竜神駅から南に徒歩で五分、一章の家からも三分ほどの場所に、その喫茶店はあった。
 楽園、とい意味の名前に相応しく、シャングリラは来る者の緊張感を解すような、穏やかな雰囲気を持つ店舗だった。柔かな色で統一された店内は、花や観葉植物が幾つも飾られ、目に優しい。流れている音楽はヒーリング効果のあると言われる物。全て店主が、日々に心すり減らす人々にとって、この店が少しでも癒しになれば良いという拘りをもって揃えたものだ。
 一章は依頼人との接触をする場所として、ほぼいつもここを選んでいた。依頼人のほとんどは穢によって精神的に追い詰められているから、その負担が少しでも減ればと思って。
 カランカラン
 ドアを開けると軽くベルの音が響いた。
 鼻を優しく擽るのは、煎れたての紅茶と焼き菓子の香り。
 一章はこの店の全てが大好きだった。
「いらっしゃい」
 入ってきた一章たちを笑顔で出迎えたのは、カウンターに佇む、店主の蘇芳 瑞貴。
 三十路前の若さながら、誠実で面倒見の言い人柄から近隣の住民に慕われている人物だ。
清潔そうに切り揃えられた黒髪と銀縁の眼鏡が、ほぼその優しい造作の面に浮かぶ微笑と相俟って、柔らかい雰囲気を醸し出している。
 一章が軽く会釈してカウンターに座ると、瑞貴は一章と棗の前にロイヤルミルクティーを置いてくれた。
「サービスですよ。棗くんが一緒と言う事は今日も"仕事"なのでしょう?奥の部屋を用意しておきましたよ」
「はい。紅茶、ありがとうございます。いつもすみません」
「ありがとーございますv」
 一章は出された紅茶をゆっくり啜った。猫舌な棗はふぅふぅ息を吹きかけながら、冷めるのを待っている。ちなみに柘榴は今ここにはいない。彼の容貌は非常に目立つ為、一章達とは別の場所で待機していた。
 店主の瑞貴は、かつて一章たちに助けられた経験があり、彼らの仕事のことも知っていた。それ故、こうして一章たちに協力をしてくれているのだ。瑞貴の好意に感謝しながら一章と棗がロイヤルミルクティーを飲み終わったその時、また玄関のドアについたベルが、軽い音を立てて鳴った。
 依頼人かと思い、其方に目をやった一章は、来客の姿を見て軽く目を見開いた。
 年の頃一章と同じ位に見える、少女。今時珍しいとも言える黒髪は、二つに分けられ縛られている。顔立ちは十人並み。真っ直ぐに伸ばされた背筋が真面目そうだ。来ている物は竜神高校の制服と革靴。スカートは膝下まで長く、絵に描いたような優等生、そんな印象だった。
「井上……さん?」
 思わず一章は少女の名前を口にしていた。
「アキラ、知り合いなの──?」
 棗に問われ、一章は頷いた。
 今入ってきた彼女は井上 都。一章の級友であり、クラスの学級委員長も勤めている人物だった。
 驚いたのは少女も同じだったらしく、小さく糸藤くん?と呟くのが解った。
「その本……依頼人って井上さんだったの?」
 都が手にしている赤い表紙の本・「人形たちの長い午睡」は、一章が依頼人の目印として、ここに来る時に持つよう指定したものだった。
「え、ええ。それじゃあ、糸藤くんが人形遣い、なの……」
 未だに都はその事実が受け止め切れていないようだ。一章は微苦笑した。それも無理はないと思う。学校での一章は、裏の仕事をまるで感じさせない、ぽややんとしたごくごく普通の男子高生なのだから。
「そうだよ、僕が人形遣い。井上さんには信じられないかもしれないけど……僕たちは井上さんを助ける力を持ってる。だから、向こうの部屋で話してもらえないかな」
 そう言ってから、優しく、一章は破顔して見せた。
 太陽のように暖かいその笑顔は、彼の言葉を素直に信じることができるような、不思議な力を伴っていた。
「糸藤くん……」
 都は首を縦に振ってから、一章に縋りつくようにして、言った。
「お願い!弟を、町を助けて!」
 その只ならぬ様子に一章は事態の深刻さを悟らずにはいられなかった。

 都をなだめてから、とりあえず一章は場所をシャングリラの奥、瑞貴に依頼を受ける時のみ借りている部屋に彼女を連れて行った。
 ソファに都を座らせてから、彼女の気持ちを少しでも解そうと一章は自己紹介をすることにした。自分はともかく、棗は都と初対面だから。それに今全て説明しておいたほうが、後で人形たちの超常的な力を見て彼女が混乱する事がないだろうと思った。
「えーと、知っていると思うけど、一応自己紹介。僕は糸藤 一章。穢という生物に憑りついて様々な害悪を成す存在を狩る、人形遣いをしているんだ。それでこっちが、僕の相棒のひとりで呪人形の──」
「ナツメだよ。こー見えても、アキラをサポートして、魔法とかバンバン使えるんだ。よろしくね、お姉さん!」
 棗は無邪気な顔で都の手を握り、ぶんぶんと振って見せた。
「アキラの友達なんでしょ?ならナツメとも友達だよね。名前、教えて」
 にこにこしている棗の明るさに、都の緊張はだいぶほぐれたようだった。微かに笑って自分のことを話す。
「井上 都です。糸藤くんとはクラスメートなの。仲良く…しましょうね」
「うん!名前はミヤコね。ミヤコミヤコ……うん、覚えた!」
 そんなふたりの様子にそろそろ話を聞いても良いかなと思い、
「それじゃあ井上さん、詳しい話をしてくれる?」
 ゆっくりと一章は事情を問うた。
 一章の言葉にこくんとひとつ頷いて、真剣な面持ちで都は話はじめた。

 彼女の弟、井上 町は身体が弱く、長い事入院していた。 両親は二年前に彼女たちを残して事故で死亡した為、ずっと彼女が弟の世話をしてきた。
 弟は彼女の全てと言ってもよかった。町が元気になること、それだけが彼女の望みだった。
 そんな弟がおかしくなり始めたのは、一月前。
 昼間は普段と変わらない、穏やかで優しい少年なのだが、日が沈むと人格が豹変し、勝手に何処かに行ってしまうのだ。しかも、発見されると決まって血塗れの姿をしていた。人間の血液でないことだけが唯一の救いだったが、それでも弟の奇行に恐怖を抱かずにはいられなかった。心配して精神科医に診てもらう事もしたが、まるで事態は変わらず、弟は毎日のように病院を出、きまって赤に染まった恰好で発見された。
 そして、三日前とうとう見てしまったのだ。病院を抜け出した弟が、近くの公園で鳩を捕まえ、生きたままその血肉を喰らっているところを。その時の弟の目は尋常ではなく、ぬらぬらと異常な光を湛え、まるで肉食の爬虫類のようだった。そこで彼女は悟った。弟は普通ではない、何かに憑りつかれている!と。
 そんな時、友達から風の噂で、そういう存在を払う力を持った不思議な人形遣いがいるという話を聞き、藁にも縋る思いでホームページを探しメールした──。

 そこまで話して都は黙り込んでしまった。
 話しているうちに三日前の弟の姿を思い出したのか、顔色は青褪め、身体が小刻みに震えている。一章は、そんな都の肩に手を置き、安心させるように言った。
「辛いのに話してくれてありがとう。それは間違いなく穢だと思う。僕たちの領域、だ。弟さんは僕たちが必ず助けるよ。病院に連れて行ってくれるかな」
 こくこくと都は何度も頷く。
 ただひとりの家族が変わってしまい、彼女はどんなに心細い思いをしただろう。そう考えると胸が痛んだ。同時に姉弟の情を引き裂いた穢を、心から許せないと思った。
 一章は立ちあがる。
「行こう」
 普段は揺るがない穏やかな眼差しに、強い感情を秘めて。

 一方。
 一章たちと別れて待機していた柘榴は、ほんの僅かに穢の気配を感じ、それを辿りある場所にやって来ていた。
 柘榴は少し特別な人形で、通常なら主と長く離れては動く事が出来なくなるのだが、体内に特殊な機関を備えている為、一章と離れてもこうして動く事が出来た。その能力を生かし、彼は時折、単独で穢を狩る事もあった。
「ここか……?」
 長い銀髪を夕暮れの風に靡かせながら、柘榴は眼前の建物を見上げた。
 人が多く出入りする白い大きな建物。生と死、その両方が強く在る。
 なるほど、これならば穢が好むのも無理はないか──そう思いながら、柘榴は穢の気配の源がいるであろう場所を目指し、病院の入り口に足を踏み入れた。

「あれ?ザクロいないよ──?」
「おかしいね。シャングリラの外で待っててねって言ったのに。また一人で行ったのかな」
「どうする、アキラ──?」
「仕方ないよ、僕たちだけで行こう。呼んだら直ぐに来てくれるだろうし」
 人形遣いと人形は、精神的に繋がりを持っており、思っている事や感情などを伝えようと思えば伝えることができる。だから一章は柘榴の姿が見えなくとものほほんとしているのだった。
 一章たちは、そのままバスに乗り込むと、一路私立総合病院へと向かった。

 

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