「おい、香山!お前、青い顔しているけど、まさか道明寺社長を怒らせたんじゃないだろうな?」
会社に戻ると背後から、大杉先輩がからかってくる。
「だ、だ、大丈夫ですよぉ〜」
「本当か? お前には前科があるからなぁ」
「あの時怒らせたのは、私じゃないですぅ」
ぷっとふくれながら、反論する。
あの日以来、大杉先輩は道明寺さんの名前が出ると、過敏に反応する。
確かに、私と道明寺さんの出会いは最悪かもしれない。
げげっ、思い出すだけでも、冷汗が出る。
あれは1年前。
まだ編集アシスタントだった頃、大杉先輩に連れていかれた財界のパーティ。
主催企業のジュニアが先輩の友人で紹介されたらしい。
あの頃の私は、ビジネス系の雑誌を担当しているくせに、財界のことなど何も知らなくてその会社のことさえ知らなかった。
仕事を結婚するまでの腰かけ程度にしか考えてなかったのだ。
そんな私をあんな大きなパーティに連れて行く先輩もかなり無謀なんだけど。
場の広さと人の多さに圧倒されて、緊張感は最高潮。
それに慣れないロングドレスに気を取られて気がついた時には、先輩とはぐれてる。
先輩、どこ行っちゃったんだろ……。
ほとんど半ベソ状態で、広い会場を人をかき分けながら歩いていた。
「もぉー、ドレスってどうしてこんなに歩きづらいのよぉ……」
一人言をいいながら、先輩を探し歩くと、いるはずもない見覚えのある顔が見えた。
「えっ?樹?」
樹が日本にいるはずはない。
だって、樹はNYにいるんだもん。
牧野 樹は、学生時代からの恋人で、4年も付き合っている。
いくら遠距離恋愛でも、恋人の顔を見間違えるはずない。
樹に似たその人の姿を追っていこうとした時、誰かにぶつかった。
「きゃあ! ご、ごめんなさい!」
その瞬間、周りの雰囲気が凍りついたようだった。
な、なに? この雰囲気……。
ぶつかった相手が手にしていたワインが、相手のタキシードにも自分のドレスにもこぼれていることに気づくまで、少し時間がかかった。
「き、き、君!道明寺様になんて失礼なことを!!」
引きつった顔で駆け寄ってきた男に、どうして怒鳴られているのか、私にはわからない。
ただ、機械的に「すみません」を繰り返していた。
先輩とはぐれた心細さと何が起きているかもわからないのに怒鳴られていることで、私は泣くしかできなかった。
「もーいいだろ」
低い怒りのこもった声でその人は吐き捨てた。
「し、しかし、道明寺様……!」
「こいつも悪気があった訳じゃねぇ。 俺がいいと言えばいいんだ」
「しかし、ですね……」
「いい加減にしろ!」
その状況が理解できないで、泣きじゃくる私にも、その人の低く通る鋭い声が突き刺す。
ビクッ。
「お前、どこの社の者だ? この道明寺司に、まだ言いたいことがあるのか?」
一喝された男はすごすごとその場を離れていく。
知らないってことは本当に怖いものだ。
この時の私は「道明寺司」なる人物が、どういう人かさえ知らなくて、ただオロオロと泣いていた。
立ち竦んで動けなくなった私を、バルコニーのほうに引きずっていく。
「悪かったなぁ……気にするな」
少しの沈黙のあと、その人は優しく言ってくれた。
「……ほ……本当に……すみません……」
「俺のことより、お前のドレスのほうが染みになるだろ」
「わ……私なら……大丈夫です……」
涙が止まらない。
「もう泣くな……」
そう言って、私の頭をくしゃくしゃとなでる。
高そうなコロンの香りと、タキシードに染みたワインの香りが、とても優しかった。
これが、私と道明寺司の初対面だ。
正確に言えば、まだ続きがある。
バルコニーで、私が泣きやむのを待っていると、大杉先輩がものすごい形相で走ってきた。
私が道明寺司に怒鳴られたと思っていたらしい。
「か、か、香山! お前、何したんだ?」
「先輩……」
「うちの香山が何か失礼なことでも……」
「いや、何もない。 それより、こいつ借りるから」
その人の突然の言葉に、私も先輩も驚きは隠せない。
「丁度、パーティにも飽きてたところだ。 食事につきあえ」
とても、嫌ですって言える雰囲気じゃない。
「お前、名前は?」
「……香山麗です」
「香山……。 ふーん」
何か考えている。
「よし、まずは麗の着替えを買いに行くか」
そう言って、いきなり手を取り歩き出した。
その横顔、似ている……誰かに似ている……。
って、それより、これからの私はどうなるのか、予想つかないまま……呆然とする大杉先輩を残して、会場を後にした。