わらない。
現代社会の日常的マインドコントロールに毒されず、本物を追求する唯一の創造方式「本当はどうか」と皆でどこまでも考え、信じず、疑わず、やってみてまた考える。
ストレスのない自分自身になるのもまさに、本人次第です。 |
8) 高校中退問題を抱える、あるお父さんへの 独り言 |
at 1999 11/22 09:07 17:18 編集 |
ヒゲオヤジです。 息子さんは、来週にも学校を決めるようですとのを書き込を見て、余計な出しゃばりをしたくなって、またまた出てまいりました。
だからどうだと追求されても正解はないと想いますが・・・。 子供が、本当に自分自身の向けるべき姿勢を自らがはっきりと掴むことは、これからの人生にとって、重要な意味があり、それが育まれてこなかったがための今日であると想うからです。 親は本当にそのような「やめる」と言えば・・・。「ここがいい」と言えば・・・の ような親子関係や、息子自身の社会観を望んでいるのでしょうか?
そこが最大の問題であり、貴家に限らず多くの家庭のテーマではないかなと素人ながら感じました。 親にとっても子供にとっても、今が本当の成長のチャンスではないでしょうか。 子供は「本物の自分の親」を、自分の肉親に求めているのではないでしょうか? 決して我が家がすべての規範・模範であらねばならないと言う意味ではありません。 地域で是非、「共に」やれる人を求め、今すぐでも、実践してみていただきいと言うのが窓際オヤジの老婆心です。 ・・・・・・・・・・・・ > 私は30日からM県に出かけてしまうので、転入試験はその間に行われるのでしょう。 って、本当にそうでしょうか。 そして、正面から親に対して真摯に「お願い」出来たのでしょうか。 その上で、親として観守りに落ち着いたと言うことでしょうか。 |
7) 宗教と道徳 |
To kurokishi at 1999 11/12 17:14 編集 |
RE:道徳とは!? >道徳とは、規則を守る事ではなく、因果関係、その結果を重視すべきだと思うんだよねぇ。つまり、幸福の為には不道徳も許されるというのが、真の道徳だって訳。違うのか!? 研究テーマとして追及している人と肩を並べて論を展開することなど恐れ多いことだな。 いわゆる「勧善懲悪」の話はどこにでもあるよね。
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6) 道徳と倫理 |
From kurokishi at 1999 11/13 00:33 編集 |
返信 儒学とは!? キリスト教も仏教も、被支配者が救われたいが為に救世主を望んで、絶対者への信仰が根底にあるから宗教ってイメージが強いんだろうねぇ。 道徳と倫理 at 2000 02/14 17:23 編集 道徳と倫理 at 1999 11/12 09:02 編集 To [email protected] at 1999 11/09 14:29 編集 返信> RE:黒騎士だっぴょーん! ヒゲオヤジだっじょーん。(てのもあるな) >今から、道徳と倫理の勉強を始めるつもりだけど、この2つって違うの? 君の道徳、倫理って何? 教育を語る上では、避けられないよねー。意見聞かせてね。よろしくー。 ウ〜ム・・・難しいな。 朕の頃には特に道徳だの倫理だのという教科はなかったと思うが・・・。 まぁ、誤弊がありそうだけれど形の話か、心の問題かということかな。 From [email protected] ( Mail ) To [email protected] at 1999 11/11 00:36 編集 返信 建設的な議論にしたいねぇ。> 多少の誤解があるようなので、補足です。 補足と誤解を説くだけじゃぁ物足りないぜぇ。 > 「親切な」と限定しているのではなくて、あくまでも私の考えていることを分かりやすく聴いて貰う為の一例ですね。 限定しないのなら、どうすの? >>他人に親切ができない時に謝罪するのが、倫理ってことかな。 だから今その「社会性やら思いやり」について話してんじゃん? >>> まぁ、誤弊がありそうだけれど形の話か、心の問題かということかな。心があれば自然と形となっても顕れる、という話さ。 と言う話さじゃなくて、君の話は「心」があっても行動に出せないのが倫理って事じゃなかったの? では、あの例え話云々がおかしかったのかい? 別のを出してくれるのかな。 > 道徳が形だけのもので、倫理が気持ちと言う風に区別すること自体がナンセンスで歪曲かもね。 では、どう区別する? 俺は区別しない。 > 観念的謝罪の話をしたのではないので、ご理解いただきたい。健全な社会性と言い換えたほうがいいのかな。それとも「真心」かな。 ほう、「健全な社会性、真心」が何なのか分かれば、戦争も哲学もいらないだろうねぇ。 To [email protected] at 1999 11/11 10:52 編集 返信 RE:建設的な議論にしたいねぇ。>補足と誤解を説くだけじゃぁ物足りないぜぇ。 そうかぁ。やっぱり軽はずみだったな。最初にお断りしたように、的外れでしたね。 まぁ、一介の町の親爺としてはこんな程度ですが、よろしかったら今後ともよろしく。 (この、よろしくっていうのも通俗的道徳になっていることが多いな) ・・・・・・・・・・・ From [email protected] ( Mail ) To [email protected] at 1999 11/12 06:55 編集 返信 道徳とは!?> そうかぁ。やっぱり軽はずみだったな。最初にお断りしたように、的外れでしたね。 おおー、そういう謙虚な姿勢は尊敬に値する! オッサン、立派だ! > 道徳=通俗的風習 これが私の思い込みですね。反省しました。 いや、今回オッサンの男気を見せてもらった。 ナイスなオッサンここにあり!ってね。 ところでカントの言う道徳律の定言命法である、既成の規則を守る事が道徳って「格率」には賛成? 俺は断固反対。
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5) 我が訪中記(観念とは?) |
at 2000 02/14 17:22 編集 |
私聞私観・余話 5月11日成田発UA853便の機内は満席であった。 「全部外車だ、意外とリッチだなぁ」などと思っているうちに、高速道路から降りて街中に入ってきて驚いた。 「ウワァーッ!」と内心で絶叫し、全身が膠着状態。もう、まともに前を見て座ってはいられないのである。\(@o@;)/ 聞けば歩行者など横断しようとする人たちは、車を見ないのだそうだ。 ホテル内の値段。ラーメン28元、日本製ビール20元(青島ビール13元)、おにぎり15元、ミネラルウォーター16元、コーラ13元。日本円とのレート差は16倍である。
さて、中国に来たならば、やはり万里の長城に行かねば一生後悔するとのことなので、無法道路を驀進するバスに再び乗り込み悪夢のスタート、と思いきや眠気などは一瞬でぶっ飛ぶ恐怖のロケット走法。
「月から見える唯一の建造物」と言われる万里の長城。築城のはじめは紀元前7世紀まで遡るというが、その後秦の始皇帝が30万の軍兵、数百万の徴用農民を駆って構築、強化していったという。
ここではたっぷり1時間半の時間をとって往復してくるはずであったが、なんといっても平均年齢は正直である。 店内にあるものを売るための従業員らしくて、常時15名ほどがいるらしい。 南街村に行くと言ったら、そこのビールが置いてあるというので「日中友好」の好機到来とばかりに早速購入、試飲に及んでくれた。 午後は明朝帝王13代の陵墓へ。綿のような柳の花が舞い散る参道を進んで行くと、定陵といわれる13代皇帝、万暦帝の墓に着いた。 さて、中国では自分にとりついている観念がひっくり返されるような体験の連続であったとも言えるが、中でもトイレについては私にとって特筆ものといわねばならない。 地球が破壊しても生き残るのは女性だというのを図らずも確認できた訪中でもあった。 ところで中国人とインド人の全てがトイレットペーパーを使ったら、地球上から紙がなくなると言う話は、食糧危機も相俟って実は深刻な問題ではないだろうか・・・。 ウ〜ム…。(^_^;) |
返信 <おはようございます♪ |
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>さっそくのお返事ありがとうございました。 ゆっくり読ませていただきます。 朝からご挨拶ありがとうございます。 どうぞ、何でもお聞きください。 中等部2〜3年ともなると、進路の選択もでてきます。 全て、「今この子にとってどうか」何が必要なのか、どうするのが最良なのかを親だけの独善的な観方ではなく、世話係りさんや、時には
親たち皆で観合いながら地域社会の子育て環境を創りあっています。 ちょっとのつもりが、又長くなってしまいました。
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3) 今、なぜ理想の学校づくりなのか |
at 2000 02/14 17:18 編集 |
この文章は、H10年1月理想の学校をつくる会という市民グループに寄せての感想原稿です。 明治維新以来、富国強兵政策を経て万民に均等な恵みを、豊かさをと目指し。常に経済優先の国策をとってきたわが国は、結果的に金と権力がものを言う企業(会社)中心社会を確立してきました。 現在、日本の銀行は124行あるそうだが、消滅、統合等によって生き残るのは3〜5行だと公言する財界人もいるのです。
中小企業の切り捨て、再編政策と軌を一にして、教育改革の名目で学校の統廃合、教員削減、助成金の抑制等々に向けての動きは既に始まっています。
教育・養育の主体は父母である。教育が従来のように国家のもの、官のもの、企業のためのものであってはならない。 私達大人はどこ(社会)に向かって行こうとしているのかということと、子供たちに何を引き継いで言って欲しいのか、という問いとは不可分のものと考えます。
そこに私達は、平和と共生と親愛社会の文化を構築し、地域社会がその努力と一体で教育、学校づくりを進める必要がありそうだ。 理想の学校づくりは、教育や養育を父母と地域住民の手に取り戻す唯一の機会だと言えるのではないでしょうか。 教育改革とは主体である私達の創造活動であり、理想の学校づくりは私たち自身の革命とは言えまいか。 |
2) ある、ネット上での会話より |
at 2000 02/14 17:17 編集 |
> 4、5年前でしたっけ? 教育の自由化・民営化という路線は、財界主導による臨教審によって提示され、 その後の行財政改革の一環として大学審議・中教審・教育過程審を通して徐々に政策過程として反映されています。
97年の橋本内閣の「五つの改革プラス教育改革」は、まさに財政構造改革そのものであり、それを受けて文教予算も少子化に応じた合理化、自助努力、受益者負担の原則に閣議で了承され、公費縮小のターゲットとなっています。
> とはいえ、「長期の休暇村」 私は別の意味で賛成です。 中教審の審議委員にかっては考えられなかった日教組の関係者も入っているようですが、文部大臣の首相への教育改革プログラムには、「行財政改革、及び財政構造改革の視点に留意し、(中略)改革と一体となった取り組みを・・・」と明言しています。
> それからまあ別にいいんですけど、うちも単親家庭ですので、基本は 夫婦でいても不健全な家庭が多いという考えを述べ、改革しましょうという提言なので、他意はありません。 私自身、中学3年のときですが父親を亡くして紆余曲折の育ちをしています。 敬愛される親になり合いたいですね。 かっては、我が家もそんな一つでした。
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1) 「かぶく」と私。 |
at 2000 02/14 17:16 編集 |
歌舞伎は、我が国特有の文化的遺産として諸外国にも広く知れ渡っている。 現代でも私の若い頃にはまだ「何かにかぶれてる」という云われ方を耳にしたことがある。 旧い話で恐縮だが、プレスリー、ビートルズ、ロカビリー等にかぶれた若者はいくらでもいたが、こちらの方は単なる「気触れ」であって感化されて夢中になっているだけである。
現代の歌舞伎はというと、あるのかもしれないが創作・・・と言うのをまず聞いたことがない。 一時期、創作歌舞伎運動が行われたこともあったらしいが、あえなく挫折して消滅してしまった。 過去の形骸を大事に温め、或いは鑑賞して安心している世界が常識、常識観の殻であり、枠であるとは言えまいか。 彼らがその時代に、どのような影響を社会にもたらしたのかは学者に任せるとして、常識の世界にドップリと漬かっていては発想の転換も、創造も生まれそうにないことは歴史的事実が物語る。 現代人として私達は、単なる常識の伝承者であってはならないと考える。 |
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