このページでは吉原にまつわる事項を簡単に整理してみますね。
「吉原変遷」のページで触れた事の少し詳細な説明とか、誤解さ
れ易い事項とかをまとめてゆきたいと思っています。
表にある項目は詳細の別ページを近日アップする予定です。
順次項目は追加してゆきますので、よろしくお願い致します。

項目
簡単なご説明
補遺
新吉原再見 新吉原は1657年に元吉原から移転し、遊廓として200年の歴史を刻み
徳川幕府の瓦解と運命を共にします。
優れた研究書は、その200年の変遷を捉え、時代と共に歩むのですが
「薀蓄本」といった体の、研究書を無断で孫引きしたような本は、時代の
変遷を無視して書かれているものが大半です。
また、研究としては優れていても、遊女を蔑視した視点で書かれている
研究書も多々見受けられ「仏作って魂入れず」と申しますか、遊女や廓
の人々、そして、そこに通う人々の心に想いが及んでいないため、ただ
ただ、「苦界」としての遊廓を描くに留まっているものもあります。
毎日眉間に皺寄せて苦しんでばかりいる遊女の作り笑顔に騙されて
いるお客さんばかりの「苦界」が、商売として200年も続くはずは
ありません(笑)
 薀蓄本や時代劇で作られてしまった、誤ったイメージを追ってみます。

原典本の分類 吉原を語るとき、数多くの原典が引用/参照されます。まず思い出される
のは近世風俗志(守貞謾稿1837〜1853)かも知れませんが、この本自体が、
過去の本からの引用も多い(出典は明記してあるものが殆どです)ので、
一見研究書に見える吉原を扱った本が、実は原典に当たっていない、単
なる近世風俗志からの孫引き本だったりします。そしてその本をまた孫引き
した薀蓄本や、それをまたぱくった(失礼)ネット上の文章も見受けられます。

 原典となる本にはいくつかの分類が本来は必要です。

つまり、出版物として販売を目的とした本は扇情的であったり、一部を誇張
した内容であるのは当然ですし、儒者の本は、傾城自体に批判的な心情が
底辺に流れていますし、細見本の多くは、ある意味コマー
シャルと言うか宣伝ですから、それを踏まえた上で、内容を捉えなければ、
トンチキな解釈になってしまうってことです。
また現存する草子本の中で、吉原を舞台とした冊数の多い山東京伝の作品
は、寛政の改革の時代を背景としていて、それを無視した引用をすると、本質
から外れてしまいますし、京伝の妻となった女性(寛政2年結婚)は、傾城屋、
扇屋の呼出し花魁花扇の番頭新造で、京伝以外の客を取らないまま吉原を
出た(異説アリ)ということも含んでおかないと、理解を誤ってしまいます。

ちょっと脱線すると、現在のソープについて書かれた本も多々あるのですが
特に男性がノンフィクションとして書いたものや、風俗経験が無い女性が書いた
ものは正直、現役のソープ嬢からみると、大笑いなものがほとんどです。
「体験」や「潜入」「取材」で、本質が理解できる物事は、この世には少ない気が
するんですよね(笑)

吉原、そして江戸風俗について書かれた本について、作者の立ち居地含め
少しずつ分類/整理していきます。
新吉原略年表
遊女の位(くらい) 吉原には最初太夫・格子・端の位しかありませんでした。これが時代と共に
呼称もそして、地位や対象となる理由も変わってゆきます。
上臈(太夫)道中が花魁道中へ変わり、その後の変遷を経て、位をもたない
遊女が主力となる幕末までを追ってみます。


鳥屋(とや) まだ性病や医学の全般の知識が発達していない江戸時代、初期から中期
までの吉原では、病気で働けなくなった遊女は箕輪の別荘へ送られました。
「鳥屋(とや)」と呼ばれるのは、一般に梅毒で毛が抜け落ちてしまう様子を
夏の末に鷹狩に使う鷹の羽毛が生え変わる時に、鳥小屋へ入れるのに例
えて使われたと言われています。梅毒(当時は一般的には”瘡病み”)に
感染した遊女は養生小屋送られました。時代が下がるにつれて、養生小
屋自体が無くなってしまい、言葉だけが残りました。遊女と病気について
まとめてみます。


寛政の改革
享保の改革
新吉原は寛政の改革、享保の改革を境に、大きく変貌してゆきます。
それぞれの改革以前と以後、どのように変ったのかまとめてみます。


郭の人々 吉原に暮らすのは遊女だけではありません。様々な仕事や立場の人々が
時代と共に移ろいながら、生きていました。「女衒」「遣り手」など今でも言葉
だけ残るものから今は言葉さへ失われたものまで、様々な暮らしがあり、様々
な日々が過ぎてゆきました。それぞれの仕事の内容と時代背景をまとめて
みます。


お客様 吉原の初期のお客様は、武士が中心でした。それとすれ違うように江戸の
発展に伴う「お大尽様」とも呼ばれる「紀伊国屋文左衛門」「奈良屋茂兵衛」
に代表される豪商の時代があり、そして江戸の市民層でもある「町人」の時
代を迎えます。お客様の移り変わりから、江戸の移り変わりをまとめてみます


落語と郭 明治以降、一時衰退しながらも、遊郭の雰囲気を一番伝えていたのは落語
でした。しかし、それが落語ゆえに、吉原のイメージが間違って伝わった部
分もあったりします。大衆芸能であるがゆえに、その時代の聴衆に理解され
やすく、受入やすい言葉で伝承される事が多い為、遊郭や宿場の雰囲気が
天明・文化以降のイメージとなる元にもなりました。時代背景と古典落語の
接点と相違点を追ってみます。


年季と証文 遊女の年季は通常10年とされていました。江戸期の男性の嗜好は一般的
にはある程度豊満な方が好まれたようなのですが、これは、地方や市井では
どちらかと言えば栄養の問題もあって、痩せ型の女性が多かった為だとの
説もあります。この為結婚年齢に近い16−7才で年季に入る者が多く、あっと
言う間にその当時の女の盛りを過ぎてしまう事が多かったようです。遊女達の
それぞれの人生を追ってみます。


禿 禿は元々は、太夫や格子、時代が少し下がってからは花魁を目指す、純粋
培養のエリート候補生でした。その為7−8才から遊郭へ売られる少女は、
両親が揃って美貌であるか、本人が飛びぬけた美貌で無い限りは、郭の外
からくる事は少なく、証文の金額もわずかな物でした。そして、先輩である遊
女について、遊郭のしきたりや芸事、接客等を身につけて育ち、遊女になる
のです。幕末に近くなると、吉原自体が大きく変って来て私娼と遊郭の違い
が少なくなって、局や見世で現在で言うロリコンなお客様へ、そのままの年齢
で出る事もあったようです。禿を通して吉原の変遷を追ってみます。


吉原細見 吉原で遊ぶお客様の案内を目的に作成された印刷物である「吉原細見」は
年代別に現存する物も多く、吉原を知る貴重な資料となっています。
研究書も多いのですが、現在の下っ端遊女である「めぐみ」の目を通して
吉原細見を見直してみます。



表紙へ戻る目次へ戻る