「精英社、小野でございます」
オフィスに響き渡る悦美の声は、澄んでいるとは言い難いが、パワフルな声である。
この会社では、初めての女性管理職であった。
企業人としては特別優秀ではないが、悦美の若い子を育てていく指導力が評価された結果だった。
管理職になったとは言え、悦美は、いつも笑い、部内には笑い声が絶えない。
仕事面では、充実した毎日を送り、円熟な時を迎えている。
私生活の方は、気ままなシングルライフを満喫しているかの様に見えた。
公私共に満ち足りた生活が、悦美の自信の源になっている。
早くに結婚した紗枝とは、その性格も正反対ではあるが、相性が良いのか、同期でも親しくしていた。
同期の女の子達が、寿退社していく中で、悦美も焦りを感じなかった訳ではない。
結婚を考えた相手も居た。
「ものはタイミングだから」
結婚しない理由を問われた時、悦美はそう答えていた。
「部長〜、内線に、電話〜入ってます〜」
甘ったるい声で悦美を呼ぶ新入社員に、「ちっ」と小さな舌打ちをし、眉間にしわを寄せて「後で、注意しないと」、そう思いながら受話器を取った。
「小野でございます」
落ち着きのある、それでいて貫禄の溢れた声である。
『あっ、悦美?』
紗枝が、囁く様に、話しかけた。
『あのね、明日の夜なんだけど』
内線での私用電話は、めずらしくない。
紗枝とは部署も階も違うため、紗枝は良く内線電話をかけてくる。
『この前の"大人の合コン"で知り合った人達と小さなパーティーを開くの』
「私は、遠慮しておくわ」
『えっ〜。 悦美が一緒じゃないと、ダンナが出してくれない。 それに……』
「それに??」
『悦美を連れて来てって言われているのよ』
「私を? 誰が?」
『悦美って、人気あったのよ。 ふふふ』
紗枝が意味ありげに笑う。
誰だろう?
少し考えて返事した。
「わかった。 会議があるから、遅れるけど、それでもいいなら行くから」
電話を切った後、紗枝の「人気があったのよ」と言う一声に照れている自分に気がついた。
「紗枝も見えすいたお世辞を言う」と半ば呆れながら、また厳しい顔に戻った。
どこに行く時でも、どんな時でも、悦美は紗枝の引き立て役だと思っている。
いつでも、注目される紗枝をうらやましいと思うが、紗枝と居るのは、嫌ではない。
紗枝の交友関係の広さは、悦美の交友関係の幅を広げてもいるからだ。
「明日の夜かぁ」
ぼんやりと、斉藤和哉は来るのだろうかと、考えていた。
そんな自分に苦笑する。
「遅くなって、すみません」
悦美が会場に着いたのは、約束の時間から、一時間は過ぎていた。
一度に参加者の注目を浴びたのが、気恥ずかしい。
「小野さん、お待ちしていました」
津山がはしゃいで言う。
まるで、今夜の主役が悦美であるかの様に、皆が悦美を囲んだ。
参加者の顔を見回しても、ほとんどが知らない顔だ。
知らないと言うよりは、覚えているほど印象的では無かったと言う方が近いだろう。
津山と、人の輪から少し離れた所に居る斉藤和哉を除けば、初対面と言ってもいい。
前回よりも少人数のせいか、アットホーム的な雰囲気が、悦美には心地よかった。
「悦美、ちょっと……」
談笑している悦美を、紗枝が店の隅に誘う。
「どうしたの?」
「少し困っているの……」
はっきりとは、言いにくそうに、紗枝が話す。
「斉藤さんがね、この後、食事に行かないかって」
「行ってくればいいじゃない」
「悦美も一緒に行ってくれるんでしょ?」
「う、うん……」
斉藤和哉は、紗枝と行きたいのだろう。
自分が、紗枝の"おまけ"になる事が、悦美には、気が重い。
何故、嫌だと断らなかったのだろう。
お開きまでの時間、悦美は断る理由を考えていた。
仕事が残っているから。
人と逢う約束をしているから。
思い浮かぶ理由は、どれも子供っぽい。
嘘だと、すぐにばれそうなものばかり。
もっともらしい言い訳が思いつかないまま、時間だけが過ぎていく。
「紗枝……。 私、この後の……」
悦美が、紗枝に声かけた瞬間、津山が声かけた。
「小野さん、二次会行きますよね?」
二次会。
いい口実が見つかった。
何故か、悦美はほっとしている。
紗枝の"おまけ"になる事も気が重いが、何より斉藤和哉と一緒なのが、気が重たい。
「行くわよ」
津山に笑顔で答えた。
「二次会は、カラオケだそうですよ」
カラオケか……。
歌うのは嫌いじゃないが、あまりカラオケはしない。
それでも、断る口実が出来た事で、気持ちが軽くなっている。
「紗枝……」
人の輪の中心に居た紗枝を呼び出し、一緒に行けない事を伝えた。
「あら、食事に行くのは、二次会の後よ」
あっけらかんと言う紗枝の言葉に、さっきより一層、気持ちが重くなっていくのを感じる。
二次会に向かうために、会場から外に出ると悦美の足下に風がからみつく様だった。