3章 終焉の送り火──Old tale.


「…ラヴェ、リス……あんた、今、なんていった……? 」
 問い返す声がまるで自分のものではないようだとシリュースは思う。内側から凍えていくかのように、寒い。唇が乾いて震えるのが解った。
「言葉通りの意味だ。最も結果が必ずしもそうなるとは限らないがな。だが、この言葉が一番、わたしの望みに近いと思う」
 動揺するシリュースとは裏腹に、ラヴェリスは少なくとも表面上は何ひとつの揺れもなく落ち着き払っていた。最初から、十年前のあの日か
らそう願っていたのだとしたら、確かにそう静かなのも解る。だが、シリュースの気持ちはそんなラヴェリスの態度に却って煽られ、頭の中がぐ
ちゃぐちゃだった。
「もっと解る様に言えよ! この宝石であんたを殺せってどういうことだ!?」
 抑えることも出来ず、感情的な叫びが、つい咽喉元から溢れ出す。
「……わたしを縛るこの忌まわしい枷を、ルナグラスを、焼き払って欲しいのだ」
「え……?」
 話すラヴェリスの声は静かだ。だが、其処に何もないのではない。抑えるよりももっと深く、沈みこんだ悲しみと痛み。消しようのない翳り。
激情に駆られかけたシリュースを、気付いて一瞬正気に返らせたほどにそれは果てがないくらい長いときをかけて積み重ねられた思いだっ
た。ラヴェリスはその静謐を面にも浮かべながら、微かに微笑むと語りを続けた。
「その、<星辰の焔>が砕かれた時に現出するのは太古の聖なる青白の焔。始源の力を秘めた純粋な炎の精髄だ。それだけが、世界で唯
一、苗床を得たルナグラスを消し去る事の出切るものなのだよ。身体のほぼ全ての器官をルナグラスに侵されたわたしにしてみれば…それ
は死と同義だが、千年もの間、それだけがわたしのただひとつ望みだった。ルナグラスから、自由になること」
 指一本動かす事もできないのだと以前、彼が自嘲気味に告げた事を思い出す。
「礼はしよう。以前話したこの世で最も美しいもののひとつが見られるぞ。それはルナグラスを燃やす<星辰の焔>の火だ。虹よりも多くの色
を含んだ、言葉で表すのが難しいほど綺麗な現象だよ。……それにな、燃え尽きたルナグラスは、至高の宝を灰の中に残す。その珠は、あら
ゆる願いを叶える神の力を秘めている。それを、お前の村を救う助けとするといい」
 そう、あっさりと思えるほどにさらりと言いのけてしまうラヴェリスが、シリュースにはどうしようもなく切ない。
「礼とかそういう問題じゃねぇ! 俺に、あんたを殺せるわけがないだろう? 始めて逢った時に頼まれたってできたかわからねぇ。それをよ、この
10年間、俺はあんたと過ごしてきたんだぜ。あんたのこと……兄貴みたいだとか、親友だって思ってるんだ。それを、この手で……」
 また、声を荒げてしまいそうになりながら言い募って、涙が出そうだった。そんな友に、とても嬉しそうにラヴェリスは瞳を細める。だが、謝辞
の言葉を紡いでいても彼の意思は翻らない。
「ありがとう……シリュース。だが、今のわたしはな、生きているのではない。生かされているのだよ、この花に。生きた魔力を吸わねば生き
ては行けない脆い脆いルナグラスは、一度苗床として捕らえた生物を殺さぬよう、不老不死を与える。いい笑い種だろう? 歩く事は愚か、指
先すら自由にならない状態で、老いる事も朽ちる事もない永遠など。終わらない永久の牢獄、鳥籠の生にいったい何の意味があるだろう? お
前を困らせる我侭は、これで終いだ。──わたしを、そろそろ自由にしてくれ」
 疲れたようにかすれた声が語るのはひどく残酷な事実だ。かける言葉がなくて苦しい思いを抱えながら、友を改めて見遣り、シリュースは息
を飲んだ。
 ラヴェリスのその白皙の頬を伝う、涙に気付いて。
 自分が彼の前で泣いてしまったことは、恥ずかしいながらも何度かあった。けれど、彼が泣いているのを見たのは、十年のなかでこれが始
めてだった。
「頼む、シリュース。お前以外には頼めないんだ」
 滴り落ちる雫に、ラヴェリスの千年の孤独と苦痛を垣間見た気がして。抗えない。シリュースは、ゆっくりと首を縦に振った。
「…………っ」
 唇をきつく噛み締めるシリュースに、ラヴェリスは涙も乾かぬまま、それでも労わるような柔らかい表情を浮かべて、
「感謝する」
 あやすような優しい声で、そう、言った。

「では、最後に昔語りを聞かせようか。今までで一番、面白くもない話だがな」
 周囲に流れた、沈み込むような空気を払うように、何時ものたわいもない話をするような気安さでラヴェリスは口を開いた。
「何だよ、どんな話だ? 最後まで聞いてやるから、話してみろよ」
 胸の刺すような痛みを堪えて、出来る限り日常に近い言葉を選んで返答する。この場でラヴェリスが紡ぎ始めるのは、恐らく別離の前に意
味を持って語られることであると、そんな気がしたから。
 金色の瞳を伏せて、ラヴェリスはゆっくりと話を始めた。
「昔々の、ことだ──」
 綺麗な声が瓏と流れる。まるで歌うようだと想った。彼の言葉は何時もそう。何時もそうだ。どんな内容を語る時でさえ、ひどくやさしかった。
始めて会った日から、それは少しも変わらない。もう直ぐ別れるという今でさえ。何処かでそのことを寂しく想いながら、シリュースはじっと、彼
の言葉に耳を傾けた。


ある国に一組の兄弟が居た。
ふたりは其の国を治める王の息子で、兄は正妃の生んだ血筋正しき国の後継。弟は王の数多い側室を母に持つ日陰者だった。ようするに、
よくある腹違いの兄弟、という奴だよ。
弟の方はただでさえ身分が低い上に早くに母を無くし、後ろ盾もなく宮廷では孤立していた。
それでも兄は、普通の兄弟とほとんど変わらず弟に接してくれた。優しく笑って、手を引いて、共に遊んでくれた。

二人は仲のよい兄弟だった。
時が流れて、兄が王と成っても。
弟はそんな兄を助けたくて、自分に出来ることをした。
勉学を励み、魔導に学んだ。少しでも兄の役に立ちたい、立てたらと、それだけが願いだった。
弟は兄の為に働く臣の一人となり、望んだ通りに兄の為に働くことが出来るようになった。才があったか、着実に成果を見せた彼は、次第に
権勢の中枢に関わるようになって行った。国王である兄と顔を会わせる事は稀だったけれど、それでも弟にとっては穏やかな日々が続いてい
た。

やがて兄王が、病に倒れるまでは。
それは、薬学と魔法が高度に発達したその国にあってさえ、治る見こみのまるでない原因不明の難病だった。
その頃には高位の役職についていた弟は、病に倒れた兄がこれ以上憂うことがあってはならないと、毎日ひたすらに職務に励んだ。混乱し
掛けた国を鎮め、民を収めることに終始し、和を導く。ともすれば、過ぎても見えるほどに。けれど、弟はそれにも気付かず、それだけが、自分
に出来る唯一のことだと信じていた。
其れが、親王側の不興を駆ったのだろうか。
其の内に無辜の罪で捕われた。謀反を、企んだと。病に伏した兄王を倒し、自らが国の政権を握らんとしていたと。反逆罪は罪の中でも最も
重い。
弟に与えられた罰は、不治の病に犯された兄王を救う事のできる、不老不死の妙薬たる神の花の苗床となることだった。
其の花は今まで幾度も咲かせようと試みられてきたが、その度に苗床として選ばれた人間は花と身体の相性が悪く、花は枯れ、共に死んで
いた。
ルナグラス。その不死の花を植えられることに成った弟は、その前に兄王に目途おった。最後に会った兄は、病み衰えて居ると言うばかりで
なく変わっていた。弟のどんな言葉も聞くことはなく、弟に絶望するような言葉を投げ掛けるばかりだった。
そうして弟は城の地下深く、人の入らない薬草園の最奥へと繋がれた。
植え付けられた不死の花が心臓に根を張り、脳を侵す、その感覚を生きたままで味合わされながら死ぬ事もない。それは正に極刑以上の罰
だった。
いっそ、花と身体が合わずに共に滅びる事ができたならばどれほど楽であったか。けれど、願いは届かず、花はその身体に芽吹き、苗床を
得て咲き誇った。
最も、植えつけた者たちは望んだとおりに花が咲いたのを見るより前に、国を襲った天変地異で粗方洗い流されてしまったのだがな。
栄華を極めた王国も住民も、巻き起こった災禍より逃れる術はなく、皆、死んだ。ただ、地下深くに作り出された庭園だけが残った。不死の花
に埋もれ、囚われたままの弟共に。

それから、訪なうものもないままに月日が流れ、千年経った。
その長い年月の中で、何人かの人間が不死の花の話を聞きつけ、欲に駆られて森を荒らしたが、ほとんどのものは最奥までたどり着けず、
また近くまで来たとしても、庭園の構造を千年の中で握った弟は、けして彼らを中に招くことはなかった。
けれどもそんな折に、ひとりの少年が森に入ってきた。
子供など、見るのは久方ぶりで、興味を引かれた。国が滅んでから初めて、庭園へ人を招こうと思った。
話を聞けば、故郷の村が病に困っているという。
薬草など、弟にとっては必要のないものであったから大切な人を救う為に来たと言う少年にならいくらくれてやっても良いと思い、場所を教え
た。
見返りを求めたわけではなかったが、律儀な少年は恩義の分返してくれるという。
だから弟は、戯れのように少年に願った。昔聞いた、不死の花を唯一滅ぼすことの出来る宝石を捜してきてくれるよう。適うかは解らない。
それでも果てのない生がこのまま続くよりはいくらかましだと思ったのだ。
その少年に悪いと感じながらも。叶うものならと、願わずにはいられなかったのだよ。
弟の誤算は、少年があまりにも優しすぎたことだった。かつての兄王と共に過ごした時間と同じか、それ以上にいとおしい日々を、少年は与
えてくれたのだ。
弟はそのことに感謝すると同時に罪悪感に襲われた。自分の願いが、彼を傷つけはしないかと。
だが何もいえないままに、十年の時は流れ。少年は約束を果たし、弟の願いは叶えられようとしている……。


ごく淡々とした調子で語られる物語。
それ、は。
恐らく今までラヴェリスがけして語る事のなかった彼自身の過去、そして彼自身の想いなのであろう。
「その弟は……もっと、幸せに生きるべきだよ」
 気付けばシリュースはそんな言葉を口に出して言っていた。
「突然、何だ? 話の登場人物に心揺らされるとはお前らしくもない」
 くすりと微苦笑を零すその表情の、瞳だけが泣きそうに優しく複雑な輝きを浮かべていた。
「あんたは──」
「……いいんだ」
口を開きかけたシリュースを、ラヴェリスは声だけで制した。
「これで、いいんだ。これ以上を望むべくもない」
 ラヴェリスは微笑む。ひどく、静かに。
 そこにあるのは諦念にも似た深い疲労と安らぎへの限り無い憧憬だ。
 其の表情を見てしまえば、もうシリュースには何もかける言葉がない。ただ、出来たのはラヴェリスの長年の願いを叶えてやることだけだっ
た。
 手にしていた<星辰の焔>を砕く。すると、石の断面から溢れ出した青白い火花が、まるで引かれるかのようにルナグラスへと降りかかり、
燃え移っていく。それに従い、少しずつ焔は色を変え始めていた。
「ああ、やっと──やっと、終われるのだな……」
 間近に炎が迫るというのに、歓喜と恍惚の入り混じったような、そんな至福の表情を浮かべて、ラヴェリスは吐息を零す。全てを甘受するか
のようにゆるやかに瞼を落とす姿は、譬えようもなく安らかだった。
 意外なほどあっけなく、不死の花は焼け始め。
 それを糧に焔が上がる。
 世界中のどんな炎よりも、美しい焔が。
 赤に、蒼に、翠緑、琥珀、そして紫。言葉に表せぬほど数多の、この世のあらゆる色を取り込んだかのようにして、踊る焔。
 それは確かに、ラヴェリスが以前語ったようにこの世で一番美麗なるもののひとつであるというのに相応しい光景だった。
 言葉もなく、泣きそうな顔で全てを眼に焼き付けているシリュースの前で。
 ルナグラスが、燃えてゆく。
 音もなく、煙もなく。
 ただ、ひどく甘い、芳香を燻らせながら。

「視界が高い……」
 はらはらとルナグラスの花と茎、枝葉が焼け落ち、戒めが解け。
 シリュースは始めて、ラヴェリスが立ちあがるのを見た。
 星辰の焔にその身を焼かれながらも、痛みを感じさせないとてもとても幸せそうな顔で。
「お前の顔が近くにある…思ったよりも大きくなっていたんだな」
 そう口にする間にもじわりと少しずつ、引き攣れるような火傷が、肌を侵食していくが、ラヴェリスにはもうそれが伴う熱や感覚は届いていな
いらしい。
「そんな表情をするな。お前を泣かせたかった訳ではないんだ」
 シリュースの表情を見て、ラヴェリスは困ったように小さく柳眉を寄せて苦笑する。自分を苦しめないために涙だけはじっと堪えて唇を噛んで
いる、悲しげなシリュースの面を見遣りながら 旋律にも似た言の葉を重ねる。それは佇んだ姿勢で見詰めるままのシリュースを、労わるよう
に柔らかく響いた。その優しさが、今は狂おしいほど痛いのに。
「千年間、わたしの世界はこの狭い廃園の中だけだった。シリュース、お前に会うまではな。思えばこの十年が、わたしの長過ぎる命の時に
あって、一番充実した時間だったのかもしれない。お前と過ごして、お前と話せて。たのしかったよ、本当に」
指を伸ばそうとして、其の手が炎に包まれているのを思い出したか、ラヴェリスは上げかけた手を、少し残念そうに、名残惜しげに下ろした。
その代わりのように、また言葉を紡ぐ。
想いを込めて。
人間というのは何時も欲が深いから。
大切な人に伝える言葉は、どんなに考えても、どんなに重ねてもまるで足りない。本当に伝えたいだけの思いに等しくはならない。届かない。
「シリュース、お前に会えてよかった。このことだけは、ルナグラスに感謝してもいいと思っている。十年も、私の独りよがりな我侭に付き合っ
て貰って、すまなかったな。けれど、お前と一緒にいられた時間は、何よりも本当に」
そこまでで限界のようだった。手足の先からさらさらと砂のように崩れ落ちて、形をなくしていく。それでも、微かに残る力で口を動かした。どう
しても言いたかった、感謝の言葉の為に。
たのしかった、ありがとう。
そう唇だけでもう一度形作って。
始めて逢った時と同じ、ひどく綺麗な笑みを浮かべ。
醜く焼き尽くされていくはずなのに、そうあってもなお夢か幻のようにうつくしい青年の姿は、最後に一際鮮やかな金色と化した星焔に飲ま
れ、其の身を包むルナグラスごと完全に灼け落ちた。

「────ッ!!」
声にならない慟哭があがる。
魂が裂かれるような痛みを覚えた気がした。
涙は零れなかった。
凍りついたように膝を着いて、ただ呆然と、ちらちらと金色の炎が収束へ向ってゆくのを見ていることしか出来ない。
頭の中が真っ白だった。自分はどうすれば良かったのか、解らなかった。彼の幸せに笑う顔を見たいと願っていた。
けれど、それは。それは。
こんな形でしか、果たせないものだったのだろうか。
 ほかに何か方法あったのではないか、そう思わずにはいられない。

脳裏に浮かんで消えるのは、ラヴェリスの面影だ。
この廃園で初めて出会ったあの日から、共にすごした日々と幾億もの言葉。星のように限りなく、言葉とともに想いも交わしたつもりでいた。
けれど結局。最後の最後まで自分は何一つ彼のことを解ってはやれなかったのだ。
後悔に沈むシリュースの頬を熱く伝うものがあった。
それは、下草に滴り落ち、染み込んで。濡れた跡を残す。
「…っ、く……うう……」
自分のほかにはもうその死を嘆くものが最早一人もいない、青年のことを想って。
シリュースは、泣いた。
声を殺すこともなく、子供のように泣いた。
痛いくらいの眩い金色の焔が、完全に消えてなくなるまで。
ずっと、ずっと。

 

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