そして和美は突発的な気絶の中で、また、夢を見ていた。
見覚えのある火葬場近く、川沿いの風景。ここで、和美はもうひとりの和美と対面した。しかし、和美の着ているものは、大学に入ってすぐ百貨店で買ったお気に入りの服。二十歳間近に、恋焦がれる隆次と会う時に来ようと思っていたお気に入りの服。腕には大きなばんそうこう。これも二十歳間近に、親友の京子からもらうはずのもの。この夢は、あくまでも夢であり、和美が幼い頃に体験した実際の出来事ではないはずだった。そして和美は言う。
「大丈夫よ、和美。私が死んでも、きっとあなたは死なないわ。私にはやらなきゃならないことがたくさん。それはすべてあなたのためであり、私のためではないの」
和美は言う。「本当の和美」に対して言う。
「私のことを、「もうひとりの和美」だなんて言わないでね。隆次君が勝手にそう言ってるだけよ。あなたと私は別人。安心してね。」
和美は、自分の背中を冷たい汗が流れるのを感じていた。なぜ? 私が今話しかけている相手は、私自身。ということは、この私は、もう一人の和美になってるってことなの? 話し続けることをやめようとしても、勝手に口が動く。免れることのできない、強大なちからが和美を突き動かす。
「さあ、早く! ロスリン研究所に行きなさい! 早く行くのよ! 私とあなたがクローンなんかじゃないってことに、一刻も早く気付きなさい! そして、そして…、早く私を助けてちょうだい!」
ロスリン研究所には、スチュアート教授があらかじめ連絡をいれておいてくれた。しかし、質問するべき内容は、限りなく高等な機密事項と関わっている。
「とにかく君たちに所在地を教えて、私からも連絡をいれておくが、実際に話が出来るかどうか、それは保証できないぞ…」
灰色の窓の下で、教授は言った。
「……おい、どうした、大丈夫か、和美?」
和美の顔を覗きこみ、隆次が言う。
「…うん、大丈夫…ええっ…ここはどこ?」
3人は、薄暗い喫茶店にいた。客はまばらにほんのわずか。この場所に店を出しても決してはやることはないのだろう。店内を見渡すと、壁には昔杭を打ちこんだらしい穴があき、天井は喫茶店らしからぬプロペラが回り、いたるところに歴代の店の面影を残している。
「私たち…いつの間にこんなところに来たんだろう…」
いぶかしげな顔で悟は言う。
「なに言ってるんだ、和美。さっきまで君もちゃんとしゃべってたじゃないか」
和美は、ほんの数分前の記憶をたどる。そうだ、たしかに、私は自分の足でこの場所に来た。壁には誰が書いたのかわからない抽象画、テーブルの上には冷めた紅茶。そして目の前には、目をらんらんと輝かせ、和美のことを詳しく知りたがる男がいる。和美はその男に、スチュアート教授に言ったことと同じことを繰り返した。奇妙な夢のこと、火葬場のこと、そして、もぐら人間のこと。
やはり、ロスリン研究所には取り合ってもらえなかった。スチュアート教授の権威をもってしても。その代わり、なにか手がかりを持っているだろうと、あるひとりの男を紹介された。
男は、あの「和服の和美」にあったことがあるという。そしてその男は、こう言った。
「和美さん。わたしはあなたのことを詳しく知りたいと思っている。でも、それはできないんだ。こうしてこんなさびれた店で会ってもらうことにしたのも、わたしがあの男につかまることを恐れているからだ」
男は矢継ぎ早にまくしたてる。
「もっと話をしたいが、わたしは今でも誰かに狙われているような気がするんだよ。本当にすまないが、手短に切り上げたい。わたしが知っていて、気になることだけを伝えておく。まず、ロスリン研究所が和美さんと関わっているという点。それは、決してないと断言しよう。あなた方がわたしを信じるかどうかは別としてね。あの研究所がドーリーを作ったと発表したのは、1997年の2月だ。英国科学雑誌「Nature」に掲載されたね。ロスリンがやらなくても、時間の問題で他の研究所がクローン技術を完成させていただろう。一刻も早く特許を取るべきだから、和美さんが生まれた20年前にすでにクローンを作れたという事はないはず。なによりも、研究所だって生き残らなければならないんだ。こういう倫理感に関わる研究を成功させていたのに隠していたことがばれてしまったら、研究所自体の存続も危うくなる」
男はポケットから煙草を出して不器用に火をつけ、灰皿に置くと言った。
「いいかい、ここに置いたこのタバコが燃え尽きる頃には店を出よう。もうひとつだけしないといけない話があるがね。あの和服の、あなたによく似た女性はちょうど30年前、スチュアート教授の恩師のところへやってきた。そして、奇妙な夢と記憶について話した。和美さんが今言っているのととてもよく似たね。その頃わたしは、日本のある病院に勤めていた。そして日本に帰って来てすぐ、彼女の2人の娘が交通事故に遭い、わたしのもとに運ばれてきたんだ。その和服女性のことは後でスチュアート教授から聞いたよ。ひょんなことからイギリスに行ってたことを知ったからね。実はあの娘たち、本当なら助からなくもない怪我だったんだ。とても重い後遺症は避けられないが、一命を取りとめることは、できなくはない相談だった。しかし、わたしは彼女達を殺してしまった。その以前からある男に、一卵性双生児の献体があれば譲ってくれと言われていた。彼女達が一卵性かどうかはわからなかったが莫大な礼金を提示され、違法行為と知りながら、民間団体のその男に譲ったんだ。それから彼女達の臓器がどうなったのかはわからない。その男にあたってみればいいといいたいところだが、残念ながらそれはできない。その男は日本の、ある田舎町の火葬場近くの川沿いで死んだ。最期は乞食のような生活をしていたと聞く…」
「もぐら…人間…?」
和美は青ざめて呟く。
「和美さんの言うもぐら人間がその男かどうかはわからない。だいいち、町を出る直前にその火葬場を探したら見つからなかったと言ったね? おかしくはないか? いくらなんでも、毎日のように通った場所を忘れてしまうことはないだろう。そこへ行く道すら見付けられなかったと言うが、もぐら人間が死んでからわずか5年でそこまで風景が変わるとは思えない。スチュアート教授は、和美さんの記憶が現実のものか疑わしいと言ったんだね。わたしは心理学的なことはわからないが、そんなわたしが聞いても疑わしいと思ってしまうよ。その夢については、もう少し踏み込んで調べたほうがよさそうだね」
限りなく純白に近い煙草の灰が音もなく崩れる。
「その男の所属していた民間団体はその後、宗教法人化した。今でも存続しているはずだ」
そして男は、その宗教団体の名を口にした。それを聞いて悟は、うめくように呟く。
「…そうか、やっぱりそうだったのか…」
「なんのことだ、悟! その宗教を知ってるのか?」
恐れおののきながら隆次が言う。
「ああ、とてもよく知ってるさ、隆次。それは今、おれが所属している団体だからな」
テーブルの周りを、煙草のフィルターのこげるにおいが取り巻く。
「もう行かなくては。とにかくその団体にあたってみれば何かわかるかもしれない」
男は、そう言いながらもう席を立っている。そして和美を見据えて言った。
「その男はたしかに、自分のことをもぐら人間と呼ぶことがあった。詳しくは知らないが、人知れず危険な研究をしているとか。そしてわたしのことを、かまきり人間と呼ぶことがあった。助かるはずの命を見殺しにした、死神の使いになぞらえてね。かまきりとは、きっと死神が持っている大きな鎌のことだろう」
男は悟と隆次の顔をゆっくりと見つめ、和美に顔を近づけた。
「だが、わたしは死人の目玉をくりぬいたりはしない。そこまで残酷なことは…」
そう言って、出口へと向かう。そしてドアを開けたところで振り返り、和美たちのところへかろうじて届くくらいの声でこう言った。
「…しかし、その男が死んだのは10年と少し前だ。和美さん、あなたの記憶とずれているね…」
男は歩き出す。フィルターがこげる不愉快なにおいは、まだそこら中に残されていた。
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