淡い「恋心」を抱いたのは、いつからだろう。
「きれいになった」と、友人の何気ない一言で、里香は、健人に「恋」していることに気付いた。
だけど、抱いた恋心が、偶像に対する恋心であることは、冷静に感じている。
健人とは、逢うことがない。
ネットの中の存在である健人に、実際に逢うことはないはずだ。
それが、里香の中では、小さな安心感となっていた。
現実の健人と逢うことがなければ、「恋」が「愛」に変わらない。
里香は、それを知っている。
愛するものに拒絶される絶望感を、二度と経験したくないと思う。
遠く離れ、年齢差のある健人が、現実の恋愛対象には、なり得ない。
里香は、そう信じていた。
試験前の緊張から、開放される時間。
健人と過ごす時間は、心の安らぎだった。
『やあ、里香』
今夜も健人がアクセスして来る。
『勉強、頑張っているかい?』
「休憩中(笑)」
『邪魔になったら、いつでも言ってね』
健人の心遣いがうれしかった。
「息抜きも必要だった言ったのは、健人でしょ?」
健人のアクセスを、いつしか待っている。
二人の会話は、日を増すごとに親密になっていく。
「逢いたい」と言うことばを先に口にしたのは、健人だった。
遠く離れている二人が逢うことは、不可能だ。
手に届くような気がするほど、健人の存在は、身近になっているが、現実の姿はわからない。
この不安定な感覚が、バーチャルの人間関係なのだろう。
健人に心惹かれることに、戸惑いながら、仮想と現実の区別がつかなくなっている。
「逢いたい」と言う気持ちと、「逢えるはずがない」と言う気持ちが入り混じり、複雑な思いで姿の見えない健人と向き合うのだった。
「逢いたい」と思わない訳じゃない。
だけど、逢うには、遠すぎる。
それでも、逢いたい。
近くで健人を感じたい。
日を追うごとに、思いが強くなる。
敦史に対する思いを持て余していながら、偶像の健人に恋をする。
なにか、おかしい。
里香は、自分に問いかける。
答えを出せないまま。
健人と話す時間が長くなってきた。
「逢いたい」と繰り返す健人に、日に日に心を占領される想い。
『日本に帰りたい。 里香に逢いたいから、日本に帰ることにした』
健人が、そう言い出した。
どこまでが、健人の本心なのか?
里香には、まるでわからない。
「これは、愛ではないのだ」
自分にそう、言い聞かせた。
擬似恋愛なのだ、と。
健人には、日本に残している恋人がいる。
里香自身、敦史を愛しながらも、和志と暮らしている。
どちらも、心の隙間を埋めるかのように、互いを求めているに過ぎない。
パソコンという機械のなかでしか存在しない、健人と里香の関係が、現実の人間関係には存在しないのだ。
それでも、健人に惹かれていく。
「終わりにしなくちゃいけないかな?」
そんな思いが頭をよぎる。
『やあ、里香』
今夜も、健人がアクセスしてきた。
「健人にメールしようと思っていたの」
『どうしたの?』
「……」
里香は、思いきって、健人に話を切り出す。
「私、健人にすごく惹かれている。 でも、それはいけないことだと思うの」
『どうして?』
「健人には、恋人がいるんだし、私は健人より年上だし。 今まで以上に、健人に惹かれていくことが、怖いの……」
『それは、もう話せないってこと? 勉強の邪魔になっている?』
健人の存在が、励みになることはあっても、邪魔になることはない。
偶像への恋が、現実の恋になる。
その予感が、また里香の心を閉ざす。
不安の芽は、早いうちに摘み取ってしまわなくては。
『俺は、里香が好きだよ。 このままじゃ、いけないの?』
健人の言葉に、胸が熱くなる。
『これから、電話してもいい?』
「ダメよ。 国際電話は高いから」
『里香の声が聞きたい。 どうして、ダメなの?』
思いがけない言葉に、心が揺れる。
『ちゃんと、里香と話しがしたい』
健人の声が聞きたい。
それは、里香も同じだ。
健人の声を聞いてしまったら、里香のなかでなにかが崩れていきそうな予感がする。
それは、新たな絶望感への第一歩なのかもしれない。
敦史に拒絶された日のように、健人にも拒絶される日が来る予感。
不安で押しつぶされそうになりながら、健人の懇願に負けた。
自宅の電話番号を教え、電話が鳴るのを待つ。
深夜の静寂を打ち消すかのように、電話のベルが鳴った。
里香の堅く閉ざした心の扉を破るかのように。