第1話 心の闇に潜むもの
Ⅰ
「ここ、ね……?」
少女は、パソコンのディスプレイに映し出されたホームページに見入った。
白い背景に、古めかしい洋屋敷の画像。『人形館』とタイトルが振られている。
一見、人形に関する趣味のホームページのようだが、このサイトがただのそれでないことを彼女は友人から聞き、知っていた。
人形師紹介、更新履歴、日記といったごく普通のコンテンツに混じって、相談所、という名前のコンテンツが有った。そこをクリックすると、『パスワードを入力してください』というスクリプトが立ち上がる。
キーボードを叩き、教えられたパスワードを打ち込む。
「人形たちの長い午睡、と……」
パスワードが認証されると、画面がふっとブラックアウトし、黒い背景に白文字で何行かの文が書かれたページに飛ぶ。
そこにはこう書かれていた。
『心の闇より彷徨いでた者に悩まされる方へ
相談内容、お名前、連絡先を記入の上、[email protected]までメールをください。
一律五千円前後(応相談)にてあなたのお悩みを解決いたします』
それは、このページのことを教えてくれた友人の言葉通りだった。
少女はメールボックスを開くと、早速メールを書き始めた。
<始めましてこんにちは。私は井上 都といいます。
相談内容は、近頃様子がおかしい私の弟を何とか助けてやって欲しい、それだけです。
弟の状況は────です。連絡先は……>
書きあがると、そのメールをすぐさま送信する。
全身全霊祈りを込めて。
例えどんなに不確かでも、最早彼女にはここしか頼る場所がなかったのだ。
闇に捕われた、弟を救うためには。*****
麗かな春の午後。
糸藤 一章は、ぼんやりと帰途を楽しんでいた。
一章は今年高校一年生になったばかりの十五歳の少年だ。同年代の少年たちに比べ、細身で小柄な一章は華奢な印象が強く、ぱりっと糊の利いた黒の詰襟は彼には少しサイズが大きいようだった。ぼんやりとしたところはあるものの、母親譲りの柔らかい顔立ちの所為か、その特徴は穏やか、優しい、といった好意的な目で見られている。
晴れ渡った青い空と白い雲を仰ぐ瞳は、黒真珠の様に不思議な輝きを点していた。亜麻色の癖のない短髪が、爽やかな春風に煽られ微かに揺れる。
(今日は帰ったら何しようかな……)
髪の毛をそっと抑えながらそんなことを考え、歩く。
(棗と遊ぶのもいいし、千珠さんのお手伝いもいいな。あ、そうだ。昨日途中でで出来なくなった柘榴とのオセロの続き、やりたいな)
徒然な考え事のなかで浮かんできた名前は、皆、一章と共に暮らしている家族同然の者たちのそれだった。彼らの顔を思い浮べると一章の表情は自然と笑顔になる。
(早く帰ろう)
帰る足を少し速め、一章は家へと向かった。竜神市でも指折りの高級マンション「ブルーパレス竜神」。その四階、日当たりの良い角部屋が一章の『家』だ。
エスカレーターで目的の階まで昇り、ドアを開ける。
「ただいま」
「あ、アキラだ──v おかえりなさい!」
ドアを開けるなり一章を迎えたのは、肩までの金色の髪を持つ子供だった。柔かな薄水の瞳が喜びの色に輝いている。 年の頃は十二、三才といったところ。一章より頭一つ分は小さい身体を包むのは水色の水兵服のような襟を持つ白い半袖のシャツ。同色の半ズボンからは細い未発達な足が覗いていた。
「棗、良い子にしてた?」
「うん、ナツメいいこにしてたよ──!ほめてほめてv」
一章がよしよしと頭を撫でて上げると、棗と呼ばれた子供は心底嬉しそうににこりと笑った。
「ところで棗、柘榴は?」
「ザクロ──?うんとね、お部屋でねてる」
「そっか。じゃあ、起こすのも悪いよね」
と、一章はオセロの続きは後に回す事にした。
「ねーねーアキラ。おやつ食べよう?今日のおやつはね、バナナクレープだったんだけど、アキラが帰ってくるまで待ってたの。一緒に食べよ?」
強請るように棗は一章の学生服の袖を引く。棗の芭蕉好きを一章はよく心得ていたから、そんな彼が自分を待っていてくれた事をとても嬉しく思った。
リビングに行けば、卓子に二人分のバナナクレープが皿に乗って置かれていた。作った人間のセンスの良さが覗える、食欲をそそる盛りつけ。
「美味しそうだね。じゃあ、早速食べようか」
そうして棗とふたり、テーブルに着こうとしたその時、
「お帰り一章くん」
ひょい、と簾を上げて、二十代半ばほどの男性が姿を現した。
艶やかな黒髪を緩く一つに束ね、肩から下ろしている。身に付けているのは、整った細面に良く似合う濃紺の着流し。眦が美しく切れ上った黒瞳が印象的な、そんな人物だった。
男の名前は麻生 千珠。
一章の保護者を務めている、若いながらも高名な人形作家だった。
「ただいま、千珠さん」
「そろそろ帰ってくる頃だと思っていたよ」
一章が笑顔で挨拶を返すと、ふ、とほんの微かに千珠の瞳が和らぐ。しかしそれは直ぐに厳しさを秘めた無表情に戻り、一章にある言葉を告げた。
「── 一章くん、帰ってきて早々だけれど仕事だ」
瞬間、一章の雰囲気がごくごく普通の高校生のそれから、全く別のものへと変化する。
ホームページで依頼を受け、依頼を果たす、仕事人の雰囲気へと。
一章の仕事──それは、心の闇の化身・穢と呼ばれる精神生命体を狩ることだ。そのなかでも人形を操り戦う一章たちのような人間は、人形遣い、と呼ばれている。
また、この家に居る全員が一章の仕事の協力者だった。千珠は人形遣いと人形をサポートする人形師。そして、棗とまだ登場していない柘榴は── 一章の相棒の人形だった。
「それ、本当?」
「ああ。相談内容からしてほぼ穢の仕業と見て間違いないようだ。行ってくれるかい?」
「うん、大丈夫。直ぐに出られるよ。ごめんね、棗。折角待っててくれたけど……バナナクレープを食べるの、あとになりそうだ」
「ううん、いいよ。お仕事のあとのが美味しいもんね!」
「そうだね。あっと、仕事に行くなら柘榴を起こさなきゃ」
一章は柘榴が寝ているであろう部屋に向かい、部屋の中を覗き込んだ。しかし、そこに求める姿はなく、ただ空っぽの寝台があるだけだった。
「あれ?」
訝しげに一章は首を傾げる。すると。
「一章、仕事に赴くのだろう。仕度は出来ている」
後ろから玲かな声が掛かった。一章は、はっとして振り返る。
一章の背後に、ひとりの青年が立っていた。
見た目は二十歳前といったところ。彼の流れる髪は腰元まで長く伸びた、凍てつく銀の滝。黒いタートルネックのトレーナーにはらりと落ち掛かっている。一章を映すのは鋭い紅玉の睛。白い陶器のような膚と全く隙が無いほどに冷たく整った顔の造作の所為か、見る者にどこか無機な印象を与えた。
柘榴。それが彼に与えられた名前である。
一章を主人とし、彼と共に戦う、戦人形だ。
「柘榴、寝てたんじゃなかったの?」
答えるより早く、柘榴は玄関先に向かって歩き始めていた。
「暇だったからな、少し転寝をしていただけだ。だが、お前の気配を感じて起きないほど、私は間抜けではない。さあ、一刻一秒でも時は惜しいだろう?行くぞ、一章」
穢が絡むと柘榴の行動は早い。
それは彼の穢に対する思いの強さゆえ。
そして、柘榴なりの正義感の現われでもあった。
その事を良く知っている一章は苦笑しながら、棗を伴い、柘榴の後を追って部屋を出た。
「行ってきます!」
と、千珠に言い残して。向かう先は、依頼人が待つ喫茶店・シャングリラ。
日はゆっくりと西に傾き始めている。
夜が、始まった。
闘いの夜が──。