昭和47年2月20日(1)
視線を落とすと、幾つもの足跡があった。
子供の頃の思い出とはまるで違った景色に、青島は小さく溜め息をついた。
東京から駆け付けてきた警視庁第九機動隊、自分の所属する長野県警機動隊、マスコミ、野次馬。
無数の足跡が、雪を黒く汚していく。
まるで自分の宝物を粉々に壊された、そんな気分になってくる。

「ウチは大丈夫だから、あんたは心配しないでちゃんと仕事するのよ」
事件の発生したレイクニュータウンに、小さな商店を開いている実家に電話をすると、母親の強い声が震えていた。
あんなに気丈な母親が怯えている。
ふと、おふくろも歳をとったなと思った。
「家には帰れないけど…用心してくれよ」
そう言うと、母親は笑って「あんたもそんなこと言うようになったんだねえ」と呟いた。




「山荘にいる諸君に告げる。これ以上罪を重ねる事はやめなさい」
広報班員のメガホンを使った呼び掛けが木霊する。その声に答える者はなく、まるで無人の山荘に語りかけているような無力感を感じる。
人質となった真下雪乃の事は知らなかった。自分が警察に入り、寮住まいになってからこの町にやってきた女だったからだ。母親の話によると、幼馴染みのすみれと仲が良く、すみれが酷く心配していると言う。
視線を野次馬の方に向けると、沢山の人込みの中に白い顔をしたすみれがいた。
昔から好奇心は旺盛だったな、そう思って笑おうとしたが、良く見ると彼女の表情は今にも泣き出しそうだったことに気付き、笑うのをやめた。
「青島君、下がって下がって。幕僚の方々が到着したから」
目の前に黒いセドリックが音も立てずに停車する。
タイヤは泥を跳ね上げ、雪が黒く汚れた。

 ────もうたくさんだ!

「東京のお偉いさんが現場に来て、何ができるってんだよ」
青島は誰に言うでもなく吐き捨てた。
「…何?」
仕立ての良いコートを着た、目つきの鋭い男が振り返り、青島を睨んだ。
「どうせこの寒さに尻尾巻いて帰んじゃねえの?」
「県機か…散弾銃ブッ放されてもまだ大口叩けるようだったら認めてやるよ。ビビッてんのはお前の方じゃねえのか?」
「ふざけんな!長野県警なめんじゃねえよ!」
「いい加減にしろ一倉!君もだ、今は仲間割れしている場合じゃないんだぞ!」
小柄な男が、一倉と呼ばれた男との間に入ってきた。
「青島君、なんてこと言うの!申し訳ありませんでした!…青島君下がって!」
隊長の袴田が駆け付け、ぺこぺこと頭を下げた。
たった4、5人の立てこもり犯くらい、長野県警だけで処理できる。東京の力なんて借りなくても、俺達が捕まえてみせる…それは青島だけではなく、長野県警側の想いだった。

青島は唾を吐き捨てた。全ての苛つきを唾棄するように。




「何がお守役だ!導火線が短いだ!私の方がお守役じゃないか!」
一倉は室井を見て、くすくすと笑った。
「何がおかしい!?」
やっぱり導火線は短いな、そう思ったが、言うのはやめた。
これ以上下らない事で室井を怒らせるのも馬鹿馬鹿しい。
「室井…犬の躾方って知ってるか?」
「犬…?」
前を歩いていた室井が足を止め、振り返り一倉と向き合う。
「そう、犬だ。犬は賢いからな、初対面でこちらが強者だということを叩き込まないと、主従関係が逆転する」
「…彼等は犬じゃない、人間だ」
「同じさ、俺達は飼い主でなければならん。絶対的な飼い主にな」
そう言い放つ一倉は、室井の知っている一倉ではないような気がした。
サクラという、不気味な組織が一倉を変えた。そう思いたかった。
「サクラと一緒にしないでくれ」
つい、と室井が再び前を向き歩き出す。
「だからお前は甘いんだ…」
その呟きは風に消えた。




「君達は完全に包囲されている。管理人の奥さんは全く関係のない人だ。早く返しなさい」

 そうよ、雪乃さんは関係ないのよ
 だから早く雪乃さんを返して!

あんなに近いあさま山荘が、今は物凄く遠い物に感じる。
遊びに行くと、チロが出迎えてくれた。雪乃はとてもお菓子作りが上手くて、よく御馳走になった後、作り方を教わった。
あんなに静かで穏やかな日常が今、滅茶苦茶にされている。
ようやく手に入れた平穏な生活が、よりにもよってまたアイツらに壊された。
すみれは怒りと悔しさで泣き叫びたかった。
それを押しとどめたのは、真下の涙だった。
雪乃さん、と小さな声で呟きながら、肩を震わせて泣いている真下を見て、すみれは誓った。
3年前のあの日、真下のように泣き続けていた自分を救ってくれたのは、一緒に泣いてくれた人間ではなく、「貴方がいつまでも泣いていたら駄目よ」と言ってくれた母親の言葉だった。

 信じなさい
 必ず助かると貴方が信じてあげなかったら、誰が信じてくれるの?

 私は真下君と一緒に、信じるから
 雪乃さんは絶対助かる 雪乃さんは絶対戻ってくる




「繰り返す、無駄な抵抗をやめて、早く出て来なさい」
沢山の野次馬達の隙間から、ちらちらと山荘が見えた。

 バンッ

突然の銃声に、すみれは身を竦めた。
微かに鳴り響く残響が、希望さえ打ち砕くような気がした。
「すみれさん」
ポン、と肩を叩かれ振り向くと、濃紺の出動服に身を包んだ幼馴染みがそこにいた。
「青島君!青島君も来てたの?」
「うん、ほとんどの隊員が駆り出されてるから…すみれさんの友達なんだってね」
懐かしい笑顔はすぐに消えて、青島は酷く心配そうな顔をした。
その心配が、すみれには心地良かった。
「ん…でも、青島君たちが助けてくれるんでしょ?」
心配してくれてありがとう、そう言いたかったけれど、それは笑顔にして青島に向けた。
「信じてるから…昔から青島君は約束守ってくれたもんね」
青島は照れくさそうに笑って、そうだね、と返した。
「ここにいて大丈夫?仕事中じゃないの?」
「さっき交代して、今は休憩中。休憩っつっても、するとこがないからさ。すみれさんいるの見えたし」
すみれと話していると、何も変わっていないような気がした。
懐かしい故里は、そのままの姿で自分を迎えてくれる、そんな気がした。




「…絶対、助けるから。俺達の静かな町を取り返すから」




青島は誓うように呟いた。
すみれは小さく頷いた。









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