『第8章:前夜』 -3完
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
身体と身体を強く結んだまま、俺たちは動かなかった。
深く深くくちづけをして、抱き合ったまま、俺たちは動かなかった。
「一条さん…重くない?」
「五代…離れるな…」
五代が唇を離して囁くので、俺の唇が寒くなり、またねだる。
五代はまた唇をくれた。吸い付くようにぴったりと重なる。すべてが重なる。
五代の屹立をすべて受け入れている俺の身体は、高みへと走りたがっている。
だが、俺は堪えていた。
走ってしまえば時が過ぎる。達してしまえば終わってしまう。
この部屋で五代と過ごし、このベッドで五代に抱かれる最後の時が、過去になる。
かすかにベッドが軋んだ。
何も考えずに選んだ、安くて狭いシングルベッドだった。
このベッドの上で、幾晩…おまえに抱かれて眠ったのか…。
それも、今夜が最後…。
長い長いくちづけから、五代が顔を上げる。
唇を触れ合わせたまま、五代が囁く。
「ひとつになっちゃったみたいだね…一条さん…」
「ひとつになれればいいのにな…五代…」
また俺たちは抱き合って、そのまま動かなくなる。
これが最後だ、と二人とも知っていた。
溶け合う肌が別れを告げていた。
俺は目を閉じて、身体の中の五代の感触を確かめる。
深く入っている五代を、俺は念入りに感じ尽くす。
五代の両手は俺の頭を抱き込み、俺の両腕は五代の胸を抱きしめていた。
こんなふうに、抱くこともできなかった日もあった。
たったひとつのくちづけだけを、祈るように捧げた日もあった。
それでも、今はこうして五代を抱きしめていて…。
不器用な愛も告げることができた…。
「五代…俺は…幸せだったよ…。」
俺は、五代の耳許で呟いた。
五代は顔を上げて、俺を見つめた。
「はい。俺も幸せでした…。」
もう…俺たちの幸福は、過去のものになっている…。
「一条さん…動いてもいい?」
「動くと…終わってしまう…」
「ゆっくり…しますから…。何度でも…しましょう…ね。
俺、一条さんが感じる顔が…見たい。
昇りつめていく顔が…見たい。
忘れないように…ずっとずっと見ていたい…。」
緩やかに、五代は動き始めた。
俺も、五代の身体に足をからめた。
穏やかに始めたのに、一度走り出してしまった俺たちは止まれなくなった。
やがて、隠された巣の中の野獣のように声を殺して、俺たちは荒々しく交わっていた。
何度も高波に浚われ、空の果てに堕ちて、それでも、俺たちは萎えなかった。
俺たちは、明日を忘れたくて、けれど忘れられなくて、求め合い続けた。
今在って明日失くしてしまうものを確かめる為に、奪い合い続けた。
時折疲れ果てて、それでもまた求めて、奪い合った。掴み合い、噛み合い、吸い合い、侵し合った。叫び声が涸れ果て、骨が軋んで、肌が擦り切れても、抱き合っていた。
五代の命を…飲み尽くしてしまいたかった…。
消されてしまう命なら…俺が食べ尽くしてしまいたかった…。
やがて…窓の外が白み出した。
明日は、今日になってしまった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
雨は、まだ降り止まない。
俺たちも、濡れたシーツの上で、まだ重なり合っていた。
今夜…五代が死ぬ頃に…この雨は止むのだろう。
そして、明日の晴れ上がった青空の下には、もう五代はいない…。
俺は、肩口で荒い息をしている五代の身体を抱きしめながら、思っていた。
俺は…その青空を憎むだろう。
おまえを生贄にして、元通りになった世界を、俺は憎むだろう。
おまえだけに背負わせ、おまえだけを苦しませ、あげくの果てにおまえを奪う世界を。
俺は憎悪するだろう…。
世界の平穏の為にずっと生きてきた俺が、たったひとつ見つけた、俺のものなのに…。
俺は救いたかった。おまえの命と笑顔だけが俺の望みだったのに…。
世界は俺の願いを叶えない。世界は俺のただひとつの愛を打ち砕く。
深く深く、憎んでやる。俺は世界を許さない。
おまえがいなくなった世界が平穏に明けるのなら、俺はもう人間をやめる…。
だから…五代…。
おまえのいない平和な世界…。
おまえの笑顔のない青空…。
そんなおぞましいものを見る前に…俺も死のう。
俺は…おまえのいない世界で、生きていたくない…そんなものにはもう、興味もない。
だから…五代…。
俺はおまえに殺されながら、おまえを殺そう…。
殺してくれ…。殺してやる…。
願うことは、一緒に息を引き取れるように…。
おまえの身体に重なって、倒れられるように…。
おまえの血と俺の血が溶け合って流れ、大地に染みて永遠に冷たく凍るように…。
俺の頭を抱え込んでいた五代が、顔を上げて俺を見つめる。
「一条さん…」
俺はうっとりと五代を見上げた。
(夜が明けた…。
今日…一緒に、死のう…五代。)
「一条さんは…生きていてくださいね。
俺…そのために闘うんだから。」
だが、優しい瞳の恋人は、こんなことを言う。
「俺の一条さん…綺麗な、俺の一条さん…あなたは生きて…。
きっと雨が止んで青空になる…その下で、あなたは笑って…ね。」
その俺の笑顔を思うのか、嬉しそうに笑って、愛する者は言う。
「暖かい陽の光に、あなたの髪が透けて…きっと綺麗だ…
きっと幸せになって…そして、笑ってください…
そして…時々は、思い出してくれると、俺、嬉しいな…」
(無理を言うな…五代…)
涙は出なかった。
胸の奥に溢れた激情の洪水に、俺は流されて溺れた。
無理を言うな、五代。
おまえを失って、どうやって俺は笑うのか。
どうやって幸せになるのか。
どうやって生きていくのか。
この…馬鹿野郎…。
そんなことを俺に誓わせるのか。
(この…愛しい…大馬鹿野郎…)
「…おまえが、望むなら…そう、しよう…」
俺は、絞り出すように言った。
すると、俺の馬鹿野郎はやはり太陽のように笑う。
「はい。一条さんを幸せにできるなら、俺…死ぬ価値ありますから。」
(…馬鹿野郎…大間違いだ…)
俺は五代の頭を引き寄せて、額にくちづけ、そのまま五代の頭を抱く。
涙は…見せたくなかった。
嘘をついてごめん…五代。
おまえが殺してくれないとしても…俺はそんなには、生きられないと思う。
今はもう、五代を支えるだけの為に俺の命はあり、五代が何度も死線をさまよった最近の戦闘は、俺の命も削っていた。
おまえが死ねば…たぶん、俺は力尽きる。
おまえを失って…たぶん、俺も長くはもたないだろう。
おまえを殺して…たぶん、俺は立っていられない。
苦痛は、短い筈だ…。
だが…おまえが俺の幸福を信じ、今笑ってくれるなら、それでいい…。
俺は生きて、五代の最後の闘いを見届けなければならなかった。
それが五代を支えていることを、俺は知っていた。
俺の命のことで、五代を悲しませたくはなかった。
(せめて信じて、笑ってくれ…五代…)
五代より、少しだけ長く生きればいいだけのこと…。
それまで、立ち続ければいいだけのこと…。
それくらいは、できる…。
弱くなった心を見せないように、俺は警官の鎧を半ば着込む。
もう、朝だ…。もうじき俺は、一人の警官に戻る。
そして、おまえを死出の旅に送る。
「五代…」
「はい…」
俺の気配が変わったのを敏感に受けて、五代が応える。
「俺は、最後まで見届ける。
一緒に行こう…どこまでも。」
「はい。」
「必ず…あいつを倒してくれ。おまえしか、いない。」
「はい。」
「そして…おまえがおまえでなくなるなら、俺が殺してやる。
だが…できる限り、生き延びることを考えてくれ。」
「はい。」
「俺は…必ずおまえを助ける。」
「はい。」
五代が俺を見て、笑う。
土砂降りの薄暗い朝でも、その笑顔は輝いていた。
「俺、一条さんを信じてます。
いつもいつも…いつまでも。」
そして、五代はほとんどうやうやしく、俺にくちづける。
「でも…もう一度だけ、抱かせてください。
もう勃たないかもしれないけど、俺…。」
「俺も、一滴も残っていないと思うが…
おいで…五代…。」
俺たちは微笑み合って、またくちづけ、また抱き合った。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
恐ろしい状態になってしまった寝具は、洗濯機に放り込んだ。
後のことは、俺は知らない。
俺はすでに警官の鎧を着込み、五代も服を着ていた。
俺は、狭い部屋を一度だけ見回した。
「じゃあ…行こう、五代。」
「はい…。」
玄関に向かう廊下で、俺は衝動的に、先に行く五代の腕を掴んだ。
振り返った五代が、あっと言う間に腕を回してきて、俺たちは抱き合い、くちづけた。
これが、本当に最後…。
舌をからめ合い、唇を吸い合い、俺たちはほとんど噛み合うようなくちづけをする。
もう一度だけ、五代の身体を抱きしめ、俺たちは、きつくきつく抱き合った。
そして…離れた。
「行こう…五代…。」
真直ぐな目で、五代が俺を見つめ、応える。
「はい…一条さん…。」
俺たちは外に出た。
俺は振り返って扉を閉め、鍵をかけた。
(第6章:前夜 完)
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