昭和47年2月20日(2)
「県内の作業玉から報告は」
「党支部も動きは慌ただしいようですが、正直かかわり合いたくない、というのが本音ですね」
「代々木では、書記長を人質の身代りに要求されるのではないか、という噂が出ているようです」
野次馬に紛れて軽井沢にやってきた捜査員は、零下15度という外気温に首を竦めた。
吐く息は白く煙り、すぐに消える。その儚さはまるで自分のようだ、と一倉は思った。

 表舞台に立つのは、ほんの一瞬
 「サクラ」とは格好の組織名だ

「やはり代々木系とは関わらないか…」
報道陣や野次馬に紛れた「サクラ」に、警備を担当している機動隊員達は見向きもしなかった。
数字で聞いていた零下15度という感覚を肌で感じ、一斗缶に焼べられた薪に仲間同士で身を寄せ合うので精一杯だった。
「土地の者には逆らわない方がよかったな」
足下から襲ってくる冷気に、一倉は呟いた。
「ああ、県機の青島ですか」
「問題行動でもあるヤツか?」
長野県警警備部調査係作業班長がくすりと笑う。
「向こうっ気が強いのは県民性ですかね」
「ふん…東京に手ぇ借りるのが気にくわねえみたいだからな」
「監視は」
煙草を取り出そうとポケットに入れた手を、結局出す事はなかった。
きっと指がかじかんで、ライターで火をつける事さえ出来ないだろう。
「必要無い」
この寒さが一番の敵。
あの県機の言う通りだった。




幕僚の宿舎として割り当てられた、県警共済組合の寮「高原ホテル」に辿り着いたのは、深夜だった。
ぎしぎしと軋む木製のドアを開けると、狭い階段があった。
「あ、靴はそこで脱いでください」
階段に足をかけた時、押さえ気味の女の声がして、一倉は振り向いた。
「…すいません」
「いえ、それよりちょっと待っててくださいね」
女は奥の部屋に駆け込み、やかんを手にして戻って来た。
「足出してください」
「…?」
言われるまま足を前に差し出すと、女はいきなりやかんに入った熱湯をどぼどぼとかけた。
「あっちい…っ!何を」
「こうしないと、靴紐が解けないんですよ。はい、もう片方も」
女はしゃがみ込んだまま、もう片方の靴にも湯をかけた。
玄関にただ一つ付けられた、白熱球の明かりに照らされた女の顔はぞっとする程青白く、この軽井沢という町に似合っているような気がした。
シンプルな黒のタートルニットに、地味な茶のフレアスカート。
オフホワイトのショールはカシミヤだろうか。顎のラインに合わせて切りそろえられた黒髪。
東京でこんな格好をした女がいたら、きっと何処の田舎から出て来たんだ、と笑い飛ばしていただろう。
「遅くまで大変ですね」
もう大丈夫ですよ、と女は靴紐を指さした。
指先の感覚はとっくになくなり、靴紐を解くことさえ手間取った。
女は一倉の指先をただじっと見詰めていた。
「今まで起きていたんですか?」
「貴方が一番最後…初日だからこのコツは教えておかなくちゃね」
ふふ、と女が笑う。
その微笑みは酷く悲し気だった。


 この女は、雪に閉ざされたこの町で生まれ、育ち、死んでいくのだ
 友人である真下雪乃を人質に取られた、恩田すみれという女


「お風呂の用意も出来てますから…おやすみなさい」




「遅かったな」
四畳半の部屋に入ると、室井が既に布団に潜り込んでいた。
「お前は随分と早い就寝だな」
「今局付がマスコミ対応してる…後1時間程で交代なんだ」
部屋にストーブはなかったが、外の空気よりは随分とましな方だった。一倉は思い出したように煙草を取り出した。
「…禁煙してる人間の前で煙草吸うのは嫌がらせか?」
室井がもぞもぞと起き出して、一倉を睨む。
「無理は身体に悪いぞ?欲しけりゃ欲しいって言えよ」
「いるか」
手のひらに僅かに蘇った熱で、銀色のライターを包んだ。

 凍てついたオイルはいつになったら溶け出すのだろうか
 この凍てついた町はいつか、春を迎えるのだろうか
 あの女はいつか、心の底から笑える日が来るのだろうか────

「何ニヤニヤしてる」
布団を肩にかけたまま、室井は一倉を覗き込んだ。
コイツがニヤついている時は、ロクなことがない。
「俺が…?そうか?」
「ああ、どうせロクでもないこと考えてるんだろう?」
手のひらをゆっくりと開き、暖まったはずのライターを擦る。
ボッ、と音を立てて火がついた。
「ロクでもないこと、ね…」




 白い雪
 白い町

 白い顔をした女

 いつか────




「確かに…ロクでもないことだな」
肺の奥深くまで吸い込んだ煙草の煙りを吐き出すと、狭い部屋が白く曇る。
天井に向かってゆらゆらと立ち上る白い煙りを、一倉はぼんやりと見詰めた。









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