—イタリア キオッジャー 1994年2月
ヴェニスからバポレット(水上バス)に乗り、15分でリド島に着いた。ここからはローカルバスに乗り換え、ただひたすら島の先端まで走る。全長13キロの細長い島の片側は白い砂浜で、オフシーズンで誰もいないビーチがキラキラと冬の太陽を受けて光っている。夏の間だけ開いているのだろう、「ブルームーンカフェ」という看板が寂れて見えた。
バスは終点の島のへりに着いて止まった。運転手も動かない。バスの中の乗客も皆一様に押し黙っている。このままどうなるのだろう、と不安になってきた時、ひとりの乗客が降り、その先に大きな船がゆっくりと近づいてきた。船が陸に横付けされ、冷たい海風にあおられながら人々といっしょにぞろぞろと船に乗り込む。
この船はキオッジャという港町に向かっている。キオッジャはヴェニスより30km程南に位置し、イタリア半島と地続きにある。
数年前に当時愛だの恋だのと語り合っていた友人と新宿のがらんとした映画館でアラン・タネール監督の「幻の女」という映画を見た。映画が終わると暗がりの中で後ろの女の子たちが言った。
「なんだかぜんぜん訳わかんなかったわ。」
明かりがついて友人と顔を見合わせた。
「こんなにわかる映画はないよね。」
それ以来ヴィデオ化もされていないから、一度見たきりで忘れられない映画になっていた。キオッジャはその映画の舞台となった町である。
タネールの分身ともいえる映画監督が主役の女優を探し、旅する話だ。映画監督にはフランスの名優、ジャンルイ・トランティニアン、謎の女優には黒髪に寂しげな表情、そしてその中にするどく光る野性的な眼が強烈に美しいーアルマーニの広告にも抜擢されたーラウラ・モランテ、映画監督の助手をかってでる若い男もからみ、スイスからニューヨーク、そしてここキオッジャへと舞台を移していく。
ラウラ・モランテが謎の過去を背負い、ひっそりと身を寄せていた町で、イタリアに来たら彼女が働いていたバー、実在しているという『シネマ』という名のバーを捜してみたかったのだ。
船を降りるといきなり眼の前にまっすぐとメイン・ストリートが見えた。船着き場の近くにはこんな季節はずれに観光客が来るとも思えなかったが、出店が2、3軒でていて、昔子供の頃江ノ島で見たような安っぽい貝殻細工の土産物を売っていた。ここもヴェニスと同じように車の進入は禁止されていたから、人々はのんびりと午後の散歩を楽しんでいる。おまけに今は2月のカーニバルの真っ最中なので、子供たちはカラフルな衣装を身につけてはしゃいでいる。
ふと、居心地の悪い視線に気がついた。通りすがる人々が皆こちらに好奇の眼を向けている。ヴェニスや他のイタリアの観光都市ではこんな視線に会ったことはなかった。
通りの真ん中あたりまで来たら、横に小さな船着き場が張り出しており、数人の男たちが円陣を組んでいた。皆同じようなウールの帽子をかぶり、同じように深い皺が顔に刻まれている。土地の男ならこのあたりのバーは知り尽くしているはずだ。恐る恐る近づいていって、覚えたてのイタリア語で尋ねてみた。
「スクージ、すいません、『シネマ』っていう名前のバーは知っていますか?」
質問の意味が通じたのかどうかわからないまま、男たちは一瞬きょとんとした表情をみせたが、彼らだけでしばらく何か話し合った後、一番年とった男が前へ進み出て手招きした。
ついてこい、と言うのだ。老人は足が速かった。人々の好奇の眼を体中に浴びながら逆流していくと息がきれた。
数十メートル歩いて左にそれると狭い路地に入り、すぐそこで老人は立ち止まった。ヴェニスと同じように手と手を伸ばせば届きそうな程の狭さの道に古びた家々が連なっている。老人が指さした建物もそのひとつで緑色のペンキがはげかかっていた。頭上にはこれまた、はげかかった文字が確かにCINEMAとも読める。あの映画のバーなのか。バックの中をゴソゴソと捜したが、このバーの写真が載っている映画のパンフレットはヴェニスのホテルへ忘れてきてしまった。
老人は尚もここだと建物を指さし、今度はこちらに向かって指さした後、ノーとだけ言い残し、来た道をすたすたと戻って行ってしまった。
何のことだかわからずに間口の狭い入り口を覗いてみた。そこは開いたままになっていて、灯りもついている。男たちが数名見えた。思い切って入ろうとした途端、ノー、というしゃがれ声がさえぎった。
「ここは『シネマ』ですか?」
この質問には複数の声がいっせいにシィー、と答えたものの、また一歩足を踏み入れようとするとノー、と言う。
一番手前にいたしゃがれ声の男が、
「女はだめだ、入れない。」
と言った。ドンナ、女という単語でわかった。途方にくれて英語で必死にここに来た事情を中に向かって叫んだが、誰もわかった様子はない。一番奥にいるでっぷりとした男が助け船を出した。
「お嬢さん、いったいどこから来たんだい?」
「ジャポネから。」
と答えると、今度はいとも簡単に、じゃあ、中に入れ、と言う。誰も反対する者はいなかった。訳がわからないまま中に入る。
何度も重ねられたオイルがたっぷり染み込んだ木の床がきしんだ。間口に比べ中は広い。
80cm四方くらいのテーブルが6、7台に、椅子がそれぞれ四方に置いてある。普通とはなにか様子が違う。よく磨かれたアメ色の木のバーカウンターが店を横切り、金色のビアサーバーやグラスが光っているのを見て、やっとここがバーだということがわかる。
港で円陣を組んでいた男たちと年格好も同じで、皺の入り方も同じ男たちが7、8人椅子に座ったり、テーブルに腰掛けたり、カウンターにもたれかかったりして、思い思いにくつろいでいた。禁断の地に迷い込んだ罪の許しをこうために前へ進み出た。男たちはニヤニヤと笑っている。無実です、と繰り返す哀れな罪人のように同じセリフを口にしていた。
「ここは『シネマ』っていう名前ですよね。」
喉がカラカラに渇いている。男たちはニヤッとしながらシィーと言った。タバコのヤニの臭いがもれ、あたりが黄色くなったようだ。確かにここには女人禁制の空気が流れている。