『第10章:夢』 -4完


         ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

「雄介…」

 自分の声で、目を覚ました。

(…夢…?)

 腕に触れてみる。
 今まで、愛しいものを抱いていた筈なのに…

 いや…違う…。あれは…。

(俺は…)

 上げた腕で顔を覆った。

 昨日、暴力団関連の捜査で、市内のホストクラブを訪ねた。調子のいい支配人が、媚びるように冗談で、俺を勧誘した。刑事さんなら、すぐにNo1になれますよ…と。
 その、記憶が見せた夢ではあるのだろうが…。

(俺は…)

 荒んできている自分を、俺は知っていた。
 あれは、あの残酷な姿は、今の俺だ…。
 日々が砂を噛むように過ぎる。
 外見は変わらないが、俺は内側から崩れ、消滅しかけている。

 五代が旅立って、もう十ヶ月が過ぎた。
 また冬が来たが、五代は…帰らない。

 先日、仕事で東京に行った時に会った椿の表情を思い出した。
 五代の話はしなかったのに、あいつには…いつも、見透かされている。
 別れ際、椿は笑ってふざけた。
 「薫…俺の胸は、いつでも空いているぞ…」
 俺も、笑って応えた。
 「誰かに恨まれそうだから、遠慮しておく…」
 だが、椿の目は、真剣だった。

 今さら、椿の胸に戻れる筈もない。
 俺は五代しか愛せないのだから、椿に縋ってみても、救われない。
 昔とは違う…そんな、惨いことをしてはいけない。
 わかっているのに、一瞬心がぐらついた。
 この…俺をよく知る、器の大きな男に預けてしまえれば…と。

 椿がさんざん苦しんだことも知っているのに。
 俺は一瞬、自分の痛みだけしか考えられなかった…。

(雄介…)

 いつの間にか、俺は五代を名前で呼びかけるようになってしまった。
 十ヶ月間…俺は、いない五代を呼び続けてきた。

(雄介…帰ってくれ…)

 そばにいなくても、遠く離れても、愛し続けていられる、俺は大丈夫だ…と、思っていた。
 だが。
 俺は、おまえがいないと、駄目らしい。
 おまえがいないと、壊れてしまう。
 俺は、薄くなって消えてしまいそうだ…。
 まだ…旅を続けたいのなら、それでもいいから。
 一言でいいから、連絡してくれ。
 何処にいる…会いたい…せめて、声を聞きたい。

 笑顔は…取り戻したよな?
 まだ、行きたいところがあるのか?
 怪我をしたり、病気をしたりはしていないな?
 何処にいる…なぜ、帰らない…。

 俺は、ペンダントヘッドを握る。
 大丈夫だ…五代は元気だ…
 なぜか、そう思える。
 具合が悪かったり、死にかけたりしているなら、俺はわかる。
 …根拠はまったくないのに、俺は、そう信じていた。

 俺よりも愛するものができたのか?
 それも…なぜか、そうは思えなかった。
 五代の心は、ここにある。俺のそばにいる。
 五代が俺を愛さなくなったとは…俺には考えられなかった。
 だのに…なぜ、帰らない…。

(雄介…帰ってくれ…)

 このままでは、俺は、夢の通りの残酷な人間になってしまう。
 現に…警官という仕事に、疲れ果てている。
 俺は、乾ききってしまう。
 汲んでも汲んでも水は、胸の穴からこぼれ落ちる。
 俺は、人の傷に無頓着になってきている。
 自分の痛みだけを抱こうとしている。

 ふと、夢で見た、五代によく似た青年を思い出した。
 失ってしまった五代の代わりに、俺は彼を愛していた。
 傷つけ続けてすまない…と、俺は思った。

(……?!)

 なにかが、ふいによぎる。
 あの青年は…なんと言っていたのか…?
 思い出せ…何か大事なことを、俺の無意識は紡いだ…

(さようなら、一条さん。
 俺は愛したけれど、あなたは愛してはくれなかった…。)

 全身に、冷水をかけられたような衝撃が来た。

(まさか…雄介…)

 俺は、跳ね起きる。

(雄介…!そんな…!)

 暗闇で考えてはいけない…。
 俺は、ベッドを離れ、電灯をつける。

         ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

 何も考えないようにして、とにかくコーヒーを煎れた。
 テーブルの前に座り、熱いコーヒーをすする。

(俺は…あの時、何と言ったのか…?)

 あの山奥の古い家で、五代が旅立つ前の最後の夜に…

(一条さん…俺を待っててくれますか?)

 そうだ、五代はそう訊いた。
 それから、もう一度。

(俺、きっと笑顔を取り戻して帰ってきます。
 それまで、待っててくれますか?)

 俺は…応えられなかった。「待っている」とは。

 五代は、すでに傷つき果てていた。
 それでも、一人で旅立とうとしていた。
 俺は不安で、心配で、辛かった。
 何もしてやれない自分が苦しかった。
 手放していいのかどうか、迷っていた。
 それでも、五代が一人で行きたい気持ちは、よくわかった…。
 引き裂かれるような気分だったが、手を離そうと…俺はしていた。
 笑って、祝福して送り出そうと…俺は、必死だった。

 「待っている」と言えば、五代は一層辛いだろう。
 待たせている、と思えば、五代はまた泣くだろう。
 待つ俺の為に、旅を急がせたくはなかった。
 重荷と涙は、少しでも少ないほうがいいと思った。

 俺は言葉に詰まり、何と応えたのか…?

(俺は、何処にも行かない…)

 確か、そう言った。
 何処にも行かない。
 ここにいる。
 変わりなく、おまえを愛している。
 だから、自由に旅をして、笑顔を取り戻してくれ。
 いつになってもいいから、笑顔で帰ってきてくれ。
 俺は、いつまでも愛しているから。

 そういうつもりだった。
 五代は、それ以上、何も訊かなかったから、解ってくれたのだ…と、俺は思った。

「くっ…!」

 俺は、腕に爪を立て、食い込ませる。

(言葉が…足りなかった…!)

 俺は、縋る言葉をずっと封じてきた。
 怖れを隠し、五代を支える為に、できるだけ強い、冷たい言葉を選ぶ癖がついていた。
 もう、終っていたのに…
 もう、言ってよかったのに…
 五代は、おそらく望んでいたのに…

 クウガだった時の五代は、自信に満ちていたから。
 俺の足りない言葉を、疑うことはなかった。
 だから、俺は…あれで、解る筈だと…思った。
 だが、もう、五代はクウガではなかった…。

 いや…もしかすると、ずっと不安だったのかもしれない。
 俺は、一度しか言わなかった。「愛しているよ」と、ただ一度だけ。
 態度や眼差しにはどうしても、顕われてしまう筈だから。
 俺の心は解っている筈だ…と、思ってしまっていた。

 五代は…石がなくなって、普通の人間に戻り、すべてをなくし、傷ついていた。
 殺し尽くした代償をすべて背負い、不安に喘いで、毎日泣いた。
 俺に縋っていてはいけない、と自分で旅立ちを決めて、また泣いた。
 そして、別れる直前に、俺さえも…俺の心さえも見失って。
 旅立った…。

(だから…帰って来られない…)

 俺に愛されていない、と五代は信じて。
 俺を愛しながら、おまえは彷徨っている。

 そう、なのだな?

 俺は。歯ぎしりして、さらに爪を食い込ませる。

(雄介…馬鹿野郎…)

 思い出せ…五代。
 どれだけの夜を共に過ごしたのか。
 どれだけの喘ぎを、おまえに聴かせたのか。
 どれだけのくちづけを、おまえと交わしたのか。
 俺がおまえを愛していない筈はないだろう…?

(それでも…雄介…)

 そうか、それも自分がクウガだったから…と。
 もしやおまえは思ったのだろうか…?
 アマダムを砕かれ、すべての自信を失い、泣き続けたおまえは…。
 五代がクウガだったから、俺が抱かれてやっていた…とでも、思ったのか?

 爪は皮膚を破った。血が滲み始める。

 見せてやりたい…五代。
 このまま爪を立てて、心臓まで剥いて、おまえに見せたい。
 俺は…そんな打算ができる人間ではない。そんなことも…知らないのか?
 俺にとっては、ただひとつの愛だ。おまえは唯一無二だ。
 俺は信じ続けてきたのに…。
 なぜ…俺を、信じない…?

 だが。
 おまえがクウガになってしまったことを、どれほど俺が嘆いていたか…おまえは知らない。
 おまえがクウガであることを、どれほど俺が怖れ続けていたか…おまえは知らない。
 俺が必死に隠し続けていたから、知られないようにしていたから…おまえは知らない。

 だから…おまえには、俺の心が見えなかったのか…。
 俺が隠していたから…俺を見失ったのか…。
 そして、今、おまえは彷徨いながら、泣いているのか…。
 どうして…こんなことになるのか…。

「帰って来い…」

 俺は、呟いた。
 一人きりの部屋に、俺の呟きは無意味に広がる。
 突然、耐えられなくなった。

「五代雄介!すぐに帰れ!帰って来い!」

 俺は、喉が裂けそうな大声で、叫んだ…。

         ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

 五代の妹や、養い親、沢渡に、俺は五代の消息を訊ねた。
 モンゴルの大使館にも、問い合わせた。

 だが、五代の消息はわからなかった。
 今、どこにいるのかもわからなかった。

 焦燥が俺を焼く。
 油照りの砂漠にいるようだ。
 俺は、完全に干上がってしまった。

 探しに行きたい。追っていきたい。
 おまえを探して、俺も永遠に彷徨ってしまいたい。
 だが…何処にも行かない、と俺は言った。
 だから、ここにいる。ここで、おまえを待っている。

 為す術もなく、俺は空を見る。
 伝えてくれ…と、空を見る。
 帰ってくれ…と、空に呼ぶ。

 だが、五代は帰らなかった。

         ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

 暗い場所に、五代はうずくまっている。
 暗いのに、俺には見える。

「五代…」

 俺は、呼んだ。
 五代が振り向く。

「一条さん?」

 ああ、よかった…気付いてくれた…応えてくれた…

「俺だよ。五代…こっちにおいで。」

「一条さん?本当に?」

 少し明るくなって、五代の笑顔が見える。
 よかった…五代は笑っている…

「五代…おいで…帰っておいで。」

「はい!」

 五代は勢いよく、立ち上がる。
 また、尻尾を振る犬のようで、可愛くて…俺は、笑う。

「こっちだ…五代…愛しているから…帰っておいで。」

 俺は呼びかける。
 だが…立ち上がった五代は、戸惑うように周りを見る。

「一条さん…どこ?」

「こっちだ…こっちだよ、五代…はやく、おいで。」

「どこ…?」

 反対のほうに、五代は走る。

「違う…五代…こっちだ!」

 苛立って、俺は叫ぶ。
 五代は振り返り、また見当違いのほうへ走る。

「一条さん…どこ?」

「こっちだ…五代…はやく…はやく、おいで。」

 五代は俺を探し続ける。
 だが、ついに俺のほうには来られない。

「一条さん…俺、見つけられない…」

 とうとう、五代は立ち止まる。

「こっちだ…五代…俺はここにいる…」

「一条さん…一条さん…俺はこんなに好きなのに…」

「俺もだ…俺も愛しているから…五代…帰ってくれ…」

 だが、もう声も届かない。

「五代…!」

 呼び声は、僅かに届くらしい。
 五代はまた振り向く。
 でも、もう五代は歩けない。

「一条さん…あなたに会いたい…」

 五代は泣き出してしまう。
 立ちすくんだまま、大粒の涙が落ちていく。

「五代…」

 呼べばまた涙が落ちる。

「会いたい…会いたい…でも、帰れない…」

「泣かないでくれ…五代…帰ってきてくれ…」

 俺も必死に手を伸ばす。
 だが、絶望する五代には届かない。

「俺は愛したのに…あなたは愛してくれなかった…」

「違う!五代!俺は…」

 息が詰まりそうだ。俺は夢の中で呼び続ける。
 遠く遠く、五代は泣き続ける…。

         ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

 目覚めても、五代の涙だけが気にかかる。
 今日も晴天だった。春が来ようとしているらしい。
 俺には、もう季節はわからなかった。
 ただ、ひとつひとつの青空だけを、俺は追う。
 窓の外の明るい空を、俺は見る。

(今日も、帰らないのか…)
(今日も、泣いているのか…)

 五代の泣く夢を、毎夜のように見ている。
 少しずつ違うパターンで、俺の脳は五代を泣かせ続ける。

(俺が、泣かせている…)

 俺の言葉が足りなかった。
 俺が疑いの種を播き、俺が信じさせなかった。
 俺が傷つけ、俺が泣かせた。

 俺が、五代を苦しめている…。

(五代…)

 出会わないほうがよかったのか…。
 愛さないほうがよかったのか…。
 俺は、いないほうがいいのか…。

 携帯が鳴っていた。
 亀山からだった。

「はい、一条。」

「あ、一条さん?すみません、朝早くから。
 市内のコンビニに強盗が入って、店員を銃で脅している、と通報があったんです。
 出てもらえますか?」

「すぐ行く。どこだ?」

 俺は、場所を確認し、着替え始める。

 出がけに、俺はもう一度窓を振り返り、青空を見た。

            (第10章:夢 完)

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