元吉原その二

吉原の名前の由来は、この土地を下げ渡された時期には、人家もまばらな葭(よし)の生える湿地
帯で、「葭原」という、町名のない寂しい場所であったと言われています。この名前を「吉」という同音
の字に置き換えて、開業時に「吉原」とされたようです。(異説あり)
周りに堀を巡らし東に大門を構え、中央に大路を構えて一つの独立した街を形成しました。これには
いくつか異説もあるのですが「”傾城”をもじって城構えとした」「京からの移住者も多く京城風とした」
などとも言われていますが、江戸の中ではいずれにしても唯一の構造です。
「京の島原遊郭を模した」との説もありますが、島原遊郭が幕末までの場所(朱雀の西新屋敷)に移る
のは名の元になった島原の乱が終わった後の寛永17年(1640/36年・41年説アリ)で、元吉原は
1617年なので先に成立しています。

もちろんこれは、幕府からの条件を満たすための造作でもあり、町が管理し易い構造でもありました。

開業から2年後の1620年頃までに、京都及び伏見から移転した遊女屋さんを加えて、ほぼ完成し
江戸町1.2丁目、京町1.2丁目、角町の五町からなる「吉原五町」と呼ばれる、市井とは違う別天地
が出現したのです。
草創期の元吉原は資料が少ないのですが、一説には「揚屋と遊女屋」で約160軒、遊女は千人前
後でもあったと言われています。

元吉原初期の遊女は太夫、格子、端の三つの位に別れていました。「えっ?花魁はいないの?」っ
て思われるかも知れませんが、文献に「花魁」呼称が現れるのはずっと先の天明年間(1780年代)
で、元吉原成立から160年も後の事になります。

太夫、格子の身だしなみとして踊楽、茶の湯が必須だったので、大名の茶会に指名されて点前を行
った記録も散見されます。エッチは抜きで、お茶や踊りだけに郭を出る事は認められていました。
「花魁」と言うと、現代の歌舞伎の役者さんや舞台俳優さんの様に、白粉(おしろい)を塗っている印
象を御持ちかも知れませんが、吉原の遊女は基本的に化粧をしませんでした。これこそ「えっ?」って
感じかも知れませんが、「化粧をせずに素顔をさらせる事」が、市井の女性とも、私娼の女性とも違う
吉原の位取りの独自性でもあったのです。

太夫、格子の遊び方としては、お客様は大門口から入ってまず揚屋へ揚り、遊女を呼んでそこで
遊ぶシステムです。この道中が後には「花魁道中」と呼ばれる物になるのですが、特に太夫の姿を
揚ったお客様以外が見ることが出来るのはこの時だけなので、デモンストレーションも兼ねて行列を
組みました。

この時に化粧をすると「むさい」として、時として人気を落とす事もあったようで、太夫は自分に磨きを
掛ける事は怠れませんし、郭楼の主人達も、抱えている遊女の健康に気を遣い、あるいは大切にせ
ざるを得ない背景になっていたりします。

元吉原初期の端の位の遊女は、もう少しくだけていて、揚屋では無く遊女屋さんで遊べましたが、
別にレベルが低いわけでは無くて、遊女になり立てで、踊りやお茶の素養が浅かったり、武家層以
外の出身で、文字が拙かったりって言う、ある意味、ピチピチの若い新人さんが中心でした。つまり
努力と実力で、格子、太夫へと位を昇っていくシステムでした。固定の地位じゃないんです。なので
遊女屋さんの主たちも、遊女達を育てる事に非常に熱心でした。

もっとも初代名主の庄司甚右衛門は小田原北条家(1590滅亡)の家臣出身と言われていて、その
他にも楼主は武士出身者が多かった様です。それも商才があって、この遊郭創設に参加している訳
なので「豪傑」というより、輜重関係や勘定、あるいは外交に秀でた武士出身という、ある意味で、江
戸時代の武士の有様を先取りする集団でもありました。職掌柄、読み書き算盤帳簿は勿論、遊芸や
芸術にも造詣が深い人物が多かった様で、遊女と楼主は、親子のようでもあり、師弟のようでもあり、
同じ芸事を愛好する仲間の様な雰囲気さえ漂っていました。

そこで別れる郭の位も、単に造作や場所だけではなくて、遊女を教育出来る環境と育つ待遇とを併
せ持っていて初めて、得られる地位となっていました。

お客様も地方の大名や重臣をはじめとする武士階級が多く、戦乱から安定に向かう時代の中、遊郭
は文化の伝導所的な役割さへ果たしていました。これが世界でも他に類を見ない、格調と文化を創り
出した源とも言えるものでこの時代に大きく花開き、そして時の流れに流されて変質してゆき、伝統だ
けが形骸化して残ったものも多かったりします。

皆様ご存知の宮本武蔵様も、吉原で遊ばれた記録が残っていますが、島原の乱に出陣の際、雲井
という馴染みの遊女の紅鹿の子の小袖の布を、陣羽織の裏に縫い付けて颯爽と出て行ったとの事で
す。その雲井の位は「端」(局)であったのですが、楼主は仲間にも声をかけて武蔵の送別会を開い
たとの記録があり、楼主、遊女、客の三者の雰囲気を伝えるものとなっています。

その後、少しづつ江戸は変わって行きます。参勤交代が制度化され、貨幣経済が発達してゆく中で
町民階級が力を貯えつつ、江戸は爆発的な人口増加と街の拡大が進みます。

寂しい葭(よし)の生える湿地であった元吉原は、いつしか市街地に飲み込まれてゆきます。

充実期を迎えた元吉原は、時代の流れの中で本質を変えながら約40年間を過ごし、1656年に幕を
閉じ新吉原へ移転します。

ちょっとだけ硬いお話をこの項の最後に入れておくと、元吉原成立のお話は『異本洞房語園』(1720)
の記述に負う事が多かったりします。私も書いている『日本橋葺屋町付近の二町四方の場所を幕府が
初代名主庄司甚右衛門らに下げ渡した事に始まります。』という部分は、幕府の記録とは対になっては
いるのですが、傍証がほとんどありません。

と言っても、皆さんご存知の吉原と庄司甚右衛門さんが無関係だった訳ではなくて、『嬉遊笑覧』をはじ
めとする決して少なく無い書籍は、再興説を採っているのです。つまり、「元吉原」は一度歓楽街として
成立していたのですが、何らかの理由(諸説あります)で一度取り潰され、庄司甚右衛門さんに委ねら
れて再度歓楽街として復活し、それが江戸時代を通しての遊廓の元になったという説です。

今、仮説をここに書くことは可能ですが、もう少し自信をもってお話しできるようになってから、再度この項
を見直してみたいと思っています。

興味を持たれた方は、まずは、『近世風俗志』『異本洞房語園』『嬉遊笑覧』『慶長見聞集』を読み合わ
せてみてくださいね。


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