札幌 転勤 家庭教師

Ⅲ.夢想

静寂の闇が、電話のベルによって破られた。
『Hello、里香?』
電話の向こうに健人がいる。
「健人なの?」
『わがまま言って、ごめんね』
「ううん。 ほんとは、私も健人の声が聞きたかった」
素直な気持ちで、健人と向き合っている。
写真から想像していたより、健人の声と話し方は幼かった。
そう、健人は、里香より10歳も若いのだ。
改めて、「若い」と実感する。
受話器を持つ手が、かすかに震えていた。
『里香が、もう話せないなんて言うから』
「ごめんね……」
寝ている和志に気が付かれないように、遠慮がちに話す。
寝室から離れた書斎で話していても、気づかれることないはずなのに、秘密を持った後ろめたさで、自然と言葉を選んでいる。
『里香にとって、俺は、バーチャルだけの存在なの?』
「わからないわ…。私は、健人のこと、なにも知らないもの。あなたの肌の感触も。あなた自身も』
ただ、受話器を通して、健人の息遣いが聞こえて来た。
パソコンという機械の中だけの存在だった健人の気配を感じる。
たしかに、健人が存在する。
日本から遠く離れた異国の地であろうと、健人という人間が存在していることを里香は感じた。
『里香は、俺のこと、好き?』
「好きよ。 切なくて、泣きたくなるくらい好きよ」
言葉にうそはなかった。
偶像に恋した里香には、恋することが切ない。
愛しい。
恋しい。
忘れていた感情。
敦史以外を愛せるはずがない。
それでも、健人を求めている。
里香の心が揺れ動く。
『そんなに好きなの? ……うれしいよ。 里香に嫌われのかと、心配だった』
「ううん、好きよ。 でも……」
『でも?』
「あなたを愛しそうで、怖いの」
『愛?』
「あなたは、私を愛さないのに」
『どうして?』
「だって、健人には、日本で待っている恋人がいるでしょ? それに、わたしは健人にふさわしくない」
健人にとって、里香は恋愛の対象にならない。
里香は、そう思っていた。
敦史のときと同じように、年上であること、離婚歴があること。
すべてが障害のように思える。
『俺は、里香に逢いたい。 一度も逢ったことないのに、里香を好きだと言っている。 これは愛なのかな?』
「あなたが、私に興味を持ったのは、私に何人ものセックスフレンドがいるからよ。 私を愛しているわけじゃない」
健人を拒絶しようとする心。
悲しい事実だった。
心を許し、なんでも話せる友人の一人ではあるが、恋愛の対象になるはずがない。
健人に拒絶される前に、壁を作っている。
防衛本能が働く。
『里香を好きだと言うことは、いけないことなの?』
「それは、愛情でしないわ、友情よ」
『友情?』
「そう、健人は、大切な友達だわ」
健人に、そして自分に、言い聞かせる。
二人の関係は、仮想の世界にある友情なんだと。
パソコンから、飛び出したとはいえ、現実の人間関係ではないのだと。
里香の口調が、どことなく機械的になっていく。
『里香をもっと、近くに感じたい。逢いたい。里香に逢いたい』
自身の感情をストレートにぶつけて来る。
健人の若さが、里香には怖かった。
「私も逢いたい。でも、遠すぎる」
静寂が、二人を包む。
『愛している』
耳を疑った。
「愛してる? 私を?」
『どんな愛かはわからないけど……』
一瞬、言葉に詰まった健人が、一気に言葉を吐く。
『愛してる。 そう言わずにはいられない』
夢だ。
これは、夢なのだ。
健人が私を愛するなんて、夢を見ているに違いない。
驚きを隠せずに、里香は言葉を失った。
「愛してる」
その一言が、里香の心を温かくする。
暗闇の中を歩きつづけた里香を優しく包む。
健人の存在を感じている今、甘い夢の中へと、誘われていく。
『怒っている?』
「ううん。健人は、私にとって、心の安らぎよ。だから、大事にしたいと思うの」
『また、話せるよね?』
「うん」
里香の心は、とても穏やかだった。
季節は、いつのまにか、春から夏へと変わっている。
そして、里香の心も、寒い冬から春が来たようだった。
硬い殻を破り、蝶になっていくさなぎのように、里香は美しく変わる。
気力も精神的にも充実した日々を取り戻し、以前のように自信に満ちた姿があった。
甘い夢が、永遠に続くと信じて。

( 2006/10/18 )

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