忘れない日々 9
部屋の中で一番日当たりのいい場所に大きな水槽が置かれた。
「…睡蓮は園芸上の呼び名で、和名はヒツジグサといいます。多年草の水草で、草丈は20〜50cmくらいになります。花期は6〜8月頃。低地〜山地の池や沼に生えます」
「何読んでるんですか?」
聞かなくても見れば判るのだが、あまりにも室井のその姿が可笑しかったので、青島は聞いてみた。
「植物図鑑」
室井はソファにだらしなく座り、近くの図書館から借りて来た植物図鑑を開いて解説文を朗読している。
「…ヒツジは時刻を表す未の刻(今の午後 2 時)で、そのころに咲くといわれていますが、実際は明るくなると開き、暗くなると閉じます。そういうことで、漢名の睡蓮ということなのでしょう」
青島はくつくつと喉を鳴らしながら笑って、水槽の中の睡蓮に微笑みかけた。
「笑うな」
「だって…面白すぎるよあんた…」
「これからきちんと栽培してやる為にも知識を得た方がいいだろう」
変に真面目に答えた室井に、我慢出来なくて青島はあはは、と大声で笑ってしまった。
「笑うなって!」



















青島の肺の中はからっぽだった。
レントゲンのフィルムにはなんの影も写っていなくて、老医師は唖然とした。
ただ青島の胸に、小さい傷ができていた。
睡蓮がこの傷だけを宿主の身体に残し、宿主とその恋人を守ったのだと思った。
「これではなんの解決にもならん。次に患者があらわれたら何と言えばいいのかね?」
青島は少し照れくさそうな顔をして答えた。
「思いっきり人を好きになって、思いっきりその人に好かれちゃえば呆れて飛び出しちゃうって言えばいいんじゃないすかね?」








「憎らしいな」
室井が小さく呟いて、植物図鑑を投げ捨てて水槽に近寄って来た。
「何が?」
水槽の前に並んでしゃがんで顔を見合う。
青島は素肌にシャツを羽織っただけの姿で、あらわになっている胸板に室井の指が伝う。
「君の身体に消えない傷を付けた。私でさえ付けられない傷をな」
指先が傷に滑り落ちる。
愛おしい体温と共に。
「だったらさ」
青島は室井の指に口付けて、そのまま腕を引き寄せた。
「カノジョに負けないくらい俺に刻み込めばいいんじゃない?」
「何を」
「あんたの全て」
それもそうだな、と柔らかい唇に口付けした。










水槽の中の睡蓮は、勝手にしなさいと呆れて花弁を閉じて眠ってしまった。
その名の通りに。









「広い部屋に引っ越した方がいいな」
そうっと唇を離して室井が呟く。
「水槽が置けて、日当たりがよくて、ベッドが二つ置ける部屋」
「何でベッドが二つ?キングサイズ一個でいいじゃん」
青島はごろんと床に寝転んだ。
目の前には紅色をした美しい睡蓮が水面にゆらゆらと揺れている。
隣には愛しい貴方がいる。
見上げて見る貴方の横顔。
とてもとても、優しい。
「喧嘩した時は一緒にいたくない。同じベッドで寝るのも御免だ」
「今から喧嘩した時の事考えないでよ。喧嘩しなきゃいいでしょ」

























いつまでも忘れないよ
どんな事があっても忘れないよ
愛しい愛しい










僕の貴方



























おわり
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