江戸幕府初期に直轄地に公許の遊郭として作られたのは
江戸「吉原」、京都「島原」、大阪「新町」の三ヶ所です。
それ以外にも藩としての遊郭や直轄地にも遊里はありまし
たが成立の過程や、文化的な背景で一線を画しています。
というか、都市としての規模が、この3都市が群を抜いて大き
かったという事もあります。この辺は先でご紹介する機会もあ
るかも知れませんが、まずは江戸の街で非公認、あるいは
黙認されていた、私娼について簡単にまとめてみます。


呼び名
簡単なご紹介(順次詳細を付ける予定です)
補遺
湯女
詳細

桃山後期から江戸初期に至る、遊郭の最大のライバルだった風呂屋(一部は茶屋に看板だけ変更)
に咲いた徒花です。今私が御仕事をさせて頂いている「ソープランド」御先祖様と言うか、先輩って
いう感じもあります(^^;;。
真面目に書くと、一説には湯屋の延長上に「公許遊郭」が成立していたか、どこかで友好的に融合し
ていれば「日本の風俗史」と「性病との戦い」は、世界一の先進国になっていたかも知れないっす。性
病で廃人になってしまった、偉人や芸術家は多いですものねぇ・・・・。

夜鷹
「御手軽一番、電話は二番、惨事のお通夜は夜鷹どう?」ってなもんです。(失礼つか冗談です)

お通夜まで行かないまでも、色々な意味で遊女側にも、お客様側にもリスクが大きかった事は否め
ません。なにせ、住所不定、店不定、正体不明、投資ゼロ、保証一切なしなのですから。
仕事としての起源は、とにかく一番古いって事は間違いないのですが、まさに太古の昔からあって、
現代の援助交際も基本的にこの延長線上にある訳です。
「夜鷹」という呼び名自体は延宝年間(1674−80)くらいに成立したのではないか(異説あり)と言
われています。

芸者
♪あなたーぁのリードで島田もゆーれる♪ってそれは「芸者ワルツ」ですね<=おい!

江戸期の「芸者」さんは現代の「芸者」さんとはある意味で関係がないって事を、最初にお断りして
おきます。

「芸者」って言うくらいで、語源は「芸に秀でた者」だと言われ、頭に「芸」の名称を付けて呼ばれてい
たとの説が有力です。テレビの時代劇や時代小説で御馴染みの「武芸者」は、「武」に秀でている者
って事ですね。

江戸初期は遊芸に優れた人が、酒席に呼ばれて芸を披露しながら興を添える「幇間」(後の言葉や
落語では”たいこもち”の方が馴染みが深いかも)の名称だったとも言われています。ただ、文化期
(1804-17)頃までは、それだけで生活している人はいなかったようで、「場持ちの上手いトークもで
きる芸人さん」が、ご贔屓の旦那方といっしょに吉原に来て、場を仕切っていたって感じです。
今なら接待の上手い文化人ってか、合コン幹事?(笑)

では、女性の吉原専任って言うか、俗に言う「吉原芸者」がいつ現れたのかと言えば、今のところ定説
はありません。
一説によれば宝暦12年(1762)扇屋かせんって人が最初だと言われています。じゃ、なんで遊女がい
るのに、女の芸人さんの必要が生まれたのかと言えば、鳴り物で踊るには遊女の衣装があまりにも大仰.
になり、どんちゃん、どんちゃん、お客さんと一緒に騒げなくなったけど、男芸者が踊るのは面白くても、
色っぽくは無いので、相役として発生したのではないかと思われます。

また、一説には湯女風呂の吉原移転に際して、従来の遊女達と違い、音曲や踊りをはじめとする遊興
の素養の浅い遊女さんが一挙に増えたので、そのヘルプって言うか「宴会要員」としての必要から、
売れてないけど、芸は達者な遊女の専門化や、市井の芸者の吉原専属化が進んだとも言われていま
す。

その後の経緯を簡単に書くと、一時、芸者の一部には、お客さんの夜のお相手もするケースが現れ、
本末転倒になっちゃって、見番ができて廓抱えの芸者は実質無くなります。それから、音曲と歌舞専任
の芸者が成立し「吉原芸者」となりました。

遊郭の中で仕事をした「吉原芸者」に対して、「町芸者」があるのですが、時代が下がると共に、吉原
の遊興は即物的になって芸だけで売る「吉原芸者」は廃れてゆき、町芸者は遊芸も出来る遊女化が
進みます。これは、江戸の街に大構えの料理屋が出来、遊興の中心が変化する事と、歩を共にして
います。

好むと好まざるとに関わらず、時代の趨勢とお客様の要望によって、芸者も変化してゆきました。

岡場所
「岡」という言葉は、「岡目八目」という諺で言うところの「碁を打っている本人達よりも、(見ている)他の
人の方が八目先が見える」という意味と同じで、吉原でない「他の場所」から転じたと言われています。
黙認である事があっても、あくまで「非公認の遊女が集団でいるところ」の総称です。

あまりにも繁盛しすぎた為に記述も多く、遊女のいるところの総称のような誤解さへ生まれました。

江戸四宿(品川・千住・板橋・内藤新宿)の「飯盛り女」を筆頭に、色々な呼称や形態で存在しました。
度々の幕府の方針の転換や、吉原の盛衰によって翻弄されながらも、寛政の改革(1788頃)で厳しく
取締まられましたが、松平定信失脚以後なし崩し的に復活し、天保13年(1842)に再度禁令が強化
され、岡場所の遊女が吉原に収容されるに及んで、下火となりました。

当時吉原も局見世が主体となりつつあって、岡場所と遊郭の敷居が低くなってもいましたが、この処置
で、吉原の文化的伝統も急速に終焉に向かい始めます。

比丘尼
江戸の治安組織の盲点をついた、確信犯とも言える際物商売です。
と言っても、現代のイメクラさんで、尼さんの衣裳のコスプレをしている訳ではなくて、必然から生まれた
形態でもあります。厳密に言えば比丘尼とは「出家剃髪して”具足戒”を受けた二十才以上の女子」を
さす言葉(梵語)で、「お客様の愚息をカイカイしてあげる」って意味ではありません<=当たり前。
それはともかく、起源や変遷は諸説ありすぎで、ちょっとご遠慮しておきます。

江戸初期の遊女としての比丘尼は、尼僧姿をして実際に熊野午王の護符を売ったり勧進も行っていた
記録がありますが、すでにどっちが本業かは定かではありません。ちなみに尼姿をしていると、町奉行
所の管轄ではなくて、街場での凶悪現行犯以外は寺社奉行の管轄になります。元々は修行者の
中継地点であった「中宿」を根拠地として、求めに応じて出張するようになって行くので、ある意味では
デートクラブさんの元祖みたいなところもあります。「俺は坊主頭の墨衣なんか着た奴が着たらチェン
ジするぜ」なんて声も聞こえそうですが、実際には袴を履いていない巫女さんと言うか、教科書で
ご存知の「出雲の阿国」さんみたいな、一時代前の白拍子風な衣裳に傾斜して行ったようです。

しかし、お客様の受けは良かったかも知れませんが、これではやっぱり本末転倒で、取締まりが
強化され、衣裳が元に戻ったり、剃髪するに及んだりで結局異形の際物として落ち着くに至ります。

矢場女
時代劇で良く見かける「あーたりー、ドンドンッ!」って楊弓場で太鼓を叩いてるねぇちゃんです。
今は寂れた温泉でも、洋弓っていうかアーチェリー場か射的場があるくらいですが、寛政年間(1781
−1801)頃から、室内娯楽として最盛期を迎えました。

ゲームセンターにミニスカのねぇちゃんが居て、対戦ゲームの相手をしてくれて、可愛いなって思えば
お金払えばエッチさせてくれる。

ってなイメージでしょうか?そこの寂れたゲーセンの旦那!このアイディア買いませんか?<=こら!

やっぱり勝負事と色事って言うのは、いつの世も変らない男性の本能みたいなものかも知れません。
なんと、この形の遊女は幕末も明治も関係なしに生き残って、関東大震災(1923)まで営業していた
記録があるようです。



これからも色々増やしてゆく予定です。
末永くお付き合い下さいね


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