Ⅳ
そう、一章たちの前に姿を表したのは、依頼人である井上 都そのひとだった。
今の彼女が常の状態でない事は誰の目にも明らかだった。眼鏡のないその瞳は爬虫類めいた粘着質の光が宿ってぎらぎらと暗く輝き、三つ編みが解けて広がった長い髪は、怪しげな気配を纏って逆立っている。何より常人では破る事も入る事もできない結界を越えてここにやって来た事が証拠だった。都は穢に憑依されているのだ。
部屋に広がる穢の気が強くなる。目の前に、この気配の主──穢に憑かれた者が居る為だ。当の本人である都は、さっきまでの真面目そうな雰囲気とはまるで違う、妖艶とも言える笑みを浮かべて佇んでいた。
「いくらなんでも手応えがなさすぎると思っていた。あの子供に憑いた翳は囮で分身。本体は別に居たということか」
都を睨み付けながら、柘榴は自らの迂闊を悔やんだ。幾ら穢が気配を隠していたとは言え、それに気付かないとはまだまだ修行が足りないと。
「そう、町にこの子の子供を憑かせていたのは私……。この子たちに生気を吸い取られ、苦しんで苦しんで…死ねば言いと思った……。でも、なかなかしぶといから、あなたたちを呼んだのよ……人形遣いなら、憑依させた子供ごと町を殺してくれると思って……。でも、失敗ね……もっと使えないひとを選べば良かったわ……」
ふっと、都は酷薄な表情を浮かべる。それは背筋が寒くなるほど冷たいものだった。
「井上さん、どうして……?」
流石に今度はそう問わずにはいられなかった。あの、弟を思い、必死に一章たちに縋っていた都の姿が瞼の裏に焼き付いていた。嘘ではないのだと思いたかった。それは同じくその場にいた棗も同じだったようで、一章と都を食い入る様にして見詰めている。
しばしの沈黙を挟んでから、都は口を開いた。ここではない何処か、恐らくは過去を見詰める遠い眼差しをして。
「町が、憎かったからよ…。糸藤くん、私はね、両親が死んでからずうっと、学校に行っている時以外は町の為に生きていたの……朝は早くから起きて夜は眠るまで、身を粉にして働いたわ……。ずっと、それでもいいと思っていた…町は私のすべてだったから。でもね、ある日気付いてしまったの……どうして私ばかりこんな目に会わなければ行けないんだろうってことに……。同じ年齢の子たちは、みぃんな親に守られて、恋や遊びや自分の好きな事をしているのにね…私ばかり弟の世話に日々を削られている……そう思ったら、やっていられなくなった。町は何も知らずにのうのうとしていて…許せなかった。憎いとそう思ってしまったの……。そんな時だったわ。この子の声が聞こえたのは……」
めきっ…ずるり……
異様な音ともに都の右腕の皮膚と、制服の袖を突き破るようにして、町に憑依していたそれよりも更に太く大きく禍々しいかたちの翳が現れる。都はうっとりとその翳の黒褐色の身体を撫で上げながら話を続けた。
「"ナラバ全テ壊シテシマエバイイ。我ガ力を貸シテヤロウ"……そう囁いたこの子の声は、私には天使の掲示のように思えたわ……。そうして私は力を得たの。私の不幸の原因である弟の町も、ただ同情を寄せるだけで見ているだけの周りの人間も、世間も、何もかも、壊してしまえるだけの力を……!」
瞬間、都の足から、背中から、項から、次々と翳が姿を表す。その身体から伸びた長く太い触手の群れは、部屋中を覆わんばかりだった。
「ふふ…もう、いいわ……最初からこうすれば良かったのよ……糸藤くん、あなたたちごと…町は私が殺す……!!」
ぶわりと音を立てて、触手たちが周りに扇の様に広がったかと思うと一斉に荒れ狂い始めた。壁を、床を削り、一章たちへ迫らんとしている。
「あそこまで翳を育てるとは、なんと深い情念だ……近しい者への感情は、良くも悪くも濃いということか……」
そう呟いて再び布津を抜き放ち、切りかかろうとした柘榴の腕を、一章はぎゅっと強く掴んで押し留めた。
「……っ、何をしている、離せ!」
「駄目だよ。あれだけ身体に深く根を張っている穢に強いダメージを与えたら、間違いなく井上さんにも衝撃がいっちゃう……そんなこと、させられない」
振り払おうとする柘榴に、一章は必死になって縋りついた。戦人形である柘榴の力は、肉体的にはただの少年に過ぎない一章とは比べ物にならないほどに強い。それでも一章が柘榴の動きを牽制できるのは、主人だからという理由ではなく思いの強さゆえだ。
「ならばお前はあの女のお門違いな"復讐"に付き合ってここで果てるつもりか、一章!」
「そうじゃない…だけど、だけど必ず何か方法はあるはずだよ。井上さんのこころを取り戻す方法が。そうして離れてからだって、穢を倒すのは遅くないよ!」
柘榴の言葉は正論であるだけに耳に痛い。けれど、ここで引き下がるわけには行かなかった。柘榴はその気になれば素手でも都ごと翳を引き裂くことも可能なのだ。一章は都を救いたかったし、何より柘榴に人間まで手にかけるような真似はして欲しくなかった。これは、友として、一緒に暮らしている家族としての願いだ。
「あれだけ穢と同化した人間に説得の言葉が届くものか!その程度で思い留まるようならば、こんな事をするはずがないだろう。人がいいにも程がある!万が一この場から取り逃がしてみろ、口振りからしてもあの女は復讐と称して無差別に人間を攻撃するようになるぞ!?そうして犠牲者が出てからでは遅い!」
柘榴は今にも一章を振り払って翳と都に切りかかってしまいそうだ。一章はここが正念場だと精一杯の力を込めて柘榴の腕を掴み、必死に言い募った。
「僕は、井上さんが町くんを思って言った言葉を、全部嘘だって思いたくない。井上さんにひとかけらでも弟を思い遣る優しいこころが残っているのなら、希望はあると思うんだ!僕に機会を与えてよ!絶対、井上さんを翳から離して見せる!!」
一章の懸命な言葉に柘榴は打たれたように動きを止める。その時、それまで黙っていた棗が、一章に加勢するように反対側から柘榴のもう一本の腕を掴んだ。いつもにこにこと無邪気な棗には珍しい事に、真剣な表情で。そして、柘榴に向かって拙いながらもできる限りの言葉で意見する。
「ナツメもアキラに賛成だよ!ザクロ、ナツメたちは何の為にたたかってるの?ただケガレを倒すためだけじゃないよね。みんなに笑って欲しいから、幸せになって欲しいからたたかうんだよね?だったら、ミヤコもマチも、みんなみんな幸せになるためには誰かが傷付いちゃだめだよ。怒るのって、疲れるしおなかも空くよね。ナツメは、マチを憎んでるミヤコも苦しいと思うんだ。だから助けてあげよう?ねっ」
両側から腕を捕まれ懇願されて、柘榴はその銀色の頭髪を乱暴に掻いた。
「〜〜っ!!……ああ、もう、好きにしろ!この救いがたいお人よしどもが!」
叫んでとうとう柘榴は折れる。その言葉尻はまるで怒っているかのようだが、表情は違う。困ったような笑っているような、そんな複雑でひどく人間くさい表情が、柘榴のともすれば冷たくなりがちな面に浮かんでいた。
「……だが、そうだな。その考え方は──私も嫌いでは、ない。加減して戦ってやるし、フォローもしてやる。代わりに、一章、棗、言い出したからには最後まで遣り方を貫いて見せることだな」
私を失望させるなよ?
軽く苦笑のように呟いて柘榴は一章と棗に捕まれていた腕を至極あっさり解いた。その程度は造作もないくせに、一章たちを思って外さずにいたらしい。そのまますらりと布津を抜き放つと、柘榴はすぐ側まで来ていた何十本もの触手をなぎ払い、後退させた。
「ありがとう、柘榴」
自分たちを無下にするでなく答えてくれた彼に一章はせめてと笑顔を返した。
「構わん。貸しひとつという事で許しておいてやるよ。それより、あれではまともに話もできんだろう」
柘榴の指差す方向には、ただうねる触手が壁のように連なるばかり。都の姿は、その身体から生じた翳の触手の所為で、最早見ることすらままならない
「棗、手伝え。一章の為に道を開いてやらんとな」
「だからザクロ好きー。最後にはいつだってアキラやナツメのおねがい、きいてくれるもんね。ホントは、優しいから」
「……煩いぞ。黙って手伝えんのか」
柘榴は棗の言葉を聞き、ふいっと顔を逸らした。どうやら照れているようだ。
「はいはいはーい!」
そんな柘榴の様子が面白かったようで、棗はいつも以上の笑顔で、今回もまた元気良く返事をした。それから、自らの仕事をこなす為の呪を唱える。
「<火精降霊>──『燃えよ燃えよ力の限り。煉獄にあるが如くに我が敵を灼き滅ぼせ』」
赤銅の瞳の棗の両手から、赤々と燃え猛る火玉が幾つも創り出され、凄まじい勢いで放たれる。弾丸の如きそれは、熱と衝撃でもって触手の壁の半ばを焼き千切った。
「星焔では範囲が足りないか。仕方ない……炎翼よ、走れ」
柘榴の背中に、金色を芯に秘めた真紅がふたつ生まれたかと思うと、それは見る間に炎でできた翼のような力場として展開した。羽ばたくが如き動きでもって両翼は大きく広がり、触手の残りを包みこむようにして燃やし尽くす。
はらはらと灰が散ったあとには、ただ翳を身体から生やした都だけが残っていた。
絶対と信じた力をいともあっさりと破られ、都には焦りが生まれている。一章は、彼女を怯えさせないよう、ゆっくりと距離を詰めた。
「井上さん、僕の話を聞いて」
びくんと一章が声をかけた瞬間、都はあとじさった。それに反応してか、ざわざわと少しずつ触手が再生していく。
「町くんは、のうのうとなんかしてないよ。さっき、言ってたんだ。いつか、ちゃんとお返ししたいって……」
一歩、一章は歩を進める。
「嘘……!」
都は信じられないという表情をしていた。穢に蝕まれた今の精神状態では、それは無理なからぬことかもしれない。
「町くん、自分が病弱だから井上さんにすごく迷惑をかけているって悲しそうだった」
それでもあきらめず、一章はまた近付く。
「そんなこと、町が言う訳…ないわ……!!」
それでもなお都は必死に首を振り、否定した。
「全部本当だよ。町くんは、井上さんを大切に思ってる。ふたりで話してみたらいいよ。きっと、解る。そうしたら、もう穢の力なんか借りなくていいはずだよ。弟を憎む必要なんてないんだ」
手を伸ばせば届きそうな距離まで一章は来ていた。都の目を見、できる限りの思いを込めて呼びかける。
「嘘うそウソ!!嘘よ!!!だって、だって町は言ったのよ!お姉ちゃんなんかいなくてもいいって……!」
彼女の脳裏をある記憶がフラッシュバックしていた。忘れようもないそれは一月前。
たまたまその日は学校の用事があり、町の元を見舞うのが遅くなってしまった。日はとっぷりと沈み、弟がひとりで心細い思いをしているのではないかと思った都は、病院へと急いでやってきた。そして、ドアの前まで来た時、偶然聞いてしまったのだ。看護婦と町の会話を。
「あら、町くん、今日はお姉さんが来ていないのね。寂しくない?」
「ううん、そんなことないよ。お姉ちゃんなんかいなくってもいいよ。ぼくはひとりでも大丈夫だもん!」
その言葉を聞いた瞬間、足元を支えていた確固たる物が崩れ、奈落に沈んで行くような感覚が全身を包んだのを都は覚えている。
その時の心許無さを喪失感を思い、都はぽろぽろと涙を零した。泣き濡れた瞳がきつく一章を射る。彼女の心は、完全に均衡を失っていた。
「町の為に私は生きてきたのに!町は私の全てだったのに!!そんな町に否定されたら、私は何を拠所に生きたらいいの──!?」
絶叫。
轟音。
「!!!」
刹那、激情を吸い上げ倍以上の数に膨れ上がって再生した触手が、容赦なく一章たちを壁に向かい押し流した。