「う…っ……」
 身体に走る鈍い痛みで、一章の意識は覚醒した。どうやら幾許かの時間気絶していたらしい。壁に叩きつけられた衝撃で、身体のあちこちがひどく痛む。だが、今はそんなことを気にしている場合ではなかった。
 横を見遣れば、あまり先頭は得意でない棗や気絶していた町だけでなく、完全に不意を疲れたようで柘榴までが触手によって壁に縫い止められている。
 触手の群れを従え中央に立つ都は、怒りや憎悪と言ったものを既に通り越し、それらを硬く凍りつかせた無表情を浮かべ、静かな足取りで最も憎む者──町へと歩を進めていた。
 いけない、止めなければ。そう一章は思った。このまま町を殺めてしまえば、都がもし正気に戻った時、そのこころが死んでしまう。
 都は、本当は町のことが誰よりも好きなのだ。町もまたそれは同じ。一章はそう考える。ふたりともお互いを大切に思い合っているのに何処かでボタンが掛け違ってしまっただけ。そして、そんなちょっとした誤解を穢が利用したのだ。心の隙間に忍び入り、何もかもを歪め、取り返しのつかない悲劇を生み出す。それは穢の常套手段だ。そんなことで姉弟の情を引き裂かせる訳にはいかない。もう、誰かが大切な人を失い哀しむ人の姿は見たくなかった。自分のように穢の所為で兄弟を亡くす者は出したくない!
一章は小物入れから知り合いの巫子に特別に清めてもらったカッターを取り出した。元々文房具だから切れ味は対したことはないが、この、今自分たちを戒める触手は、量は多い代わりに随分と強度は脆いもののようだ。そのおかげで思いきり壁に押しつけられてもただの人間である一章や町が死なずに済んだのだ。そのうちの一本を掴んで見る。手触りが異常にぶよぶよとしていて気持ち悪い。まるでクラゲのようだ。
 幸いなのか、触手のほとんどは翳の本能が危険だと判断した柘榴と棗のほうに行っていて、一章に対しては手薄と言っていい数しか周りを包んでいなかった。
 一章は一刻も早く脱出するべく、身体の周りに纏わりつくそれらを一本ずつ切り落としていった。

「町、町…あなたがいけないのよ……?私なんていなくていい、なんて言うから……。でも、それももうおしまい。死んだら、もう二度とそんなこと言わないわよね。私だけを見てくれるわよね……?」
 都の顔に至福と狂った慈愛が入り混じった微笑みが浮かんだ。その様子はさながらに地獄の聖母。町は未だ深く意識を飛ばしているようで、目覚める気配は微塵もない。
「痛くないように、特別硬質化させた触手で心臓を一突きにしてあげる。これでもう病気で苦しむこともないのね…よかったわね。ああ…心配しなくていいのよ?すぐにたくさんお友達を送ってあげるわ……。それに、全て終ったら姉さんもそっちにいくから……寂しくなんてないわよね……」
 ふふふと壊れた笑い声を上げ、そっと左手で優しく町の頬に触れる。その一方で右腕が高くかかげられた。そこに寄生する翳はギギギィと喜悦の篭った高い声で鳴き、明らかに他とは色も硬さも違って見える黒光りする細い触手を、ひょろりと伸ばす。
「おやすみなさい、町……」
 触手が、町の薄い胸板と心の臓を貫き通さんとしたその時、
「駄目だよ、井上さん!!」
 戒めから抜け出していた一章が、ふたりの間に割りこんだ。町の身体を咄嗟に掴んでそのまま床に伏せさせ、庇う。自らの背中を突き出された触手で深く抉られながらも、どうにか最悪の事態だけは免れさせた。
「痛っ…でも、よかった……」
 激痛に喘ぎつつも町の無事に安堵した一章だったが、すぐにそんな余裕はなくなる。
 傍らに在る都の存在によって。
「……ヴ…ヴヴ……マダ邪魔ヲ…スルノカ……!!」
 声や口調どころか、姿形までもが憑依した穢の影響によって変貌し始めていた。肌の色が、翳と同じ黒褐色に染まり、愛らしかった顔立ちは、目が吊り上がり口が裂け、鬼女の如きおどろおどろしいものへと変っていく。
「井上さん……!穢に囚われたら駄目だよ……!!」
 一章が感じたのは恐れよりも哀しみ。そして助けられなかった自分への歯痒さだ。一章は迷うことなく、都を見た。
「黙レ、黙レ!モウ何モ聞キタクハナイ!マズハオ前カラ殺シテヤル!!!」
 ギャギャギャ!
 翳が嘲笑う。先程町を殺すために使われようとしていたものと同じ触手が何本も、獲物と定めた一章にむけられた。

 それより、ほんの少し前。
「うわーん!!火が通じないよぅ!!」
 触手に包み込まれたまま、棗はじたばたともがいていた。
さっきから幾度も火の精霊を召喚し焼き払うことを試みたのだが、その度何やら滑る油のようなものが触手の表面を包み込み、炎の熱から肉を守っていた。都の強い感情が、本来であれば火に弱いはずの翳の性質を変異させ、強化してしまったようだ。
 火が通じず困ったのは棗の右隣あたりに繋がれた柘榴も同じことで、彼の方は棗よりも更に多くの触手が集っていてより難儀しているようだった。更には念を押してか包み込む触手が他より硬いものとなっている。火が駄目ならばと振るおうとした布津も、それを扱う左腕を丸ごと幾重もの触手で厳重に縛り上げられていて使うことができない。その分、左手以外の箇所の拘束は緩いのだが、再生力までも強められているらしく千切っても千切っても瞬く間に再生してしまい、脱出は叶わなかった。
 その時だった。一章の姿がふたりの目に入ってきたのは。
 町を庇いその背中がひどく傷付けられたのも、鬼女と化した都が彼を殺めんとしているのも全てが見えた。
「一章っ!!」
「アキラー!!」
 唯一完全に自由な声でもって、ふたりは最も大切な少年の名を叫ぶ。
 人形たちにとって、一番の存在は例え普段何を言っていたとしても主人なのだ。
 確かに人形と人間の時の流れは違うから、何れは別れなければならないことは理解している。だが、今はちがうだろう。こんなかたちでの別れなど絶対に厭だと柘榴も棗も思った。悠久の時間の中で他の主人を選ぶこともあるかもしれない。
 だが、今は。
 今は、糸藤 一章だけがふたりの主人。誰にも代え難い唯一の人形遣いなのだ。
 棗は必死にもがいた。けして強いとは言えない力で、それでも懸命に触手を引き剥がそうとする。
 柘榴の場合はもっと極端に、逃れるための方法を選択した。
 他にもっと効率の良い手段があったのかもしれない。だが、その時はこれしか脱出方法が浮かばなかった。柘榴はどうにか自由になる右手を、触手ではなく自らの左肩に──伸ばした。
 そして、そのまま。
「……っ」
 絡め取られて動かすことのできない左腕を、肩口からもぎ取った。
 ごきり、と重い音が響く。腕が外れてバランスは崩れたが、おかげで身体は軽くなった。
予想外の行動に驚いたのか、それまで左の腕に群がっていた触手たちが一瞬離れる。戒めを離れた布津が床に転がった。
 柘榴はほんの少しだけ眉根を寄せ。顔をしかめた。
 肩を中心として灼熱しているかのような鋭い痛みが伝わってくる。
 人形なのだから出血こそないが、痛みがないわけではない。人形に痛覚がなかったら、それこそ自らの損傷など気遣わぬまま壊れるまで戦ってしまうだろう。人形といってもほとんど人間と変わりはないのだ。意志があり、言葉も持っている。亡くして哀しむ者も現れるだろう。だからせめてと人形師たちは彼らに痛覚を与えていた。人間と違い、自らよりも他者を優先してしまう、自分たちがそう作った、そんな愛しく悲しい存在が、少しでも己の体を省みるようにと。
 余計なことをしたものだとひとりごちながら、残る右手で愛刀を拾い上げ、柘榴は全力で駆けた。一章を、大切なひとをここで失わないために。

「死ネ……ッ!!!」
 前よりも初速が速く、数も多い。更にそれは最初から一章を狙って放たれていた。これは全部は避わせないと頭の何処かが過ぎるほど冷静に判断していた。一章にできたのは、町に被害が及ばないようにすることぐらいだった。
 自分の行動を後悔はしなかった。力が足りなかったからこういう結果になっただけで、選択は正しかったのだと信じているから。ただ、このまま無責任に自分だけ死に逃げるのは皆に悪いなとそう思った。
 しかし、覚悟を決めて目を瞑りかけた一章を留めるものがあった。自分の名を呼ぶ、柘榴と棗。ふたりの声。
 一章は、はっと目を見開いた。振りかえるより早く、背後から誰かが飛ぶような速度で来たのが感覚で解る。その誰かは一章に迫っていた触手が彼に届く間一髪の所で、残らず切り刻み殺傷力を削ぎ、手にしていた刀を都の足元へと投げつけて、その動きを一時的にではあるが封じこめた。
 この短時間でそこまでの行動が出来る人物を、一章はたったひとりしかしらない。
「柘榴……」
 見て確かめなくても解る。幼かったあの日、始めて出会った時から。いつもいつも、本当にどうしようもない時、彼は自分を助けてくれていた。そして、今回も柘榴は助けてくれた。その事を申し訳なく思いながら何か言おうとして振りかえり、一章は言葉を失った。
「柘榴、その、腕……!!」
 左肩口からすっかり、腕が取れてしまっている。彼が人形で人間とは身体の造りが違うことぐらい百も承知だったが、それでもその姿は痛々しかった。平然としている本人よりも下手をしたら一章の方が青い顔になっていたかもしれない。
「ああ、気にするな。お前の命と腕一本では比べ物にならん。第一無くなったわけではないのだから。後でまた繋げばいい」
 そうあっさり言ってのけられ、一章は謝罪の言葉以外何もかける言葉が見つからなくなってしまった。
「……ごめん」
「謝るよりも今は目の前の問題をどうするか考えろ。言っておくが──もう加減は出来ないぞ。はっきり言って全力で戦うよりも、力を制限して戦う方が難しい。万全でない今の状態で勝とうとするのならば、相手を殺すつもりでかかる他はないぞ。それに、な」
 柘榴の紅玉の双眸が、押さえ切れない怒りを表し爛々と輝いて、まるでふたつの蜀の様だった。柘榴は未だ赤黒い血を流している傷口を痛ましげに見てから、その原因となった都を、視線だけで殺そうとでもしているかのようにきつくきつく睨み付けた。
「私は、自分の主人を傷付けられて平然としていられるほど人間ができていない。ありもしない腸が煮え繰り返りそうだ」
「一章、棗も同感」
 そこへ軽やかに空を舞うようにして棗がやってきた。その身を包むのは目に鮮やかな緑曜の光。瞳は金緑に染まっている。常とは少し違う、大人びた話し方で、棗は自分の意見をしっかりと述べた。
「あ、棗……もしかして、神様降ろしてる……?」
 召喚の中でも最上位に位置し、滅多に振るわれることのない力。それが神降ろしだ。どうやら、触手たちから脱出するためにそれを使わざるをえなかったらしい。棗に負担が掛かる為、ほとんどなることのないこの状態は、有り余る力が身を守るオーラとなって溢れ出すほど。それはどうやら棗の知能にも影響を及ぼすらしく、この時ばかりは棗から幼さが抜け、しっかりとした話し方を使い、難しい言葉も考えも自在に操るのだ。
「うん。一章の了解を取らずに行動してしまって御免なさい。でも、事態が事態だったから仕方がないでしょう?それよりも流石にここまで来てしまったら、一章は決断するべきだと棗は思う。信念は大切なことだけれどそれに囚われるばかりではいけない。救う方法はひとつじゃない。残酷かもしれないけど、死が開放に繋がることも忘れてはいけないよ」
「…………」
 一章は黙り込んだ。場の雰囲気は一章に否定を許そうとはしない。
 そんな時だった。
「待って……!」
「!?」
 細い声が一同にかけられた。一章でも棗でも、ましてや柘榴や都でもない、声。
 それは、この場にいる最後の人物が発したもの。
「町くん!」
 慌ててそちらに目を遣れば、何時の間にか覚醒していた町と目が合った。
「お願い、お姉ちゃんを殺さないで!悪いのはみんな、ぼくだから……!」
「いつから意識が戻って……?」
「ごめんなさい。本当はお姉ちゃんがここにもう一度入ってきた時から、目は覚めていたんだ…声をかけようと、何度も思った。でも、お姉ちゃんの話を聞いていたら、ぼくはこのまま黙って殺された方が、お姉ちゃんの為になるんじゃないかって……。だけど、違うんだね…言わなきゃ何にも伝わらない……それに、大切なひとのためなら命をかけるぐらいじゃなきゃ届かないんだね。一章さんたちを見てたら、ぼく、そう思ったんだ……」
 一章たちに事情を説明してから、町はよろよろと立ち上がり、布津の霊力によって動きを封じられている都の傍らへと歩み寄った。
「お姉ちゃん。お姉ちゃんがぼくを殺して楽になれるなら、いいよ。ぼくの命、お姉ちゃんに上げる。だって、ぼく、お姉ちゃんがだいすきだから」
 町は今まで気恥ずかしくてどうしても伝えることのできなかった姉への思いを、素直に口に上らせた。鬼女はそれを、ただ聞いていた。どうしたらいいのか解らないと言った感である。
「お姉ちゃんなんかいなくたっていい、なんて言ってごめんなさい。でも、あれは、いつまでもお姉ちゃんに頼ってばっかりじゃ、結局お姉ちゃんに何にも返せないって、そう思ったから言ったんだ……」
 鬼女と化した姉の頬に、町は何の躊躇いもなく触れる。そのまま優しく頭を抱きこんだ。
「お姉ちゃん。いつもありがとう。そしてごめんなさい。ぼく、ぼく、お姉ちゃんのことが…せかいでいちばん、だいすきだよ」
 つ、と透明な雫がひとすじ、町の柔い頬を伝い、滴り落ちた。
 そして、奇跡は起きる。
「あ……!」
 一章たちが驚くのも無理はない。
「マ…チ……」
 町の涙が触れた場所から、都の身体が元に戻っていったのだ。
 家族への愛のこもった暖かい涙が、穢の瘴気を浄化する。
「私…私……勝手に勘違いして…こんな…こと……!ごめんなさい、ごめんなさい町……」
 都もまた泣いていた。姉弟の涙が溶けて混ざり合う。それはいまようやっと触れ合ったふたりのこころにも似ていた。
「私も、せかいでいちばん、町がすきよ……」
 掛け違っていたボタンが、今ようやくもとの場所へと戻る。
 つよくふかく、離れないように。姉と弟が抱き合ったそのとき、都の身体に憑りついていた穢が、ふたりを包みこむ正の気に耐えきれず、ずるりとその身が都から離れた。
 分離した翳は必死に逃げ場を求め、うろうろとさ迷う。
 そこを一章たちが見過ごすはずがない。
「逃げられると思っているのか、下賎な穢風情が」
「そうそう。ちゃんと相応の報いを受けてもらうよ──『天翔ける雷光たちよ、重なり集いて神授の大槌と成さん。今ここに厳正なる御雷の裁きを』」
 棗の指先から放たれた極太の稲妻は、雷神の槌の如く翳を容赦なく打ち据える。そして、地上に落ちた穢の本体の部分、巨大な目玉を、柘榴は袈裟掛けに切り下ろし止めを刺した。
 最後に一章が封印を行う。
「心の闇より迷いでたる穢よ──理の元に汝を封ず!」
 形代を手に、力強く一章は詠句を口にした。
「封縛!!」
 悲鳴を上げる暇すら与えられず、翳は形代に吸いこまれた。形代が穢の罪深さを表すかのような漆黒に染まり切る。そこで黒く染まったその人形の背部に、一章は呪符を張りつけた。これで、井上姉弟の悪夢は終わりを告げる。
「封印完了、だ」
 そこまで終えたとき、安堵のためか一章の身体は忘れていた疲労を思い出したようで、突然倦怠感と背中の苦痛、更には耐えがたい眠気が同時に襲いかかり、一章は耐え切れず後ろ向きに倒れ──かけたところで隻腕の柘榴に支えられた。
「う…今日は柘榴に助けられっぱなしだね……」
「何、いつものことだろうが」
「……うう。でも、今日は本当に柘榴も棗もありがとう。僕の我侭に最後まで付き合ってくれ…て……」
 口が上手く回らない。睡魔の所為で瞼が今にもくっついてしまいそうだった。穢の封印と言う作業は、単純で簡単そうに見えて、人形遣いの体力と精神力を激しく削る。一章の身体は失ったそれらを回復しようと、休息を要求しているのだ。
「ああ、もういい。眠いのなら寝てしまえ。事後処理は私が済ませておくから」
「……う……あ…め…みなさい……」
 もうきっと自分でも何を言おうとしたのか解っていないだろう。ありがとうかごめんなさいかおやすみなさい。そのどれかを言おうとしたのだということぐらいは柘榴にも推察できる。もしかしたら、その全部を言おうとして、さっきみたいな妙な言葉になってしまったのかもしれない。
 柘榴は小さく苦笑いして、あっさり完全熟睡状態になってしまった一章を抱え上げると、さて何から始めたものかと割と平和な悩みに頭を悩ませた。

 

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