RAMP第9順その3

 そしてソーホーのパブではアックスが、これまでに誰も見たことのない怒りの形相で頭をかきむしっていた。その顔はまさに怒りに満ちた仁王であり、地獄の底で罪人を苦しめる鬼の顔だった。天と地が入れ替わってもおかしくはなかった。彼の怒りの前では何もかもが無力であり、ただ遠い夜明けを待つことしかできなかった。
「ああ、ドクター・ナガセ。その昔サトルは私に、かの紳士、ジミー・フォードを殺すように命じられたのです。しかし、どうしてもそれはできなかった。それまで、私はたしかにサトルを信頼していました。彼の率いるπという集団の理想は、それはそれは素晴らしいものでした。この地上に新しい世界を築こうとしていたのです。遺伝子操作によりすべての病は絶滅し、生き物は必ず天寿を全うし、殺し合うこともなく、平和に生き続ける。私とジミーはその理想に飛びついた。私は自分の胸の中に、スイフトが雲の中に描いたラピュタを描いていた。しかし、それが間違っていると気付いた時はすでに遅かった。私は非常に大切なことを忘れてしまっていたのです。それはごくごく単純なこと。食物連鎖です。大部分の植物を除くこの世の生物は、ほかの生物を殺して食べることでしか、その生命を維持することができないということだったのです。生きているものにとって究極の恐怖である「死」すら、地球全体としての視点でみればなくてはならないものだったのです。死を極限まで遠ざけるための研究は、まったく方向違いでした。πという教団は、ありとあらゆる方法を尽くし、「死」を限りなく遠ざけようとした。しかし、本当に目指すべき方向は、死を遠ざけることではなく、「限られた生」を究極的に幸せに過ごす方法を模索することだったのです」
 うああっ! アックスはうめく。いっそう強く頭をかきむしる。そして両手で顔を覆う。その指には、無数の毛髪が残酷にからみついていた。
「πの創始者である元七三一部隊のヒロサキ中尉は、偉大な科学者でした。そして、早くから自身の理想の矛盾に気付いていた。そして、遺伝子科学に関するひとつの論文を書き上げてからは、ひたすらに精神世界の開拓を急ぎました。しかし、同じく素晴らしい科学者であった彼のもぐら人間、ジミー・フォードはヒロサキ中尉の研究を受け継ぎ、非常に湾曲したかたちでその理想も受け継ごうとしたと聞いています。その頃私は、解散したばかりのπイギリス支部を再建しようと躍起になっていました。日本の本部で起こっていたそのことの真実を知る由もありませんでした。しかし私には、どうしてもそれが信じられなかった。私は、覚えているのです。ジミー・フォードの話し方、身のこなし、心遣いを。彼はきっと本物の神なのです。あんな、あんなことをするはずがない!」
「どんなことだね?」
 ナガセ教授は非常に落ちついた口調で言う。そしてこう付け加える。
「これから私がしようとしているような…?」
「いえ、ドクター・ナガセ。もっともっとひどいものです。彼は非常に高度な遺伝子操作技術をもてあそんだ。「賞賛すべき」理想のもとで。そう、それはたしかに、実現すればすべての人類から賞賛されるべき理想だったのです。しかし、宇宙の神は決してその実現を許さないでしょう。すべての人間たちの命と幸せを守れば、ほかの生物たちの命と幸せは冷酷に踏みにじられるのです。ヒロサキ教授は論文を書き上げた直後、その教団の名を「π」と名付けました。πの意味は限りない円。つまり、限りない食物連鎖なのです。しかしもぐら人間はその円を強引に直線にしようとしました。地球上の有益なものすべてを自分のものにしようとしました。つまり、自分以外の生物を絶滅させることも辞さないかまえを見せたのです。しかも、彼はあることに気付きました。酸素と栄養分さえあれば、人間は生きていけるということです。そして彼は永遠の命を得るべく、遺伝子操作の技術を駆使して研究を続けました。そして、さまざまな副産物が生み出されたのです」
 ああ…! アックスはまたうめく。
「ああ、ただ酸素をつくり続けるためだけに生きている人間、ただ人間に食われるためだけに生まれてきた人間…。そして、サトルは私に、ジミー・フォードを殺すように命じられたのです。しかし、私は断った。何度でもくりかえして言います。私は、知っているのです。そして、覚えているのです。美しい彼の心を。私はサトルからの命令を拒みました。しかし代わりのものが行き、ジミーを殺しました。もし私が行っていればあるいは、ジミーにことの真実を問い、彼を助けられたかもしれない。彼を殺したのは紛れもなく、この私なのです。そしてπの最高幹部に逆らうことは、死を意味していました。しかし私は軍隊での経験を認められ、脳に「πの心」を埋めこまれるだけにとどまりました。πの心とは小さな金属製のチップで、私の思考は操作されてしまうのです。それほど強い力があるわけではありません。しかしそれこそが地獄の苦しみです。理性を残しながら、自分の美学に反する行動をとらねばならなくなったのです。ああ、これはすべてサトルから聞かされたこと。それ以後の彼の行動によって、それがすべて嘘であったことは確信しています。ジミーが聖人であることも、今でも信じています。しかし、私はπの命令に背くことができない。サトルが死んでやっと解放されると思っていたのに… ああ、私は行かなくては… カズミたちを殺しに行かなくては…!」
 そしてアックスはよろよろと席を立った。彼の両手の指、その爪の間には、えぐられた頭皮が血にまみれてこびりついていた。

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