『第9章:鎮魂』 -3
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
一条さんと俺は、黙ったまま夕食を食べた。
おかみさんの心づくしの、岩魚と、じゃがいもを煮たもの、山菜の味噌汁だった。白菜の漬け物もあった。御飯は白く、暖かかった。
食べ終わると、一条さんは食器を洗って、母屋に返しに行った。
俺は、その間に風呂に水を張り、沸かした。
帰って来た一条さんに、俺は言った。
「一条さん…また一緒に風呂、入ってもらえます?」
一条さんは、俺を見て、笑って頷いてくれた。
なんだか、透きとおるような笑顔だった…。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「五代…ほら、流すぞ。」
一条さんが俺の髪を洗ってくれた。
丁寧にシャンプーして、湯をかけてくれる。
うつむいて流してもらいながら、また涙が出そうになった。
でも、これはまた違う涙…。
一条さん…。
俺はあの闘いの前に、全てが終わったら、旅立つ…と、みんなに話しました。
でも、あれは…俺はきっと死んでしまう、と思ったから。
みんなには、俺は旅立った…と、思っていて欲しかったから。
それなのに、俺は生き延びて、何もかもなくし、こんな泣き虫になって…。
こんなふうに一条さんから離れて、遠くに行かなければならないなんて…俺は知らなかった。
このまま、一条さんのそばにいたら…俺は駄目になる。
一条さんのそばにいたいのに…もう、そばにいられない。
思い出しすぎて、甘えすぎて、わけ合ってもらいすぎて、俺は駄目になる。
今は…もう、一条さんといるのが辛かった。
今の俺には、一条さんにあげられるものが何もない。
俺は何も持っていない。すべて無くしてしまって、一条さんにもらうばかり…
一人で行かなければいけなかった…。
「ん…もう、いいかな?」
俺の髪を梳きながら、何回も湯をかけてくれた一条さんが言うので、俺は顔を上げた。
目が開けられなかった。閉じた目蓋なのに、涙は零れ出てしまった。
「ああ、ほら、五代…目に入るだろう。今拭いてやるから…」
タオルで拭いてくれかけた一条さんが、俺の涙に気がついてしまって…
そっと引き寄せて、目蓋にキスしてくれた。
「…いつか、笑顔になれるといいな…五代…」
目を開けると、にじんでぼやけた一条さんが俺を見つめていて…
俺は、一条さんの裸の首に腕を巻いて、一条さんにくちづけた…。
一緒に暮らしていたのに…キスをするのは久しぶりだった。
一条さんは唇を開いて、優しく俺に返してくれた。
お湯の味…シャンプーの味…一条さんの味…。
こんなことが、いつかあったね…一条さん。
俺、シャワーを浴びてる一条さんに、無理をしてしまったことがあったね…。
こんなに…遠くまで来てしまうなんて…思わなかった。
あなたを離れ、もっともっと遠くに行こうとしている俺を…許してください…。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
風呂から上がって、部屋に戻って行くと、一足先に出た一条さんが布団を敷いてくれてあった。電灯はもう、消されていた。
一条さんは、障子を全て開けた窓際に立って、月を見ていた。
満月に近い明るい月が、一条さんの横顔を照らしていた。
少しだけ上を向き、かすかに微笑んでいるような一条さんは、透きとおるように綺麗だった…。
俺は、そっと近付いて、一条さんの身体を後ろから抱いた。
「…五代…湯冷めするなよ…。今夜は、早く寝ような…。」
一条さん…声まで透きとおっているみたい…。
「一条さん…俺…明日、発ちます…。」
一条さんの髪に顔を埋めて、俺は告げた…。
「ずっとずっと遠くまで…行きます。
笑顔を取り戻せるところまで…行きます。」
「やっと冒険野郎に戻れるんだな…五代…よかった…。」
耳をつけた一条さんの身体の中から、優しい応えが聞こえる…。
「…一条さんと…離れたくないです…。
でも…このまま、一条さんのそばにいたら…俺、きっと涙が止まらなくて…
俺、こんなに泣き虫だったなんて…知らなかった…」
「五代…そんなおまえだから…闘い抜いてこられた、終わらせることができた…
俺は、そう思ってる…。五代、長いこと…ありがとう…。
早く笑顔を、取り戻せることを、俺は祈っている…。」
一条さんは、別れの言葉を言っていた…。
一条さんは、俺の旅立ちを喜んでいる…。
「…一条さん…俺を待ってて…くれますか?」
なにか悲しみがこみ上げてきていた。
一条さんは、黙っていた。
「俺…きっと、笑顔を取り戻して、帰ってきます…
それまで…待っててくれますか?」
「俺は…どこにも行かないよ、五代…」
一条さんがそれ以上のことを言うつもりはないことが、俺にはわかった。
まだ旅立っていないのに…一条さんは、もう遠く離れていた。
憧れても憧れても届かない…。
手を伸ばして掴んだと思っても、手の中には何もない…。
この綺麗な月光のような人に、俺は恋して…。
俺はもうクウガじゃない。俺にはもう笑顔もない。
月はどこにも行かないけれど…俺には、届かないんだね…一条さん。
最初から、手が届いたことなんか…なかったんだね…。
「…一条さん…今夜は、抱かせて、ください…」
「…いいよ、五代…」
一条さんが、ゆっくりと振り向いた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
一条さんが、俺の頬にひとつキスをして、俺のパジャマのボタンを外し始めていた。
「出発前に、風邪をひかないといいが…」
そんなことを呟きながら、落ち着いてボタンを外していく。
俺も…手を伸ばして、一条さんのボタンを外し始めた。
でも…俺…ちっとも…勃っていない…。
目が覚めてから…クウガでなくなってから…一度も…まともに硬くなったことはなかったんだ、俺のかつての性悪の息子さんは。
「…一条さん…俺、うまくできないかもしれないけど…」
「…いいよ、五代…」
一条さんの声が、また透きとおる。
一条さん…なんで…?なんで、そんな声を出すの…?
お互いにパジャマの上着を脱がしてしまうと、一条さんが俺の手を引いた。
「おいで…五代…風邪をひいてしまう…。」
一条さんは、まず自分が布団に入って、俺を引き寄せた。
一条さんの身体の上に覆い被さるようにして…一条さんにくちづけた。
一条さんの優しい唇が、ゆるやかに応えてくる…。
悲しくて…なにか荒むような心があったけれど、俺はやっぱり、乱暴にはできなくて…。
これで最後かもしれなかった。優しく、一条さんを愛したかった。
けれど…一条さんはあの頃…最初の頃のようにじっとしていてくれない…。
二人とも急がなかった、緩やかには動いていたのだけれど、じきにからみ合い、もつれ合ってしまった。
俺の手は一条さんのすべてを覚えようとし、一条さんの手は俺のすべてを探り尽くした。
唇を奪おうとして、奪い返された。耳を嘗めようとして首を噛まれた。腕を掴んで指を掴まれた。
抱こうとして抱かれ、舐めようとして舐められ、噛もうとして噛まれ、与えようとして与えられた…。
しまいには、髪も手も足もからみ、唾液も溶け合ってしまった…。
こんなふうに一条さんと愛し合うのは、初めてだった。
いや、違う…俺は誰とも、こんなふうに愛し合ったことなんかなかった。
俺は透明な悲しみに浸されて動いた。
一条さんは透きとおるように優しく動いた。
二人とも無言のまま、ゆっくり動いていた。
それでも…畳の上に敷いた二組の布団は乱れ、大きな梁のある天井の高い和室の温度は確実に上がっていった。
月だけが俺たちを見ていた。
月の光に照らされた一条さんの、昇りつめていく顔を見ていたかったけれど、俺にももう、そんな余裕はなくて…。
いつの間にか、俺は硬く猛っていた…。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
最後に、一条さんは自分から俺の上に乗ってきていた。
「ごだい…入れていい?」
頷くと、俺を当てがって、身体を沈めてくる。
「う…ん…」
さっき、舌と指で充分に広げてあげてはいたけれど、一条さんは苦しそうに眉を寄せた。
「一条さん…無理…しないで…」
囁くと、一条さんは薄く笑った。そして、ゆっくり、腰を落としていった。
一条さんの中は、熱くて、締まっていた。
「ごだい…いい?」
「いい…です。」
「俺も…いい…よ。」
一条さんは、俺を見て、また微笑んで、
「ああ…五代が中にいる…。」
しばらく目を閉じて味わうようにしてから、ゆっくり動き始めてしまう。
「!…一条さん!…動いたら、俺、いっちゃう…」
「…いい、よ…ごだい…いって…いい、よ…」
月の光が…俺に跨がった一条さんの全身を照らしていた。
動くにつれて焦点を失っていく、一条さんの目に月が映る。乱れていく髪が光る。少し痩せた肩が輝く。眉をよせて、喘ぐために開いた口の、白い歯に反射する。
なんだか…この世のものではないような、一条さんの姿だった。
天使のような、妖魔のような…色っぽくて、そのくせ汚れがなくて…。
快感に悶えながら、見つめないではいられなかった。
こんなに綺麗な人は、他に知らなかった…。
こんなに好きな人は、他にいなかった…。
じきに…俺たちは果て、一条さんは、俺の上に崩れ落ちてきた。
眠りに落ちる前に、一条さんは、小さく呟いた。
「いいよ…五代…行って…いいよ…。」
(一条さん、さようなら…)
俺は、一条さんの額にくちづけた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
目が覚めると、もう五代は発っていた。
光の差す和室は、がらんと広く見えた。
いつも食事をしていた座卓の上に、五代の手紙があった。
『一条さん
ありがとうございました
送ってもらうとまた俺はきっと泣くから
一条さんが眠っている間に行きます
きっと笑顔を見つけます』
サムズアップしたイラストが、文字の下に書かれていた。
よく見ると、イラストの笑顔が、ひとつぶ涙を零していた。
そして、おそらく五代の手作りなのだろう…クウガを表わす碑文文字の形をした銀のヘッドのペンダントが、手紙の横に光っていた。
俺は、ペンダントを握って、外に出た。
今日もよく晴れた青い空で…五代の姿は、もう何処にも見えない。
(行って…しまった…)
どこかの海辺を、どこかの平原を、歩いて行く五代の姿を思う。
五代は笑顔で歩いていく。
五代が果てもない蒼空を羽搏いていく。
俺の愛した鳥が、飛んで行ってしまった。
俺の胸の中の、五代がいた場所がからっぽになり、風が沁みる。
だが、その空洞も、また五代の形をしていて愛しい…と、俺は思った。
青空を、俺は見上げた。
(第6章:鎮魂 完)
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