夏の盛りに、税理士試験は行なわれる。
試験の前日、遠足に行く前の子供のように、里香は興奮していた。
一度は、あきらめたものだ。
絶望感で、闇をさまよっていた日から、想像できないほど、清々しい気分だった。
勉強不足は、充分承知している。
それでも、目標を見失うことなく、この日を迎えられたのは、健人の影響が大きい。
試験が終わったら、健人に逢える。
心は、デンマークへ、そして来年の試験へと飛んでいた。
季節が、夏から秋へと変わり、里香の周辺にも変化があった。
3ヶ月だった契約が半年に延長された仕事も、無事終了し、次の仕事も決まっている。
授業も、新たな気持ちでもスタートし、着々と、実力をつけていく。
11月のデンマーク旅行を楽しみに、充実した毎日だ。
旅立ちを翌日に控え、里香は不安を隠せなかった。
空港に迎えに来ると、健人は言うが、逢えるのだろうか?
本当に、健人は逢いたいと思っているのだろうか?
里香の心の中に落とす、大きな影。
今度のデンマーク行きは、何かが変わると、里香は直感している。
敦史のこと、和志のこと、健人のこと…そして、自分自身。
大きく変わる予感がする。
期待と不安で、空港へ向かうのだった。
北ウィング。
出発ロビー。
雨が降りしきる。
まるで里香の心を洗い流すように。
純粋な気持ちで、健人に逢える。
胸が躍る。
10時間のフライト。
それが長かったのか、短かったのかは、里香にはわからない。
飛行機の窓から見えるコペンハーゲンの街並だけが、里香を迎え入れてくれる気がした。
出口に急ぐ足取り。
高鳴る鼓動。
出口のドアが開いた時、里香は深呼吸をした。
「里香! ようこそ、コペンハーゲンへ」
「はじめまして」
初対面の挨拶をするのが、気恥ずかしい。
写真で見るより、電話で話すより、ずっと、子供っぽく見えた。
目の前にいるのは、健人なんだろうか?
「電話の声と同じだね?」
無邪気に笑う、健人。
写真でも、カッコよかった。
目の前にいる健人は、もっとカッコよかった。
不思議な気がする。
健人がそばにいることが、信じられない。
逢いたいと願ったことが、うそのように思える。
「長いフライトで、つかれただろう?」
心臓の高鳴りが、健人に聞こえそうだ。
言葉少なくなる里香は、列車を待つ間、煙草ばかりふかしていた。
健人は、一方的に話している。
「お腹、空いていない? なんでも遠慮なく言ってよ」
気が遠くなっていく。
健人の後ろを付いていくのが、精一杯だった。
健人に促されて、列車に乗る。
コペンハーゲンの中央駅に向かうはずの列車が、暗い街並を走っていく。
「あっ、間違えた!」
突然、すっとんきょな声を上げた。
「えっ? どこに行っているの? この列車?」
「俺のアパートのほう」
緊張感が解けた感じがする。
小さな駅を素通りした時、健人が呟いた。
「この駅から歩いて1分くらいのところに住んでいるんだよ」
日本の京王線を思わせるような場所だ。
健人の住んでいるところ。
里香の知らない健人が存在する街。
胸が切なく、締めつけられる。
「次の駅で降りるから」
健人の後ろから、列車を降りた。
東京の雑踏とした駅とは違った、静かな駅だ。
時間がのんびりと流れている。
予定より1時間も遅れて、中央駅に着く。
「とりあえず、ホテルにチェックインして、荷物を置いてから出かけよう」
夜が長い北欧の街らしく、駅の周辺は賑やかだ。
不夜城の東京とは、また違っている。
コペンハーゲンに着いたと、里香は実感した。
ホテルにチェックインしたのは、空港についてから3時間も後だった。
中央駅からホテルまでの間、また道に迷ったのだ。
そんなことなど、健人は気にしない。
屈託のない笑顔に、なにか誤魔化されている。
すっかり、健人のペースに、里香は戸惑った。
小さな不信感が芽生えたことに、里香も気がついていなかった。
有名な歩行者天国を二人で歩く。
クリスマスの装飾に彩られた街を通りぬけ、デンマーク料理への店に案内された。
テーブルを挟んで向き合い、初対面なのに、再会を祝すように、乾杯する。
その景色も、健人の話も、新鮮な驚きを運んでくる。
ただ、健人と肩を並べて歩くことに、抵抗を感じながら、それでも、ココに来てよかったと思う里香だった。