レーシック 航空券

Ⅰ.出逢い

ネットの世界で、健人と出会ったのは、桜の花もすっかり散ったころだった。
新しい派遣会社からのオファーで、働き始め、学校にも休むことなく通い、税理士試験まで2ヶ月あまりと、あわただしい毎日を過ごす。
それでも、朝までのチャットだけは、変わらない。
その頃の里香には、健人との出逢いが、その後の里香を大きくかえるなど、知るよしもなかった。
健人は、里香より十歳年下の学生だ。
社会人が多いチャットの世界で、「学生」の存在は、珍しい。
なにより、健人の存在が、印象的だったのは、遠い北欧からのアクセスだったからだ。
留学中だという健人は、日本恋しさにアクセスしていたと語った。
里香には、健人が話すことのどれもが、新鮮なものだった。
たびたび、話しているうちに、遠く離れているはずの健人の存在が近くなっていく。
ネットをはじめてから、里香は多くの友人を得ている。
しかし、その多くは、顔の見えない友人だ。
もちろん、身の上を話す友人もいる。
インターネットに興味のない人たちには不思議だろうが、相手の素性がわからなくても、友情は成り立つ。
顔が見えないことで、本音が出やすいからだ。
そうしたなかでも、健人の存在は異色である。
健人との出逢いが、里香の生活を変えていくことになっていく。
『やあ、里香』
ネットを接続すると、いつものように健人が声をかけてきた。
いつしか、里香は、その言葉を待つようなっている。
北欧との時差は8時間。
里香が接続する頃は、向こうはまだ夕方だ。
健人と話すことが、楽しみになっている。
「こんにちは……ね? そっちは、まだ」
『うん、午後の3時。 お茶の時間だ』
日本は、真夜中になろうとしている。
『いつもメールありがとう』
「健人と話せなかったから、寂しかったわ」
『研修で、ドイツに行って来た。 すごく寒かった』
日本から出たことのない里香と違って、健人は世界を身近に感じている。
「健人は、ドイツ語もしゃべれるの?」
『ははは。 全然しゃべれない』
ドイツでの出来事を、面白おかしく話してくれる。
健人と話すのが、楽しかった。
『メールに書いてあったけど、よくあのお城の名前を調べたね? フレデリクスボー城で、正解』
健人が、自分の写真だと送ってくれた画像は、ヨーロッパの郊外らしいものだった。
顔もはっきりとわからないものだが、人物の後ろのほうに、小さく写っている建て物に、里香は、強く心惹かれた。
フレデリクスボー城。
北欧デンマーク、コペンハーゲンの郊外にある中世の城で、デンマークで一番美しい城と言われている。
ガイドブックに書いてあったと、健人にメールした答えだった。
「ガイドブックには、正面からの写真があったけど、美しいお城ね。 健人は、デンマークに住んでいるの?」
『そうだよ。 コペンハーゲンの大学院に留学している』
「あら、今日はお休みなの?」
『大学院生には、個人オフィスが与えられて、今は、オフィスにいる』
若く結婚をし、大学に行くことのなかった里香にとって、「大学院」「留学」、どれも聞きなれない言葉である。
自分とは違う世界にいる健人は、まぶしい存在だった。
絶望の闇の中にいる里香には、一筋の光にさえ思えた。
敦史の拒絶。
仕事の挫折。
里香は闇をさまよった。
そして今、健人の存在が、「希望」となっている。
税理士試験を控えて、里香の生活にもメリハリが生まれた。
時差があるため、健人とのおしゃべりで、寝不足の日が続いたが、充実している毎日。
誰にも心を開くことなく、自分のからにこもっていた里香が、少しづつ、健人に対して、心を開いていく。
一緒に暮らしている和志にさえ、心を開くことがなかったのに。
桜の花便りが、春の風を運んで来たかのように、冷たかった里香の心を溶かしていくのだった。
健人と過ごす時間。
ドキドキ、ワクワクして、まるで十代の少女のように、胸躍らせている。
それが、淡い「恋心」になるには、さほど時間はかからなかった。
健人の存在が大きくなったことも、自分が変わっていったことも、里香は、まだそのことに気がつかなかった。
里香に笑顔が戻っていく。
ふと、目にした花に、ささやかな幸せを感じる。
何もかもが、うまくいく予感がした。

( 2006/10/3 )

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