『第11章:帰還(2002年4月15日〜18日)』 -1
「請吃!請吃!」
ほら、お食べ、と笑顔で差し出された肉入りの饅頭を、俺は受け取った。
あっちっちっち〜〜。でも、うまそう〜〜。
「多少銭?」
へったくそな中国語で値段を聞いたのだけれど、饅頭をくれた顔見知りのおばちゃんは、笑って手を振って、屋台に戻っていく。
「謝謝!!」
叫んだら、また手を振ってくれた。
俺も笑って手を振って、饅頭を齧りながら、また歩き出す。
こういう市場が、俺は好き。
こう、なんていうか、生活する人々のパワーが溢れていて…。
笑顔と元気がもらえる場所なんだよ、ここは。
俺は、菓子を積み上げた屋台のほうによそ見していたから、生きた蛙がいっぱい入った籠を蹴飛ばしそうになってしまった。
大声で怒鳴ってくる売り子の少年に謝ろうとした時…。
…聞こえた。
(…五代…)
そして、その直後に、短く、なにか爆竹や花火が爆ぜるような音も。
あわてて廻りを見渡したけれど、俺を呼んでいるような人はいなかった。今日は葬式はないらしく、爆竹や花火の火薬の匂いもしない。
売り子の少年は、まだ何か文句を言っている。
けれど、俺は、おそろしく不安になって、空を見上げた。
屋台やテントの隙間の空だから、狭くて変な格好の空だ。
でも、青い…。大好きな青空だ。
その空に…俺は問いかけた。
一条さん…?
何かあったの…?
さっきの声は…間違いなく、一条さんの声だった。
一条さんが、俺を呼んでいた。
日本に帰ろう、と思った。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
いつの間にか…日本を離れてから、一年と二ヶ月が経っていた。
日本を発ってから、俺はまず南米をさまよって、それからアジアに飛び、チベットに辿り着き、さらにあちこち歩いて、最近半年ぐらいはここ、中国の奥地にいた。
クウガであった記憶、あの化物どもと闘った記憶は、もう過去のものになっている。
けれど、忘れたわけじゃない。
あんな記憶は…忘れられるものじゃないから。
一条さんと別れ、日本を離れた時…俺は、ぼろぼろになっていたみたいだ。
次から次へと現れる化物たちを、自分も化物みたいな姿になって、殺した。
特に、最後のあいつ…0号はとてもとても強くて…
俺も、一番強いもの、あいつと同じぐらい強いものにならなくちゃならなくて…
そうなれば、俺自身が、笑顔も優しさも忘れた生物兵器…って、椿さんが言ってたものになってしまう可能性もあって…
雪の降っている山の上で、俺たちは闘った…
あいつを殺して、俺も死ぬつもりだった…
あいつは楽しそうに笑って…殺すのが楽しくて楽しくてしょうがない顔で笑って…
俺たちは殺し合った。
あいつだって、生きてたもの。
あいつだって、俺とは違うけど、楽しいことも笑顔もあったんだもの。
殺していい理由なんて、本当はないんだけれど…
あいつの楽しみっていうのは殺すことだったから、共存なんてできなかった。話し合って解決できるようなことじゃなかった。だから、俺たちは殺し合って…
俺は…とうとうあいつを殺した…らしい。
闘っている途中で、身体の中の石が壊された。
なぜ殺し合いをしなければならないのか、わからなくなった。
悲しくて、傷つけられて、俺はどんどん弱っていった。
それでも、俺にはもう…憎しみはなかった。
憎むことはやめていたんだよ…なんでも…なにもかも…あいつらも…。
憎んでしまったら、あいつらと等しいものになる…って…俺はもうわかっていたので…
だから…俺は、あいつを憎まずに、あいつを殺した。
俺は、一番強い姿になる為に、かき集めた…。笑顔、愛、優しさ…守りたいという俺の気持ちを…。
あの頃は…一条さんも、俺のことを愛してくれてるって信じていた。
そして、最悪のことになったら…って、俺が生物兵器になってしまうことだけど…そうなったら、一条さんは俺を殺してくれる約束になっていた。
一条さんにとっては辛いことだろうし、申し訳なかったけど…しょうがなかったんだ。他に頼める人はいなかったし、一条さんは、俺の気持ちをわかってくれていた。
俺の後ろには、いつも必ず一条さんがいて…俺は一条さんを信じていた。
そして、俺は誰よりも一条さんを守りたかった。俺が負けたら、一番に危なくなるのは一条さんだ、と知っていたから。
一条さんを愛していた。一条さんを守りたかった…。
だから、終らせることができたんだ、と思う。
俺は大切なものだけを、心に溜めた。
汚れたものは、すべて追い出した。
生き延びようと思う心も捨てた。
俺はからっぽになり、ただ、愛しさと悲しみだけを抱いて、あいつと闘った。
そして、生物兵器にはならず、0号を殺して、生き残って…クウガでもなくなった…。
でもね…もしかすると、憎しみって人の心を守る役目もするのかも…
憎しみという鎧がないぶんだけ、俺はぼろぼろになっちゃったみたいで…。
だって、誰のせいにもできないから。憎しみのせいにもできないから。
みんなを守る為ではあったけれど、それは言い訳だ。
アマダムが俺にさせていたこと、だったのかもしれない。
けれど、アマダムの意志と俺の意志がぴったり重なったから、俺はクウガになったんだ。
あいつらを殺すことは、俺の意志だった。
俺は、殺したくて、殺した…それは、全部自分に還ってきた…。
殺し合いのあと、三日間眠って、一条さんが俺の為に借りてくれた、あの古い家で目を覚まして…。
でも、あいつの笑顔を思い出すたびに怖くなって、悲しくて苦しくて、涙腺が壊れてしまって…。
クウガになって、夢中で走って来た…その緊張がぷつっと切れてしまっていた。
もう俺にはお馴染みになっていた、俺の身体の中のあの石…いつもすごいパワーをくれていたアマダムも、あの時あいつに壊されて、なくなってしまっていて。
ただ、たくさん殺した悲しみと苦しみだけが、俺には残っていた。
あいつの笑顔が怖かった。笑って、楽しむだけに殺す存在が怖かった。
そして、結局はあいつらと同じように、自分から望んで殺していた自分が怖かった。
なぜ、あんなふうに殺すことができたのか…わからなくなっていた。考えようとすると、ただ怖かった。戦闘の記憶に、俺は脅えた。
みんなの笑顔を守るために…。でも、あいつだって、笑っていた…。
俺は、笑えなくなってしまっていた。笑おうとすると、涙が出た。
何か…俺の中で、壊れてしまっていたんだ。
俺は…殺しすぎた。
一番大事にしていた自分…俺の柔らかい優しい部分を、俺は壊してしまったんだ。
自信も笑顔も何もなくなって…俺は一条さんに縋った。
一条さんは、仕事も休んで、ずっと付き添ってくれていた。
すごく優しくて、いつも俺が泣くと抱きしめてくれた…。
甘えていたのかもしれない…一条さんに。きっとそうだ。
だけど、俺は一条さんを愛していたから。一条さんも愛してくれてる、と思っていたから。頼って、縋って、泣いても恥ずかしくはなかった…。
でも…あんまり自分で情けなくて…
日本にいて、一条さんのそばにいたら、あいつらとのことを思い出すばかりで…。
一条さんに甘えて、泣くばかりで…どんどん駄目になってしまいそうで…。
だから、やっぱり、みんなに話した通り、旅に出よう…そう思った…。
生き残れるとは思っていなかったから、先のことは考えていなかった。
本当に旅に出る、なんて思ってはいなかった。一条さんと離れるなんて、思っていなかった。
けれど、あのままでは駄目だったから…旅に出よう…そう思った…。
そして、俺は出発して…やっぱりよかったよ。
俺は笑顔をなくしてしまったままで、あちこち歩きまわって…教会みたいなところには、必ず立ち寄った。
チベットの寺院にしばらく置いてもらって、働きながら、いつも空を見た…あいつらのことを考えた…。
人を殺す化物みたいなあいつらでも、やっぱり生きていて…それなりの笑顔があって…俺はそれを奪って…殺し尽くして…。
あいつらも殺そうとしていたんだから、殺していいんだ…そう思えれば楽だっただろうけれど、なにか俺は納得できなかった。
あいつらは間違っていた…そして、俺も間違っていた。
正しい道なんか、あそこにはなかった。殺し合うしか…なかった。俺は…すべて殺した。
なぜ、そうでしかなかったのか…俺は、泣いた。
一人ずつ、殺した感触は全部、覚えていた。
それをひとつずつ、俺はなぞって…また泣いて…。
俺は、クウガだった時、あいつらにとても近いものだったから…そのうちに、あいつらが家族のような、兄弟のようなものに思えてきた…。
すみません…殺してしまって…ごめんなさい…って、俺は毎日謝った。
あのまま…坊さんになろうか、と思ったこともあったなぁ。
だけど…俺は、ある日、また出発した。
なぜだろう…俺は、やっぱり、もっとたくさんの笑顔の人たちに会いたくなったのかもしれない。
俺は、元から人間がとても好きだった。とても好きだった。
いろんなところに行って、いろんな人に会った。
人々はみんな、いろいろな苦しみを抱えていて…それでも、生きようとする。笑おうとする。
俺は、そういう…命のたくましさが大好きだった。
俺だけが苦しいんじゃない。みんながそれぞれ苦しい。それでも、人は笑えるものだし、それでも、人はわかちあえる…俺は少しずつ、立ち直っていった。
仲良くなった女の子もいたよ。うちの婿さんになれってその娘のオヤジさんとも、毎晩酒を飲んで…。
でも…また俺は出発するんだ、いつも。
次の笑顔を求めて。
そのうちに…ある日、俺が気が付いたんだ。
なんだ…俺、もう笑ってるじゃないかって。
笑顔をくれる人々に、いつの間にか、俺は当たり前に笑顔を返していたんだ。
俺の笑顔…前とは何かが違ってしまったかもしれないけれどね…。
でも、もう涙は出なかった。思い出しても、もう怖くなかった。
あいつらは…俺の心の中にだけど…ちゃんと葬られていたんだ、いつの間にか。
俺が殺してしまった数だけ…今も墓標は俺の心の中に並んでる…。
いつの間にか…あいつらを否定するんじゃなくて、あいつらと同じだった自分を否定するんじゃなくて、すべてを…あいつらが存在した、ということも、俺が殺した、ということも…俺の中で…そうでしかなかった、という悲しみと一緒に、俺自身になっていた。
不条理も不合理もすべて呑んで、世界はある。その渾沌の中に咲く笑顔の花が、俺は好きだ。それで、いい。
…俺は、また笑えるようになった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
俺は笑顔を取り戻した…。
そうわかった時…俺、帰ろうかと思った。日本に。
でも…帰らなかった。帰りたくなかった。
ちがう…帰りたかったんだ、とても。でも、帰りたくなかった。
一条さんに…会うのが、嫌だったんだ。
一条さんを…思い出すのも、嫌だったんだ…。
でも…しょっちゅう、一条さんのことは思い出した。
あのモンゴルの可愛い娘や、人妻や、商売の女の人もいたけど…うん、俺はセックスもしていたけれど…。
仲良くなって、抱いた中には、男の子も一人いたけど…。
俺は…誰を抱いても、一条さんを思い出してしまった…。
だって…あんな綺麗な人は、どこにもいないんだ…。
綺麗な人は、いるよ、いっぱい。でも…あんなにすべてが綺麗な人はいないんだ。
世界中に、花は咲いている。けれど、俺が一番綺麗だと思う花は、一条さんなんだ…。
俺は…しょっちゅう、あの…最後の夜の一条さんを思い出してた。
あの古い家で…銀色に射し込んでいた月の光に照らされて、俺の上で喘いでいた一条さんを。
淫らで、清らかで…この世のものじゃないみたいに、壮絶に美しかった…あの姿を。
そのうち…誰かと実際にセックスするより、あの夜の一条さんを思い出したほうが…俺はいい…感じるんだって…わかってしまった。
最近は…誰とも、していない。誘われても…もう、しない。…できないんだ。
記憶の中の一条さんで抜いたほうが…俺はいい…情けない話だけど…そうなんだ。
あんな思いをして、一条さんと離れて、こんなに遠くにいるのに…。
俺は、まだ一条さんを…愛している。
馬鹿だと思うよ。でも…忘れられない。大好き。どうしようもなく…好きなんだ。
こんなに惚れてしまうことなんて…たぶん、一生、もうない…。
忘れようとはしたんだけれど…だから、いろんな人と付き合ってみたんだけれど…
無理だった…忘れられない。魂があの人のそばを離れられないんだ…。
どうしても、あの人がいいんだ。他の人とは比べられない、俺はあの人だけが…いいんだ。
会わないでいる程、忘れようとすればする程、想いが募ってきてしまう。
日本を離れて、殺し尽くした傷は治ってきて、俺は笑うこともできるようになったのに。
愛した傷は治らない。どうしてなんだろう…ますます傷が深くなっていく。
しょうがないって…もう、あきらめてきた。抵抗するのは…もう、やめた。
俺は、一条さんだけを、愛している…他の人は、欲しくない。あの人だけが…欲しい。
そう認めてしまったら、少し楽になったような気がしている…。
愛されていないってわかっていても…帰ったほうがいいのかな。
苦しくても、そばにいられるほうがいいのかな…そうも思うんだけど。
俺は今まで、帰る決心がつかないで…一年と二ヶ月が過ぎてしまった…。
一条さんが…「愛してるよ」って言ってくれたこともあるんだ、一度は。
俺を見つめて、微笑んで…あの笑顔で…言ってくれたんだ。
あの笑顔で…。優しくて、不思議に哀しいような、澄み切った笑顔で…。
俺は…嬉しかった。もう死んでもいいくらい…嬉しかった。
そして、すごいパワーが湧いてきて…俺はまた闘えるようになった…。
…あの頃のことを思い出すと、胸が苦しくなる。とても辛くなってしまう…。
好きで、好きで、どうしようもなくて…俺はあの人の為なら、なんでもできた。
あの人の笑顔が見られるなら、殺されても、地獄に落ちてもよかった。
ああ…それで、俺は闘ってきたのだし、俺は死のうとしたのだし、実際にこの地獄に落ちたのかもしれないな…。
そんなのは、俺が勝手にしたことだけれど…俺は、それくらい一条さんに夢中だった。
俺は、あの人の前にひざまづき、命まで差し出した。一条さんは、それを受け取った。
でも…一条さんは、俺を愛してなんかいなかったんだ。
俺が…旅立ちを告げた時…一条さんは、嬉しそうだった。
そして、あっさり旅立たせてくれた。「早く笑顔になれるといいな、五代…」…そう言って。
責任をとり終えた…肩の荷を降ろした…そんな感じだった。
クウガだったからね、俺はあの頃。
あいつらを倒すために、必要な…一条さんにとって大事な武器だったからね。
未確認殲滅は、一条さんの悲願だった。いつも、みんなの先頭に立って走っていた。
俺が一条さんに夢中になり、一条さんの為に必死で闘ったのは、きっと思う壺だったんだろう。
そして、あの時は、その大事な武器の俺がちょっとガタきてたんだから…まだ利用価値はあったから、だから、言ってくれたんだ…「愛してるよ」って。
俺は、わかってしまった…。
違う…そうじゃない…。一条さんは、そんな人じゃない。
そんなふうに、一条さんを汚すのは…間違いだ。
一条さんは…本気で俺のことを心配してくれてた。
親友だったよ…同志だったんだ…もともと、俺と一条さんは、ね。
それに関しては、間違いないんだ。一条さんは俺を嫌っていたわけじゃない…。
だけど、俺が一条さんに惚れてしまって…強引に言い寄って…
一条さんは、俺を突き放せなかった。俺はクウガでもあったしね。
俺に抱かれてもくれた。
最初は無理に奪ってしまったけれど、だんだん感じるようになって…。
セックスは…あの人も楽しんだんじゃないか、と思う。
闘いに疲れ果てていた俺たちには、必要なものだったから…。
そして、俺を力づけようとして、「愛してる」とさえ…一条さんは言ってくれたんだ。
このへんのことは…ずっとずっと考えた。
一年と二ヶ月、ずっと考えていたのかもしれない。
俺が最後のあいつを倒して…一条さんは、俺が回復するまでずっと付き添ってくれて…。
一条さんは、最後の責任を果たし終えた。
そして、俺を送りだして、さっぱりした。
俺は…そうだ、と思う。
俺は…だから…俺を忘れてしまった一条さんなんかに…会いたくなかったんだ。
普段は真面目で、厳しい顔をしているあの人が…俺に抱かれた時に見せるあの姿も…
思い出してしまう、思い出さないでなんかいられない。
あの頃、あの人は俺の腕の中にいた。静かに乱れていく姿…甘く崩れていく声…。
思い出すと、俺はたまらなくなる。恋しくて泣いてしまう夜もある。
あの頃、一条さんは俺の腕の中にいた…。
あの美しい人が俺に抱かれ、俺のするままに悶えて喘いで、昇りつめた。
あんな…溺れて窒息してしまいそうな幸福を、俺は知らなかった…。
でも…今はきっと、違う恋人に見せている。俺じゃない、誰かに…。あの姿を…。
あんなにすごい色気なんだもの…誰だって放っておかない。男だって女だって…。
俺の前には、しばらくブランクがあったみたいだ。最初は身体も固かった。
でも、俺がいない間に、きっと一条さんは他の誰かと付き合い始めて…
今はきっとその誰かに抱かれている…。
俺が、あんな身体にしてしまった…もう、男なしではいられないだろう…。
きっと男に抱かれてる…。誰かに抱かれてる…。
俺のものだったのに…誰かに抱かせて、見せている…。
あの肌に、他の男の指や舌が絡んで、あそこに他の男を受け入れている…。
そう思うと、俺は気が狂いそうになって…。
これ…嫉妬かな?…嫉妬なんだろうね、きっと。
誰かのものになっている一条さんには絶対会いたくない、日本にはもう二度と帰らない…そう思う。
それでも…帰りたくて…おやっさんやみのりや桜子さんや、みんなに会いたくて…
一条さんに、会いたくて…とてもとても会いたくて…
でも、会いたくないんだ…決して。
俺は、馬鹿だ。
帰って会いに行けばいいじゃないか…と思うこともある。
そんなに好きで、忘れられないなら、もう一度アタックすればいい…
そう、思うこともある。
でも…もう一度プロポーズして、また抱かせてもらっても…それだけじゃあ、しょうがない。
たとえ「愛してるよ…」ってもう一度言ってもらったとしても、俺はきっと信じられない。
あの人は優しいだけだ。俺を愛しているんじゃない。
あの人の心が欲しいのに…届かないんだ。…俺にはわかってる。
冬の夜空にかかる凍てついた満月のように…あの人は、優しくて、冷たい。
それでも、遠く遠く…銀に光るあの人に、俺はずっと憧れている。焦がれ続けている。
恋しくて恋しくて、焼けつくようだ。止めようもない。
苦しくて苦しくて、喉が乾く。でもあの人はいないので、思い出を俺は飲む。すると、ますます喉が乾く。飲めば飲む程乾いて、でも、もっと欲しくて、俺はあの人との思い出を飲み続ける。
あの頃、あの人は俺の腕の中で笑った…。
遠い遠いあの笑顔を、俺は思い出し続ける…。
俺は…だから…ずっと彷徨って、一生彷徨っているのがいい…と、最近は思っていた。
俺には…人々の笑顔があるから。
一条さんの笑顔だけは手に入らなくても。
それがいい、と思っていた。
俺は、一条さんを愛し、一条さんの笑顔の為に、殺し尽くした。
その笑顔を失って、死ぬまで彷徨うこと…これも、大量殺害者である俺に与えられた罰なのかもしれない。
でも、あいつらを殺した悲しみと一緒に、このどうしようもない想いも、確かに俺のものだったから…
俺は、これを持って、死ぬまで彷徨う…それでいい、それも嬉しい…と、最近は思うようになっていた。
一条さんが俺を呼んでいる声が聞こえるなんて…俺はよほど…重症なんだと思う。
あれは…きっと空耳だ。
俺が聞きたかったから…あの声を。俺を呼ぶ声を。聞きたかったから聞いたんだ…。
だけど…なんだか不安だった。
胸がざわざわして、鳥肌が立って…一条さんに何かあったに違いないって、俺に告げてる。無視できない。
空耳なら、それでいい。
俺は一条さんの元気な姿を確かめて、それでまた旅に出る。
そうしよう…と決めて、俺は飛行場に向かった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
最寄りの飛行場に行くのに、丸一日かかって…国内便に乗って北京空港まで来て…それから空席待ちをしていたので、俺が成田に降りたのは、あれからまるまる二日後だった。
俺は…いいかげん、自分は馬鹿だ、と思い始めていた。
空耳を頼って…はるばる飛んで帰って来る…俺は恋狂いの大馬鹿だった。
でも…自分を馬鹿だ、と笑う度に…また思い出していた。
あの時、聞こえたあの声を。
(…五代…)
…あれは、やっぱり、一条さんだ。
一条さんは…時々あんなふうに、俺を呼んだ。
仕事中は決してないけれど、一条さんのあの部屋で、二人で抱き合って眠る時…
「五代…」と、一条さんは、ただ俺の名を呼んだ。
それから、もう一度繰り返して「五代…」と。
なにか用事があって、言いたいことがあって、呼ぶんじゃない。
ただ、呼びたくて…呼びたくてしょうがなくなって…
そんなふうに…一条さんが俺を呼ぶことがあった。
懐かしそうに、嬉しそうに、縋るように、守るように…呼んでくれることがあった。
あの頃…一条さんは、俺の腕の中で…俺を呼んで眠った。
胸が痛くなるような声…透きとおるような声…
他の人の声である筈はなかった。俺が間違いっこない。やはり一条さんだ…。
一条さん…どうしたの?
元気ならばいい、一目見られればいい、馬鹿でもいい。
そう思って、俺は、あの頃通い慣れた、科捜研に向かった。
一条さんが、今どこの署に配属されているのか、俺は知らない。
科捜研のひかりさんなら、知っている筈だ、と思った。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「わぁ〜〜。五代くん。ひさしぶり。」
ひかりさんは、相変わらず、元気そうだった。
「あれ以来、初めてだもんねぇ。あの後、五代くんったらすぐ旅に出ちゃって。
で、いつ帰って来てたの?」
「今です。」
「今ぁ?ずいぶん長かったねぇ。でも、元気そうじゃない。」
そう言って、少し間を置いて俺を眺める。
「少し、大人っぽくなったかな。ん…いい感じだよ。」
ああ…懐かしい。この人にはずいぶんお世話になった。この笑顔で、いつも俺を励ましてくれたんだ。
「ありがとうございます。
ひかりさんも、元気そうですね。冴くんも元気ですか?」
「ん〜。だんだん、ワンパクになっちゃってさぁ。」
と、言いつつ、ひかりさんは目を細める。
よかった…一人っ子の冴くんとも仲良く暮らしているようだ。
あの頃は、俺たちがいろいろ頼んで、徹夜ばっかりさせちゃって、子育てで悩んでいたみたいだけど…。
そんなことを思って、ふとひかりさんの指を見て、気がついた。
薬指に、銀色の指輪が光っている。
「あれ?ひかりさん…もしかして、なにかいいことありました?」
そう言えば、なんだか雰囲気が柔らかくなって、優しい笑顔になっている。
…あの頃は、みんな苦しかったから、辛い顔ばっかりだったけどね。
でも、それでも笑って励まし合って…みんなで乗り切ってきたんだよね。
俺と一条さんも…。
そう思ったら、ずきっと胸が痛んだ。
「えへへへ。実はね、もうじき、冴にパパができるかもしれないんだ。」
ひかりさんは、ちょっとはにかんで笑った。
「おお〜。なんだか、そのパパさんが誰なのか、俺、わかるような気がしますけど〜。」
「あっ言わないで!照れるじゃない!」
あわてるひかりさんは、なんだか可愛らしかった。
「ところで…何か用があったの?それとも、わざわざ私に会いに来てくれたのかな?
あっ、ゴウラムなら、まだあのまま保存してあるよ。見る?」
「…いえ。俺、もうクウガじゃなくなっちゃったので、触ってもゴウラムが反応するとも思えないし。」
「そっか。そうだよね。
なんか…夢みたいだね、あんなことがいろいろあって。今になってみると。」
本当にそうだな、と俺は思った。
この人たちといろいろなことをわかち合うために、もう少し早く帰ればよかった…。
「えっと。実は一条さんにも会いたいんですけど。
あの頃、いっぱいお世話になりましたし。ろくに挨拶しないで、俺、旅に出ちゃったし。
今、どこに一条さんが配属になってるか、知りません?」
俺は、用意しておいた言葉をしゃべった。まぁ…半ば本当のことだし。
「あっ一条くんね。ゴールデンコンビだったもんね。
あの事件が終わったのは嬉しかったけど、コンビ解消はがっかりしちゃったよ。
ふぅん…五代くんが一条くんの居場所を知らないって、なんだか変な感じ。
えっと…確か、もう本庁にはいない筈で…ええと、どこかな。
長野に戻る、と聞いたけど、その後どうしたかな。待ってて、訊いてみる。」
相変わらず、ひかりさんはてきぱきと電話をかけてくれた。
「もしもし、科捜研榎田ですけど…あ、杉田さん?
実は、今、五代くんが来てて…え?そう、あの五代くん!
…そうだってば。今どっか旅先から帰って来たんだって。
それで、一条くんの配属先を聞きたいって言ってるんだけど。
…え?」
勢いよくしゃべっていたひかりさんが、急に黙ってしまった。電話の相手、杉田さんが話しているのに耳を傾けている様子で…顔がすごく真剣になって。
不安が…また頭をもたげてきた。
「…本当なの?だって…何も聞いていないよ、私。
…え?…いつ?……そう…。
…わかった。じゃあ、五代くんには、長野に向かってもらうよ。
…うん。じゃあ。」
俺は…もう、両手を握りしめて…突っ立っていた。
一条さん…やっぱり…何かあったんだ。
聞かなくちゃ…。でも、怖かった。
「ひかりさん…一条さんが…どうかしたんですか?」
「うん…。まだはっきりしたことはわからないらしいんだけどね。
二日ぐらい前にね…一条くんが、コンビニ強盗に…撃たれたらしいって。」
俺は、きつく両手を握った。
「…それで?」
「病院に入院しているらしいんだけど、それ以上はわからないのよ。
五代くん、行く?長野、だけど。」
「行きます。」
「入院してるっていうんだから、大丈夫だよ、一条くんは。
彼のことだから、かすり傷かなんかで…元気で、もう退院している頃かも。」
俺の顔色を見たひかりさんが、俺を励まそうと言ってくれているのがわかる。
「そうですね。でも、俺、長野に行ってみます。」
「あ、じゃあ、長野県警に連絡しといてあげる。」
「お願いします!」
「様子、知らせてね!」
「はい!」
そう言って、俺は科警研を飛び出した。
ふと…あの頃のようだな、と思った。
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