深夜のソーホー。ロンドン最大の繁華街には真夜中でも人通りが絶えない。路地に入るとロンドンっ子御用達のパブが点在している。その中の一軒で数人の男たちが黒ビールを片手になにやらひそひそと語り合っていた。
「あれが、来た」
「例のジャパニーズか」
「そうだ。先日、スチュアート教授の所に現れた。俺のことを『かまきり』だって呼んでたそうだよ。」
「それで、教授は何を?」
「あぁ、今のところはうまく話をはぐらかしてくれてるみたいだ。が、どうもπの人間が一緒らしい」
「π、か」
男たちは一様に大きなため息をついて黙り込む。
「消す、か」
「エクスチェンジ、か。アックス」
アックス、と呼ばれた男は黙ってうなずく。
「マザーを使う。他のコピーとは違って、時々バグが入るが、何とかなるだろう。教授の話によると、どうやら連中、核心に近づいているらしい。中尉の再臨までは邪魔してもらっては困るのでね」
「諜報部によると、教授も最近怪しげな動きを見せていると言うが、どうなんだ」
「あぁ、そうらしい。が、まだまだ利用価値のある男だ。エクスチェンジの理論を編み出したのも彼だしな。だが、ジャパニーズをけしかけたのはどうも教授らしい。これ以上勝手なマネをするようなら、彼にも消えてもらうしかないな」
「相変わらず荒っぽいな、アックス。SAS時代のコードネーム、お前にぴったりだよ」
「コードネーム、かまきり、か。英国特殊空挺部隊、懐かしいよ。フォークランド紛争が最後だったな。もう30年近く前の話だ」
「仲間の死を悼んで新たな宗教観に目覚めた、ってところか」
「そんなんじゃねぇよ」
アックスは立ち上がり、表に出た。ピカデリー・サーカスまで歩くと、タクシーを拾い、πのロンドン支部へと向かう。車で約30分ほど走ったロンドン郊外にその支部はある。
支部についた彼は厳重に警戒された研究室に入っていく。鈍い銀色に光る頑丈な扉の前に立つ警備の人間は彼を見て姿勢を正す。
「サー、マザーに異常ありません」
アックスは軽くうなずいて、その扉を開いた。無機質な空間には無数のポッドが立ち並ぶ。その中央に置かれたひときわ大きな一つには人間の脳と脳髄が浮かんでいた。彼はそのポッドの前で両手を大きく広げ、語りかける。
「さぁ、マザーよ、かわいい娘に素敵なお話を聞かせてやっておくれ」
「とりあえず、宿に帰ろう」
隆次は和美の肩にそっと手を回し、教授に軽く会釈して研究室を出て行った。
「何かあったらまた報せてくれたまえ、悟君。軍のことはともかく、君の所属する宗教団体については私の研究分野とも重なる部分があるのでね」
「分かりました。教授。調べられる限りの情報を探ってきます」
「あぁ。頼むよ。和美さんによろしく」
悟は教授の言葉ににっこりと微笑を返し、部屋を出た。校舎の出口をくぐると空は既に真っ暗になっていた。振り返ると明かりがついているのはスチュアート教授の部屋だけだった。外では隆次と和美が待っている。
「教授には遅くまでつき合わせちまったな」
隆次が言う。
「あぁ。でも、少しずつ、何かが見えてきたような気がする」
「嘘だろ、悟。俺には話が複雑すぎて、何がなんだかますます分からなくなってきてるよ」
「かもな」
「かもな、ってなんだよ、それ」
「教授だよ。教授の様子がなんだか変だ。以前に会った時に比べて、なんだか落ち着きがない。特にπの話をしている時にそれが顕著だ。何か知っているのかもしれない」
「教授が…」
「そう。だからお前には…」
「ねぇ、隆次、悟君」
和美が二人の話に割って入る。
「わたし、クローンなのかな」
「さぁ…。でも、たとえクローンでも、和美は和美さ。さっきも言った通りだよ」
うん、と和美は小さくうなずく。そうだよね、私は私…
宿に帰った三人はぼんやりとテレビを眺めていた。古い映画を放送している。それも日本映画だ。
「クロサワって、ホントに世界のクロサワなんだな」
悟がぼそりと呟くが、ハリウッド映画に慣らされた和美と隆次には興味がない。
「俺、タバコ買ってくる」
隆次が部屋を出る。部屋には悟と和美が二人きりで残された。
「ねぇ、悟君、何で私のことでそんなに一生懸命になってくれるの」
視線はテレビに据えたまま、和美は何気なく悟に問い掛けてみる。
「それは…」
悟はうつむき加減で答につまる。
和美には隆次という恋人がいる。今さら昔に抱いていた和美への思いを吐き出すわけにはいかない。だが今、隆次はこの部屋にはいない。タバコを売っている雑貨屋まで、歩いていけば往復30分はかかる。今、この部屋には二人きり…。悟の頭の中で何かがはじけた。
「和美ちゃん、俺…」
悟は和美の肩をわしづかみにして押し倒す。
「ち、ちょっと、悟君、何するの」
抵抗する和美の声は悟には届かない。
「俺…」
悟は和美のシャツのボタンに手をかける。和美は必死に逃げようとするが、男の力にはかなわない。あがく和美の腕がガタンとテーブルを倒す。上に置いてあったフルーツバスケットが床に転がり落ち、割れたりんごの酸味臭が部屋に漂う。
「悟君、やめて!」
和美は叫ぶ。階下で宿の主人に道を尋ねていた隆次はその声を聞いて慌てて階段を駆け上がる。
ふと和美の手にフルーツナイフが触れた。悟の手は和美のボタンを引きちぎろうとしている。
「やめて!」
和美は手にナイフを握り、悟の横腹に突き立てた。バタン、とドアが開き、隆次が部屋に飛び込んでくる。
「どうした!」
部屋にはわき腹にナイフを突き刺されうめく悟が転がっている。急所を一突きしたらしく、血が吹き出している。床は見る見る血に染まり、悟のうめき声はどんどん小さくなっていく。隆次はあまりの光景に絶句したまま立ち尽くしている。
「と、ともかく逃げよう」
隆次は和美の手を引っ張り、宿から駆け出した。どこに逃げればいいのか、見当もつかないが、ともかく二人は夜のエジンバラを必死で走った。
「いや!やめて!」
和美は叫んでソファから起き上がる。その叫び声に隆次たちは驚いて振り返る。和美はスチュアート教授の研究室にいた。
「どうした、和美」
隆次は心配そうに声をかける。
「また変な夢でも見たのか」
「私、悟君を…殺した…」
隆次は無言で和美をじっと見つめる。
「夢、だったの。また…」
隆次は和美を見つめている。
「なんで、なんでこんな変な夢ばっかり見るの、わたし…」
「和美、それはどんな夢だった?」
和美は隆次の言葉に促されて、今見た夢の話をする。教授の研究室で聞いた悟の教団πのこと、宿のテレビでやっていたクロサワ映画、隆次がタバコを買いに行こうとしたこと、その後、悟が和美にしようとしたこと、そして悟をナイフで刺したこと、隆次と慌てて宿から逃げ出したこと。
「なぁ、和美」
隆次はゆっくりと和美に語りかける。
「πの話は俺も知らない。確かにお前は夢を見ていたのかもしれない。宿で起こったことも、俺は全て知ってるわけじゃない。でも、宿で、お前は悟を刺し殺した。それは夢じゃない」
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