—イタリア キオッジャー 1994年2月
先ほど助け船を出してくれたでっぷりとした男が四角いテーブルから椅子をひとつ引っぱりだしてきた。
「お嬢さん、ここに座りなよ。」
脚の高さがぎくしゃくした椅子に腰を降ろした。数人の男たちと同じ眼の位置になった。よく見ると粗野な中にも暖かい眼差しがある。なにもすぐに取って食おうという訳でもなさそうだ。気を取り直して言った。
「どなたか英語がわかる人はいますか?」
男たちはノーと堂々として答えた。それを無視して、ところどころ知っている限りのイタリア語を混ぜながら、なぜこの町に来て、『シネマ』という店を捜しているかを説明した。
原題はフランス語で「La Valee Fantome—幻の谷—」というが、フランス語がわかる者もいなかった。ジャンルイ・トランティニアンやラウラ・モランテも知らなかった。
一番背の低い男が何かを発見したように手を上げて叫んだ。カメラを回すジェスチャーをしながら、早口のイタリア語でまくしたてる。キミがその映画を作ったんだね、というのだ。力が抜けて苦笑した。
どこからともなくコップに赤ワインがつがれて差し出された。男たちはそれぞれ胸をたたいて、オレのおごりだと言う。遠慮せずに口をつけた。上等ではないが、肥沃な土の香りがする。ラウラ・モランテが客が退けた後、飲むワインも同じ味がしただろうか。若い助手に口説かれながら酔いつぶれていった。
ブオナセーラ、こんばんは、という声がして後ろを振り返った。店の奥から他の男たちとはひとまわり以上若い男が立っていた。タネールの別の作品「白い町で」にでていたブルーノ・ガンツに少し似た男で、豊かな黒髪をポニーテールにしている。男はこの店の主で英語が少し話せた。救いの神を見つけたようにさっきの話を繰り返し、男たちに通訳してもらった。しかし誰もが同じ反応だった。
ポニーテールの男も首を振り、うやうやしく店の中を案内しはじめた。
「女性の客ははじめてなんでね。」
ほんとうらしかった。店の奥にはさらに別の部屋があり、やはり四角のテーブルが6、7台に椅子が四つずつくっついている。男たちはここでカードゲームをやるのだと言う。カードは男たちのゲームだから、ここには女の客は決して来ないのだ。
窓もない殺風景なこの部屋にいくつもヘタな絵の額がかかっている。ポニーテールの男が描いたのだという、モネやマネの模写でこの部屋のインテリアとしてはまったく不釣り合いだった。やはりここは映画にでてくる店ではない。あの店には窓があり、そこから港が見えたはずだ。
先ほどの部屋にもどるとコップにワインが満たされていた。コップを手にとり椅子に座る。一番背の低い男が向かい側の椅子に座り、カードをきるまねをした。大きな声で一生懸命説明しようとしている。
「オレたちはここでいつもカードをやっているんだ。今日は残念ながらカーニバルで安息日だからできないがね。家にいてもカミさんがうるさいから結局ここに来ちまうんだよ。」
そんな内容に聞こえた。
なるほど、ここの男たちはカードの代わりに港にいた男たちがかぶっていたのと同じデザインのウールの帽子を丸めたり、広げたりと手持ち無沙汰を紛らわせようとしている。
ワインのせいもあってか、自分もいつのまにか常連客のようにくつろいでいる。ふと、時計を見ると船の出る時間が近づいていた。
「もう行かなくては。ヴェニスにもどるんです。」
男たちは引き留めの言葉をしゃべった後、やがて彼ら同士でなにやら話しあって、部屋の隅の方にいた13才くらいの男の子を前に押し出した。彼はまるでこの男だけの惑星で初めて女という生き物を見たかのようにずっとこちらをうかがっていた男の子だ。
でっぷりとした男が言った。
「お嬢さん、こいつが港まで送っていくよ。」
男たちはこの子にナイト役を任命したことをおもしろがっていた。皆ドアの近くに集まって、ひとりひとり握手をしてくれた。
「またあんたの映画の話を聞かせてくれよ。」
外に出ると夕暮れがはじまっていた。少年はジャンパーのポケットに手を突っ込んで黙っていた。時折こちらをじっと見ている。眼があって軽く微笑んだ。少年の頬が夕日に照らされ紅色に染まっていた。
夕方になって人の往来が多くなったようだ。夕刻のショッピングで夢中になっているせいか不思議と今回はこちらを誰も振り返って見る者がいない。
ショーウインドウに木でできた船の模型が飾ってあった。小学生が夏休みの工作の宿題で作ったようなへたな模型だが、どこかかわいらしかった。
近づいて覗いてみる。店の中は小さな木工所のようになっており、片隅に大きなクマのぬいぐるみ程の木でできた人形が置いてある。だらんと伸ばした腕と足、大きな鼻が水平に突き出ている。これは紛れもなくピノキオだ。反対側の机にノミを持った鼻メガネの老人が作業をしている。ピノキオを作ったゼペット爺さんだ。はっと息をのむと、老人がこちらに気づいてにらんだ。あわてて通りに戻る。
いったい自分は夢を見ているのだろうか。いったいこの町はどうなっているのだろう。
あの映画について知っている人は誰ひとりいなかった。しかし、あのバーは何だったのだろう。映画にでてくるバーではなかったが、確かに『シネマ』という名前だった。この町自体が幻の町なのだろうか。
あっという間に港についた。さっきの土産物屋が店じまいをしていた。少年は握手をするためにポケットから手を出した。
今からこの町を出る人は数人しかいなかった。甲板に出る。湿った風が髪にからんだ。海面に浮かぶブイが船にあたってカタッ、カタッと規則正しい振り子のように時を刻んでいる。どの位この町にいたのだろう。ほんの数分のような気もするし、数年の時が経ってしまったような気もした。
船は汽笛ひとつ鳴らさずにゆっくりと陸を離れた。すぐに広角レンズで覗いたような港の全景が見えてきた。土産物屋のテントが大きく旗めいた。夕日の残照が港の片側を照らす。まるであの世とこの世を隔てている最後の光のようだった。喉の奥でワインの残り香がした。
映画の最後にふたりの男とひとりの女でキオッジャの港に出て、アドリア海に昇る太陽を眺める場面があった。それぞれ何かを探し求めた旅の果てに確かなものは何も見つからなかった。でもそこにはあきらめにも似たため息と共に心地よい充足感があった。スクリーンに朝日を浴びて浮かび上がる三人のシルエットを見ながら、あたかも自分もその場に居合わせたように胸がしめつけられた。
幻は幻のままでいい。いくら探し求めても、解き明かせない謎であればあるほど、霧の中に時折鮮明なイメージを垣間見るように、ひとの記憶の中に永遠に存在しづづける。
満たされた沈黙の中で、ジャンルイ・トランティニアンがぽつりと言った。
ここに来てほんとうに良かった、と。
気がつくとキオッジャの町は薄闇に消えてなくなっていた。