桜の花が咲いたと、ニュースが流れた頃から、里香は、「桜子」と言うハンドルネームを使うようになった。
チャットでのイメージが、「色っぽいおねえさん」だからと、いう友人がつけてくれた名前だった。
ハンドルネームが持つ印象と、現実の自分のギャップに、少し焦りにも似た感情を抱く。
もう一人の自分が一人歩きをしているようだった。
ネットで誘われることも、日増しに増えていく。
気晴らしになればと、軽い気持ちで誘いを受けたことが、里香の中で何かの歯車を狂わしたのだった。
男たちの誘いが、セックスを意味することは、里香もわかっている。
敦史の拒絶以来、自暴自棄になっていることには気がついていた。
それでも、歯止めが効かなくなっていた。
和志のいない平日の昼間、里香は近くの繁華街で、男と待ち合わせする。
最初のころは、食事やドライブを楽しむだけだったが、誘われるままにホテルに行くことに、躊躇いをもたなくなるまで、そう時間はかからなかった。
お互いの名も名乗らずに、欲情に身を任せる。
まるで何かから逃げるように。
男たちの腕の中で、思い出すのは、敦史との最後に一夜。
快楽に身を任せた、あの夜。
どんな男に抱かれても、けして得られることのない快楽。
残るのは、虚無感と新たな絶望感。
敦史の存在も、敦史への想いからも、目をそむけるように、目の前の快楽に酔おうとする里香。
和志への後ろめたさも次第に薄れていった。
名前も知らない男たちに身を任せることでしか、自分を確認できない。
そんな呪縛に、がんじがらめになっていく。
ますます一時の快楽の相手を探すかのように、ネットの世界に溺れている。
けして、心を開くことはない。
体だけの快楽と、現実から逃げ出すための時間。
和志は、この里香の状態に気がついているのだろうか?
気がついていたとしても、見ぬ振りをするに違いない。
他の男に抱かれることは、和志に対する裏切りだ。
裏切りと、和志の優しさが、さらに里香を追い詰めていくのだった。
和志のすれ違いの生活は、里香の神経を不安定なものとしていった。
このままではだめになる。
別れ話を切り出したのは、里香のほうからだった。
「私、あなたの期待にはこたえられない。 一緒にいたら、あなたのためにならないわ」
涙声に変わっていく。
取り乱したまま、「別れてほしい」と繰り返した。
「別れて、どうやって暮らしていくんだよ。 税理士になれなかったら、それでもいいじゃないか?」
和志と別れることは、たちまち生活が出来なくなることを意味する。
それは、充分わかっていた。
「でも、私はあなたのお荷物だわ」
一瞬、和志の顔色が曇った。
「お荷物って……。 一度だって、そんなこと考えたりしないのに」
和志は優しい。
「結果は、どうであれ、里香が、全力を尽くすことが大事なんだよ」
煙草をふかしながら、にこにこと笑っている。
その優しさに、何度救われただろうか。
「なにも考えなくていい」
「勉強がつらいなら、休めばいい」
「里香がいれば、それでいいんだから」
小さな子供をあやす口調で和志が言う。
本当のことなど言えない。
他に好きな人がいるなんて、言えやしない。
押込められた感情が、さらに、里香の情緒を不安定にする。
ただ、「別れたい」を繰り返すだけで、話も進まない。
その場は、和志に諭されるように、うやむやに終わったが、里香は、また自分の殻に閉じこもってしまうのだった。
現実から目を背け、バーチャルの世界でしか、人と向き合えない毎日。
それが嘘で固められた世界であっても、里香には、バーチャルな世界が、居心地がよかった。
パソコンに向かう時間が、日増しに増えていく。
そして、誘われるままに、男とのセックスに溺れる日々。
絶望感だけが大きく膨らむ。
大きな迷路で、出口を見つけられない子供のようにも行き場を失う。
里香は、身も心もぼろぼろになっていく。
鏡に映る姿は、まるで抜け柄のようだ。
生気がなくなって、ただ、無意味な日々を過ごすだけ。
そこには、敦史と再会する前の、里香の姿はなくなっていた。