1章 事の始まり──Ten years before

深い深い森の奥、灰色なる天使の加護の元に
在りし扉のその向こう
時の流れに朽ちゆく庭よ
其に眠れるは月の花
花弁は澄み切る至上の白
香りは清浄にして何処までも甘く 胸を満たし
蜜はあらゆる病毒を払いて 茎葉は全ての傷を癒す
天より零れ落ちたる神々の慈悲
いと清げなる不死の妙薬
彼の花の名は ルナグラス

〜とある辺境地方の伝承より〜


 もうどれ位歩いただろう。それを思い出せない程長く、少年はこの森を彷徨っていた。まだ幼さの残る面差しだが、好奇心と意志の強そうな
感じを受ける、小柄な少年である。年の頃は十一、二歳。宵闇に包まれ、獣も出るであろう危険な夜の森には、本来であればいるはずのな
い存在であった。 森にいた時間の長さを示すように、手足のあちこちには枝葉や草に擦れて数多の傷がついている。それは彼が身に纏っ
ている麻の貫頭衣とズボンも同様だった。天穹の頂点を思わせる青い瞳には焦りの色が滲み、項辺りまでの漆黒の髪が足掻くように急ぐそ
の動きに合わせて揺れていた。
 彼、シリュースには、この森で見つけなければならない物があった。
 ルナグラス。
 この地方に伝わる伝説の花。ありとあらゆる病と怪我をたちどころに癒すとされる地上の奇跡が、今の彼にはどうしても必要だった。だか
ら、彼の目的と行動を知れば間近い無く反対するであろう大人たちの目を盗み、夕闇に紛れてこっそりとこの"眠りの森"へとやって来た。伝
承のみに其の名前を残す、古き魔法の国の、遺跡が数多く眠っている事から其の名が付いたこの森。村に伝わる伝説に寄るならば、その花
は、この森の何処か、古代王国の薬草園に咲いているのだという。信憑性は皆無に等しく、正確な場所も解らない。だが、それでもこれに縋
る他は、方法が無かったのだ。
「何処に、あるんだろう……」
 呟きながらひたすらに前へと進んでいく。件の庭への入り口は、灰色なる天使の加護の元にあり、と聞いていた。今のところ、それらしき物
は見掛けていない。見まわす周囲にあるのは、蟠る闇と黒々と佇む木々、陰鬱な茂みくらいのものだ。
 と、其の時だった。
「……ん? 」
何か、耳朶に届く微細な大気の震えを感じる。
不思議に思って耳を傾ければ、周囲の枝葉を揺らす肌寒い風の吹く音に紛れて、微かに、ほんの微かに。掻き消えてしまいそうに小さく、甘
やかな旋律が聞こえてくる。歌詞の内容は解らないが、何処か物悲しい程に澄み切った、美しい音色。それは楽器により紡がれた物でなく、
間違う無き肉声。誰かの歌声だった。
「これ、何だ? 唄……?」
 夜の森の中では、聞こえるはずのない唄。精霊の類いに騙されているのかもしれないと思いつつも、不思議なメロディを追うようにして奥へ
と向かって行く。
「この辺から聞こえるんだけどな……ん?」
 歩いて行った先で、シリュースは変わった岩らしきものを発見し、足を止めた。ほぼ完全に其の身は苔に覆われたそれは、右の片翼と両腕
を無くしてはいたが、確かに天使と思しき形をしていた。思い切って湿り気を帯びた苔に手が濡れるのも構わず削り取ると、思った通り人の手
による石造りの天使像である事が明らかになる。
「これが恐らくは灰色の天使。でも、いったい、何処に入り口があるっていうんだろう。近くにあるのは間違いないはずなのに」
 確信を込めて呟きながら辺りを探って回るが、庭と呼べるような何処かへ繋がりそうなものは、全く見付からなかった。
「ここまできたんだ。諦めるもんか! メイサや、村の皆を助ける為に」
 定年に囚われそうになる自分を振り切ろうとするように、ふるふるとシリュースは頭を振った。
 そうして、像の周り辺りをまた調べようとした時。
<……こんな森の奥まで辿りつくからには如何な猛者であろうと思っていたが、まだ年端もいかぬ子供ではないか。適当にあしらって返そう
と思ったが、折角来て貰ったのだ…偶には客を招き入れるのも悪くはない…>
「……?!」
 何処からか、言葉が聞こえたと思った。その刹那、眩い白光が視界を染め上げる。光の眩さに目を瞑ると、軽い浮遊感が身体にかかり、次
に瞼を空けて、目の中へと入ってきたのは、清明な月の光に近い、だが微妙に違う灯りが照らし出す、美しい庭園だった。
 こんな森の奥に人の手の入る余地など有り得ないはずなのに。見回す周囲には様々な草花や樹木が、絶妙のバランスで配され、芸術的
な光景を作り出していた。
 辺りを見回しながらあるいていくと、森緑のそれとは違う、甘やかな香りが鼻腔に入り込んでくる。
「ここが、ロストランドの薬草園、なのか……?」
 だとしたら、何処かにルナグラスが咲いているはず。先刻の声や何故どうやってここまで来たのかと言うことは気になったが、今はそれより
も目的の花を探し出す方が先決だと思った。
 広いから大分時間が掛かるだろうなと思いながら走り出したシリュースだったが、
「こらこら、そんなに慌てては躓くぞ?」
 と、かけられた言葉に反射的に歩を止めた。それは先程聞こえてきた声と同じ音階のものだった。玲瓏として涼しげな、低音。柔らかい響き
は声の主の若さを表している。
「誰だ…?」
 シリュースは訝しそうに辺りを見回した。こんな場所にいるからには只者ではないだろう。自分を招いたのも声の主で在るようだし。
「──それは此方の台詞なのだがな。小さな客人よ」
 今度は僅かに笑みを含んでいるかのような声音。
 声が聞こえた方へと視線を巡らせ、近付いていき見つけた姿に、シリュースは息を飲んだ。
 咲き誇る花々に埋もれ、否、一部として。その人物は静かに其処に横たわっていた。陶器のような処女雪の肌に、草の生い茂る地面へと
広がる金糸の長い長い髪に、とりどりに色を変える緑は根をはり、随所で蓮に似た白い花を咲かせている。翠と白に埋もれるその身体は、一
見しただけでは性別を断じ難いが、先程聞いた声からして、男。それもまだ年若い、青年であるらしい。
 彼の身体に芽吹き、花開いているのは、限り無く澄んだ至高の白に光の粉を撒いたかのような、この世のものとは思えぬ程に幽美な花
弁。それは、シリュースが昔語りに聞いた中に在った、ルナグラスの特徴と一致していた。
 閉ざされていた瞼が彼の存在を感知してかゆるりと開く。 現れたのは見た事もない金色の瞳。宝石のようなそれは深淵を包みこんだい
ろ。軽く吊り上がった双眸はきつい感じを受けるが、全体的に甘めの整った造作にあってそれは、彼の容姿を引き締めて見せていた。
 シリュースと目が合うと、青年は微笑った。
 それはひどく綺麗な笑みだった。ともすれば痛ましい、醜悪と美麗とを同居させる容貌にあって、それらを全て内包してうつくしいと感じさせ
る透明な微笑。 おぞましさと美しさがひとつの存在に同居しうるという事を、シリュースはこの時初めて知った。
「しかし、何年ぶりであろうな。ここに人間を招いたのは。……ようこそ、今は喪われし国の忘れられた庭園へ」
 凛と告げる声のなかに僅かに悲哀と寂寥が混じっているように、シリュースには感じられた。気の所為、だったのかもしれないが。
「あんた…いったい? それにどうして、そんな風に花に覆われてるんだ?」
「子供は本当に正直な生物だな。ルナグラスが何故わたしの身体を包んでいるかはとりあえず置いておくとして、先ずは名を名乗ろう。わたし
はラヴェリス。ラヴェリス=セレニ=アスフォリアという」
「ルナグラス!! やっぱりその花がそうなのか……。それにアスフォリア?それって、ロストランドの正式な国名じゃないか!?」
 驚くほど淡々と紡がれた言葉は、余りにも驚愕に値する情報を含みすぎていて。シリュースは目を白黒させながら、混乱の混ざる声で疑問
を口にした。
「さて、な。わたしは名乗ったぞ。お前は名乗らないのか?」
 ラヴェリスと名乗った青年は驚きふためくシリュースを往なすように笑みを浮かべ、そんな事を言った。問いをはぐらかされたようで一瞬シリ
ュースは渋面になったが、確かにいつまでも名を名乗らずにいるのは無礼だと思い、多少ぶっきらぼうな調子に放ってしまったが、己が名前
を告げた。
「……シリュース・シュナイト」
「ほう?……あの夜天に眩い天狼星の名を持つのか。成る程、名に恥じぬ綺麗な蒼い双眸をしているな。きちんと挨拶のできたお前には、先
程の質問に答えてやろう。私はお前の思った通り、ロストランド──今は古代王国とも言われる旧きアスフォリアの人間だ。そして…ルナグラ
スの苗床でもある」
「!! それじゃあ、あんたは千年以上も前から生きてるっていうのか……」
 大きく見開いた目をラヴェリスへと注いだまま、シリュースはしばし沈黙した、余りにも愕くような内容の連続だったからだ。シリュースの視
線に感じ取る物が合ったのだろう、ラヴェリスは僅かに目を反らしながら話を変えた。
「さて自己紹介はここまでにしようか。何故に、如何な薬を求める?」
「どうして薬を求めているって、解るんだ。違うかもしれないじゃないか」
「この場所を探していたのが何よりの証拠であろう?」
「それ、は……」
 シリュースは一瞬口篭もった。まだ会って間もないような相手に話していいものか少し悩んだのだ。
「話せぬのも無理はないか。わたしはこのような身体…奇怪な化物としか見えぬだろう。しかし、わたしはこの庭園のことを、誰よりも心得て
いる故にな、お前の力になれるかもしれない」
 話しては貰えないか、と。その存外にやさしい声と言葉に、しばしの惑いのあと、シリュースはぽつりぽつりと自分の事情を語っていった。

俺の村は、この眠りの森に近いところに在るレジナって小さい村だ。
レジナは林業と狩猟、それから布の材料になる糸を吐くプロセナって虫の養殖と製糸業で生計を立ててるんだ。
空気も水も綺麗ないいところでさ、村のひとも皆やさしい人ばかりなんだ。
両親の居ない俺とメイサが、ここまで生きてこられたのも皆のおかげだよ。
だけど、ここ三、四年の事かな。
町の方からプロセナの吐く糸を使って、布までここで作ろうとかいう団体さんがやってきて、やたらとでっかい工場を建てた。
昼も夜も臭いのきつい煙やら色のついた水やらを垂れ流す、悪魔の建物を。
村は工場で作られる布を売ったお金で前より豊かになったけど、村の周りの自然はどんどんおかしくなって、更には子供や年寄りから順に妙
な病気で寝こむ奴が多くなってったんだ。
それで、1週間前、俺の妹もとうとう倒れた。
あんなに元気だったメイサが青い顔でベッドから起きあがる事もできずに、ひゅうひゅうと弱い呼吸か激しい咳かを繰り返して、本当に苦しそう
で。
メイサだけじゃない。今はもう村の半数近い人間が軽重の差はあるがこの病気に掛かっているんだ。
医者も神官も匙を投げたよ。多少、楽にするくらいしかできなかったんだ。
誰も治せない病。だけど、俺はそのまま指を加えて妹や村の皆が苦しむところを見ているだけなんてご免だった。
そんな時、俺は昔話で聞いたどんな病気も治せる草のことを思い出した。それが、この眠りの森にあるってことも。

「そういうわけで、俺はここまできたってわけさ」
「成る程、汚染された空気が原因の胸の病か…ふむ、そう言う事ならば、ルナグラスでなくとも良い。この庭園には、様々な病に効く薬草があ
る。お前の妹や村の者が悩まされている病に効く薬もまた、例外ではない」
「本当か!?」
「ああ。だが言っておくが、その薬草をもっていって飲ませれば、確かに病に苦しむものたちの症状は治療できる。だがな、根本から原因を何
とかしなければまた同じか、それ以上の悪夢を繰り返すだけだ。村の水と大気を汚染するものを、何とかしていかなくてはならない。お前に、
それができるか?」
 何処か覗うような青年の視線を、真っ向から見詰め返してラヴェリスは思うことを口にした。
「俺はまだ子供だけど、そのうち大きくなる。何年掛かったって、原因を何とかして見せるよ。もう、メイサたちみたいに苦しむ人間を見るのは
厭だから」
「──いい、返事だ。お前はきっと、理想を現実に変えられるのだろうな」
 返事を聞くと、ラヴェリスは僅かに嬉しそうにその顔をほころばせた。
「この近くに青い色の菫に似た花が咲いているだろう。根を周りの土ごと丁寧に掘り起こせ。それが、病に効く薬草だ。煎じて水で薄めたもの
を飲ませればいい」
 言葉を頼りに周囲に視線を巡らせれば、確かに青い小さな花がそこには咲いていた。言われた通りに根を回りの土ごと掘り起こして手にす
る。これがあれば、妹たちの病を治してやれることが出切ると思うと、例えようもないほどの喜びが胸に湧き上がってきた。その思いのまま、
シリュースは振り返ると横たわる青年へと謝辞を述べた。
「本当にありがとう。俺自身の気持ちと、それからこれで助かる奴らにも代わって、礼を言う。あのさ、何かお返しができればって思うんだが
……」
「この庭に生えている草は誰の物でもない。礼などいらんよ。もし、それだけで足りなければまた来るといい。扉を開いてやろう」
「そう言うなよ。俺たちの面倒を見てくれてる司祭さまが、『助けられたならその分はきちんとお返しなさい』って何時も言ってるし。俺はお金も
ってないけどできることがあるなら何でもするからさ」
「──ならば……」
 一瞬、躊躇うような間を置いた後、ラヴェリスは望みを口にした。
「お前に、探してきてもらいたいものがある」
「いいけど……何を?」
「──宝石、だ。内側に蒼白い炎の煌きを閉じ込めたような美しい結晶で、名前を<星辰の焔>。何処にあるのかはわからない。だがそれで
も、どうしてもそれが欲しい。わたしにはそれが必要なのだ……」
 そう言って僅かに目を伏せる。その様は切実で、シリュースの心を揺らし、力になってやりたいと思わせるものだった。
「解った。絶対、探してきて届けてやるよ。俺、こう見えても村で一番はしっこいし、探し物も上手なんだぜ? あ、そうそう、ひとつ聞いて良い
か?」
「……何だ? わたしで答えられることであれば構わないが」
「何の為に、その石が必要なんだ?」
「それは……お前がわたしのところまで<星辰の焔>をもって来ることができたならば教えてやろう。そして、其のときは礼の代わりにこの世
で最も美しいもののひとつも見せてやる」
「なんだよ、それ」
 苦笑して返しながら、シリュースはこの不思議な青年との付き合いが、何故かとても長いものになる気が、していた。

 

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