RAMP第3順その3

 離陸までにはまだもう少し。2人は、いま自分たちに起こっていることをぼんやりと考えていた。隆次が見たもうひとりの和美、和美が見たもうひとりの和美。もうひとりの和美。もうひとりの和美。
 あの女は、本当に「もうひとりの和美」なのだろうか。和美とあの女はとてもよく似ている。和美本人でさえ、あの女が自分自身であると信じつつある。しかし、何かが違うような気がする。隆次は、あの女の顔を思い起こす。和美にとてもよく似ている。しかし、和美でないといえば、そうではないような気がする。ただ似ているだけといえば、そのような気が。似すぎている双子だといわれれば、信じるに十分なものがあるような気がする。
 現実感がない。この事態は、現実感がない。まるで夢のようだ。悪い夢のようだ。

「なあ、和美…」
 隆次が言う。そして笑う。
「おまえは、和美だよな?」
 前のシートにはポケットがついていて、気分が悪くなった時に嘔吐するための袋がある。救命胴衣の使用説明書がある。和美はそれを手に取り、ぼんやりと見ていた。そして言う。
「そうよ…わたしは、和美」
 空港ビルから直接飛行機に乗り込める。飛行機に乗るのは初めての和美、昔ドラマで見た、背中に大きな階段をつけた車を使って乗り込むことを期待していた。あれ、もう飛行機の中? いつのまにか来ちゃったのね、和美は言った。いつのまにか、わたしももうすぐ二十歳なのね。二十歳のわたしって、今のわたしとどれくらい変わっちゃうのかな…
「そうよ…わたしは、和美」
 乗客が次々と乗り込んでくる。スチュワーデスが座席を見まわしながら行き来する。
「京子ってね、色盲だって話はしたかしら? 色盲っていうか、色によっては区別ができないことがあるんだって」
 隆次は、隣りに座る和美を見ていた。耳にかけた髪から後れ毛が出ている。和美が顔を揺らすたび、やわらかくきゃしゃに揺れる。和美のものはすべて、和美自信を表しているはず。後れ毛がか弱ければ和美はか弱く、瞳が輝けば和美は輝き、足を組みかえれば和美は心を変える。
「特に、赤と黒の区別がつかないんだって」
 飛行機が、ゆっくりと動き出す。地面をゆっくりと、ゆっくりと走り、滑走路のスタート地点まで行く。地面を走る飛行機って、なんかまぬけだよな。隆次は言う。
「京子、スペイン語の授業とってるでしょう? なんだったかな、はっきりとは忘れちゃったんだけど、いつかあの子、赤い靴下を履いてたことがあってね」
 シートベルトを締めてください。煙草を吸わないで下さい。飛行機がどこを飛んでいるか常に示すスクリーンの上、それぞれの座席の上の、手元を照らすライトと送風口の横、小さなランプがそれを知らせる。同時に、アナウンスが流れる。はじめに、日本語で。そして、英語で。さらに、フランス語で。
「その時は色の単語についての授業だったらしいけど、先生に京子、あなたのくつしたはなに色ですかって聞かれたの」
 激しく往来していたスチュワーデスの姿が消える。乗客のさざめきも、消える。
「赤いくつしたなのに京子、自分では灰色だと思ってたらしいのね。だから灰色ですって言おうとしたの」
 地面、遠いんだな…隆次がつぶやく。
「でも、スペイン語で灰色って言葉、他のぜんぜん関係ない単語とすごく似てて、そっちのほうを言っちゃったのよ」
 にわかにエンジンの音が高まる。一気に最大出力まで上がる。
「あなたは何月生まれですかって聞かれて、おなかいっぱいですって言うようなものよ。おかしいったらありゃしない」
 エンジンの音にすべてがかき消される。なにも聞こえない。なにも聞こえない。和美は話を続けようとした。でも、あきらめてしまった。
「…あなたが見ているわたしと、わたしが見ているわたし、そして、あなたのわたしが見ているわたしって、同じなのかしらね…」
 隆次の耳には、この大音響の中でも和美の声が届いていた。しかし、おとの壁をぬって突き刺さるその声は、和美の耳にも届いていた。
「きっと同じだよ!」
 隆次が叫ぶ。
「なんのことよ! わたしはなんにも言ってないわ!」
 そして、二人は空を飛んだ。

 離陸してすぐ、またスチュワーデスがあわただしくかけまわる。そして二人の元へきて尋ねた。
「コーヒーと紅茶、どちらになさいますか?」
 2人とも紅茶にしてもらった。なにかとんでもないことが明らかになる直前だ。このままエジンバラに行き、マーティン・スチュアート教授に会う。あらかじめ連絡は入れていない。会ってもらえるだろうか。そして、すべてを明らかにし、2人を安息の日々へと導いてくれるだろうか。しかし、もうひとりの和美の正体が仮にわかったとしても、もしそれが、どうしても手がつけれないものだったら…? 不治の病を宣告されるのと同じだったら…? 和美は、最悪の事態に備え、最悪の心の準備をしていた。最悪の状況には、最悪の想像をする。そうすれば、どんな結果になっても喜べる。こればっかりは、黙って夜明けを待つわけには行かない。紅茶を飲み干し、浅い眠りについた。

 これはきっと、夢の中なのだろう。和美が生まれ育った家、辺りは田んぼに囲まれ、近くに大きな川が流れている。母がよく言っていた。昔、大雨が降ったときは、この家のすぐそばまでいつも水がきてたんよ。あそこに大きなコンクリートの橋があるでしょう、お母さんが高校生の頃、大雨であの橋が流されてしまったの。その時はまだ、この辺にはあの橋しかなくて、2時間も遠回りして帰ってきたわ。
 川沿いにその遠回りの道を行くと、山の中に入る。大きな川のすぐ横に、切り立った崖があるところがある。幼い和美は、飼っていた犬と遊んでいる。あそこには絶対行っちゃだめよ、大人達から常々言われていたその場所には、火葬場があった。しかし、和美は散歩に出かける時、必ずその近くまで行き、火葬場の主と話をした。
 火葬場の主とは、役場の火葬係の者ではない。ずっと昔から、ずっとそこで寝泊りしている浮浪者だった。どうしてこんな田舎町で浮浪者をしているのか、誰も理解できなかった。いったい何を食べて生きているのかも。がりがりにやせた中年のその男は、和美が帰っていくとき、いつも言っていた。
「かっちゃんや、かまきり人間には、よおく気ぃつけなさいな。めん玉くりぬかれるでなあ。このもぐら人間のわしでさえ、勝てんのやぁ…ほんで、かっちゃんや、影法師の神さんには、よぉく感謝するんやでぇ。影法師の神さんがおらんかったら、かっちゃんも、わしらも、みんなみんな、死んでしまうんやなぁ…」
 その男は、こうも言っていた。誰かが死んでこの火葬場にくる時、男はいつも、川のほとりの下りていく。そして、人が焼かれる煙をずっと見ていると。その煙の色と形で、その死者が天国に行ったか地獄に行ったかがわかると。そして、時として、次に誰が死ぬのかもわかってしまうと。
 和美が13歳になった時、その男はその川のほとりで、なにかに祈りをささげるような格好で死んでいた。最初に見つけたのは和美だった。
 和美は遠くから見る。高く切り立った崖のそば、鋭く折れ曲がった大きな川の川原には、大きな石ばかりがあった。死体を見つめながら近づいていく。足を踏み外し、転ぶ。体が大きく揺れる。世界が揺れる。心が揺れる。
 小さく声を掛ける。返事はない。
 さらに近づいていく。彼がすでに死んでいることに気付く。そして幼い和美は走り出す。そしてまた足を踏み外し、激しく倒れる。腕にけがをした。血がにじみ出ている。その傷には、京子にもらった大きなばんそうこうが貼ってある。和美は、明日着るつもりでいたお気に入りの服を着ている。地が止まらない。大きなばんそうこうは、真っ赤な血に染まっていく。振り返れば、もうひとりの和美が笑っている。大人になった和美。大きな声を立てて笑う。しかし、何も聞こえない。何も見えない。何も感じない。静かに口を開き、もうひとりの和美が言う。小さな口で言う。金切り声で言う。泣き叫ぶように言う。
「わたしも、和美なのよ。あなたも、和美なのよ。そう、イギリスに行くのね。私の正体が知りたいのね。でもきっと、あなたにはなんにもわからないわ。有名な教授に聞いたって、わたしとあなたが誰なのか、なんにもわからないわ。あなたが死ねば、わたしも死ぬの。でも、わたしが死んでも、あなたはきっと死なないわ。もう少しだけ自由にさせてくれない? わたしにはやりたいことがいっぱいありすぎるのよ。それは紛れもなくあなたのためであり、決してわたしのためではないの。でも、もしあなたが本気で、わたしのことを知りたいなら、残念だけれど、あなたには死んでもらうしかないわ。そしてわたしも死ぬの。わたしにはやらなければならないことがいっぱい。でも、あなたがわたしのことを知ってしまうのなら、あなたもわたしも、今すぐに死んでしまったほうがいいわ」
 和美は立ち尽くす。立ち尽くしたまま、景色が動いていく。幼い和美は、もぐら人間にものすごい速さで近づいていく。そして、衝突する。
 和美は空を飛ぶ。体が大きく揺れる。地面が揺れる。何もかもが揺れる。時代が揺れる。そして、飛行機は揺れ続ける。激しい揺れ。乱気流などの非ではなかった。

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