忘れない日々 8
強行犯係は朝から慌ただしかった。
「参考人は久保田稔、台場一丁目の植物園に勤務しています。僕と先輩は10時30分に勝どき署の捜査員と合流して、11時予定で参考人に任意同行をかけます。係長代理と雪乃さんは被害者を署に連れて来て下さい。うちの署で犯人かどうかの確認をとります」
係長である真下によって簡潔なブリーフィングが行われている。
皆それぞれ資料に目を通して事件の経緯、参考人という呼び名の男をもう一度確認していた。
すみれは横目で彼等の姿を見ていたが、何かがひっかかっている。
それは青島だ、青島の顔色が悪い。
咳は日増しに酷くなり、何かに口を歪める姿も目に付くようになって来た。
「それじゃあ行って来ます」
真下が袴田に声をかけている時にすみれは青島の肩を小さく叩く。
「青島くん大丈夫?」
振り向いた青島は少し驚いた顔をして、それからゆっくりと笑ってみせた。
「平気だよ」
「無理しないでね?」
バッグを肩にかけ、真下と部屋を出ていく後ろ姿を見送りながら、拭いきれない不安に溜め息をついた。
「恩田くん、二丁目の質屋に確認行って来てくれるかなあ」
「…はい、行って来ます」


きっと、考え過ぎ。
すみれはそう思う事にした。



















この角を曲がれば湾岸署。
そう思った時に急に怖くなった。
青島に会うのが怖い。
自分の姿を見た青島の睡蓮がその瞬間に咲いてしまうのではないか。
私の目の前で。
足が止まり、もう初夏だというのに嫌な寒気に襲われた。
身体は震え、肌にはじわりと汗をかいている。
次の一歩が踏み出せない。



会いたいのに
もう一度だけでいいから
君の笑顔が見たいのに




見慣れた湾岸署が酷く遠くに感じられた。










「…?」
質屋は署からそんなに離れていないので、すみれは徒歩で向かう事にした。
目の前にどこか見覚えのある男がいる。
湾岸署を見上げたまま動かないその男は、すみれの知っている男とよく似ていた。
きっと休日の彼はああいったラフな服装なんだろうな、と思う。
このまま歩いていけばその男を通り過ぎるだろう。
10メートル、5メートル。
こんなに近付いても、その男は魂が抜けてしまったかのように、すみれには気付かない。
1メートル。
すみれは内心驚いた。
その男は似ているのではなく、室井本人だったからだ。
ただ、自分が知っている室井ではなかった。
目の前にいる男は立っているのもやっとで、今にも崩れ落ちそうな弱々しい顔をしている。
「…室井…さん?」
おそるおそる声をかける。どうにも自信が持てない。
この男が、本当にあの室井なのか…?
室井はゆっくりと視線をすみれに向ける。
酷く怯えている瞳。
「ああ、…恩田くんか」
まるで叱られて家を飛び出した、母親に怯える子供のようだとすみれは思った。
「どうしたの?そんな格好で」
「たまたま休みだったからな…近くまで来たから…」
不思議だった。
今や官僚となって、現場には何の用事もない室井が、ただ休日だからといってこんな海沿いの街に来るなんて。
そしていつもの室井からは想像さえ出来ない、何かを恐れているような瞳。
その室井が暫くの沈黙を破って、小さくすみれに尋ねた。
「…青島は…どうしてる?」
きっと仕事が大変なんだろう、と思った。
すみれは二人の間にある約束を詳しくは知らない。
でも青島は現場で頑張る、と言った。
室井は現場の為に上に行く、と言った。
辛い事があったんだろう。
青島の頑張っている姿を見て、自らを奮い立たせようとしているんだろう。
すみれはそう思った。
「頑張ってるよ…ちょっと最近顔色悪いけどね。今日も傷害事件の参考人探しに行ってる」
途端、室井は弾かれたようにすみれを見た。
「…何処だ?」
「…え?室井さん?」
「現場は何処だ!?」
その声は微かに震えていて、酷く悲しい感じがした。





















噎せ返るような湿気と香り。
広葉樹の大きな葉が天を被い、ここが東京だという事を忘れそうになる。
目の前には大きな人工池があって、白い花が水面いっぱいに広がっていた。
「彼です」
真下は小さなスナップ写真とその男を何度も見比べて、小さな声で青島に囁く。
その男は虚ろな目をして池の中のゴミを取り除いている。
青島は真下と共にその男に近付いた。
「この花はなんて言うんですか?」
声をかけると、酷くゆっくりと振り向いて、ぼそぼそと小さな声で睡蓮です、と答えた。
青島は白い睡蓮を見た。
大きな葉と白い花弁。
この花が、睡蓮。
「久保田稔さん、ですよね?」
真下の声にハッとする。
傷害事件の犯人に限りなく近い男が目の前にいて、急に緊張が増して来た。
胸の睡蓮がざわざわと騒ぎだしたような気がする。
息苦しさに眉を顰めた。
「僕達湾岸署の者なんですけど、ちょっとお話を伺いたくて」










僅かに届く太陽の光がナイフに反射した。










「真下!一般人を避難させろっ!」
今まで素手で暴行を繰り返して来た男は、自らの危機を感じてナイフを振りかざした。
予想はしていたけれど、ここで振り回す事はないだろうと油断もしていた。
「先輩っ!」
「いいから早くっ!」
振り回される刃先をどうにか避けるのが精一杯だ。
それにこの息苦しさで、いつまで避けきれるだろう。
どうせ睡蓮はもうじき咲くだろう。この白い花のように。
このナイフに刺されて死ぬのも同じ事だ。
青島は男がナイフを大きく振り回した隙に、男の腰を目掛けてタックルを仕掛ける。
「いってえっ!」
右手に握られたナイフがそのまま弧を描いて青島の脚を斬り付けた。
切られた、という衝撃で傷がどのくらい深いのか、出血はどのくらいなのかさえ判らずパニックに陥りそうになる。
それでも男の身体にしがみつこうとしたが、脚に力が入らず、ずるずると地べたに崩れ落ちる。
男は不快な笑みを浮かべてナイフを頭上高く振りかざした。
「青島っ!」
その声は幻聴だと思った。
騒然と避難していく人々をかき分けて、駆け寄って来るその姿は幻影だと思った。
目の前のナイフが迫って来るヴィジョンはまるでスローモーションのようだ。
酷くゆっくりとした動きなのに、どうやら避けられそうにない。
胸の痛みはさらに酷くなり、睡蓮が逃げて!と叫んでいるような気がする。



逃げないよ
こいつは僕が捕まえるんだ



大きく一つ深呼吸をして、青島はその男を睨み付けた。
「青島っ!」
幻聴と幻影は現実として青島の視界に飛び込んで来た。
うずくまる青島の身体に、もうしばらく感じていなかった懐かしい体温が重なった。
「…む…ろい…さん?」
「そのナイフを捨てろ!」
室井の身体がナイフの軌道を僅かにかわし、青島の盾になっている。
「ちょ…危ないよ室井さん!」
立ち上がろうとしても脚に力が入らなくて、青島は小さく舌打ちする。
その時、室井がバランスを崩した。
「室井さんっ…!」
ナイフは真直ぐ室井に向かっていく。








































そう…そんなに好きなのね








































その声は、確かに二人の耳に聞こえた。
「わああっ!」
男はバランスを崩し、派手な水音を立てて人工池に落ちた。
水しぶきが高く上がり、太陽の光に反射してきらきらと輝く。
室井と青島は呆然と池を見ていた。
水面に浮かんでいる睡蓮の花。
白一色に被われていた池に悠然と浮かぶ赤い一輪の睡蓮。
胸に掌を這わせる。
どくどくと大きく響く鼓動。
目の前に室井がいるのに痛みを感じない。






まるで睡蓮などいなかったように。















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