「ゆかりっ! ゆかりってば」

「……え、な、何?」

 すばるが腰に手を当てて、思い切り私をにらみつけていた。

「授業終わったんだけど、いつまでぼけーってしてるつもり? 

さっきから何回も呼びかけてるのに、自分の世界に浸っちゃって

出てこないんだから」

「あー……ごめんね。最近、考えなきゃいけないことが多くて」

「考え事、っていうと勇さんのこと?」

「まぁ、そんなとこかな」

 本当は勇のことだけではいないんだけどね、という言葉の続き

を私は飲み込んだ。透のことはすばるにも秘密なのだ。誰にも話

してはいないし、私の彼氏は勇ということになっている。

だから勇に、私に彼氏がいることがバレたのは予想外の事態だっ

た。今になって、あそこは否定していくべきだったかな、なんて

思い始めている。

 それに、予想外の出来事といえばもうひとつ。勇のお父さん、

祐樹のおじさまが癌ということだ。おじさまはとちらかっていう

と、山男というイメージがぴったりのとても丈夫な方だった。実

際、パパと知り合ったのが大学の山登りサークルというオチも存

在する。半年前に会ったおじさまは健康そのものに見えたから、

余計に困惑してしまう私がいた。

 でも、あのレストランで勇が見せた表情を見る限り、おじさま

が癌であるというのは本当なわけで……。

 私は本日何回目か知らないため息をついた。

「辛気臭い顔して、どうしたわけよ。このすばるさんに話してみ

なさい」

「いえ、けっこうです」

「即答かよ。まぁ、いいわ。代わりに、いいところに連れてって

あげる」

「お断りさせていただきます」

「なんでよ」

「昔から、というよりも中等部時代からだけど、すばるが言う

『いいところ』ってのがいいところだったためしがないのよ」

「例えば?」

「……例えば、中等部の一年生の時。伊藤さんに会わさせられた」

「そんなことも、あったわねぇ」

 私がじとっと睨みつけると、すばるは、

「あはは、まぁまぁ。誰のおかげでモデルになれたと思ってんのよ」

と笑った。

「あのねぇ、私はモデルになんかなりたくなかったのよ!」

 なんて言っても時既に遅し。

 なってしまったものは仕方がないのだ。

 その辺のことは今更なのである。

 何を隠そう、この深町すばるが私を伊藤さんに紹介した張本人

だ。一目で伊藤さんに気に入られた私は、彼の熱心なアプローチ

に負けて被写体をすることになった。

 それが、全ての始まりだった。

 すばるは伊藤さんの従姉妹に当たるというから驚きだ。すばる

はこれでも、実はいいところのお嬢様なのだ。つまり、伊藤さん

もいいところの出身だということで……けれども、彼はプロへ転

向する際に縁を切られたのだという。

「でも、静がさぁ、すっごく一生懸命にあたしにお願いしてきた

んだもん。ほら、従姉妹としてはさ、叶えてやりたいじゃない。

今でも悪かったとは多少、思ってるんだけどね」

「多少、でしょ?」

「多少、ね」

 すばるはニカッと笑った。

「まぁ、行こうって。今日は、本当にいいところに連れてってあ

げるんだから」

「だから、行かないって」

「……すっごく、オシャレなカフェなんだけどな」

 ぼそっと、すばるが呟いた。

 カフェ。

 くそ、そうきたか。

 これは、カフェ好きの私への挑戦状なのか。

「行かないっていうなら、しょーがないか。私一人で行ってこよ」

「……行かない」

「いいけどね。残念だなぁ。赤と白を基調とした素敵な内装で、

照明もふんわりとした暖かい色で、おまけに紅茶がすっごーく美

味しいの」

「……今日は、カフェとか行く気分じゃないの」

「そっかぁ。行かないなら仕方ないかぁ。ほんっとーに、素敵な

お店なのに。じゃぁ、また明日ね」

 私の手は知らぬ間に、去って行こうとするすばるの腕をつかん

でいた。

「そうこなくっちゃ」

 すばるは口元の片端を上げる。

 あ、しまった。

 気がついたときには、心より体が先に反応していた。

 本当に、今日はそんな気分じゃないし、考えなければいけない

ことが山積みになっているというのに、我ながら情けなくなる。

「後悔させないから、安心してついて来なさい。カッコイイ店員

の男の子がいるんだから」

 胸を張って言ったすばるに、既に後悔をさせられている私って

一体……。

 でも、すばるが店員目当てなのはよーくわかった。

 すばる曰く「カッコイイ」は相当レベルが高い。

 芸能人並でようやく「マシ」に入るのだ。なんせ、男性モデル

で今一番人気のある透が「カッコイイ」に入るくらいなのだから。

 だって、すばるは普段、絶対カフェなんてものには行かない。

 私は嫌な予感がしていたが、この予感は見事に当たることに

なる。

 自分の欲望に打ち勝てなかった私は、すばるオススメのカフェ

に一緒に行くことになった。すばるの家の車でカフェの近くまで

送ってもらい、すばるの後ろについて歩いて十秒くらい歩いただ

ろうか。

 ふんわりとした暖色系の照明、癒し空間を目指しているって笑

った彼の瞳。赤と白のソファーに椅子、木目柄のカウンター、全

部で十五席ぐらいの小さなカフェ。

 大きい道路に面したテラス席も一席あるそのカフェは、見た瞬

間にわかった。

 あの、カフェだ。

 Under The Moon。

 私が足を止めると、すばるが怪訝そうに振り返った。

「どうしたの? ゆかり。急に止まっちゃって。行くよ」

 すばるに手を引かれて、私はそのカフェに足を踏み入れること

となった。

 ま、マズイ。

「すばる……!」

 困惑し焦燥を感じている私をよそに、すばるはづかづかと店内

に進んで行く。

「いらっしゃいませー」

 すばると私の足音に店員が気付き、店員は振り返りざまに声を

かけた。

 店員と目が合う。

「……いらっしゃい。すばるちゃん」

 店員は一瞬、すばるに手を引かれた私を認識して動揺し、瞳を

かすかに揺らせたが、すばるに向かって愛想の良い微笑みを浮か

べた。

「透さん、こんばんは。今日は前言ってた友達連れてきちゃった。

藤原ゆかりっていうの」

「……初めまして、ゆかりちゃん」

「……はじめまして、透さん」

 透がやや強張った笑顔を向けると、私もぎこちない微笑みを浮

かべ返した。

 はじめましてどころか、透とはよく会っている。よくというか、

なんせ一年以上の付き合いなのだ。

 お互い気まずいのは山々だったが、今初めて会った者同士を

演じた。

 銀色のフレームのメガネをかけ、黒い前髪を後ろに撫で付け

た透は、モデルをしているときよりも確実に五つは年上に見え

るから不思議だ。モデルのときの彼とはまるで別人なのである。

 私が今最も会いたくなかった人物に、予想外にも出会ってし

まった私は、どうしようもなく目をそらせた。

 よりにもよってこのカフェなんて、最悪だ。

 だから、すばるの「いいところ」は信用できないのだと再確

認する。

 騙されて来てしまった私にも問題はあるのだけれど、何より

も、数ある素敵なカフェの中からこの店を選び当てたすばるは

なんて強運なんだろうか。

 面食い中の面食いのすばるが言い放った「カッコイイ」人物は、

何しろ本物のモデルなのだ。

 しかも、その中でもかなりの人気がある杉崎透。

 ファンにも見破られないほど変装が上手な透もある意味すご

い。今の彼は決して、杉崎透というトップモデルには見えない

のだから。

「ね、来てよかったでしょう」

 すばるがこそっと私の耳元で呟いた。

 あのね、私が今、どんな思いでここにいるか分かって言って

たら迷わないで首絞めてるところよ。

 心の中だけで思いっきり毒づいて、私はすばるに気付かれな

いくらいの、かすかなため息をついた。

 めちゃくちゃだと思う。

 婚約者にはプロポーズされるわ(お互いの気持ち無視の)、

頭の中がごちゃごちゃの最中に、付き合っている彼氏にこんな

形で遭遇することになるわで……。

 私に一体、どうしろと言うのだろう。

 透とは最近、会っていなかった。私と透のスケジュールが綺麗

にかみ合わなかったからだ。

 今日だって本当は、私は仕事だったのだけれど、撮影が上手く

進んだためオフになった。昨日の一件が片付いていない私には、

透に連絡することさえ億劫にならざるをえなかったというのに。

 なのに、この深町すばるって女は……。

 殴りたいのを我慢して、透のいるカウンターの前の席に上機嫌

で座ったすばるの隣に腰を下ろした。カウンターは赤と白のふか

ふかした丸いイスが交互に五つほど並んでいる。私たちはその中

央を陣取った。午後四時という中途半端なこの時間では、他のお

客さんなんて皆無なわけで、そんな時間が望ましい私はだいたい

この時間にここを訪れるのだ。昼はカフェ、夜はバーとなるこの

お店は、常に流行の洋曲がかかっていて心地良い。

 私にとって最高の隠れ家であったというのに、その静寂をも

すばるのお陰で綺麗さっぱりなくなったように思えた。

 第一、ここは透の実家であり、透はよく家の手伝いをしている

のだ。一年前、最初に連れられて来られたときから気に入ってい

た。彼の艶があるテノールの声はどこか異国めいていて、それが

洋曲と混じり合い、独特の雰囲気を創りだす。日本にいながら、

どこか別の世界にいるような錯覚に囚われるのだ。

 私はこのカフェが好きだった。静かで、そして、現実から抜け

出せる唯一の場所だったから。

 透との逢瀬も、現実であって現実でない世界の出来事のようで、

だから長く続いていたんだと思う。

 それなのに、勇との昨日の出来事が、どこにいても私を現実に

引き戻させた。

 私は私の立場があり、私は決して自由なんかじゃないことを思

い知らされるのだ。世間ではいくら好き勝手生きているように映

っていてもても、真実は違う。

 私は親に敷かれたレールの上をただ歩いているだけだ。

 それは最初から、きっと、最後まで。

 透が今日ほど、まともに見れない日はなかった。

 私は言わなければいけないのだ、今の生活を捨てる気がないの

なら。

 夢の中に生活が入り込んでしまったのなら、夢は夢ではいられ

ない。

 だから、今の生活を守りたい私は、彼と別れなければならなか

った。

 だけど、どうしたことだろう。

 今の私はどちらも選べずにいるのだ。二つの選択肢の中央に立

ちながら、二つとも手放せずにいる。

 どうせ時期がくれば、最低な経路で透に伝わることになるとい

うのに。

 それだけは避けたいはずなのに。

 わかってたはずだ、最初から。

 私は今更、昔の生活には戻れない。

 どんなに昔は良かったと嘆いていても、所詮、それは今ある現

実ではないからだ。

 お金があって、親の信頼とそれなりの愛情もかけられて、モデ

ルっていう肩書きで人からちやほやされて、そのどれもが今の私

には手放せないものだった。

 理想と現実はいつも異なっている。

 もし、透とのことがバレたら、パパやママだけじゃなくて多岐

に渡る人に迷惑がかかるのだ。

 しかも、公の場では婚約者を大事に想っている少女を演じてい

る私のイメージは最悪と転じることになる。

 感情だけじゃ、私はもう動けない。

 彼との関係がどんなに心地よくて手放したくないものだったと

しても、失うものが大きすぎる。

 私だって、彼だって、最初からわかっていた。

 この関係をいつか、解消しなければいけない日がくることくらい。
 
 私はためらいがちに、透を見上げた。透もいつもと様子が違う

私に気付いて、眉間をかすかに寄せる。

 私たちの様子に全く気付いていないすばるだけが、一人浮かれ

ていた。

 私が上目遣いで目をニ、三度目を瞬かせる。

 それは、「話がある」という無言の合図。

 透はすばるの話に頷いているように見せながらも、私にメッセ

ージを送った。

 カウンターを人差し指でコツコツと二回叩く。人差し指で物を

二回叩くのは「了解」という返事。

 彼は一瞬だけ私を見やって、すぐにすばるの話の聞き役に戻った。

 私は、自分がどうしたいかわからず、けれども透に事実だけは

伝える心持でいた。

 私はあの時、どうしたかったのだろうか。

 きっと、夢の中の出来事である彼に、現実から遊離した存在で

居続け欲しかっただけではないんだろうかと、今となってはそう

思うのだ。

 そう、今となっては。















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