RAMP第9順その2

 慣れないエジンバラの街は二人にとって迷路でしかなかった。立ちふさがった男たちに背を向けて走り出したものの、どこをどう走ればどこに抜けるのか皆目見当がつかない。あっという間に追いつかれ、肩をつかまれた。
 「グッ」
 隆次は体躯に力をこめてつかまれた肩から腕を振り解こうとしたが、まるで爪が肉に食い込んでいるかのように離れようとしない。後ろからはばたばたと追いついてくる男たちの足音がする。
 「何なんだ、お前ら!」
 隆次が叫んで振り返る。と同時にパンッと乾いた音が路地に響いた。隆次の肩をつかんだ腕がゆるりとほどけた。そして、男はどさりと地面に倒れこんでしまった。隆次の視線の先にはそれ以上足を踏み出せずにたじろいでいる男たちがいた。
 「キャーッ」
 ほんの一瞬の沈黙の後、和美が叫ぶ。足元には倒れた男の額から流れ出た血が広がっている。
 「い、いったい何が…」
 戸惑う隆次の言葉と同時に再び乾いた音が響く。暗がりから発射された弾丸は隆次たちを追っていた男の一人の額を正確に撃ち抜いた。後じさりする男たちに向けて、二発、三発と銃声が響く。
 しばらく銃声が続いた後、路地は不気味な静寂に包まれた。隆次は頬に熱を感じ、手を当ててみると、弾丸がかすったのだろうか、血が滴り落ちていた。
 「さぁ、二人とも、こっちだ」
 声がする方を見る。が、暗くてよく見えない。
 「何をしている。早くしないとπの連中がまた追ってくる。こっちはもう弾切れだ。さぁ、早く」
 その声に促され、二人は暗がりへ足を向ける。明かりの灯らぬ路地裏には一人の男が立っていた。月明かりに照らされた顔を覗き込んでみると、初老の紳士、といった感じだろうか。
 「あ…え…エクスキューズ・ミー…」
 隆次がたどたどしい英語で話し掛けようとすると、男は片手で制止する。
 「心遣いはありがたいが、長年日本で暮らしていたもので、日本語で構わないよ」
 「あ、あの、助けていただいてありがとうございます。ミスター…」
 和美の言葉に男は笑みを浮かべる。
 「フォードだ。ジミー・フォード。君の事はよく知ってるよ。和美ちゃん」
 「なぜ私の名前を…」
 驚く和美にジミー・フォードが答える。
 「そう、分かり易く言えば、君の育ての親、ってところかな」
 「育ての親?」
 和美と隆次は声をそろえる。
 「いや、おじ、と言っても問題はないかもしれない。いずれにせよ、和美ちゃん、君と深い関係にあるのは確かだ」
 「それって、一体どういう意味なんですか?」
 「今は詳しく話している時間がない。ともかくここから離れよう。ロンドンやエジンバラにはπの連中が多くて、気が抜けないんだ」
 「じゃ、日本に?」
 やっと帰れる、と思った和美は安堵の声をあげる。ジミーが遮る。
 「何を言ってるんだ。日本はπの本拠地じゃないか」
 「それじゃどこに行けって言うんだ?」
 「和美の育った場所、私が和美を育てた場所だよ」
 「日本じゃないのか?」
 「いや、アメリカだ」
 「アメリカ?」
 「そう。ユタ州の農園だ」
 「でも、なぜアメリカに? アメリカにはπの連中はいないのか」
 「いるさ。沢山ね。でも、ユタはモルモン教の発祥の地だ。彼らは入ってきていない。だがもしアメリカが嫌なら別の場所でも構わないよ。コロンビアやペルーあたりに一時的に身を潜めることも可能だ。ロシアでも…」
 「いや、そうじゃなくて…」
 「この国、イギリスでは私は死んだことになっている。そしてπの連中も私が殺されたと思っている。さらに悪いことに、私がπの一員だったと信じて疑わない連中もいる。アックスとかね」
 「アックス、って誰ですか」
 「私の戦友だよ。フォークランドで同じ部隊にいた。今やπの要員だ。そのアックスの動きが最近怪しいという噂を聞いたもんだから、CIAの友人に頼んで調べてもらった。MI6にも動いてもらった。それで君たちが危険な局面にいることを知って駆けつけたんだ。いずれは再びこのイギリスに戻って君たち自身の手で決着をつけなくてはならないかもしれないが、今は危険過ぎる。アメリカ行きの航空券はすでに用意してある。明日、朝一で出発だ。間に合ってよかったよ」
 「アックスだとか、危険な局面だとかって、おっさん、悟はそんなこと一言も…」
 「その悟が一番の危険人物なんだよ。いずれは私も彼と決着をつけなくてはならない。君たちと一緒に」
 「…悟が…そんな…。それに悟はもう死んで…」
 「いや、彼はまだ生きている」
 三人は暗がりを歩きながら話を続ける。
 「フォークランド紛争が終わり、私とアックスは母国イギリスに帰還した。あの紛争はまさに狂気としか言いようのない戦争だった。銃弾の尽きた私たちは敵兵と白兵戦を行った。アーミーナイフで連中と格闘した。そして私たちの手は血で汚れた。兵士ではなく、ただの人殺しになってしまったんだよ。身も心も疲れ果てて帰還した。そこに一人の日本人が現れて、私たちにπの存在を教えてくれた。私もアックスもその理想に飛びついたんだ。だがやがてその日本人は姿を消した。その時、πのイギリス支部は解散したんだ。私は日本へ向かった。その日本人、ヒロサキと名乗っていた。彼を追ってね」
 「そのヒロサキっていう人がπの創始者?」
 「そうだ。元は七三一部隊の中尉だった。第二次大戦後のGHQの追及を逃れてπという教団を創設した。彼の医学知識はすばらしかった。彼の存在は近代医学の生んだ奇跡としか言いようがない。だが、その教団もある男に乗っ取られ、ただのカルト教団に成り下がってしまった。ヒロサキの知識を利用しようとした連中の仕業だ。それを嘆いて彼は自ら命を絶った。日本でそれを知った私は一人残された彼の孫を預かることにした。それが和美ちゃん、君だ」
 「じゃぁ、私はπの創始者の孫…」
 「…それは後々分かることだろう。君はいずれつらい現実に直面することになるかもしれない」
 「つらい…現実…」
 「そう。それはともかく、私は和美ちゃんを預かって日本で暮らし始めた。そこに現れたのが悟と名乗る中年の男だ。πの最高幹部だと言っていた。イギリス支部の復活を私に任せたい、と。もちろん、私は断ったよ。だが、何も知らなかったアックスはそれを引き受けた。その悟の出現と同時にπはどんどん危険な組織に変革していった。そしてアックスも。私は和美ちゃんを連れてアメリカに逃亡した。πの連中は、いや、悟は和美ちゃんを狙っていた」
 「なぜ私を…」
 「ヒロサキの遺伝子を受け継いだ唯一の人物だからだ」
 「でも、悟は中年なんかじゃ…」
 「そう。彼の見た目は中年ではない。君たちと同じ年頃に見えるかもしれない。実際にπの連中は彼の真実の姿を知らない。ある日、彼は一時的に姿を消した。死んだと伝えられた。新たに現れた悟は別人なんだと皆が思っていた。だが、私には同一人物だとしか思えなかった。言葉づかい、身のこなし、それら全てがかつての悟のままだった。それで彼の、中年の悟の足跡を追ってみたんだ。彼は中国へ渡っていた。中国の成都という街から彼はチベットのラサへと向かった。そこで数年間過ごした後、インドへと向かい、足跡を絶った。次に彼が姿をあらわしたのはタヒチだ。ブードゥー教という民族信仰は知っているかい?ゾンビ伝説のある地だ。その時、彼はかつての中年の姿ではなかった。先日まで君たちと行動を共にしていた悟の姿だったという」
 「それじゃ、悟は…」
 「そう、彼こそがπの最高幹部なんだよ」

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