Ⅲ
バスから降り、病院へ一章たちが着いた時には、日は沈み出し、宵闇が訪れ始めていた。
「こっちです」
都は一章と棗を、弟がいる小児科病棟へ連れて行った。その時、ふと一章は馴染んだ気配を感じて立ち止まる
「糸藤くん、どうかしました?」
「あ、うん。何か柘榴の気配がする……あっちから」
一章が指したのは自分たちがこれから向かおうとしている方向だった。
「柘榴さんって誰ですか?」
「ナツメとおんなじ、人形だよ。アキラのもうひとりの相棒なんだ」
棗の説明に都は納得したようで、それ以上は聞いてこなかった。
「もしかして、穢の気配を感じて先に来てたのかな」
そうしてまた歩いて行くと、目指す部屋の前に、見慣れた鮮やかな姿が立っているのが目に入った。声をかけるより早く向こうも一章たちに気付いたようで、振り返りこちらへと面を向けた。
「一章」
「柘榴、やっぱり来てたんだ」
「ああ、穢が居るのが解ったからな」
「そっか。これで全員揃ったね。井上さん、なかに入っても平気かな?」
「はい。大丈夫だと思います。町、入ってもいい?」
コンコンと、都は病室のドアを軽くノックした。すると、細い声で返事が返ってくる。
「お姉ちゃん?うん、いいよ……」
了承を得て、一行は病室内へと入った。
入室した一章たちが見たのは、寝台に腰掛けた青白い小柄な子供だった。顔立ちも雰囲気も都に良く似ている。病人らしく全体的に痩せていて、手も足も非常に細く、折れてしまいそうだった。この少年が井上 町。都の弟だ。
「お姉ちゃん、また来てくれたんだ。あ、その人たちは……?」
町は都の姿を見て嬉しそうに笑ってから、一章たちの方を見た。
「最近、町の具合が悪いでしょう。それを治してくれる人たちよ」
「お医者さん……?」
「少し違うけれど、そんな所かな。はじめまして、町くん。僕は糸藤 一章。お姉さんのクラスメートでもあるんだよ。今日は君の治療に当たらせてもらうね」
不安そうに首を傾げた町に、一章はにっこりと笑いかけつつ自己紹介した。
「ナツメっていうの、よろしくー!」
「……柘榴だ」
「お姉ちゃんや病院の皆以外のひとに逢うのって久しぶりで何か嬉しいな……。よろしくお願いします」
小さく町は頭を下げた。とりあえずは受け入れてもらえたらしい。
それを見てから、一章は隣にいた都に言った。
「早速だけど井上さんは外に出ていてもらえるかな」
その言葉は都を驚かせた。彼女は弟の傍についているつもりだったのだ。
「え、でも!町をひとりには……!」
「これから起こることはあまり普通の人には見せたくないから。穢と僕らの巻き込むことになってしまうかもしれないし」
食い下がり残ろうとした都を、一章は毅然とした態度で止めた。それはいつもの鷹揚な一章とは違う、人形遣いとしての顔だった。
「──解りました…町を、どうかお願いします……」
都はそんな一章の真剣な様子に気圧されたようで、仕方なくと言った体で頷き、静かに部屋を出ていった。
都が退室した後、町はふと泣きそうな表情をして一章たちを見詰めた。
「……一章さんは、ぼくの心のほうを治しに来たんだよね?ぼく、最近変なんだ。お日さまが沈むといつも意識が遠くなって──気がつくといつも血塗れで、お姉ちゃんが悲しそうな顔してぼくを見てるんだ……」
もうこんなの厭だよと、町は本当に悲しそうに呟いた。
「君のせいじゃないよ。君は病気に憑りつかれているだけだから。僕たちがそれを取り払ったら、もうそんなことはなくなるよ」
「本当?」
「うん。だから町くんは僕たちを信じてね?何が起きても驚かないで」
町は一章の言葉に頷いた。先ほどより表情が明るくなっている。
それを見て安堵した一章に、窓の外の様子を見ていた柘榴が進言してきた。
「日が沈むと穢の力が強くなる。今のうちに炙り出した方がいいのではないか」
「そうだね。じゃあ、結界を張ろうか。棗、お願いしていいね?」
「はいはーい!」
元気に返事して棗は目を閉じ、口訣を唱えた。
「<空精降霊>『現世よりこの空を、ひととき切り取り隔てたまえ』」
開かれた棗の瞳は紺色がかった銀。瞬間、ふわりと優しい風が吹いたかと思うと、病室を包む空気が変わった。備品も、窓の外に見える景色も何一つ変化しない。ただ、明らかにそれまでとこの場所は変っていた。
「結界で包んだからもうへいきだよ。この場所を切り取ったから、何してもおっけー!」
きゃらきゃらと笑った棗の瞳は、もう元に戻っている。さっきの眼色の変化は、呪人形の特技のひとつである召喚を使ったときに現れるものだ。自らの身に降ろす精霊等の種類により、その色は変化する。
「え、これ、何……!?」
町は突然の変化に気付き戸惑っているようだ。
「大丈夫だよ、ちょっと準備を整えただけだから。安心して」
「うん……。ねぇ、一章さん、これが終ったら、ぼく、お姉ちゃんに少しは心配かけなくてすむのかなぁ……。いつもぼくお姉ちゃんに迷惑かけてるから。いつか、元気になったらちゃんとお返ししたい……」
「町くん……」
一章はそっと町の髪に触れた。そして、優しくその頭を撫でる。
「君のその気持ちだけでも、井上さんは喜んでくれると思うよ」
一章はこの優しい少年を、穢の手から救ってあげたいと切実に思った。病気から彼を救うことは出来ないから、せめて。
「さあ、はじめるよ。目を閉じて力を抜いてね……」
言われたとおり、町は静かに瞼を落とした。
一章は、町の身体に腰の物入れから取り出した、様々な形の紋章が刻まれた珠を繋いだ術具をかけ、呪言を唇でもって紡いだ。
「天・地・人・海・冥。生命の円環、大道より外れたる者よ。正しき存在を歪むる悪夢よ。光輝をもって我は真実を照らし出さん。汝が隠るる影はなし。此所にその邪なる姿をさらけ出せ!破邪!」
一章の手が町の前で素早く印を切る。それに共なって全てを見通すかのよう眩い光が病室内に満ちた。
すると、町の身体ががくがくと細かく痙攣し出した。
「う…あ……」
小さく咽喉から苦鳴が漏れる。町はがくりと前に突っ伏した。身体の震えは止まらない。
「くぁ…うわぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
絶叫が響く。瞬間、どろりと闇が滲み出したのかと思われた。
それ程に暗い何かが町の身体から溢れ始めていた。やがてそれは形を取り始め、世にもおぞましい存在として実体化する。
褐色の肉に包まれた大きな目玉を中心に、幾筋もの同色の触手が絡み合いながら周りに長く伸びていた。そんな、生き物と表現することもはばかられるようなモノが、町の身体から生えている。それは華奢な少年の身体に根付いているだけに、余計に醜悪で気味悪く見えた。幸いな事に町は完全に意識を失ってしまったようで、目をつぶったままぴくりとも動かなかった。
「翳、か……」
化け物を見て柘榴がぽつりと呟いた言葉に、一章は耳を疑った。
「翳だって?そんなわけないよ…似ているけど……違う穢だ」
一章は首を横に振り、柘榴の言葉を否定しようとした。
それは認めたくないことだった。
「アキラ、エイってなぁに?どうしてそのケガレじゃないと思うの?」
「……翳は、親族に対する憎しみの情が凝って生まれる穢なんだ。そして、餌とするのも、自らを生んだのと同じ感情……。つまり、翳が憑りつくのは家族を憎んでいるひとなんだ」
「え……?」
棗もまた信じられずに目を見開いた。
先刻までの町の様子からは、そんなことは微塵も覗えなかった。むしろ、姉に対する申し訳なさや気遣い、そう言ったものに溢れていた。あれは全て演技だったとでも言うのだろうか。意識の底では、都を憎んでいたということなのか。
「一章、認めたくないのは解るが、真実を受け入れろ。目を曇らせれば勝てる戦いも勝てなくなるぞ」
「でも……」
「来るぞ、避けろ!」
言いよどんだ一章を、柘榴は鋭く叱責した。
ジ…と、奇妙な音を立てて、翳のひとつしかない目が一章たちを睨めつけたかと思うと、うねる触手たちが空を裂く打撃を繰り出してきた。
一章は間一髪でそれを避け、柘榴は向かってきた触手を叩き落してから、わたわたと慌てている棗の襟首を掴んで触手の一撃から助けた。
翳の攻撃は病室をめちゃめちゃに引き裂き、荒らした。壁は抉られ、床は砕け、備品はあちこちに散ってしまっている。
「わわ、ひっどーい。結界張っておいてよかったね」
棗の言う通りだった。結界がなければ今頃大惨事になっていたことだろう。結界を張り、位相をずらしたこの空間は、結界の外とは違う世界となっている。つまり、ここで何事が起きようと、結界を解いてしまえば何一つ現実に影響を残す事はないのだ。穢を相手にするときは、他人を巻き込む事がないよう、余程の緊急時を除いては結界を張ることがほぼ全ての人形遣いに義務付けられている。
「翳ならば炎に弱い。灼くぞ」
柘榴の言葉に一章は頷いた。踏ん切りがついたらしい。例えどんな事情があろうと、穢は倒さなければならないのだ。事情を聞くのはあとで良い、そう決めた。
「町くんは傷付けないでね、柘榴」
「当り前だ。誰に物を言っている?」
主の言を受け、柘榴は一歩足を踏み出した。
触手が獲物を認識して、喜々として彼に伸びる。
しかし、それは。
「遅い」
柘榴には届かない。
傍目には軽く左腕を振り下ろしただけに見えた。けれど、次の瞬間には翳の触手たちはずたずたに切り刻まれ、ただの褐色の肉塊となって辺りに四散していた。
何時の間にか柘榴の手には一振りの刀が握られていた。青白い燐光を放つ、美しい刀身。唾の部分にはびっしりと何らかの文字が刻まれている。見るからに曰くと力を感じさせる、そんな刀だった。
妖刀・布津。それが彼の刀に与えられた名。穢に妹を殺された刀鍛冶が、伝説の深山から掘り出された霊鉄を、神宿る滝の聖水で洗い清め、魔物の死骸を燃やした妖火で鍛え、最後に穢の血を注いで作った、ただ穢を切る為だけに存在する刀だ。百年以上前から柘榴と共に存在しており、呼べばこうして姿を表す。彼にとってはもうひとりの相棒のような物だ。それを瞬時に召喚し、柘榴は迫ってきた翳の触手を目に見えぬほどの早さで切り裂いたのだった。
翳は一瞬ひるんだようだったが、直ぐに触手を再生させ、もう一度柘榴に向かって攻撃を繰り出してきた。今度は数が倍以上に増えている。
「──これだから学習能力の無い輩は嫌いだ」
再び柘榴は布津を振るった。流水が舞うような、軽く無駄のない動き。ともすれば、美しい剣舞のようにさえ思える軌跡で、柘榴はことごとく翳の触手を屠った。
「成長がないからな」
キン、と音を立てて、刀を鞘にしまう。ここまでで一分とかかっていない。
翳はようやく、自らが対峙している者が尋常な存在でないと認識したようだった。だが、もう遅い。キィ、と耳障りな声を上げて翳が逃れるより早く、柘榴の手がその目玉しかない肉体を掴んだ。
「その存在を地獄で悔いろ──星焔」
刹那、蒼い炎が柘榴の指先に灯ったかと思うと、翳の身体へと移り、その醜い肉の体を白熱した熱と輝きでもって燃やし始めた。繋がっている町の身体は一切傷付けることなく、ただ穢だけを焼いてゆく。声にならない声を上げもがく翳に、一章は形代と呼ばれる札の貼られた人型を取りだし、向けた。歌うような言の葉が、朗と響き渡る。
「封縛!」
ぼろぼろになった翳は、抵抗することもできず、形代のなかへと吸いこまれていった。
そして、完全に形代が黒く染まった頃合を見て、呪符を張りつけ、完全に封印する。町の身体を傷付けずに済んだようだ。気絶したままではあるが、髪の毛の一筋にも衝撃は伝わっていない。そこまで終らせて、一章はようやく息をついた。そんな一章と柘榴に、棗が労いの声をかけてきた。
「おつかれさま。ふたりともすごかったね!ナツメの出番全然なかったよー」
「僕はただ封じただけだよ。ほとんど柘榴のおかげ。柘榴、ありがと──?」
柘榴の方に視線を向け、一章は訝しく思った。柘榴が鋭く眦を吊り上げたまま、布津を手に油断なく辺りに気を払っているのが解ったからだ。
「どうかしたの……?」
「一章は感じないのか?まだ終わっていない。穢の気配は残ったままだ。いや、もっと強く濃くなっている」
「え……!?」
言われて一章は周囲に感覚を巡らせ、気を読んだ。
「!!」
そして、悟る。
自分たちを包む、ねっとりとした闇の気配を。悪意や殺意、憎悪と言った、暗く淀んだ負の感情が、刺すように一章たちに注がれている。どうして今までこれに気付かなかったのか疑問に思った。こんなにもあからさまな穢の存在に、人形遣いである一章が気付かないはずがない。つまり、隠されていたのだ。町に憑依していた穢の気配も上手く利用して、一章たちが分かる事がないよう巧妙に。
その時、一章たちの耳に声が響いた。
「何だ、助けてしまった、のね……。そのまま…一緒に殺してしまえば良かったのに……」
それは彼らにとって聞き覚えのあるものだった。しかし、声音の奥に潜む隠し様のない邪念が、本来の美しさを潰し、周りを包んでいる気の如く淀んだものに変えていた。
部屋の唯一の出入り口であるドアの前の空気がゆらりと歪んだ。
まず見えたのは手。白く小造りなそれは女の手だった。続いてそれに連なる細い腕が現れる。ズ、ズズ……と、空を溶かす音を響かせて来訪した人物の姿に、一章たちは硬直した。
信じたく、ない。
先程町に憑りついているのが翳だと知った時以上の思いが、一章のなかにはあった。
だが、何度瞬きして目の前の人間を確かめても、現実は変わる事はない。
ゆっくりと、一章は彼の人物の名を口に上らせた。
「井上…さん……」
その声は乾ききった響きを伴って、病室のなかを伝わった。