『第9章:鎮魂(2001年1月30日〜2月9日)』 -1


「五代…五代〜〜〜っ!!」

 俺は、絶叫していた…。

 長野…九郎ケ岳。
 古代戦士の石棺を開けてしまった為に、未確認生命体たちが甦ってしまった…その因縁の遺跡前の雪原に。
 ふたつの横たわった姿が見える。
 ひとつの身体は、未確認生命体第0号。炎の力で無差別殺人をやってのけた…おそらく、最後の怪人。
 そして、もうひとつの身体が…五代雄介。
 吹雪だった。
 俺は走った。
 雪が足にからむ。身体が沈む。
 だが、前へ、前へ…五代の元へ。
 俺は近付いていった。

 ふたつとも人間体だった。
 どちらも倒れたまま動かない。
 動かない身体を、もう雪が隠し始めていた。

 俺は、五代のそばにひざまづく。五代の身体を覆い始めている雪を払い除ける。
 五代は血を吐き、泣きながら倒れたらしい。歪んだ壮絶な表情だった。
 生きているのか、死んでいるのか…わからない。
 動かない表情を見る限りでは、最悪の事態にはなっていない…と、俺は思う。
 だが…わからない。

 0号を倒しても、五代が0号と同じような怪物になってしまっているなら…。
 その時は、俺はこの場で五代の生命を断たねばならなかった。
 それは俺の使命だったし、五代との約束でもあった。
 俺がそうしたいかどうか、はこの際全く関係のない。
 五代が怪物になってしまったら、今度こそ、クウガはいないのだから。

 五代が死んでいるのなら…世界はもう救われていた。

 五代は人間の姿のまま、俺が愛した五代雄介のまま、歪んだ顔で、引き攣った姿で倒れている。
 一晩中愛し合い、今朝別れた時に着ていた服で、同じ姿で…五代は倒れている。
 俺は…銃を抜き、五代にとどめを差すべきなのか…?

 五代が黒いクウガの姿で、俺を襲うなら…俺は銃を引き抜き、神経断裂弾を発射するつもりだった。
 確実に…クウガの腹を射抜くつもりだった。
 できる限り、苦しみの少ないように、間違いなく五代を殺すつもりだった…。

 だが…この状況は…俺は、判断できない。
 俺が着込んでいる、警官の鎧…冷静に客観判断ができる筈の俺のバリアに亀裂が入っていく。

(俺には…撃てない…。)

 俺はよろめいて、もうひとつの倒れた影…0号に向かった。
 間近で姿を見るのは初めてだった。0号は、美しい少年だった。やはり五代と同じように、血を吐き倒れたらしい。
 だが…その、雪の積もりかけた動かない顔は、血を吐きながら楽しそうに笑っている。寒気のする笑顔だった。
 俺は銃を取り出し、強化型神経断裂弾を続けて三発、0号の腹付近に撃ち込んだ。
 僅かにその身体が跳ね上がったように思えたが、無気味な笑顔は変わらない。
 俺は注意しながら0号に触れ、生体反応を確かめた。0号は完全に死んでいる…と、俺は判断した。

(これでいいか…?見落としたものはないか…?)

 俺は吹雪の中で、ふたつの動かない身体をもう一度見た。

 それから、俺は警官である自分を捨てた。

 夢中で五代のそばに戻る。五代に触れる。
 わからない…俺の手も凍えている。吹雪が視界を塞ぐ。風の音以外には聞こえない。

「五代!…五代!…五代!」

 俺は、何度も呼んだ。五代を抱き上げて、胸に耳を当てる。
 わからない…。
 だが、微かに五代の心臓は動いているように思えた。
 五代の身体は、少しは体温があるように思えた。
 五代はまだ生きている…と、俺は信じた。

 少しだけ希望はある…と、五代は昨晩言っていた。
 究極の強さを持つ黒いクウガになり、0号を倒し、それでも五代は五代のままで生き延びられる…かすかな可能性はある…と、五代は言っていた。
 俺は、それに縋る。
 今の俺には、判断できない。寒さとパニックが俺を襲い、判断力を奪っていく。
 だが、ひとつだけ…わかっていることがある。

(少しでも希望があるなら、俺には五代は殺せない…。)

 俺は、未確認との戦闘の中を、五代の命を救う為に生きてきた。
 生きて、生き抜いて、この戦場を抜け出させる為に、必死に、五代を支え続けてきたのだ。
 五代を殺す為に、苦しみ続けてきたわけではない。

(ちくしょう…殺して…たまるか。)

 俺の、ただひとつの愛だった。
 この男の命と笑顔だけが、俺の喜びだった。
 奪わせない…奪われて、たまるものか。

(五代…死ぬな…。)

 五代の身体がこれ以上冷えないように抱きしめながら、俺はトランシーバーで助けを呼ぼうとした。
 だが…この吹雪だ。通じない。

 俺は、すでに怪物になった五代を助けようとしているのかもしれなかった。
 生きて目覚めた五代を、俺はやはり、殺さなければならないのかもしれなかった。
 それでも…今、一筋の光に賭ける…。

 俺は、五代の身体を背負い上げる。そして、歩き始める。
 さっき、バイクを乗り捨てて来た道路まで…。どこか…連絡が着くところまで…。

(五代…必ず、助ける…)

 俺は、一歩一歩、歩く。この雪だ。俺も倒れるかもしれない。
 だが、一人で助かるつもりは、俺にはなかった。

         ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

「は?…治療は何もしないように、とおっしゃるんですか?」

 なんとかして、所轄の警察に連絡をつけ、五代を運び込んだ市内の病院の医師が言う。白衣をつけてはいるが、熱意のなさそうな若い顔に、俺は苛立った。
 それでも、説明と挨拶はしなければならなかった。

「未確認生命体関連の参考人です。特異体質ですので、お願いしているんです。
 じきに専門医が到着する筈ですから、よろしくお願いします。」

 当惑顔の医師が去った後、俺は病院の待ち合いソファに座った。
 まだ朝は早く、人影がまばらだ。
 五代の寝かせられている病室に行き、五代を見ているべきだった。目覚めたら、どうなるか…わからない。行かねばならない。見ていなければ。そして…見ていたかった。
 だが、座ったきり、俺は立てなくなっていた。
 しかたなく、俺は身体に休息を許した。

(五代は生きている…まだ、今は生きている…)

 それだけに、俺は縋った。身体も頭もばらばらになったような気分だった。

(生きてくれ…五代…おまえのままで…生きてくれ…)

 両手を握り合わせ、俺は祈り続けた。目が霞む。身体が鉛のようだ。だが、そんなことはどうでもいい。

(俺に…殺させないでくれ…頼む…)

 0号に銃弾を撃ち込んだ感触が甦る。俺は首を振り、目眩に耐えた。

(これで…終わったのだろうか…)

 俺にはわからなかった。俺は朦朧としかける頭を両手で支え、座っていた。

 誰かが近付いてくる気配がした。

「おい…どこだ…?」

 有り難い。椿だった。
 俺は立上がりかけてよろめき、ソファの背を掴んでようやく立った。
 薄暗い廊下に一箇所だけ、光の溢れているナースセンターに向かって歩き出す。椿は黙って俺の横を歩いた。
 ナースセンターに入ろうとして、椿は振り返った。

「おまえも顔の凍傷を治療してもらって、どこかで休め。ひどい顔をしてるぞ。」

「い…」

 応えようとして、声が出なかった。

「…いさせて、くれ。五代のそば、に。」

 椿はわずかに黙り、そして応えた。

「…とにかく、顔の治療だけはしてもらえ。」

 そして椿は、現れた看護婦と共に、足早に五代のいる集中治療室に向かった。

         ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

 五代は、酸素マスクをかけられて、ベッドに寝かせられていた。
 もう、血はぬぐわれて、静かな表情になっているようだ。
 俺は、ガラス越しに五代を見つめていた。

「とりあえず、生きている…」

 いつの間に俺の横に立った椿が静かに言う。

「石がどうなってしまったのか…は、まだわからんが。」

「そう…か。」

「急変することはなさそうだ。
 今は俺がついている。おまえはベッドを借りて休め。」

「いや、俺が見ている。」

 椿は首を振った。

「駄目だ。おまえも倒れる寸前なのがわからんのか。
 少しでいいから眠れ。眠ってくれ。五代は俺が見ている。」

 尚も抵抗しようとした俺を察したのか、椿はつけくわえた。

「…薫…頼む。」

 看護婦が俺の腕を取った。

「さぁ、こちらに。隣の病室に空きベッドがありますから。」

 連れて行かれようとして、振り返る俺に、椿はまた言う。

「容態が変わったら、必ず起こす。約束する。」

「目が覚めたら、危険かもしれない。
 椿…気をつけてくれ。必ず知らせてくれ。」

 事情がわかっている椿は、苦しげに顔を歪め、頷いた。

 隣室に連れていかれ、座らされて顔に何かを塗られ、ベッドを与えられ…そこから先の記憶はない。

         ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

(しまった…!五代…!)

 俺は飛び起きた。
 服を着たまま、俺は数時間、眠っていたらしい。病室の白いカーテン越しに、明るい光が差し込んでいた。隣にもベッドがあるが、人の姿はない。俺は見慣れぬ病室に、一人でいた。

(光が…射している…雨も雪も…ない…?)

 俺はベッドから降りた。僅かに目眩がしたが、かまわず窓際まで行き、カーテンを引き開けた。
 空は晴れ上がっていた。青い空だった。

「久しぶりに晴れましたねぇ。」

 俺の後ろで声がして、俺は振り返る。落ち着いた感じの中年の看護婦がドアを開け、立っていた。ここの看護婦長だろう、と俺は思う。しばらく会っていない母親を、ふと思い出した。

「まったく…洗濯物は乾かないし、気分はくしゃくしゃするし…。
 青空はいいですよね。
 ああ、お目覚めになったなら、隣の集中治療室にいらしてください。
 今朝来られた先生がお待ちになっていらっしゃいますよ。」

「ありがとうございます。お世話になりました。すぐ行きますから。」

 婦長は笑顔だけを見せて、去った。
 急ぎ足で病室を出る前に、もう一度、窓の外に広がる青空を、俺は振り返った。

         ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

 椿は五代のベッドの脇に立ち、五代を見つめていた。
 五代はもう酸素マスクをつけていない。安らかな顔で眠っているように見える…。

「すまない…。」

 俺の声に振り返り、椿は医師の目で俺の様子を一瞬見る。それから、いいさ、という表情になった。

「さっき…ここの設備を借りて、レントゲンと脳波の検査をした…」

 椿は、抑揚のない、低い声で話し出す。

「石は…もともと傷があったんだが…完全に破壊されていた。
 破片は体組織に吸収されつつある…」

 俺は辛抱強く待った。

「おい…こいつの身体はどうなっているんだ?
 石から全身に伸びていた神経状の組織も畏縮して、なくなりつつある…
 脳波も正常だった…心拍、血圧、呼吸…すべてもちなおしてきている…」

「元の…普通の人間に…戻ったのか?」

「ああ…そう言っていいだろう。
 こいつは…今は、疲れ果てて、ただ眠っているだけだ…」

「0号のような怪物になる怖れは?」

「…ないな。ない、と言っていいと思う。
 もうほとんど俺やおまえと変わらない、普通の人間だ…」

「まだ…生きられるんだな?」

 俺は、矢継ぎ早に尋ねた。

「…まだまだ、生きるだろうよ、こいつなら。」

 俺が聞きたがっていることを知っているから、椿も簡潔に応えてくれていた。
 椿の応える一言ずつが、俺の中の不安を次第に融かしていく…。

(五代…生きている…普通の人間に戻って…)
(終わった…五代は…生き延びた…終わった…)

「五代は…勝った…
 0号にも…自分にも…」

「…ああ…たいしたやつだよ…」

 沈黙の中で、椿も俺も、眠る五代を見た。
 あの、雪原に倒れていた時の歪んだ泣き顔ではないが…やはり、疲れ切った表情の五代だった。
 眠る五代が息を吸い、掛け布の下で五代の胸が上がって下がるのを、俺は認める。
 五代は…生きている。

「…触って、いいだろうか?」

「ああ…ちょっと触ったぐらいで目覚めるような眠りではないさ。」

 俺は、ゆっくり五代の首筋に手を伸ばした。五代の命に指先で微かに触れる…五代の肌は暖かく、脈打っていた。
 五代は…生きている。

「いつ…目覚めるんだ?」

「…さぁ、な。眠ることで疲れを癒しているんだろう。
 その間に、身体はどんどん回復して、元の人間に戻っている。
 あと一日…二日もたてば、おそらく目覚めると思う…」

「石が…役目を終えたんだな…」

 俺は、深く息を吐いた。呆然とした感覚はまだあったが、目を閉じて、五代を生かしておいてくれた何者かに、俺は感謝した。

(終わった…。五代は生きている…よかった…。)

 五代を犠牲にして、世界が平穏に戻るなら、鬼になっていただろう自分を、俺は知っていた。
 五代が死んでしまうなら、この世ではもう生きられない己を、俺は知っていた。
 五代を助けてくれた世界は、俺も生き延びさせるつもりらしい。
 救ってくれたのか…。それならば…俺も再び、世界に仕えよう。
 本当に、助けてくれたのなら。
 あの笑顔が、再び戻るのなら。

 目を開けると、椿が俺を見ていた。
 その目の意味を無視して、俺は椿に訊ねる。

「精神的なものはどうだろう?
 記憶などの障害は?脳のダメージは?」

 椿は、首を振る。

「わからないな、それは。
 クウガから人間に戻ったやつなんか、今までにはいないんだ…。」

 俺は、瞬時に決心した。

「椿…頼みがある…。」

「…なんだ?」

「…ここに、五代を置いておきたくないんだ。
 こんな病室で、五代を目覚めさせたくない。報道の目からも隠したい。
 とにかく、静かな場所で休ませてやりたいんだ。
 どこか適当なところを見つけるから、五代をそこに移すのに協力してくれないか。
 それから…ナースを一人、つけて欲しい。俺では、面倒を看きれないかもしれないから。」

 俺は、一気にしゃべった。

「おまえが…付き添うのか…?」

 俺は、椿の目を見て、頷いた。

「仕事は…本庁のほうはどうするんだ?」

「さっき連絡は取った。警察は五代に借りがある。本部長の特別許可を取った。おそらく未確認生命体は0号で最後だ。俺がいなくても問題はない。
 俺が…付いていてやりたいんだ…」

「…おまえ…そこまで…」

 椿は、どこか苦しそうな表情で呟き、それから思い直したように、にやっと笑う。

「…わかった。できる限り、協力しよう。五代に借りがあるのは、俺も同じだ。
 しかし…相変わらず、強引なヤツだな…。」

「頼む。」

 俺は、椿の返事を聞かずに、病室を飛び出した。

 五代が生きている…。
 五代が…生き延びてくれた…。

 五代…青空の見えるところにしような。
 草や木や森や川があって…小鳥が鳴いているのが聞こえるような…。
 そんな、懐かしいような場所を、俺は捜すから…。
 おまえはそこでたくさん眠り、そして目覚めて、空を見る…。
 おまえの好きな、青空がたくさん見えるところにしよう。
 そこで、おまえは…笑うだろうか。
 もう一度、笑ってくれるだろうか…。

         ◇  ◇  ◇  ◇  ◇
         ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

 暖かい、暗い場所から、水面へ…泳いでいるような感じ。
 だんだん、明るくなってくる。
 …あったかいな。
 風が吹いている。木々のざわめきも聞こえる…せせらぎの音も?
 俺、どこにいるのかなぁ…。

 気持ちいいから、俺は泳いだ。もっと明るいほうへ。
 でも…身体が痛い。とても重い。
 こんなこと、しばらくなかったのにな…
 あれ?俺、なにか…
 なにか…嫌なことがあった…思い出したくないような…
 とてもとても、いやなこと。
 …なんだろう?

         ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

 目を開けたら、見慣れない天井が見えた。
 高い天井…太くて大きな梁がある…
 なに?俺…ここ、どこ?

 見回そうとすると、身体が強張って痛んだ。
 あいたたた…首もうまく回せない…
 腰なんか、ばりばりに固まってる…
 こんなこと、しばらくなかったのにな…

 あれ?しばらくって…なんだっけ?
 俺…ここ、どこ?

 誰かの気配がした。
 俺を覗きこんでくる。顔が見えた。
 とても、綺麗な人だった。
 俺…この人、知ってる…
 俺が、大好きな人だ…
 この人のそばなら、俺は安心していいんだっけ…

 でも…なにか…嫌なことがあった…
 とてもとても、嫌なことがあった…
 思い出したくないことが…なにか…

「五代?」

 綺麗な人が俺を呼んでいる。
 そう、俺…俺は、五代、雄介です。

 でも、なにか…嫌なことが…あった…

         ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

 次に目覚めたら、やっぱり同じ、大きな梁が見えた。
 ああ…夢じゃなかったんだな。
 でも、ここはどこだろう?俺、どうしたんだっけ?

 辺りを見回そうとしたら、やっぱり身体が痛い。
 なにこれ…一日中眠ってた時にこうなったことがあったけど。
 ええと…あれは、どこの山から帰った時だっけ…?

 また、誰かの身動きする音がした。すぐ近くだ。
 顔が見えた。
 一条さんだった。
 あれ?一条さん?顔に怪我してる…
 綺麗な顔なのに…でも、傷があってもやっぱり綺麗…

「五代?気がついたか?」

 静かな声がした。一条さんの声が俺は好きだ…。

「…あ…」

 なんだろう、答えようと思うのに、声まで出ない。

「…は…い…。」

 やっと声を絞り出す。情けないかすれ声…
 俺、なんか干涸びちゃってるみたい…。

 一条さんの顔が、すっと見えなくなった。
 ふっと不安になった。
 いやだ…一条さん…置いていかないで…。

 だけど、一条さんはすぐに戻って来て、俺の顎のところにタオルを敷いて、口元に何か近付けてくれた。
 あの…あれ…病院なんかで、起き上がれない人が、水とか飲むやつ…吸い差し、だっけか。
 …ってことは…俺は病人、なの?なんで?

 でも、とにかく喉がからからだったから、俺は飛びつこうとした。
 だけど…駄目。首がまるで上がらないんだ。
 一条さんの手が頭の付け根のとこにあてがわれて、少しだけ俺の首を起こしてくれた。
 口に当たった細い管を吸う…湯ざましみたいだった。とても美味しくて…

「五代…急がないで…ゆっくり…」

 はい。はい。
 でも…俺は急いで飲んだ。もっと欲しい、と思ったけど、一条さんはくれなかった。

「一度にあまりたくさん飲んだらいけないよ、五代…」

 一条さんの声は、囁くようで、静かだった。
 俺の口元を拭いてくれてから、一条さんが覗き込んできた。真面目な顔をしてる。

「五代…俺が…わかるか?」

 そりゃあ、わかります。俺の大好きな、一条さん。

「…ち、じょう、さん…」

 やっと出た声だけれど、まだ変な声だった。
 こんな変な声なのに、一条さんは嬉しそうに笑ってくれた。
 俺…一条さんの笑顔が、好きだ。ずっと前から、大好きだ。

 あれ…でも…ずっと、って…俺、一条さんと、何処で会ったんだっけ?

 なにか…いやなことがあった…なにか…とてもとてもいやなこと…

「五代…もう少し、おやすみ…」

 一条さんの優しい声が聞こえたような気がしたけれど、よくわからない…。

         ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

 どこかで、話し声がして、俺は目が覚めた。
 誰かが、電話で話しているみたい。だって、相手の声は聞こえないから。
 誰か…あの声は一条さんだ。

「…かった。また…くする…ら。じゃあ…。」

 何を話しているのか、はよくわからない。
 重い戸を引き開けるような音がして、誰かが俺の寝ているところに歩いて来る。
 そっと近付いた足音が、俺を覗き込む。

「…いちじょう、さん…」

 一条さんが、びっくりした顔をしている。
 いつものスーツ姿じゃなくて、普段着っぽい、タートルのセーターだ。よく似合う…。
 あれ?でも、いつも…っていつだっけか?

「五代…目が覚めていたのか…?」

「…ちじょうさ…ここ…お、れ…」

 ちぇ。まだ声がうまく出ないよ〜〜。
 一条さんがまた湯ざましを飲ませてくれた。

「…いちじょうさん…俺、どうしたんですか?」

 一番、聞きたかったことを聞いてみたんだけれど、一条さんはちょっと困った顔になった。

「…五代…覚えていないのか?」

 なにを?…と、思ったのだけれど…
 なにか…あの、変な感じがした。

「なにか…いやなことがあった…」

「五代…無理に思い出さなくていいんだ…急がなくていい…」

 一条さんはそう言うのだけれど…

 俺は、考えようとしたけれど、その前に身体の欲求に気がついてしまった。
 あら…どうしよう…。

「一条さん…」

「どうした?」

 恥ずかしかったけれど、しょうがないから言う。
 なにせ…自分で起き上がれるような気がまるでしないんだから。

「俺…おしっこしたいんですけど。」

「起きられるか?溲瓶、なんてものもあるが、そっちにしてみるか?」

 うわ…わわわ。溲瓶ってあの、「しびん」ですよね。
 一条さんにやってもらうんですかね。
 そ…それは…。

「お、俺、起きます。」

 一条さんの真面目な顔が、なんだか可笑しそうな表情になった。

「俺がしてやるのが恥ずかしいなら、向こうに看護婦さんもいるぞ。」

 か、看護婦さん?看護婦さんって…女性ですよね。

「お、俺…絶対、起きます!
 あ、あたたたた…」

 全然駄目だった。身体を起こそうとすると、めっちゃくちゃにあっちこっちが痛い。おまけに全然力が入らない。
 なんなの?これ〜〜。

 一条さんが、肩を抱えて、起こしてくれた。
 起き上がったら、回りがよく見えて、なんだか古い民家、みたいなところだなぁ…と思ったけれど、おお〜…目が回る。

「無理だったら、看護婦さんに頼もう。
 なにせ、おまえは三日間眠りっぱなしだったから、その間は挿管してもらっていたんだ。
 外してもらったのは、今朝のことだから…今さら恥ずかしがってもしょうがないだろう。」

 なんだか…意味がよくわかんないんですけど…一条さん…

 それから、俺は一条さんに支えてもらって、なんとかして立ち上がって、トイレまで行った。
 足に力が入らなくて、膝がかくかくしちゃって、雲の上を歩いているみたいで…
 トイレは有り難いことに洋式だったので、俺はへたりこんで用を足した。

 また一条さんに半分担がれるみたいにして、布団に戻った。
 もう、息が切れちゃってるし、目が回っちゃってるし、くたくたのよれよれ…
 倒れこんでしまった俺に、ちゃんと掛け布団をかけてくれながら、一条さんが心配そうに言う。

「大丈夫か?まだ無理だったんじゃ…」

 俺は、ちょっと泣きごとを言いたくなってしまった。

「あっちこっち痛いですよ〜〜、一条さ〜ん、
 こんなこと、クウガだった頃にはなかったです〜〜。」

 言ってから、気がついた。

「…クウガ…?」

 どっと記憶が甦った。

ホームへもどる

第9章:鎮魂 -2へ