「……おい、和美! 和美ってば!」
隆次は、気を失った和美の肩を抱き、激しく揺さぶった。
「…ああ… ううん…」
和美はゆっくりと目を開ける。虚ろな視界の中、頬が触れ合うくらい近くに隆次の顔。それと向かい合って、真剣な目をした冷静な悟。そして頭上には、灰色の空に縁取られた、心配そうな顔をしたスチュアート教授が見えた。
「大丈夫かね…ミズ・カズミ。そんなに驚かせてしまうとは申し訳ない。心からお詫びするよ」
教授は、右手で左胸に軽く触れてそう言った。そして悟が優しく言う。
「和美ちゃん、大丈夫だよ。スチュアート教授はあくまでも可能性の話をしてらっしゃるんだ。君がクローンかどうかなんて、まだわからないんだ。でも、記憶に異常が起きてるってことは、どうやら認めざるをえないらしい。どうして、お母さんの記憶がないんだい? そういえばお母さんの話なんて全く聞いたことがないけど、記憶がないなんてことはないだろう? 突然とんでもないことを言われて、頭が真っ白になってるだけなんだよ。ほら、ゆっくりと、思い出してごらん… 」
焦点の合わない目をして虚ろに聞いていた和美は突如大きく目を見開き、何かに取り付かれたように叫ぶ。
「…ロスリン研究所は違うわ! 早く! 早く日本に帰らなきゃ! 早くもぐら人間の正体を確かめなきゃ、私、自分が誰なのかわからなくなっちゃうわ! 早く! 早くかまきり人間も追いかけなきゃ!」
悟の眉がぴくりと動いた。悟と隆次、そしてスチュアート教授は交互に顔を見合わす。
「な、何を言ってるんだ、和美」
突然の和美の言動に動揺を隠しきれず、隆次は言う。
「スチュアート教授は、とにかくロスリン研究所にあたって見ろとおっしゃってる。研究者と直接話ができるように連絡しておくことができるかもともね。ロスリンには、これから行くんじゃないか。教授にクローンかもなんて言われて、それを否定したい気持ちもよくわかる。でも、可能性としてある以上、ひとつひとつ確かめていくしかないだろう?」
「どうして? どうしてまたロスリンに行かなきゃいけないのよ。門前払いされたじゃない。暗い変な喫茶店でかまきり人間が日本に帰れと言ったじゃない!」
「いったいどうしちまったんだ和美ちゃん。何を言ってるんだよ。君は教授の言葉を聞いてほんの少し気絶してただけなんだよ。ここはエジンバラ。エジンバラ大学の、スチュアート教授の研究室だ。ロスリンじゃないよ。またかまきり人間の夢を見たのかい?」
「和美、冷静になるんだ。落ち着いて、ゆっくりと考えてごらん」
和美はすごい勢いで上半身を起こし、隆次の胸ぐらをつかんだ。
「どうして 隆次? あなたも、私がクローンだなんて言うの? 私は私じゃないの? ねえ… ねえ!」
こんなにも取り乱す和美を隆次は、そして長い付き合いの悟でさえ見たことはなかった。2人は恐怖心さえ感じていた。
「ねえ! 早く日本に帰りましょう! 私が育ったあの町のあの火葬場を、私と一緒にもう一度探してよ! 早く! 早く!」
スチュアート教授は、じっと和美を見ていた。
「どうしたって言うんだ、和美! しっかりしてくれ!」
隆次は和美の手を振り払い、強く頬を打った。スチュアート教授はあわててそれを制し、そして言った。
「ミズ・カズミ、落ち着いて目を閉じてごらん。ほら、ここは、君がかまきり人間と話していた暗い喫茶店だよ」
「… 教授… 」
悟は教授の目を見た。大丈夫、まかせなさい、とにかく和美さんの話を聞くんだ、教授の目はそう語っていた。
「かまきり人間は、日本に帰れと言ったんだね。もう帰ってしまうのかい? いったいどうして? せっかく日本からはるばるここまで来たのに、私に会っただけで帰ってしまうのかい?」
和美は目を閉じ、荒れる息をおさえ、そっちこそ何を言ってるんだという素振りで答える。
「かまきり人間は、自分で自分のことをそうは呼ばなかったわ。ただ、日本にいるもぐら人間が自分のことをそう呼んでいたとだけ」
「じゃあ、和美さんが話をしていたのは、本当にかまきり人間かどうかはわからないんだね」
「そうよ。でも、確かにこう言ったわ。自分は昔、日本で病院に勤めていた。スチュアート教授が見せてくれた写真の女の子は30年前に教授の先生のところに来て、私と同じ記憶の話をした。そしてその直後に日本で、交通事故で亡くなって、かまきり人間は、助かるかも知れなったその女の子の命を見捨て、もぐら人間に体の一部を売り渡したって。そして… 」
低くうなるような声で、和美は続ける。目を閉じたままで。ときどき言葉に詰まると、大丈夫、まだ紅茶は冷めてないよ、と教授は言った。
少しずつ、和美の声に嗚咽が混じっていった。閉じたまぶたから、涙がこぼれていった。そして和美は話しつづけた。かまきり人間が足早に去って行ったこと。日本に帰れとはっきりは言わなかったが日本に帰って詳しく調べなおしなさいというようなことを言ったこと。悟が、かまきり人間の言うことを疑ったこと。テロメア染色体のこと。外国の軍隊が関わっているんじゃないかと言ったこと。
「あたしって… いったい誰なの? あたし…とんでもないことに巻きこまれちゃった… 生まれた時からこうなる運命だったのかしら。あたしの子供の頃の記憶、本当に間違ってるの? 早く、あの火葬場に連れてって…」
和美は泣いていた。そして目を開けることなく、ゆっくりとまどろみの中へ溶けて行った。
やわらかいソファーでもあればいいんだがね、教授はそう言って、和美を自分のデスクの椅子に座らせて、上着をかけた。
「車を呼んであげるから、今日はもう帰りなさい。隆次君、今夜は暖かくして、和美さんを守ってあげるんだよ。私は心理学者だから、軍隊の機密事項についてはそんなに詳しいわけじゃない。そのことは悟君、君の方が詳しいね」
「はい、教授… いま和美ちゃんが言ったこと、ほぼ間違いはありません。もちろん実際のところはわかりませんが、クローン技術などに関して軍隊が疑われているというのは事実です。でも、和美ちゃんがそんな話をするなんて… 今までそんな話、彼女の口から聞いたことがありません。しかもこんなに詳しく… 教授、人は、自分の知らない事実に関して詳細な夢を見ることなどありえるんでしょうか… 」
教授は灰色の空を見上げ、頭を振った。
「和美さんが、悟君が言ったと言っていた、網膜が記憶を持つという説があるのも本当だ。網膜だけでなく、体中すべての細胞の中にある遺伝子にも記憶が残されているのではないかとね。だから、親から遺伝子を分けてもらう我々は、親の特徴だけでなく、記憶までもを受け継いでいると」
和美のそばに寄り添っていた隆次も、教授を見つめて言う。
「ならば、もし、クローン技術を研究していた科学者や軍隊の関係者から、和美が遺伝子を受け継いでいるとすれば… 」
「ミズ・カズミがそれについて知っているということも、ありえなくはない。しかし、すべては仮説の上に成り立つ論理だ… でもたしかに、この写真の親子が私の恩師のところへ来たというのは間違っていない」
悟はかっと目を見開いた。
「では、その女の子の遺体が何者かの手に渡ったというのも事実であるということは… 」
「ありえなくはない。私にはそうとしか言えないよ。誰かが、和美さんがこれ以上真実に近づくことを阻止しようとしていることも、あるいは事実かもしれない。どこまでが本当なのかはわからない。では、悟君、君が入信している宗教団体がそのような研究にかかわっているという事は… 」
隆次はもう一度、和美の頬に目を落とした。美しい皮膚の上を、またひとつ、光る雫が流れていった。
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