「私が、悟くんを、殺した?」
昨日、スチュアート教授の肩越しに見えていたのは灰色の空。そして今日の空は水色の空。まだ日は高くなかった。晴れ渡る空にはガーゼのような薄い雲が広がり、まだ朝の青さを含んでいた。太陽はいったいどこにあるのだろうか。ここからは見えない。しかし、それは必ず存在し、和美たちのいる研究室を明るく染めている。
「そう、和美。きみは、悟を、殺してしまったんだ」
隆次は言葉を区切り、ゆっくりと、まるでいたずらな子どもを諭すように言った。
子どもは、青みがかった景色を見ているという。それは、朝の景色に似ている。大人になれば、黄色い景色。そして年老いた時には、夕暮れ時のようにやや赤みがかった景色を見るという。水晶体の成長と衰えの関係でそうなるという。実際にわれわれがそれを感じることは、ないだろう。しかし、人は成長に合わせて、見える景色にそれぞれの色をつけてしまうのだ。
「なにも覚えてないのかい、ミズ・カズミ?」
「うそ…まったくわからないわ。私が悟くんを殺したですって?」
大きなため息をついて隆次が言う。
「和美、本当になにも覚えてないのか? いったいどこまでなら覚えてるんだ」
「本当に私は悟くんを殺したの? どうして? 今悟くんはどこにいるのよ? この部屋にはいないわね。どこ? トイレにでも行ってるの?」
「和美! …悟は今、病院の霊安室で安らかに眠ってるさ…」
和美にはなにも信じられなかった。ただ、空の青さが気になるばかりで。
大声を出しそうになる隆次を制し、スチュアート教授は言う。
「ミズ・カズミ、なにも驚かなくていい。あなたが悟くんをどうしたかなんて、あなたは考えなくてもいい。だからゆっくりと、そうだな、昨日この研究室に3人で来たところから今までのことを思い出して、話してごらん」
「大丈夫だよ、和美。もうおれたちはすでに普通じゃない状況に放り出されちまってる。何が起こったって驚かないさ。知り合ったばかりとはいえ、ついさっきまで生きてたやつが血まみれで倒れてるのに冷静でいられた自分には驚いたけどね」
「昨日から…」
和美は目を閉じ、思いを巡らせた。
「スチュアート教授は私の、もぐら人間の記憶は夢かもと言って、クローンかもとも言って、私は喫茶店の夢を見て、私は何がなんだかわからなくなって、そのまま眠ってしまったんだと思う。気がついたら、ホテルのベッドの上にいたわ。隆次と悟君が私のベッドに2人で腰掛けて話しこんでた。私はずっとぼんやりして、何を話してるのかはよく聞き取れなかった。でも、たしかテレビがつけっぱなしで、そこでクロサワ映画が流れてた…」
「ちょっと待った、和美。君を部屋に連れていってすぐ、おれたちはロビーで話してたんだ。そこから君の記憶が…」
スチュアート教授が手をかざし、静かにするように合図した。
「しばらくしたら隆次くんが、煙草を買いに行くといって出て行ったわ。そして…悟くんが…」
和美の表情が曇ったのを見て、教授が言う。
「ミズ・カズミ、いい、そこまででいいよ。そしてあなたは悟くんを刺してしまったんだね?」
和美はそっと目を開け、隆次の顔を探した。まるで、生まれたばかりの子どもが親の姿を探すように。
「悟くんを刺したのは、残念ながらあなたであるとしか考えられない。隆次くんが見つけた時、悟くんはすでに刺された後でもう意識はなく、あなたはベッドの上で眠っていた。悟くんが病院に運ばれる時も、決して目を覚まさなかった。隆次くんから連絡を受けて、私はとても驚いたよ。警察には私のほうから、申し訳ないがミズ・カズミは重度の精神障害者だと偽って、そしてこの事件には重大な背景があるからしばらくあなたに直接の捜査はしないことと、厳重な報道管制をしいてもらうことにしたよ」
「深夜だったから、ホテルのほかの客にはばれないようにできた。真っ先に教授に連絡したのは正解だったな。直接警察に連絡してたらかなりの大事になってたはずだよ」
「ミズ・カズミ、そしてあなたは隆次くんに運ばれてここへ来た。そして今の今まで、ずっと眠り続けていた。」
朝の青さが、正午の白い光に染められていこうとしていた。
「その間に、隆次くんから事の成り行きを聞かせてもらったよ。あなたの記憶とは違うところがあるかもしれないが、もう一度隆次くんから話してもらうね」
隆次は、穏やかな声で、しかし、まくし立てるような調子で話し始めた。和美はこの研究室からホテルまでずっと眠っていたと言うが、起きあがって自分の足で歩いたことは教授も見ていたということ、つまらないことかもしれないが、タクシーの中で和美が、いつもとは少し違う大人びた口調で話をしていたこと。和美が一人にしてほしいと言うから、そして悟も、隆次だけに話したいことがあるとこっそり言うからロビーに向かったこと。そして、悟は自分の所属する教団について少し話し始めたこと…
「やつは、結局教団名は教えてくれなかったな」
その話は、和美が見た夢とほぼ同じだったこと、そして悟は、和美にも話しておきたいことがあると言うので部屋に戻り、隆次は二人を置いて部屋の中のバスルームに向かったこと。そして、2人の会話がおぼろげに聞こえてきたこと。
「和美、あの時聞こえてきたお前の声は、おれがよく知っているお前の声とはどこか違っていたような気がする。お前の声なんだけど、他人の声のような…」
「きっとシャワーの音にかき消されてよく聞こえなかっただけだわ。でも、私、そんなことは覚えてない」
「いや、おれは狭いバスタブに強引に水を張ってつかってたんだ。ガラス越しで音の質は多少変わるけど、他人の声と間違えたりはしないさ。ましてや、和美の声を聞き間違うなんて」
スチュアート教授は宙をにらんでいた。
「あの時の和美の声が、『もうひとりの和美』だといわれたら、とても納得がいくんだよ」
和美は驚きの表情を隠せなかった。
「私、なにもしゃべってないったら。私、ずっと眠ってたのよ」
「いや、確かにお前は起きていた。しかも、笑っていたよ。悟と、とても楽しそうに話していた。まるで幼なじみみたいにね」
「そうよ、私と悟くんは幼なじみなんだもの」
スチュアート教授は和美の顔を見つめ、そして隆次の顔を見つめ、両手で顔を覆った。
「和美、ロビーで、お前と悟は幼なじみなんかじゃないって聞かされたよ……」
和美は強い視線で隆次を見た。もう、驚きの色はなかった。
「隆次くん、それは本当なの? 本当に悟くんは、そう言ったの?」
今までの和美とは少し違った、やけに大人びた口調だった。
「本当だ。だからおれは、悟が和美に話したいことってのはそれだと思ってた。だから、和美が笑ってたのは何か変な感じだったよ。もうすぐとんでもないことを知らされるんだなって思うとね。驚く和美の声をききたくなかったからおれは、シャワーを浴びることにした。そして、和美が少し大きな声で何かを言うのを聞いたんだ。そのときは何を言ってるのかはっきりと聞こえなかった。でも、今考えればわかるような気がするんだ。お前はたぶん、『あなたの知っていることを早くすべて和美に知らせて、彼女を真実に近づけなさい』と言ったんだろう」
もうすぐ、正午の鐘が鳴る。人が死んだ話をするには、あまりにも穏やかな時間。
「そして少し間を置いて、こうも言った。『お前さえ死んでしまえば、すべてがうまくいくんだ』ってね。こっちのほうははっきりと聞こえた。おれは、和美が夢の中の河原で会ったもうひとりの和美の言葉を繰り返してるんだと思ったんだ。でも、それからさらにしばらくしてバスルームから出てみると、悟はすでに刺されていた」
「というわけだ、和美さん。あなたはこのことについて、何も覚えていないんだね?」
「ええ、覚えていません」
「そうか。私は昨日、あなたが、誰かから記憶を受けついだクローンかもしれないと言ったが、もしそうでないとしても、あなたの中にはどうやら複数の人格が存在しているようだ」
「多重人格、ですか?」
「そう。一般的にはそう呼ばれている。しかし、あなたの場合は非常に特殊だ。ふたつの人格があるだけでなく、違う能力を持った別人があなたの中に存在しているかもしれない」
まさか、そうつぶやいて和美はうつむく。隆次は、黙って床の上の埃を見つめていた。
「一番はっきりしているのは、あなたの語学力だ」
和美は、冷たい汗が背中を流れるのを感じた。隆次は動かない。
「今日は、悟くんという通訳はいないんだよ。ミズ・カズミ、昨日は、そんなに流暢に英語を話していたかい? よく考えるんだ。いま、いくつかの可能性がある。あなたが一般的な多重人格者かどうかがひとつ。しかし、そう考えるだけでは不充分な事実が多すぎるんだよ。これは、昨日と同じくあくまでも仮定の話なんだが、もし、あなたが何者かから記憶を受け継いでているとしたら、つじつまが合うこともある。あなたは自分でも知らないことを夢に見るし、現実に英語を話すこともできる。そして昨日隆次くんが聞いたことが間違っていなければ、あなたの中のもうひとつの人格は、悟くんについてあなたの知らないことを知っているかもしれない…」
「私が、悟くんについて…」
幼なじみの悟を思い出してみる。記憶はあいまいだが、幼いころの記憶なんて、往々にしてそうなのだろうと思っていた。
「ところで…」
スチュアート教授はデスクの一番上の引出しを開け、写真を取り出した。
「これは昨日、すでに見せた写真だ。ほら、この右側の女の子をよく見てごらん。どこかで見たことはないかい?」
隆次と和美は写真を覗きこむ。昨日と変わらない写真。とくに誰に似ているということも感じない。
「そうか、やっぱりわからないか。しかし、それも無理はない。だが、悟くんには口止めされていたんだが、亡くなった以上、あなたたちに教えておかねばならないと思う。この女の子は、悟くんのおばあさんなんだよ」
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