忘れない日々 6
君の事など愛してはいない










室井はそのまま部屋を出ていった。もう一ヶ月も前の事だ。ほんの少し増えた物─室井の持ち込んだあらゆる物はきれいに片付けられ、部屋は一人きりの部屋に戻った。


「後ろから自転車が来た、と思って右に避けたんです。そうしたらその自転車の人にばーんってなにかで殴られて…」
「勝どき署で追っかけてる被疑者と手口が同じですね…」
被害者の女性は酷く怯えた目をしている。
自分と似ているな、とふと思った。
「勝どき署に確認してもらおうか」
そう声をかけると真下はお願いします、と頷く。
「なにか犯人の特徴とか覚えてますか?」
「ちらっとですけど…顔が見えて…結構若い男の人でした」
被害者はちょっとした特徴を覚えていたので、すみれに似顔絵を描いてもらおうと声をかけた。
「す…ゴホッ…すみれさん、似顔絵描いて欲しいんだけど」
「いいけど…風邪?」
青島は胸をさすりながら大丈夫、と笑ってみせる。
すみれはスケッチブックと鉛筆を持って応接室に向かう。ドアを開ける時、ちらりと青島の顔を伺い見た。
最近よく咳をしてる。
それに、なんとなくだけど。
なんとなく、寂しそうだ。
























部屋に着いたのは午前1時を少しまわった頃だった。
ただいま、と言ってもお帰り、と返してくれる人はいない。
もう慣れた。
室井がこの部屋にいたのはほんの数日だった。
一人の時間の方が何倍も長かった。
その頃に戻ったと思えばいいだけの話だ。
灯りをつけても、見えるのは自分の物ばかりで。
室井の想い出を残すものなど何もない。


──────君の事など愛してはいない


室井が言った言葉の意味が判ったから。
青島は室井を追わなかった。
一度だけ、どうしても会いたくなって官舎の側に行ったことがある。
室井の部屋の窓から光が見えて、室井はあそこにいるんだと思った。
しばらくその光を眺めていたけれど、何故か足が動かなくなった。胸の睡蓮が少し騒いだが、大した痛みはなかったというのに。











ごめんね











自分の我が儘が室井を苦しめた。
室井の目の前で死んでいく自分、辛いのは僕じゃない。室井さんの方だ。
何も言わずにその時を迎えようとした。
あの人の気持ちも考えずに。
もう一度窓を見上げて、そのまま誰もいない部屋に帰った。












シャワーの水音をどこか遠くに聞いた。
勢いよく肌に当たる水の温度がよく判らない。
一人になって考えるのは、いつも室井の最後の言葉。
「…嘘つき」
その声はシャワーの音にかき消されて、水と一緒に小さな排水溝に流れ落ちていったような気がした。
胸に掌を這わせる。
鼓動は睡蓮に遮られて酷く心細い。
会わなくたって。
睡蓮は日々成長を続けている。
原因なんて一つしかない。
ごめんね。
貴方の希望は叶えられそうにないよ。
だって。
忘れる事なんて、できないから。












タオルでばさばさと濡れた髪を拭いてソファに深く腰掛けた。
「…あれ?」
背中になにかあたったような気がして、クッションと背もたれの隙間を手探りで探った。
それはいとも簡単に見付かった。
何の変哲もない普通の文庫本。
こんなものを買った覚えがなくて、しばらく考え込んだ。
ページをぱらぱらと捲って羅列された文字を追い掛ける。
視界がなんだかぼやけて来て、文字だと認識していたものがただの模様に変わっていく。




──────無理だよ




内容なんて判らないけど。
本一冊にだって貴方のいた風景を思い出せる。
忘れるなんて事できる訳ない。
青島はぼろぼろと溢れる涙を止めようとはしなかった。
涙が枯れ果てればいいと思った。














泣き疲れてそのままベッドで、室井の忘れていった本を抱き締めて眠った。


























──────君の事など愛してはいない
そう言った室井は泣いていた。
それは生きろ、という意味だった。

















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