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Ⅲ.不信

ホテルの部屋に戻ったとき、何のためらいもなく、健人も一緒だった。
「これからの予定を立てよう」
出発前、予定らしい予定を立てていなかった。
気ままな一人旅だから、朝起きたときの気分次第で、出掛ければいいと……。
「うん」
里香は気のない返事をした。
ふわふわと、安定感のない、居心地の悪さ……。
健人がそばにいる。
恋しかった健人がそばにいるのに、雲を掴むような気分。
「日曜日には、郊外へいこう。 フレデリクスボー城、行きたがっていたよね? ヘルシンキには、いつ行くの?」
「木曜から、一泊よ」
「じゃあ、水曜と土曜の夜は、一緒に食事をしよう」
夢の中にいる気分だ。
健人の声が、遠くになる。
「今夜は、もう帰るよ。 ゆっくり寝て、旅の疲れをとってね」
「ありがとう」
「水曜の夜、6時に迎えに来るから」
そう言って、健人が部屋のドアを閉めた。
里香は、全身から力が抜け、ベットに横になる。
激しい倦怠感が、全身を包む。
目覚めた時には、朝が来ていた。
曇りがちの北欧にしては、気持ちのよい晴天の日だった。
雨の日本を立ち、今デンマークにいる。
今日は、靴を買いに行かなくちゃ……。
石畳の街を歩くには、ハイヒールは合わない。
両替所にも行かないと……。
慌ただしく着替えを済ませ、朝食のために階下に降りる。
重厚なインテリアでまとめられた食堂で、食事を楽しみながら、ゆったりとした時間を楽しむ。
11時過ぎにホテルを出た。
風は冷たかったが、心地よい。
ストロイエの商店街は、昨夜の賑わいが、ウソのように、穏やかな空気に包まれていた。
駅までの道のり、昨夜健人と歩いた街中は、違う顔で里香を見つめている。 広場のベンチに腰掛け、人の往来を眺めていると、足早で歩いている自分が滑稽だと思った。
王立劇場、クリスチャンボー城、旧証券取引所、足の向くまま、観光スポットを見てまわり、街のいたるところにあるベンチに腰掛け、街と一体化するように呼吸する。
人の微笑が、優しい。
夜は、バレエ鑑賞を楽しむ。
優雅な時間に、酔いしれていた。
約束の水曜日。
街の中を歩いていると、どこも美しいと思う。
歩きながら、敦史のことを考えている自分に気がつく。
この街の風情を、敦史に話したら、どんなに楽しいだろうと……。
「敦史を愛していた」
自分の感情が、過去形に変わっていることを、里香は感じた。
新しい自分が始まる。
遠回りをして、ホテルに戻った。
健人が迎えに来る前に、シャワーを済ませ、時が来るのを待つ。
部屋の電話が鳴った。
「Hello」
心臓が激しく波打つのがわかる。
『里香? ……俺』
電話の相手が健人だとわかり、ほっとした。
『今、アパートに帰ってきたんだけど……お願いがあるんだ』
今夜の約束はなかったことにして……ね、きっと。
里香は、落胆を隠せない。
「なに?」
『アパートのシャワーが使えないんだ。 部屋のシャワー、貸してくれる?』
里香は、苦笑した。
「いいわよ。 早く、いらっしゃい」
『30分くらいで行くから』
30分後、部屋をノックする音がした。 
入り口には、少しはにかんだ顔で、健人が立っている。
実験で農場に行って来たという健人から、かすかに、家畜の匂いがした。
「どうぞ」
健人がシャワーを浴びている間、里香は落ちつかない。
さっぱりとした顔で、健人がベットに横になる。
不思議と、その姿に"男"を感じなかった。
「ねえ、里香?」
「まだ、なにか?」
「……マッサージしてくれない?」
ほんとうに、健人は無邪気だ。
里香は、呆れながら、マッサージをする。
すやすやと、健人の寝息が聞こえる。
その寝顔を見ていたら、健人が愛しくなった。
なにか宝物でも手に入れたかのように、この時間を大切にしたいと思う。
「お腹、空いたね……」
健人が目覚めるのを待っていたかのように、つぶやいた。
ニューハフンの少ししゃれたレストランに、食事に出かけた。
メニューを見ながら、健人がバツの悪そうな顔して言う。
「俺、金ないんだ」
「今夜は、わたしがご馳走してあげる。 美味しいものを食べましょう」
安心した顔で、健人がオーダーを通す。
このとき、里香には、2つ目の小さな不信感が芽生えている。
まだ、そのことに、里香は気がついていない。

( 2006/11/13 )

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