2章 流転──The mountain of the dragon of a flame.
シリュースが廃園で始めてラヴェリスと出会ってから十年の月日が流れた。
十年という星霜は、子供を大人に変えるには充分な物だった。シリュースの背は伸び、身体にもしなやかな筋肉がついて、顔つきからは幼
さが消え、青年らしい凛々しい雰囲気を纏うようになっていた。好奇心と意志の強そうな雰囲気だけは変わっていなかったが。
それだけ年月が経っても、未だ<星辰の焔>を見つけることはできていなかった。調べて行くにしたがって、それがとても強い力を持った稀
少な魔法石である事、この世界の創世に近い遥かな昔に神の手で下ろされたもので、今は地上にほとんど残っていないのだということなど、
その入手の難しさばかりが明らかになっていた。
だが、それでもシリュースには諦めるつもりはなかった。約束を破るなど彼の性分に反する事であったし、それ以上に幾度も合う内に信頼で
きる友となったラヴェリスの想いを裏切るようで、出切る筈もなかったのだ。
今日もいつものように白い光と共に庭園のなかへと招かれる。後で聞いた話なのだが、ラヴェリスにはあのままの状態で、この上──ここ
は地下に作られた庭園なのだ──の様子をある程度知覚でき、閉ざされた廃園への入り口である白い転移の光を操る事ができるらしい。
誰が整えているとも知れぬのに、相変わらず美しい庭園の景色に軽く目を細めながら、友人のいる場所、庭園に設えられた泉のほとりを目
指す。近付くにしたがって強まるのは甘い、それでいて胸が透くような良い香りと──澄き通るような美しい歌声。それは、十年前に始めてこ
の場所を訪れた時聞いたものと同じだった。
「よ、元気にしてたか」
横たわりながら歌を続ける青年に、そう声をかける。
挨拶によって存在に気付いたのか、歌うのを止めてラヴェリスは来客へと視線を向けた。
「──シリュース、よく来たな。今回は一月ぶりと言ったところか?」
「半年ぶりだっつーの。相変わらず時間の感覚が疎いのな」
苦笑しながら歩みより、ラヴェリスの傍らにいつものように座りこむ。
この十年で成長したシリュースと違い、その容色には何の変化もない。身体に花咲き乱れる白皙の美貌も、髪の毛も瞳も肌もそのままだっ
た。
「冗談を言っただけなのだがな。……また少し傷が増えたか」
シリュースの頬を始め、身体のあちこちに散っているまだ生々しい傷跡に目を向けて、ほんの微かにラヴェリスは眉根を寄せた。
「はは、やっぱ解るか? 実はうちのパーティの姫さんが、ちっとばかし悪霊に憑りつかれてよ。それでちょっとな。ま、あんたに貰った薬草のお
かげで、もう塞がったけど……」
現在のシリュースは、一旦公害に侵されてしまった街が、自然と融和しながら発展していくための再建の手伝いを行いながら、他の冒険者
とパーティを組んで旅に出、其のなかで<星辰の焔>を探すようにしていた。
そして、その旅路から帰る度、ここへと遣って来てラヴェリスに体験を話して聞かせるのが習慣となっていた。
其の都度ラヴェリスは興味深げに相槌を打ち、特に好奇心を引かれた物事については質問をしてくるのが常だった。彼は驚くほど神話や魔
導、薬学等の専門知識には詳しいくせに、実際の経験というものに酷く乏しいようで、シリュースが話し、応える度、まるで子供のような純粋
な憧れを滲ませたそんな瞳を見せた。
「──それで? 結果はどうだった」
「あー、悪い。今回も外れだった」
口調は粗雑だが、僅かに申し訳なさそうにシリュースは首を横に振る。其れを聞いても、ほとんどラヴェリスの表情は動かなかった。寧ろど
こかでわかっていたかのように静かだった。
「一朝一夕で見付かるものでないとは解っているが──さて、お前の全身が隈なく傷跡だらけになるのと<星辰の焔>が見つかる事。どちら
が早いか、見物だな」
そう言いながら、小さな安堵と僅かに申し訳なさそうな色がラヴェリスの瞳には宿っている。それに気付いてか、シリュースは其の雰囲気を
振り払うように明るく言葉を次いだ。
「その代わり、今回は有益な情報手に入れてきたぜ? 新しく、ハイエルフのウィザードが仲間になったんだが、そいつが言うには……ここから
南のリセリア火山の火竜がな、<星辰の焔>を隠し持ってるっていうんだ」
「リセリアだと? あの山の魔物は、他よりも気性が荒い。そもそも火竜といえば山の主ではないか。止めておけ、お前の腕では、殺されにいく
ようなものだ。其処にしかないと言うわけでもなかろう。他にしろ」
ラヴェリスは其の話を聞くとあからさまに眉を潜め、シリュースを制するような声を上げた。
「解ってるよ、話してくれた奴にも同じこと言われた。だけど、折角の確実そうな情報だ。指をくわえて見てらんねぇよ。ちーっと、交渉しにいっ
てくるな」
「シリュース……」
「そんな顔するなよ。可能性があるのに挑まないで逃げるのは只の臆病者だ。今まで手に入れてきた、外れだけど純度の高い宝石の類いを
もっていって、交換してくれっていうつもりだ。それにいざって時は秘密兵器もあるし」
潜められた柳眉の下、不安そうな表情を見せるラヴェリスへと、シリュースは笑顔を向ける。それを見て、ラヴェリスは、とうとう諦めたように
小さな吐息を吐く。
「勇気と無謀は違うだろうに……どうしても行くつもりか。……ならば、右の樫の下に咲いている紅いスズランに似た花と、泉の近くに生えて
いる鋸状の葉をした紫の草の根をもって行け。服用すれば防火・耐火の効果がある魔法花と、煎じれば火傷によく効く薬草だ」
「恩に着る。今度こそは確実だ、楽しみに待っていろよ」
言われたとおりに薬草を摘み取りながら、そう告げると、
「……吉報を待つ。必ず、お前自身の口で結果を聞かせてくれ」
必ずだぞ、と強く念を押してラヴェリスは案ずるようにシリュースを見た。
そこににっと安心させるような笑みを向けると、シリュースは薬草を懐に仕舞い込み、踵を返して歩き出す。。
「ああ、わかってるって。それじゃ、またな」
振り返らずにひらりと片手だけ振って見せたシリュースを、いつものように転移の光が包み込んだ。
だから、気付かなかった。気付けなかったのだ。
見送るラヴェリスの瞳の、酷く悲しげな色に。
二週間後。
故郷から南へ南へと下って行き、旅路の果てに辿り着いたのは赤茶けた土と岩ばかりが連なる乾いた山麓。
「ここがリセリア山か…話によると、中腹にある洞窟に、火竜は住んでるって話だったが」
眼前の高峰を見上げ、小さくひとりごちる。
辺りには全くといっていいほど人の姿はなく、ただ、シリュースの砂色の外套を揺らす埃混じりの風が吹き過ぎてゆくばかりだ。
「結構高いな…ま、仕方ない。愚痴ってないでさっさと登るか」
肩にかけた布袋をしっかり抱えなおすと、獣道を歩き始めた。
歩くことしばし。
幸いにして厄介な魔物に合うこともなく、道行は順調だった。
「……ん?」
と、シリュースは道の先の木の枝に、奇妙なものが引っかかっているのを見つけた。
赤っぽい鱗のような皮膚に覆われた小さな生き物は、その背中の蝙蝠にも似た薄い皮膜の羽が、枝に刺さって抜けないらしく、ぴーぴーと
高い声で鳴いている。
その声に誘われるかのように周囲には魔物が何匹も集っている。食べでもするつもりなのだろうか、腕やら触手やらを伸ばして小さな身体
を掴まんとしていた。
「おいこら、そんなちびを食うつもりか!? 散れ!」
何だか放って置けなくなって、そんな言葉が口をついて出た。
シリュースの声に反応して、くるりと振り返ると一斉に彼のほうへと向かってくる。
リセリアの魔物は気が荒いと聞いたが、本当に其の通りだった。
「…お、こっちに来なすったか。ま。ちっこいのを大勢がいじめているの見ているよりはいい。肩慣らしだ」
迫り来る魔物を目に、利き腕である右手にダガーを握り、もう片方の手は投擲用のナイフを抜く。
ひゅんっと風を切る音を立てて、ナイフが先行していた緑濁色の蛙に似た魔物の咽喉元に突き刺さる。
魔物たちの動きは統率が取れているというわけではない。ただ本能のままに向かってくる。この数年で相当の戦場を渡り歩いてきたシリュ
ースにとって、そのことは都合がよかった。突出してくるものから順に、ダガーで、或いはナイフで的確に急所を突いていく。そうする身のこな
しは軽くしなやかで、ほとんど隙を感じさせない。
何匹かの血が流れ、地面に倒れ伏せば、形勢を不利と見た魔物たちは散り散りになって逃げてゆく。
「やれやれだぜ」
ため息と共にダガーにべっとりとこびり付いた魔物の血を拭って、鞘へと収める。
「おい、大丈夫か?」
それから声をかけつつ、木の上へと手を伸ばし、枝に引っかかっていた小さな生き物を助け出した。
「ぴ……」
怯えたように身を竦ませているその生き物は、よく見てみるとドラゴンに似ていた。
丸みを帯びているが角も生えているし、縦に細長い瞳孔の入った橙色の瞳はどことはなしに気品を感じさせる。全体的に蜥蜴に似通ってい
るがそれよりもずっと優美で流麗なフォルムをしていた。
「まさかドラゴンの幼生?いや、そんなわけないか……あ、こら暴れるなよ。手当てできないだろ」
まじまじと見つめるうちに手の中の生き物はじたばたと暴れだした。それをどうにか押さえて、薬草を塗り、敗れた羽にハンカチを巻いて手
当てする。
「これでよし、と」
軽く背を撫でてやると、手の中の小さな生き物はシリュースを見上げてぴぃと感謝するように鳴いた。ぱたぱたと翼を動かし、空へと舞い上
がろうとする。飛べるのだろうかと心配しつつも離してやると、小さな身体は存外にしっかりした調子で宙に飛んだ。
「元気でな。もう木に引っかかったりするなよ?」
上昇して行く姿を眺め、安心してひらひらと手を振り、遠くなっていく姿をしばし見送る。
「さて、俺も行くかな……」
そう呟いてシリュースはまた山道を登りだした。
ごつごつとした岩の陰に隠れるようにして、その洞窟はぽっかりと口を開けていた。中は暗く、昼だというのに外からでは少しも様子をうかが
い知ることは出来ない。 山の中腹に差し掛かって見えてきた洞穴は、話に聞いた火竜の住処そのものだった。
「もしもーし。すみませーん」
一応、中を覗き込むようにして声をかけてみるが、当然の如く返答はない。
「…当たり前か。とりあえず、お邪魔するぜ」
軽く肩を落とすと誰に言うともなくひとりごちて、シリュースは洞窟の奥を目指して足を踏み入れていった。
最初は外から見た暗さに見合うひやりとした道が続いた。道自体はゆるく地下へと下っていくような単純な一本道で迷うこともない。だが、
奥へ奥へと向かうに従って、段々と空気が熱を孕み始める。やがて、じっとりと肌に汗の浮かぶような感さえ覚え始めた頃、ようやっと底に辿
り着いた。
長かった道を抜けて、見えてきたのは仄明るい岩屋。高く大きな空間で、竜が住むにふさわしい広さを備えていた。その中央に鎮座するの
は十メートルに達しようかという巨体。だが、鈍重さは欠片もない。長く延びた黄金の双角、鋭角なラインで構成された頭部としなやかな長い
首。燃え立つような鬣は真紅、強靭な鱗に覆われた体表と皮膜の翼の色は紅蓮。存外に器用そうな前足とたくましい後肢。一見凶暴そうな
鋭い琥珀の双眸は限り無い英知を湛えている。侵しがたい威厳を纏い、其処にいたのは紛うことなき、現世と幽世のすべての獣たちを統べ
る者と伝えられるドラゴンの姿だった。
そんな竜の背後には青白い煌めきが見える。始めは蒼い炎が燃え上がっているのかとも思ったが、違う。それは息を呑むほどに美しい石だ
った。水晶のように細く尖った鉱石が一面に伸び、広がっている。闇の中、鮮やかに目を引く石の花、焔の結晶。この十年、捜し求めていた
<星辰の焔>であると一目でわかった。
恐れよりも逸る気持ちを抑えて、竜に話しかけようと一歩踏み出す。だがそれより早く竜のほうから声がかかった。
「短キ命ノ人ノ子ヨ、我ガ住居ニ何用ゾ……?」
ビリビリと大気を震わせて響くような重く圧迫感を感じさせる声。燭にも似た眼が睨めつけるように見下ろしてくる。
「…いきなり不躾だと思う。願いがあってきた。あんたが持っているその石、<星辰の焔>を、少しでいいから分けて欲しいんだ」
シリュースはその威に抗うように真っ直ぐに青い瞳で竜を見詰め、それから深く頭を下げた。
「我ハ人ト関ワルツモリハナイ。ソモソモコノ<星辰の焔>ハ遥カナ昔ヨリコノ地ニアル古ノ焔ノ精髄。オイソレト渡ス訳ニハイカヌ。サア、諦メ
テ早々ニココカラ出テ行ケ」
「それでも、どうか! あんたにとって大したものじゃないかもしれないが、代価は払う。それで足りないというならなんでもするから!」
竜のすげない答えを聞いても、縋るようにシリュースは言い重ねる。
「…クドイ…ナレバ力ヅクデ退去サセルノミ……人間ヨ、己ガ愚カサヲ、彼岸デ悔イルガヨカロウ」
しかし帰ってきたのはあくまでも冷たい睥睨だった。竜は鎌首をもたげ、
「く、そ…やはり駄目なのか……ッ!!」
苦く呟いたシリュースの目の前で、かっと大きく開かれた牙の並ぶ顎の奥に、灯火がともったように見えた。それが次の瞬間には爆発的に
膨れ上がり、紅い奔流となって吐き出される。
竜族の能力の中でも最も攻撃的な力のひとつであるブレス。凄まじい勢いのそれは過たずシリュースの立つ場所へと注いだ。
勢いに見合った激しい爆音が轟き、噴煙が上がる。それが薄らいだ後には何も残らない。
はずだった。
「ナニ……!?」
ドラゴンの口から驚きの声が上がる。
シリュースは無傷で其処に立っていた。普通の人間が先刻のような超高温の炎に晒されて生きていられるはずがない。ましてや、髪の毛
の一筋すら傷ついていないなどと。
「…は、これがなきゃ今ので殺られてたな。即席でこれだけ作るんだから、アルファードのやつ、本当に大したもんだ」
霧氷のようにちらちらと舞う淡い光の軌跡を残しながらシリュースの手の中に握られているのは、水晶にも似た至純の刃を持つ短剣だった。
それを目に留めて、竜は不快そうな顔をした。
「只ノ魔法剣デハナイ、ナ……。異ナル力ガ重ナリ合ッタ冷気ヲ感ジル」
「其の通り。精霊と魔法と神力、三元の冷気を結晶化させた刃だってさ。他にも色々効能はあるが…とにかくこれは炎の力を中和できる。あ
んたの吐く炎のブレスは俺には通じない」
これがシリュースの秘密兵器。
火の竜の元に赴くといった彼のために、仲間の魔術師が持たせてくれたものだ。
その天賦の才故に実の家族にすら疎まれ囚われていたというエルフの青年の力は強大で、彼が作り上げた呪具もまたそれに見合う性能を
持っていた。
「小賢シイ真似ヲ…ソノ程度ノ剣、砕イテクレルワ!!」
「利かないって言っただろう」
再び放たれた煉獄の炎が届く直前、短剣を素早く前に薙げば、真白い冷気が刀身から溢れて、炎霊の祝福を強く受けるドラゴンの吐息すら
凍らせる。
それを確かめながら、助走をつけつつ、たんっと前へ跳ぶ。
目指すのは顎を開き、ブレスを吐き出していた火竜の頭の上だ。
下手をすれば口の前に落ちることになっただろうが、神はどうやらシリュースを見捨ててはいなかったらしい。
ドラゴンが気づいて避けるより早く、狙ったとおりの場所に足が降りる。
「チェックメイトだ」
それと同時に眉間にぴたりと透明な刃を押し当てた。
冷たく鋭利な刀身は触れているだけで竜の強固な鱗を裂き、浅く傷つけていた。
そこからじわりと痺れる様な冷たい感覚が竜の体内を伝っていく。刃の先に仕込まれていた麻痺の呪が染み始めたのだ。
如何な竜族といえど、この状態で生来守護を受ける炎と相反する氷の力の結晶を受けてしまえば無事で済む筈がない。
「ク…我ガ、貴様ノヨウナ人間ニ……」
苦しげな声と共に、屈辱に歪む瞳がシリュースを睨み付けてくる。
「さあ、降参しろ。さもなければ俺は…あんたを殺す。そうしてでも手に入れなきゃいけないんだ。待っているあいつの為に」
罪悪感が胸を刺さないわけではない。けれど、迷いを振り払うほど強く、廃園で目にしたラヴェリスの切実な瞳が焼きついて離れなかった。
「……」
ドラゴンからの返答はなく、シリュースが覚悟を決めて刃を沈めようとした時だった。
「ぴ────!!」
岩屋の中に場違いな程に高く、小さな叫びが響き渡った。
「!?」
シリュースとドラゴン、雌雄を決しあっていた両者の目が、同時に入り口の方、声の源へと注がれる。
其処にはあの小さな、赤茶色の生き物がいた。人でない生き物の表情というのは読みにくいものだが、それでも悲しんでいることが一目で
解る、そんな雰囲気を漂わせて、生き物ははたはたとそのけして立派とはいえない翼を懸命にはためかせてシリュースたちのほうへと向かっ
てきた
「ぴ!」
「さっきのちびじゃねぇか…なんだってこんなとこに」
「息子ヨ、来ルデナイ……!ココハ、危険ダ」
「息子…!?」
竜の口から紡がれた言葉にシリュースは青い瞳を大きく見開いた。確かに、ドラゴンに似た姿をしているとは思っていたが、まさか本当に幼
生だとは思わなかったのだ。
「ぴぴっ!」
そうして驚いている間に距離を詰めたのか、幼竜は小さな身体で、瞳を潤ませながらもぺしぺしと必死になってシリュースに向かって体当た
りしてくる。
「……おまえ、本当にドラゴンだったんだな。で、この火竜はお前の親ってわけか」
その攻撃から身を庇うでもなくあまんじて受けながら、シリュースは逡巡する。
「…………」
やがて、彼の中で意は決されたようで、
「…そういうことなら、仕方がない、か。あいつも、許してくれるよな」
独白を零しながら、すっと刃を竜の額から放すと、直ぐにそこから跳躍して地面へと降りる。
そして、そのまま、歩き去っていこうとした。
「マテ!人間ヨ、汝ハ我ヲ滅ボシテモ手ニ入レタイモノガアルノデハナカッタノカ」
その様子に、麻痺したままながらドラゴンのほうが解せないという様子で問いかけてくる。声に振り返って、シリュースは力なく苦笑した。
「まぁな。だけどよ、やる気がなくなった。待ってる奴には適当に言い訳するさ。10年待ったんだ、もう数年待たせても怒りゃしないだろ」
「我二、情ケヲカケタツモリカ」
「…別に。ただ、親がいなくなって哀しむようなガキは出したくねぇだけだよ」
其の瞬間、脳裏に浮かんだのは、両親を亡くした直ぐ後の自分と妹。あんな風に泣くものは、出来るならば出したくない。それがたとえ種族
の違う生き物であっても。
こんなことは偽善なのだとよくわかっていた。体のいい自己満足。だから、竜の親子から顔を背けるようにしてまた歩き出そうとする。
「…じゃーな。我侭言った上に怪我させて悪かった。もう、こねぇ。子供と仲良く長生きしろよ」
「……マテ、人間ヨ」
が、再びそれを呼び止められた。
「あ? 何だよ、俺はこのまま帰るんだから、もう何も言うことないだろ。そりゃ、怒りは収まらないかも知れねぇが……」
「我ハ誇リ高キ竜族ノ末裔。施シハ受ケヌ。ナレバ対価ヲ払ウノミ」
麻痺が解けてきたらしいが、それでもまだ何処かぎこちない動きで、ドラゴンはシリュースの前に小さな欠片を加えてそっと落とす。
それは青白く光る焔のような、石。
「持ッテ、行クガ良イ」
「いいのか……?」
竜の言葉を聴いても信じられないといった様相で、シリュースは自分の眼前の<星辰の焔>と竜の顔とを交互に見比べた。
「二言ハナイ。人間ヨ、ソレヲ持ッテサッサト去ネ…我ハコレ以上ノ干渉ヲマヌ」
ふい、と視線をそらしながら、竜はあくまで味も素っ気もなくそういい捨てる。だが、その響きは一番最初に比べると何処か温かみを感じさせ
るものだった。
「……ありがとう。恩に着る」
たからものを扱うかのように丁寧に、石を拾い上げる。最初に触った瞬間は、熱を感じたような気がしたが、それも刹那のこと。手の中の石
は冷たく涼しげな感触を指先に伝えてきた。
それを抱えて、シリュースは今度こそ振り返ることなく足早に洞窟を出てゆく。
「……人間トハ真ニ不思議ナモノダナ…息子ヨ」
その様子を眺めながら、寄り添う幼い息子にそう呟いた後、火山の主は驚きの入り混じった、だがとても穏やかな目をしてみせた。
それから行きよりも軽い足と速さで故郷を目指したシリュースは、村への帰路を半分の一週間で帰り着くことができた。
一刻も早く、ラヴェリスに<星辰の焔>を届けたかった。自然、速まる足で眠りの森の奥、廃園に辿り着いたのは夜半をとうに過ぎた頃だっ
た。
ラヴェリスが察して転移の光で招くのももどかしいくらいで、庭園に招かれると子供のように走って、常の泉の傍へと駆け寄った。
「帰ったか、シリュース。その様子では収穫があったようだな。本当に隠し事の出来ないやつだ」
息を弾ませながら駆けて来る青い瞳の友人を、ラヴェリスは微苦笑で迎える。
「解り易くていいだろうが。ほら、見ろよ。お望みの<星辰の焔>だぜ? 間違いないだろ?」
庭を照らす人工の明かりの中に、取り出して見せた青白の宝石は滴るような光を反射してみせる。
だが。
「…………」
それを見ても、ラヴェリスは物憂げにシリュースと彼の手の中の石を見上げ、黙りこむばかりだった。
「おい、どうした?まさか……」
ラヴェリスの意味ありげな沈黙と視線に、シリュースは顔から血の気が引く思いがした。
「…………」
たずねるがラヴェリスが答えることなく、不安げな悲しげな顔をして見せたので、シリュースの不安はますます持って募った。
「…に、偽物……?」
「……なんてな、冗談だ。それは正真正銘、<星辰の焔>だとも」
シリュースの表情をじっと見ていたラヴェリスが、うって変わって揶揄るように笑って見せる。
「そ、そういう洒落にならないことを、このタイミングで言うなよ! 心臓が止まるかと思ったじゃねぇか……」
「すまん。ちょっとからかって見ただけだ。よく、手に入れてきてくれたな」
労を労うような何処までも優しい笑みが、その優美な面を彩る。友のその言葉は何よりシリュースの疲労を癒してくれる気がした。そんな、
ようやっと十年来の約束を果たせた喜びと安堵感に浸るシリュースには、気付けない。微かな翳りがラヴェリスの微笑みの中に揺れていたこ
とには。
だから、ただ、常のようにごく明るく応えを返すだけだ。
「ああ、やっとな。十年もかかっちまったが、これで約束は果たせた。さ、まずは教えてくれよ。どうしてこの石が欲しかったんだ? 」
収集癖や下卑た欲望ゆえでないことは、この十年の付き合いでよくわかっていた。寧ろラヴェリスはひどく物欲に乏しい。そんな彼がただの
酔狂で貴重な宝石を求めるとは思えなかった。
「それを使わなければできない事がある。其の為にどうしても必要だった。シリュース、後生だ。わたしは動くことができないから、迷惑だとは
思うが、もうひとつだけ頼まれてくれるか?」
「まぁ、ついでだ。やってやるよ。何をどうすればいい?」
顔を覗き込みながらそう尋ねてくるシリュースに、ラヴェリスは金色の瞳を少しだけ閉じてから、また開き、静かに通る声で、告げる。
「なに、簡単な事だ。その<星辰の焔>で、わたしを……」
ほんの僅かな間の後に続いた言葉は。
「──このわたしを、殺してくれ」
シリュースの意識を、凍りつかせた。